水中花 - the truth -



 夜明け前の薄暗闇の中、黒煙が立ち上っていた。
 ぎゅうぎゅうに詰め合った馬車は前線から離れた後方基地の近くに停まった。アイリスは第二騎士団の後方支援に回るように馬車に乗る前に指示され、彼女の他にも数名の新人が降ろされた。そして馬車は残りの人員を上流の前線へと届ける為に走り出す。
 後方基地の簡易テントには中に入りきらないほどの怪我人が寝かされていた。寝かされている怪我人の間を血や泥などで汚れた白衣を羽織った男が渡り歩いていた。男はアイリスらに気付くと「手近な怪我人から片っ端から手当していってくれる?」と口を開く。


「手に負えないっていう怪我人がいたら俺に声を掛けること。分かったらさっさと動いて、今日は怪我人が多いんだ」
「は、はい!」


 慌てて近くに寝かされている怪我人へと駆け寄る。アイリスは怪我の具合を確認し、「もう大丈夫ですよ」と声を掛けながら怪我人の顔を見やり――悲鳴を上げそうになるところを両手で口を押えて堪えた。
 その怪我人は既に死んでいた。よくよく確認すると、アイリスが確認した怪我の他に背中に刺し傷があり、これが致命傷だったらしい。


「あ、あの……!この方はもう死んで、」
「手当せずに腕に黒い布を巻いて次の怪我人に回って。急がないと増えるよ、死人」


 手当をしようとした相手が既に事切れていた、というアイリスと同じ事態の新人が白衣の男にそれを訴える。しかし、彼は特に気に留めた様子もなく平然とした口振りでそう指示を出す。間近で死人を見たことがなかったらしいその新人はすっかりと怯え、動けずにいるようだった。
 アイリスは唇を噛み締めて立ち上がると、黒い布をある程度手に持つと、自分が見つけた死人の腕にそれをそっと巻き付けた。急がなければならない。座り込み、躊躇しているだけでは人を助けることなど出来はしない。
 何より此処は、戦場だ。人が殺し合う場所だ。それを知った上で来ているのだと、アイリスは動かなくなりそうになる足を叱咤して次々と怪我人を診ていく。


「い、痛っ……死にたくない……!」
「大丈夫、大丈夫ですよ。すぐに治しますから」


 目の端に涙を浮かべる青年の脇に膝を付き、アイリスは杖を翳す。柔らかく淡い光が傷口を包み込み、酷かった傷はゆっくりと塞がっていく。そして光が収束した頃には青年の傷はどれも綺麗に塞がっていた。痛いと涙を浮かべていた青年はゆっくりと身体を起こし、特に傷ついていた腕をまじまちと見つめ、それからアイリスに向かって頭を下げた。


「あ、あり、……ありがとう、君のお陰だ。ありがとう」
「ああ、本当だ。綺麗に治ってる」


 青年を腕を取り、まじまじと白衣の男が傷を負っていた箇所を見つめる。いつの間に来たのかとぎょっとするアイリスを横目に男は青年の腕を離すと、「だけど君の処置は50点だ」と評してすぐ近くに横たわっている男の手当てを始める。
 一体何が減点だったのかとアイリスは男の隣の怪我人の手当てを始めるも、白衣の男は自分が手当している怪我人の怪我をある程度治癒すると、完治していないにも限らず終わり、次の怪我人へと向かった。どうして、と目を見開くアイリスに男は淡々と告げる。


「君はここに一体どれだけの怪我人がいると思ってる?怪我人に対して治癒魔法士が何人いる?」
「……」
「全員を完治まで治癒するのに時間と魔力が絶対的に足りないのは分かるだろ。それならどうするべき?」
「……動ける程度まで治癒します。重傷者で助かる見込みがある場合はある程度まで治癒し、撤退。見込みがない、息がない場合は……」
「切り捨てる。俺たちは遊びで此処にいるわけじゃない、国を守る為に此処にいる。国を守る為に殺し合いをしてる。優先するべきなのは何だ?」
「……」
「人の命か?違う。国だ。俺たちの後ろに一体どれだけの国民がいるかを考えろ。此処で退けば、俺たちが負ければどうなる。殺されるのは此処で死んでいった奴らの何倍もの無力な国民たちだ」


 だからこそ、辛くても切り捨てていかなければならないのだと男は言う。迷うな、迷いを捨てろ。国の為に切り捨てろ、と。


「俺たちにはもう後がないことは分かってるだろ。だからお前らみたいな子どもがこんなところにいるんだ。この国にはもう後がない」
「……はい」
「全員を救えると思うな。俺たちは神でも何でもない、ただ少し人の怪我を治すことが出来るだけの、人間だ」


 ただ淡々と男は言葉を口にする。けれど、それはまるで彼が自分自身に言い聞かせるような、慟哭しているかのようにアイリスの耳に届いていた。風が吹き、血のにおいが鼻を突き、そして死者の腕に結ばれた黒い布が揺れた。
 じっとしていられない。自分が何故、入隊したのかを思い出し、白衣の男の言葉を思い返す。自分に出来ることがあるのに、動かないでいるわけにはいかない。アイリスは自身が持っていた黒い布を怪我を完治させた青年に握らせた。


「既に息がない人の腕にこの布を巻いていってください」
「わ、分かった!」


 青年は転びそうになりながらも黒い布を手に走り出した。彼の背を横目にアイリスは次の怪我人へと向き直り、手当し始める、そんな彼女に白衣の男は目を細め、「やるねー、アイリスちゃん」と自身も手を動かしながら口の端を吊り上げて笑みを作った。
 どうして名前を知っているのかと驚いた表情で彼を見ると、青い瞳と視線が合う。しかし、やはり彼の顔に見覚えはなかった。


「俺のこと覚えてない?入隊試験の試験監督してたんだけど」
「……いえ、あの……たくさん人がいたので覚えてません」


 すみません、と謝れば、白衣の男は肩を震わせて笑い出した。先ほどまであれほど真面目な雰囲気だったにも関わらず、今ではその面影すらない。軽薄な笑みを浮かべ、白衣の裾をはためかせながら次から次へと怪我人の間を縫うように歩きながら手当をしているその様子からすると、白昼夢でも見ていたのではないかと思うほどの変わりようだ。
 

「さっきのあれ、今までにも何度も言ってるけど大抵はそれ聞いて使い物にならなくなるんだ」
「……はあ」
「今まで学校で習ってきたような教科書通りの怪我人なんて殆どいない。もっと酷い怪我を負った人間ばかりだ。そんな人間を目の前にして、次から次に運ばれて来て、その間にも死んでいく奴らがいて……ここに配置される新人は大半がその場で使い物にならなくなる。そういう奴らは決まって言うんだ。イメージと違う、こんなはずじゃなかったのに、って」


 戦場にどんな夢を見てんだよ。
 男はそう言って鼻で笑った。そして付け足すように「人の怪我を治してあげて尊敬される、そんなイメージを抱いてんなら村の医者にでもなればいいのにな」と座り込んで動かない新人を一瞥した。
 そして怪我人の腕に黒い布を巻き付けて立ち上がると、座り込んでいる新人へと近付いて彼女の腕を掴んで立ち上がらせる。


「これは善意の行動なんかじゃない。作戦行動の一端だ……動けないなら帰れ、邪魔だ」


 その声はどこまでも淡々としたものだった。けれど、その内に冷たい怒りのようなものを含んでいる。それは青い色をした、彼の瞳と同じもののようにアイリスには感じられた。
 掴まれていた腕を離された少女はそのまま力無く座り込む。その様に男が溜息を吐き付けていると、「エルンストさん、伝令です!」と兵士が走って来た。エルンストと呼ばれた白衣の男はすぐさまテントへと踵を返し、呼びに来た兵士に何かを伝えるとテントの奥へと消えた。
 兵士は座り込んでいる新人に立つように促し、そのまま座り込んでいる他の新人数名をより後方へと連れられて行った。このまま除隊となるのか、配置換えになるかは本人次第だろう。アイリスが周りを見回すと、自分と同じ新人は1人しか見当たらない上に顔色は青白く、今後も続けていくことが出来るかは怪しかった。

 そうこうしている間にテントから出てきたらしいエルンストはいつの間にかアイリスの目の前にいた。いつの間に、とぎょっとする彼女の表情を可笑しそうに笑う。
 その笑みを見ていると、先ほどまでの真面目な様子はやはり嘘のように思えてならない。しかし、目の前で軽薄な雰囲気を醸し出しているエルンストが本物であるようにも思えない。本当の彼はどちらなのだろうか、アイリスは自分がそんなことを考えていることに気付くと慌てて頭を振ってその考えを外へと追い出す。


「何してるの?」
「……いえ、何でもありません。それより、どうかしたんですか?近いです」
「アイリスちゃん、体力と魔力には自信がある?」


 いきなりどうしたと言うのか。アイリスはその疑問を口に出しかけるも、この男が何の意味もないことをわざわざ目の前で口にするような性格には思えず、疑問に対して素直に頷いた。
 エルンストも一つ頷き、「それは客観的に見てだよね?俺に聞かれているからではなく」と質問を続ける。それに対しても頷き返すアイリスだが、何かあるならこのような回りくどい言い方をせずに先ほどのようにはっきりと言えば良いのにと思わずにはいられない。


「それじゃあ今は?怪我人の手当をして体力も魔力も消費してる。それでも自信がある?」
「あります」
「何処にでも行ける?」
「……それは、最前線に行けということですか?」


 エルンストの言い方にじれったくなったアイリスが切り出すと、彼は目を瞬かせた後に口の端を吊り上げて笑みを浮かべた。


「正確に言うと、最前線ではないかな。その近くまで君に行ってもらいたい。最前線で作戦展開中の部隊長がやられちゃったらしくてね、上流の第一、第四との共同作戦だからうちが遅れを取るわけにはいかない」
「それを……わたしが……」
「そう。部隊長の治癒以外にもやって欲しいことがあるらしくて、体力があって魔力がある奴を回してくれって言われてさ。そこで俺は君に頼もうと思った。入隊試験の時に君の治癒魔法と防御魔法を見せてもらって久しぶりにすごいと素直に思ったよ。特に治癒魔法はさっきも見せてみらったところだからね」


 だから俺は君なら出来ると思ってる。
 そう言って彼は笑みを深める。それがエルンストの本心かどうかを知る術はなく、寧ろ嘘だろうとすらアイリスは思っていた。けれど、笑みの向こうの青い瞳に嘘を吐いている気配はない。そして何より、エルンストは人の出来ないことを言葉巧みに言い包めてまでやらせようとは考えない人間だということだけは、この短い時間でもアイリスは分かっていた。出来ると、アイリスなら出来ると思っているからこそ、声を掛けている。それにも関わらず、嫌だと、出来ないと一蹴することが出来るはずもない。


「分かりました。わたしが行きます」
「迷いのない良い返事だね、アイリスちゃん。詳しい話は前線の司令部、あのテントにいるゲアハルト司令官に聞いて」
「ゲアハルト司令官に、ですか?」
「そう、あの年中黒マスクの怪しい奴にね。何か文句言われたらエルンストに言われたって言えばいいし、俺の文句を言ってたら怪我人の対処だけじゃなくて遺体チェックもあって忙しいんだって庇っておいて」


 ちゃっかりと自己弁護まで頼むエルンストにアイリスは曖昧な笑みを浮かべた。それでも、このようなことを言う辺り、ゲアハルトとは仲がいいことが伺えた。
 軽く身支度を整えつつ、「遺体チェックって何ですか?」と疑問に思ったことを口にする。エルンストは疲れたように肩を竦ませつつ、「一番大事だけど一番厄介な仕事」と溜息混じりに吐き出す。


「たまにいるんだ、殺したうちの軍人の身ぐるみ剥いで自分で着て、自分を仮死状態にする帝国の軍人さんが。だから本人確認して、ちゃんと死んでるかを確認する。それをしてからでなければ、どんな人でも帰れないし墓にも入れない。でもま、チェックせずに持ち帰ったところで目を覚まして……なんてことになってからの労力に比べれば随分とマシだから頑張るよ」
「……何だか経験したことがあるような口ぶりですね」
「そうそう、あるんだよー。此処で目を覚ましちゃったうっかりさんとかね。まあ、そういう話はまた後日してあげるよ」


 身支度を整えたアイリスに向き直り、エルンストは前線の方に視線を遣る。薄暗かった空も少しずつ白み始めている。


「テントの位置は分かってる?」
「はい、大丈夫です」
「そう。……それじゃあ、君の武運を祈ってるよ。行かせる俺のすることではないけど」
「エルンストさんも、お気を付けて」


 緩い敬礼を彼女に向けるエルンストに対し、アイリスは表情を引き締めてほんの少しの笑みを浮かべて敬礼を返す。前線では相変わらず黒煙が上り、爆発音や怒鳴り声が上がっている。それらへと向かって走りながら、アイリスは強く杖を握り締めた。



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