帰還 - the facets -



  美しい水を湛えていたクラネルト川。そこに溢れんばかりの緑が広がる。薄い色の花が咲き、その花自体は美しい。けれど、その花の下には数えきれないほどの青を纏った帝国兵らが沈んでいる。
 助けてくれ、助けてくれ。その泣き叫ぶ声が耳から離れない。水の音を聞くと、青い色を見るとあの出来事が思い起こされ、あの光景を夢にまで見るほどだった。
 この数日、アイリスはまともに眠れていなかった。あの日から待機命令が続いていたから良いものの、顔色は悪く、すっかりとやつれていて、とてもではないが出撃出来るような健康状態ではなかった。しかし、このような状態になっているのは彼女だけでなく、あの場に居合わせた歴戦の騎士も少なからず堪えている様子だ。
 だが、アイリスは彼ら以上に堪えていた。第二騎士団が担当していた下流域は水中花が発動するまでの間、戦線は乱れていた。その戦線を川岸まで押し上げるに至った要因――負傷していた部隊長、レックスを治癒し、再出撃させたのは他の誰でもなく彼女だった。彼を治療しなければよかった、などとは考えてもいないが、自分のしたことが結果的に帝国軍の壊滅に結びついたことに変わりはない。
 これは戦争だ、殺し合いだ。それに自分が参加しているという自覚はあった、帝国軍が敵だということも分かっている。結果としては、壊滅的なダメージを与えることが出来たのだから喜ぶべきことなのだ。だが、どうしてもそう思うことが出来なかった。
 自分は後方だから、怪我をした人を治癒するだけだから、自分は殺し合いには関係ない――心の何処かでそう思っていたことが、今回のことで明らかになった。こんなはずじゃなかった、後方支援のテントで死者を前にして座り込んでいた少女が呟いた言葉が、脳裏に蘇った。


「……こんなはずじゃ、なかったのに」


 ならば、レックスを見捨てたのか――頭の中でもう一人の自分が囁く。そんなことが出来るはずもない。レックスでなかったとしても、傷ついた人がいるのなら助けていた。それが彼女の入隊した理由だからだ。だが、その結果があの光景だ。助けてくれ、助けてくれと泣き叫ぶ声が耳にこべり付いて離れない。その叫びはまるでアイリス自身に絡みつき、闇に引き摺りこもうとしているかのように彼女の中で反響する。
 耐え切れずに壁に凭れかかり、そのまま頭を抱えて座り込んでしまう。聞きたくないと頭を抱えていると、ふとアイリスの肩に触れる手があった。その手に驚いたように彼女は身を強張らせ、恐る恐るといった様子で手の持ち主を見上げた。


「見つけたよ、アイリスちゃん」
「……エルンスト、さん」
「レックスから聞いたよ。あの作戦からずっと塞ぎ込んでて心配だって」


 時間がある時にでも診てやって欲しいって言われてたんだけど。
 汚れのない白衣を纏ったエルンストはアイリスの隣にしゃがみ込み、苦笑いを浮かべながら彼女の目の端に浮かんでいた涙を拭った。そしてさすがに廊下は目立つから、とアイリスの手を取って立ち上がらせる。
 食欲があるわけではないが、食べないわけにもいかず、食堂に向かっていたところだったのだ。丁度昼時ということもあり、食堂近くの廊下は人通りが多い。エルンストはアイリスを促しながら食堂とは逆方向に歩き出す。程なくして着いた場所には、“医務室”のプレートが掛かっていた。


「……医務室?」
「そう、俺の城」
「エルンストさん、軍医だったんですか?」
「そうだよ。後方支援をまとめる傍ら宿舎の医務室も担当する敏腕軍医」


 軽口を叩きつつ、エルンストはアイリスに椅子を勧めた。そして部屋の脇にある小さなキッチンに立つと慣れた手つきで茶を淹れ始める。程なくして、医務室には甘い柔らかな香りが広がった。エルンストは湯気の立つカップをアイリスに持たせると、彼女の隣に腰かけてカップに口を付けた。同じようにアイリスも甘い香りのする茶を一口飲み、小さく息を吐き出した。両手で包むようにして持つカップはじんわりと冷え切っていた彼女の手を温める。


「……あんなに人が死ぬところは、初めて見たんです」


 ぽつりとアイリスは呟いた。ともすれば聞き逃してしまいそうになるほどの小さな声だった。


「助けて、助けてっていう声が……耳から離れなくて……わたし……」
「レックスを助けなければよかった?」
「そんなこと、そんなこと思ってません!」
「だったら何でそんなに悩んでるの?君があいつらを殺したわけじゃないのに」


 エルンストは然も不思議でならないとばかりの表情でアイリスを見る。真っ直ぐに向けられる青い瞳から逃げるように目を逸らし、アイリスはぎゅっと膝の上のカップを握り締める。


「だって……、わたしがレックスを助けたから戦線は押し上がって……」
「だけど君がレックスを助けなければ、逆にこっちが攻め込まれて俺たちが負けて、下流域から帝国軍が進軍してたかもしれないよ」
「……それは」
「それに、たまたまだよ。君がレックスの元に送られたのも、怪我人がレックスだったのも。全部偶然だよ。たまたま君が俺のところに来て、俺が君を推して、司令官が君に出撃を命令した。そこでアイリスちゃん、君が止める司令官に自分で行けるって言ったんだよね」


 その通りだった。エルンストが言うように、知り合いならば止めておけと言ったゲアハルトに対して平気だと、行けると言ったのは他ならぬ自分自身だった。誰かに命令されたわけでなく、自分で選んだことだった。戦場だと殺し合いだと分かっている場所に爪先を向けたのは、自分自身だ。


「だけどさ、そんなこともそもそも君が気にする必要はないんだよ、アイリスちゃん」
「……でも、わたしが」
「いつまでも悲劇のヒロインを気取らないでよ。君は自分で決めて最前線に行った、きっかけは偶然だけど君自身の決定でレックスを助けた。だけど、その後に水中花を使ったのは誰?司令官だよ。発動したのはアベルだ。あの作戦で君が一体何をしたっていうの?何もしてないじゃないか。君が苦しむ要因がどこにある?確かに遠因は君にあるかもしれない。だけどそれはレックスを助けたいって言う君の優しさから来たものだろ」


 言い返す言葉が見つからなかった。アイリスはぎゅっとカップを握り締め、薄い飴色のそれへと視線を落とした。エルンストの言う通りだと思った。否、思いたかった。思い込もうとした。レックスを助けたいと思ったことに嘘はなく、紛れもない事実だ。しかし、その後のことに自分は何か関係しただろうか――答えは否。水中花を発動させる決定はゲアハルトが下し、それを実際に発動したのはアベルだ。アイリスではない。
 そう思い込むことが果たして正しいことなのかどうかはアイリスには分からない。けれど、エルンストが口にしたそれらのことは、水底に引き摺りこまれそうな心境だったアイリスにはまるで垂らされた蜘蛛の糸だった。


「……今後も、こういうことがあるのでしょうか」
「どうだろうね。だけど今回の作戦でごっそり帝国軍の数を減らすことが出来るのが証明されたから、今後も使われるかもしれない」
「……」
「俺たちと帝国側ではそもそも兵力に差があり過ぎる。あっちはクラネルト川の向こうの国々をほぼ平定して兵力はうちの何十倍もある。多少やり方が汚くても使える手を使わないわけにはいかない。そっちの方がよっぽど悪だと思わないかな」
「……使わない方が、悪」
「そうだよ。まあ、使うかどうかは司令官次第だ。……俺たちは負けるわけにはいかないからね」


 声のトーンが変わる。真剣味を帯びたその声音にアイリスは視線を上げ、そして数瞬の後に少し冷めたハーブティーを飲み干した。空になったカップをエルンストに手渡し、「ご迷惑をお掛けしました」と頭を下げる。 
 エルンストの言うように、負けるわけにはいかないのだということを思い返す。負ければどうなるのか、それが分かっていないわけではなかったが認識が甘かったのだとアイリスは自身を戒める。今回のようなことが今後もないとは限らず、――それでもなければいいと思わずにはいられないが――その度にこのように塞ぎ込んでいてはならないのだと自分自身に言い聞かせた。
 アイリスの様子をエルンストは面白いものを見るかのように目を細めて眺めていた。彼女がどのように考えているかは手に取るように分かる。とても真っ直ぐで素直だからこそ、言葉巧みに言い包められてしまう。戦場には不釣り合いな性情だと思いつつ、エルンストは笑みを浮かべると「初めての前線だったから、驚いたんだよね」と優しく声を掛ける。


「今後はもう少し心を強く持った方がいいよ。そうじゃなきゃ、やられるのは君の方だ」
「はい、……頑張ります」
「それじゃあ、まずはしっかり食事を取ることから始めよう。今ならまだ食堂が空いてるから」


 エルンストはカップをテーブルに置くと、アイリスを促してドアまで見送る。その表情は連れて来たときよりも幾分も明るくなっていた。まだ何か思うところはあるようだが、それでも食事と睡眠をしっかりと取ればすぐに良くなるだろう――エルンストはそう告げると、アイリスはしっかりとした様子で頷き、辞儀をすると食堂に向けて踵を返した。
 その背を見送ってからエルンストは扉を閉めると、そのままベッドを間仕切るカーテンを捲った。そしてそこで書類を片手に寝ているゲアハルトの頭を遠慮なく叩いた。


「……痛い」
「勝手にベッドで寝るのを止めろって何度言ったら覚えるんですかー?司令官殿」
「お前が医務室を空けているからだろ」


 殴られた頭を摩りながらゲアハルトは身体を起こし、エルンストを睨み付ける。しかし、睨まれているエルンストは何処吹く風といった様子で気にした風もなくベッドを離れるとテーブルのカップを片付け始めた。そのどこまでも自分のペースを崩さないエルンストにゲアハルトは溜息を吐くとベッドを降りて椅子に腰かけた。


「サインしろ」
「何の書類ー?借金ならお断りだよ」
「アイリス・ブロムベルグの異動の書類だ。お前のところに配置予定だったが、彼女はうちが預かる」
「酷いことするなー、さっきの話が聞こえていなかったわけじゃないんだろ?」
「お前には負ける。俺は傷に塩を塗り込むようなことはしない」
「その傷を付けた奴がよく言うよ」
「……」


 ゲアハルトの前に珈琲を入れたカップを置き、エルンストはテーブルに置かれていた書類を手に取る。そこには確かにアイリスの異動手続きの文面が書かれていた。
 しかし、彼女を引き取ったところで何をさせるつもりなのか。攻撃魔法も使えなければ、剣技も護身術程度の腕前だ。とてもではないが、前衛中心と言える第二騎士団には不向きな人材であり、彼女がやっていけるようには思えない。


「陛下との協議の結果、軍を編成し直すことにした」
「何でまた急にそんなことを?」
「次に帝国が仕掛けて来るのなら大規模な戦闘になるだろう。水中花のこともある、奴らも国境沿いには来たがらないはずだ」
「……それで?」
「遊撃部隊をいくつか編成することになった。各騎士団の精鋭で小隊を作るが、彼女にはその一員になってもらう。回復や防御に徹することが出来る人員が必要だからな」


 本人の意思は無視だね、と笑うエルンストをゲアハルトは冷ややかな視線を向けた。どうやら今は虫の居所が悪いらしい。水中花の件で陛下と揉めたなと考えを巡らせたしたエルンストは、あまり突っつかない方がいいか、と肩を竦めて見せると書類にサインをした。


「あんまりいじめるなよー?」
「お前がな」


 ゲアハルトがそう言い返していると、慌ただしい靴音が扉の向こうから聞こえてきた。そして切羽詰まった様子で「失礼します」と声を掛かり、返事を待たずに扉が開いた。


「ゲアハルト司令官は、ああ!司令官!午後の会議が始まります、至急軍令部までお戻りください!」
「え、何々?サボり?司令官、サボり?」
「煩い、黙れ。サボりでなくサインを書かせに来ただけだ」
「そんなの部下に任せればいいのにー、サボりはだめですよ、司令官殿」
「サボってばかりのお前が言うな」


 舌打ちを一つするも、目的のものは手に入ったゲアハルトはあっさりと腰を上げた。そして急ぐようにと急かす部下を黙らせて足早に医務室を出て行った。それを見送ったエルンストは椅子へと深く腰かけ、彼に用意した手付かずの珈琲のカップに手を伸ばした。
 アイリスが第二騎士団に異動するということは、彼女は否応なく前線へと送られることになる。たった一度の経験であそこまで憔悴していた彼女だ。壊れてしまうのか、それとも耐え切るのか――これは見物だとエルンストは目を細めた。


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