水中花 - the truth -



  レックスが再出撃した後、徐々に爆音や怒声は遠のいていくように感じられた。アイリスは時折立ち上がっては展開している壁状の防御魔法の状態を確認し、戦線の状態を伺った。先ほどまでは帝国側に勢いがあったが、今ではそれ以上の勢いをもって第二騎士団が戦線を押し上げていた。たった一人の人間が復帰しただけでここまで違うものなのかとアイリスは驚きを隠せずにいると、「レックスだからね」とその表情から彼女の考えを読み取ったらしいアベルが口を開いた。
 どういう意味なのかと隣で同じように戦線へと視線を遣るアベルに問えば、彼は視線をそのままにそれはね、と話し始める。


「第二の中でもレックスは要の一人だから。司令官もレックスに期待してるし、レックスも自分の役目を分かってるんだろうね」
「そうなんだ……」
「これが司令官がアンタにレックスを助けるように言った理由。まさに狙い通りってこと」
「……ゲアハルト司令官ってどういう人?」


 アベルに尋ねると彼は感情の読み取り難い黒曜石の瞳をアイリスへと向けた。そして彼女に、ゲアハルトをどのような人物だと思うかと問い返した。昨日今日とゲアハルトと直接話す機会があったが、親切な人だという印象はあった。しかし、ただ親切なだけであるとは到底思えない。そうでなければ、大怪我を負ったばかりのレックスにすぐに再出撃するように命令するはずもない。
 それをそのままアベルに言うと、彼は少し可笑しそうに笑った。大人びた表情ばかりを見てきたが、そうして笑っていると幼さが滲み出てくるようだった。


「あの人を親切な人だなんて言ってる人、初めて会ったよ」
「……親切にしてもらったの」
「へえ、珍しいこともあるんだね。あ、そう言えば、さっきもテントではアンタのこと気にしてたっけ。……でも」


 あれはアンタのことを気にしてたのか、それとも自分の考え通りに持っていくことが出来るのかを気にしてたのかな。
 アベルは目を細め、口の端を吊り上げて笑んだ。どこか蔑むようなその笑みにアイリスは僅かに眉を寄せつつ、不快だとばかりに顔を逸らした。そんな彼女にアベルは笑いを噛み殺しつつ、肩越しに後方の前線司令部を振り向く。「合図だ」と囁くように言うアベルの声が耳に届き、アイリスが振り向くと、テントではチカチカと赤い光が瞬いていた。どうやらあれが合図らしい。
 アベルはアイリスに下がっているように言うと、土の壁を登ってその上に立ち上がった。


「さっき、言ってたよね。司令官はどういう人かって」
「え、うん」
「これから分かるよ。僕たちの司令官がどういう人なのかね」


 それはどういう意味なのだろうか。アイリスは愉しげな笑みを爛々と湛える黒の瞳を不安げな様子で見返した。アベルは口の端を吊り上げて笑うと、クラネルト川に向けて右手を翳した。ぶわりと一瞬にしてアベルの魔力が広がっていく。それは喩えるならば暗い、闇の色をしていた。重苦しい空気が足元から絡みついてくるようにさえ感じるほど濃密な魔力が彼の右手から溢れている。
 自分を守るように腕を翳してアベルの魔力の奔流に耐えていると、不意に撤退を急かす怒声と悲鳴が巻き起こった。ぎゅっと瞑っていた目を何とか開くと、クラネルト川は緑で溢れていた。何がどうなっているのか、アイリスは信じられないものを見るかのように目を見開き、視線を外すことが出来なかった。
 突如として川は緑の植物に覆われた。だが、それはただの植物ではない。川の浅瀬にまで後退していた帝国兵らは突如として現れた植物の葉に絡め取られていく。水中花とはよく言ったもので、その様はまるで食虫植物のそれだった。


「アンタはさっき冷たいけど親切な人だって言ったよね。だけど、これで分かっただろう?冷たい、なんて言葉じゃ足りないよ。冷酷で無慈悲で、目的の為ならどこまでも冷徹に完膚なきまでに叩き潰す……そういう人だよ。その為なら、あの人は味方であっても見捨てるよ。あの人にとって僕らなんてただの駒に過ぎないんだ。捨て駒だよ、捨て駒。だけどさ、……本当に、よくやるよね」


 アイリスは手で口を抑え、その場に崩れ折れた。とてもではないが、見ていられるような光景ではなかった。水しぶきと悲鳴、怒声が幾重にも重なり合い、光景と相まって目の前はまるで地獄絵図のようだった。中には合図に遅れて水中に引き摺りこまれている友軍の姿もあったが、手を伸ばせば自身も引き摺りこまれてしまう為に誰も手出しは出来ずにいた。
 殆どの兵が我先にと川岸から撤退して来る。アベルは土の壁から飛び降りると、座り込んでいるアイリスの傍に膝を付いた。そして真っ青な顔をした彼女を見やり、黒曜石の瞳を細める。


「ゲアハルト司令官がどういう人か、アンタの疑問の答えだよ」


 水中花は近付く人間を全て絡め取り、水の中に沈めていく。泣き叫ぶ声も怒鳴り声も水しぶきも止むことはなく、西岸に展開している帝国兵らにも迫りつつあった。アベルはその様子を冷めた目で見つめながら、「よくやるよ」と呟く。


「帝国憎し、なんて言葉では生温いぐらいだ。……ほんと、帝国の人間全員殺さなきゃ気が済まないんじゃないかって思うね、こんなの見てると」
「……」
「誰を殺されたら、こんなことを思いつくようになるんだか。アンタもさ、これがあの人の復讐心からじゃなきゃ、ただの悪魔だと思わない?」


 座り込んでいるアイリスの腕を掴み、立ち上がらせるとそのまま引き摺るようにして後方へと歩き出す。今いる場所は安全区域ではあるものの、より後方に行く方がより安全だ。アベルはアイリスをちらりと見やる。一度でも親切だと思った相手のこの行動を見て、今は一体どのように思っているのだろうか――しかし、その血の気の引いた白い頬と見開いた瞳の端に浮かんだ涙を見れば、聞かずとも知れたことだった。










「水中花、上流から下流まで全ての発動を確認しました」
「そうか」


 前線司令部のテントでは、ゲアハルトが伝令の報告を聞いていた。改めて前方を見れば、川は緑に溢れ、微かに泣き叫ぶ声や怒声が聞こえていた。その光景に冷え冷えとした青の瞳をそうっと細め眺める彼の横顔は常と何ら変わりなかった。
 周りで控えている兵士らは誰もが顔を青くし、その光景に吐き気を催している者さえいる。見ていられないと目を覆う者さえいるにも関わらず、ゲアハルトだけは視線を外すことはなかった。


「上手くいったみたいだね」
「エルンストか。ああ、作戦は概ね成功だ」


 テントに入って来たエルンストの白衣はアイリスを送り出した時よりも汚れていた。前線司令部のテントに来たということは大方の処置や確認は終えたのだろう。エルンストは変わり果てたクラネルト川の光景に目を細め、「概ね?何か問題でもあった?」と視線をゲアハルトへと向ける。


「西岸の帝国部隊を潰せなかった。……だが、これで暫くはクラネルト川から攻め入って来ることはないだろう」


 平然と言い放つゲアハルトにエルンストは肩を竦める。そして文句を言うように柳眉を寄せ、唇を尖らせた。


「水中花なんだから岸まで逃げられたらどうしようもないよ。それに結構アレを作るのは苦労したんだから、もう少し俺を褒めてくれたっていいのにさ」
「褒めるとお前は調子に乗る。……酒ぐらいは奢る、それでいいだろう」
「忘れるなよ」
「ああ。陛下からの叱責を受けてからになるがな」


 撤退する準備を始めるように指示を出し、ゲアハルトはテントを出た。続いて出るエルンストと共にクラネルト川に咲く食虫植物の如き水中花を見つめる。水面には帝国の青の旗が浮いていた。


「そういや、陛下はこの手のことが嫌いだったっけ。よく実行できたな」
「口には自信がある。結果も出したのだから文句は言わせないさ」
「……俺、時々お前が怖くなるよ」
「そうか」


 エルンストは苦虫を噛み潰したような顔をするも、ゲアハルトは気にも留めていない様子で踵を返した。そして数歩進んだところで立ち止まると、治療を終えた国境連隊を国境警備に残すように指示を出した。このような光景を前にして警備しなければならないなんて気の毒だなと他人事のようにエルンスト思いつつ、「了解ー」と軽く手を振ってゲアハルトを送り出した。
 彼を見送り、エルンストはクラネルト川を振り向く。彼自身が作り出した水中花は多くの命を水の中に沈めた。川を覆う緑と、薄い色の花が咲いている。美しい花とは裏腹に凄絶な死神と言えるそれを彼は目を細め、微笑をもって眺めていた。


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