水中花 - the truth -
エルンストに教えられたテントに向かって走り続けていたアイリスは残り僅かという距離で足を止め、深く深呼吸をして乱れた呼吸を落ち着かせた。そしてテントの中を覗き込み、近くにいた兵士にエルンストから指示されて来た旨を伝えた。まさかアイリスのような少女が寄越されるとは思いもしなかったらしく、兵士は困惑した表情を浮かべるも一先ずはと奥で話中だったゲアハルトへと彼女の到着を報告する。
後方から寄越される人員がアイリスだとはさすがのゲアハルトも予想外だったらしく、目を見開きながら彼女の元へと来た。
「どうして君が……エルンストに言われたのか?」
「は、はい」
アイリスが頷くと、ゲアハルトは呆れて何も言えないとばかりに額に手をやって溜息を吐いた。そんな様子に慌てて「エルンストさんは怪我人の対処と遺体の確認で忙しいのでわたしが」とエルンストの言葉をそのまま伝えるも、ゲアハルトの表情は変わらない。しかし、新人もほぼ使えず、彼の元々の部下と怪我人に対処した上で遺体の確認、搬送もしているのだから決してそれは嘘ではない。
重ねて言い募ろうとするも、それよりも先にゲアハルトが口を開く。
「元々あいつが来るとは思っていなかった。忙しいのも事実だろう……が、他にも人員がいただろう。何を考えているんだ、あいつは」
「……エルンストさんは、わたしなら大丈夫だと判断されていました。最前線付近の部隊長を治癒すればいいんですよね」
後方テントよりも最前線に近いこの場は爆煙と血のにおいが濃かった。聞こえて来る怒声も爆音も先ほどから絶え間なく鼓膜を震わせている。恐怖がないと言えば、嘘になる。しかし、逃げ出したいとは不思議と思わなかった。
ゲアハルトは真っ直ぐに自身を見上げて来るアイリスを真っ向から見返し、視線を外さない。青い瞳はアイリスを見透かすように、ただじっと彼女を見つめる。その視線を真っ向から受ける彼女は負けじとゲアハルトを見つめ返した。
その時間は長かったのか短かったのか、視線を先に外したのはゲアハルトだった。一つ息を吐き出すと、「いいだろう」と呟き、アイリスに付いて来るように言うと、テントの奥のテーブルへと彼女を導いた。
「クラネルト川流域の地図だ。今いる前線司令部は此処、負傷した部隊長がいる位置はこの辺りと連絡を受けている。この作戦は上流で同様に展開している第一、第四との共同作戦で次の段階に移行するまで残り45分を切っている」
「残り45分……。それなら、他の部隊を投入した方が早いのではありませんか?」
「そうしたいところは山々だが……動かせる部隊がなくてな。新人もあの調子だ」
ゲアハルトが視線を向けた先には前線の様子に腰を抜かした新兵の姿があった。今まで戦争と無縁な生活だったのか、巻き込まれたこともないのだろう。アイリスも戦火に巻き込まれることも養父から戦争の話を聞くこともなかったのなら、きっと同じ有様だったに違いない。
第二騎士団は今回の作戦でクラネルト川の下流を担当し、現在全ての部隊が展開している。その中で特に中央付近で部隊を率いていた部隊長が負傷したとのことだった。両側の部隊がカバーに入っているものの、帝国軍の士気が上がって勢いづいているらしい。
「後ろのテントで治療中の国境連隊の兵を出したいところだが、帝国側も本隊をぶつけて来ている。怪我人を投入しても却って足手まといだ」
「なるほど……」
「君には最前線付近まで行ってもらって部隊長の治癒を完全にしてもらいたい。思いっきりやってくれ。そして完治後はすぐに部隊長は再出撃させる」
「……ですが」
部隊長が最前線から下げられるということは、小さな怪我であるはずもない。そんな怪我を負っている人物をいくら完全に治癒したといっても、すぐに再出撃させるなんてことは止めずにはいられない。魔法で治ったといっても、その間に受けたダメージまでなかったことには出来ないのだ。魔法は失った血液や体力まで元に戻すことは出来ない。あくまで怪我を治すということしか出来ないのだ。
アイリスが言わんとしていることはゲアハルトも分かっているのだろう。しかし、それでも彼の命令は変わらない。
「再出撃だ。再出撃し、部隊の士気を上げて一気に川の向こうに押し返す。そのために君に向こうで治療をしてもらう、思いっきり。……士気を上げるには多少の演出が必要だからな」
「……分かりました」
エルンストの言葉が思い起こされる。戦場で優先するべきものは人命でなく、国。ここで負ければ、帝国軍は進軍していくだろう。そして広がる戦火によってどのようなことが起きるのか――それはアイリス自身が身をもって知っていることだ。
感情論で動いてはならない、考えてはならない。此処は戦場だ。自分自身にそう強く言い聞かせた。
そして頷くアイリスにゲアハルトは「その後の行動だが、」と続きを口にする。
「アベル、来てくれ」
ゲアハルトはテントの脇にいた少年を呼び寄せた。宵闇のような暗い青の髪の少年の顔はまだ幼さが残る顔立ちでアイリスと歳も変わらない様子だった。呼び寄せられたアベルはゲアハルトの脇に立ち、ちらりとアイリスを見る。
「部隊長の治療後、次の段階に移行するまで君にアベルを守ってもらいたい」
「わたしが……?」
「そうだ。アイリスとは逆に攻撃魔法は得意だが、防御や治癒はからっきしでね。部隊長との合流や治療中の応戦は任せられるが、それ以外は当てにならない」
そこまで言うか、とアベルは柳眉を寄せて文句を言いたげな顔でゲアハルトを見上げる。その視線に気付いているのかいないのか――気付いているのだろうが、黙殺したゲアハルトはアイリスに向き直る。
「アベルは次の段階に移行したときに発動させる魔法の、言わば、着火係のようなものだ。なるべく魔力は温存させておきたい」
「それなら最初からわたしが防御魔法を展開して行けばいいのではないでしょうか」
「いや、レックスの怪我の具合も分からない。回復とアベルの守りにどれほど時間が掛かるかも分からない。君の魔力も温存しておきたい」
「あの、倒れた部隊長って、レックスなんですか?」
「そうだが……伝えていなかったな。負傷した部隊長はレックス・クルーゲだ。知り合いか?」
今の今まで部隊長がレックスだとは知らされていなかった。アイリスは顔を青くしながらも、頷いて見せる。その様子にゲアハルトは、知り合いであるアイリスを行かせるべきではないと判断し、それを口にするも彼女は首を横に振った。「大丈夫です、行けます」と答えるも、決してその顔色は良いとは言えない。
「ゲアハルト司令官、平気です。行けます」
「……本当か?」
「はい。クルーゲ部隊長と合流後、怪我を完治。部隊長が再出撃後はアベルの護衛、それがわたしの任務です」
「僕はアイリスが部隊長の治癒を完了するまでの護衛。その後は司令官の合図を待って、仕掛けられている“水中花”の発動」
ゲアハルトは厳しい視線をアイリスへと向ける。知り合いが相手となると感情がつい先走りがちになってしまう。しかしそうならずに指示された命令通りに任務を完遂することが出来るのかと紫の瞳を見つめる。相変わらず顔色は芳しくないアイリスではあるが、その瞳の強さは先と寸分も変わらない。
アベルはアイリスの横に移動すると、自分が命じられている任務内容を口にする。二人は正しくゲアハルトの指示を頭に叩き込んでいる。彼は一つ頷くと、「レックスに作戦は続行中。“水中花”も変更なしで実行すると伝えてくれ」と言付ける。そして頷いた二人に対し、ゲアハルトは敬礼を取る。
「武運を祈る。アイリス、アベル、出撃だ」
静かなその声に浅く頷き、テントを飛び出す。テント付近に展開されている防御魔法の壁を抜けると、一際爆音や怒声が大きく聞こえ、鼓膜を震わせた。隣を並走するアベルは不意にアイリスの腕を掴むと自分の方へと引き寄せ、彼女に向かって飛来していた炎の塊に向かって手を翳した。アベルの手の前に小さな音を立てて具現化した氷の塊が炎の塊へと飛び、相殺する。
何処から狙われるか分からないから気を付けて、と言うアベルに礼を言うと、アイリスの腕を掴んでいた手は離れた。そして次から次へと飛来する炎や氷の塊をそれぞれ反対の属性の魔法をぶつけて相殺し、時に風を操って全てを跳ね返す。アベルのその迷いもない迅速な魔法の展開にアイリスはただ、すごいという感想しか抱くことが出来なかった。
「あそこだ。アイリス、無事?」
「大丈夫。アベルのお陰でどこも怪我してないよ、アベルは?」
「平気だよ」
土の壁を作り、そこに防御魔法を展開している。しかし、幾度もの攻撃を受けて既に壊れる寸前の状態であり、その内側にレックスは寝かされているのが見える。急がなければ、そう思いながら走るスピードを上げる。
アベルはアイリスに防御魔法を掛け直すように言うと、自身は土の壁の向こうへと躍り出た。そして次から次へと魔法を展開し始める。アイリスは言われた通りにまずは壊れかけている防御魔法により強固なものを掛け直し、応急処置をされているレックスの傍に膝を付いた。息はあるが、見るからに顔色は悪く、治癒したところですぐに出撃が出来るような状況ではないということは一目瞭然だ。
しかし、ゲアハルトやエルンストの言葉を思い出せば、行かないでくれなどとはとてもではないが言えない。まずは自分に任せられたことをしなければならない。そうでなければ、アイリスなら大丈夫だと自分を送り出したエルンストや止められたにも関わらず行けると言い張ったゲアハルトに対して会わせる顔がない。
アイリスはレックスの部下らしい兵士らに下がっているように言うと、彼の怪我の具合を確認する。切り傷や刺し傷だけでなく、火傷も負っているようだった。アイリスは杖を持ち直すと、目を瞑り、治って、目を覚ましてと願いながら治癒魔法を掛ける。ふわりと柔らかく淡い光がレックスの身体を包み込み、ゆっくりと傷が癒えていく。
光が収まる頃には傷一つないほどに怪我を治癒することは出来た。しかし、レックスが目覚める気配はない。
「レックス……、レックス、起きて」
軽く身体を揺さぶりながら声を掛け続ける。なかなか目を覚まさない彼に徐々に不安が募り、後ろに控えているレックスの部下らの表情も暗くなっていく。このままではいけない、そう思うのにこれ以上自分に出来ることが見つからない。ただ、レックスの名前を呼ぶことしか出来ない。泣きたくなる気持ちを抑えながら、声を掛け続けていると、不意にレックスの瞼が震えた。
それに気付き、アイリスは彼の名前を大きな声で呼んだ。それに呼び覚まされるように、緩々と開いた瞼から暗い赤の瞳が覗いた。そこに映っている自分の随分と情けない表情にアイリスはきゅっと唇を噛み締め、笑みを取り繕った。
「……アイリス……?」
「そうだよ。助けに来たよ」
「……悪い。手間掛けさせた」
そう言いつつ、レックスは身体を起こした。そして自身の身体を確認し、ゆっくりと立ち上がる。いきなりは立ち上がらない方がいいと慌てるアイリスを手で制すと、「隊長!よかった!」と目の端に涙を浮かべながら喜ぶ部下らに苦笑いを浮かべた。そして彼らから自分の武器である剣を受け取ると、レックスはアイリスの方を向き直り、彼女の前に膝を付いた。
「助かった。ありがとう、アイリス」
「ううん。怪我は治したけど、ダメージと体力までは戻せないから……無理はしないでね」
「ああ。分かってる」
「それから、ゲアハルト司令官からの伝言があります。作戦は続行中、“水中花”も変更なしで実行する、と」
「了解した。お前はどうするんだ?」
「此処に残ってアベルの護衛するように言われてる」
レックスの手を借りて立ち上がり、アイリスは土の壁の向こうにいるアベルに戻って来るように叫んだ。程なくして戻って来たアベルは立ち上がっているレックスを見て感心するように頭の先から爪先までを眺めていた。
その視線にレックスは眉を寄せて顔を顰めるも、部下に向き直ると「再出撃する」と告げる。
分かっていたことではあるが、やはり心配せずにはいられない。アイリスが物言いたげな顔をしていると、装備を整えたレックスは彼女の名前を呼んだ。
「“水中花”作戦について何か聞いてるか?」
「ううん、何も」
「そうか。アベルが魔法を発動させたら、すぐに撤退することになっている。アベル、撤退するときはアイリスを連れて行ってくれ」
「了解」
「それから、……お前はあまり見ない方がいいと思う」
何を、と聞く前にレックスは土の壁の向こうに飛び出して行った。それを追うように彼の部下らも飛び出して行く。咄嗟に後を追いたくなるところを何とか踏み止まり、アイリスは防御魔法の範囲を広げ、何重にも展開した。これで何とか凌げるだろう。魔力と体力には自信があるアイリスだが、連続使用や緊張感も相まってか疲れが滲みでて来るようだった。
アベルは土の壁の内側に座り、前線司令部のテントの方を見つめている。合図を待っているようだった。
アイリスはアベルの近くに座ると、ちらりと彼の横顔を覗き見た。攻撃魔法を連発していたというのに少しも疲れた様子がない。顔に出していないのか、それとも本当に疲れていないのか。また、今回の作戦の要らしい“水中花”のことも何か知っているらしく、それが何なのかを聞いてみたくもあった。しかし、聞けるような雰囲気でもないため、結局のところはどちらも何も聞けずに時間は流れていった。
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