帰還 - the facets -



  医務室を後にしたアイリスはその足で食堂へと向かった。昼時を過ぎている為か、食堂はそれほど混み合っていない。食欲がないからとスープだけを受け取って近くの空いている席に座ろうとすると、「アイリス!」と彼女を呼ぶ声が聞こえた。急に大きな声で名前を呼ばれたアイリスは驚いた表情を浮かべ、声が聞こえて来た方を見やる。


「レオ!」
「全然見かけないから心配してたんだぞ。ちょっと待って、スープだけ?これだけ?もうちょっと何か食わないと倒れるぞ……まあいいや、とりあえずこっちおいで」


 アイリスの元に駆け寄るなり、彼女の持っていた昼食を見て顔を顰める。しかし、食欲がないということは彼女の顔を見てすぐに分かったらしく、それ以上は何も言わずにアイリスから盆を取り上げると自分が座っていた窓際の席へと歩き出した。
 レオの後に続きつつ、アイリスはこっそりと彼の頭の先から踵までを見る。レオも先日の国境での作戦に参加していたというが、どうやら怪我を大きい怪我は負っていないらしい。負っていて既に治療を終えているだけかもしれないが、それでもこうして普通にしているところを見ると安心する。あの日以来、近しい人間に会うのは久しぶりであり、よかった、とアイリスは思わず熱くなる目頭を押さえた。


「え、ちょ、どうした?どこか痛いのか?」


 テーブルまで戻り、盆を向かい側の席に置いたところでレオは振り向き、泣きそうな顔をしているアイリスを見てぎょっとした表情を浮かべた。そして慌てて、彼女の顔を覗き込み、何処か怪我をしていたのかと右往左往する。そんな彼にアイリスは目の端に浮かんだ涙を指先で拭うと、そうではないと首を横に振った。そして泣いてしまった理由を口にすると、レオは苦笑いを浮かべてアイリスの頭を撫でる。


「それを言うならこっちの台詞。レックスから聞いた、最前線の近くまで来たんだって……そんな出番ないはずだって言ってたのにな。色々辛かったよな」


 レオはアイリスの肩に手を置くと、椅子に座るように促した。向かい合わせに座り、少し手を伸ばして彼女の頭を撫でる。よく頑張ったなと褒めるその優しい声が心に沁み入る。凝り固まって溜まっていた澱が溶かされるように涙が頬を伝い、その様にレオは慌てて撫でていた手を引いた。そして数瞬の後に恐る恐る手が伸ばされ、またゆっくりと頭を撫でる。
 声を押し殺して泣くアイリスにレオは少し困った笑みを向け、「スープ、冷めちゃうぞ」と声を掛ける。


「今は泣いててもいいけど、もう少ししたらレックスが戻って来る。だから、泣いていいのはそれまで」


 泣いてばかりいると、進めなくなるから――彼の言葉に、アイリスは頷いた。それと同時に思い出したのは、ついさっきエルンストに言われたことだ。心を強く持たなければならない、と。まさにその通りだと、彼女は零れた涙を掌で拭った。そして浮かべたのは、幾分も明るい笑み。


「もっと強くならなきゃだめだよね、そのためにもご飯しっかり食べなきゃ」
「そうそう。ちゃんと食べて、ちゃんと寝て、それで笑えばいい。笑ってたら、きっといいことがあるから」


 そう言って彼は笑った。初めて会ったときと変わらない明るい笑顔は、真夏に咲くひまわりのようだった。アイリスはそんなレオの笑顔に笑い返すと、少し冷めてしまったスープを飲み始める。その様子をレオはどこか安心した顔で見つめていた。
 そしてアイリスが食事を終えた頃、「アイリス!来てたのか!」と驚いた様子のレックスが紙袋を手に戻って来た。どうやら買い物に行っていたらしい。レオの隣に腰かける彼の様子に、すっかりと心配を掛けてしまっていたのだと改めて反省しつつ、「心配掛けてごめんね」と口にする。


「エルンストさんから聞いたよ。レックスが診るように頼んだんだって」
「……は?」
「え、何々?アイリス、それ何の話?」


 レックスもレオも目を丸くしている。そんな二人の視線を受けて、アイリスは首を傾げた。二人がどうしてそんなにも驚いた顔をしているのか分からないまま、ついさっきまでエルンストと話していたこと、レックスが頼んだからだと言っていたことを伝えた。すると、途端にレオは有り得ないとばかりに眉を寄せて隣に座っているレックスを見る。


「普通、命の恩人にそんなことするか?酷い仕打ちだな。レックス、お前頭でも打ったんじゃないのか?」
「ちょっと待てよ、オレはあの人にそんなこと頼んでない。あんな弱ってる人間の傷を抉るのが好きな人に命の恩人を差し出すなんて恩知らずなことするかよ」
「ちょ、ちょっと待って。レックスはエルンストさんに頼んでないの?」


 どうも話が食い違っているようで、アイリスは険悪な雰囲気になっている二人の間に口を挟んだ。レックスは眉を寄せながらも、当たり前だと頷く。だったらどうしてエルンストがレックスの名前を出したのかとレオは同じく眉を寄せて口を開く。しかし、それに対してもやはりレックスは言葉を変えず、頼んでいなの一言だ。
 どういうことなのだろうかとアイリスは困惑しつつ、スプーンを置く。とりあえず、二人が喧嘩をするようなことだけは避けなければとは思うものの、そもそもどうしてそんなにもエルンストのことを嫌っているのかがアイリスには疑問だった。それをそのまま二人に問うと、何とも言えない表情になるレックスとレオ。


「……どうしたの?」
「いや、……まあ、ほら……あの人、口が悪いだろ?ちくちくちくちく人の弱みを突っついて来るというか、人の傷を抉って楽しんでるような人だから正直苦手なんだ。腕はいいんだけどな、腕は」
「笑いながら人の傷に塩を塗り込むんだ、あの人。あー、思い出しただけでも腹立ってきたけど怖いから何も出来ねー……」
「レオはヘタレだからな」
「誰がヘタレだ、お前だろ」


 以前にエルンストから何か言われたことがあるらしいレオは遠い目をする。何を言われたのかは気になるところではあるものの、問えるような雰囲気でもなければ、再びレオとレックスが睨み合いを始めたため、アイリスは慌てて二人を取り為す。仲がいいと思っていた二人だが、実際のところはそうではないだろうか、それとも喧嘩するほど仲がいいというやつなのだろうか――と、彼女は苦笑いを浮かべる。


「それで、アイリスは何も言われなかった?」
「えっと……悲劇のヒロインを気取るな、って言われた」
「……初めて戦場に立った人間に言う言葉ではないな」
「アイリス、あの人にはあんまり近付かない方がいい。悪いこと言わないから、な?」
「でも、確かにそうだって思ったけど……わたしが落ち込んでたってどうすることも出来ないと言われて思ったよ」


 そう言うと、レックスとレオは顔を見合わせる。そして二人して先ほどレオが言ったように、エルンストには近付くなと口を酸っぱくして口々に言い始める。そこまで嫌われるなんてエルンストは本当に何を言ったのだろうかと思いつつ、アイリスは曖昧に笑った。
 エルンストに近付くなと二人は言うが、アイリスの直属の上官は本決定ではないものの、現段階ではエルンストだ。関わらないでいることの方が難しい。しかし、それを伝えると、余計に二人がヒートアップすることは目に見えているため、アイリスは口を閉ざした。


「あー!もう止めだ止めだ!あの人の話はこれで終わり!アイリスはあの人に近づかない!以上!さ、お菓子食べようぜ」
「お菓子?」
「オレが買ってきた」


 レックスは紙袋の中から様々な菓子を出し、テーブルに並べていく。クッキーやマフィン、カップケーキにマカロン、色とりどりの菓子にアイリスとレオは目を輝かせる。そんな二人の様子にレックスは苦笑いを浮かべつつ、「確か甘い物好きだったよな」と彼女に声を掛ける。その口振りにレオは視線を菓子からレックスへと向け、「好きな食べ物とか知らないのか?」と不思議そうな顔をした。


「同じ孤児院だったんだろ?」
「オレは2年で出て行ったし、その間も特に仲が良かったわけじゃなかったからな」


 彼はそう言っているが、アイリスが知る限り、孤児院にいる間にレックスと親しくしていた人間は一人としていなかった。誰に対しても必要最低限の関わりしか持っていなかったように思える。アイリスも、彼と話したことは殆どなかった。それでも宿舎で彼を見たときにすぐに思い出せたのか、燃えるような赤い髪と、暗い赤の瞳がとても印象的だったからだ。
 孤児院にいた頃は兎に角他者を排していたレックスも、今はそのような片鱗は少しも見せていない。寧ろ、アイリスが知っている子どもの頃の彼の様子が特異だったのではないかと思うほど、ごく普通に人と接していた。普通に笑い、普通に怒り、普通に喧嘩をする。あの頃は何か理由があったのだろうかと思うも、今ここで聞くことではないと思考を止めると、アイリスはレックスが買って来てくれた菓子に手を伸ばした。


「それにしても、どうしてこんなにたくさんあるの?二人で食べるには多いよね」
「ああ、それは」
「今日もアイリスに会わなかったら部屋に持って行ってやろうと思ってさ。あ、オレらは女子の宿舎には入れないから頼む形になるけど」
「遮るな、レオ。これは、……その、お礼だ。助けてくれたお礼」


 ありがとう、と笑うレックスにアイリスはまた少し、泣きそうになった。
 助けてよかったと、助けることができてよかったと心からそう思った。自分のしたことを、肯定してもらえたことが嬉しかった。アイリスはきゅっと耐えるように一度唇を噛み締め、それから笑った。こんなにたくさんのお菓子をありがとう、と。
 レックスは少しだけ驚いた表情を浮かべるも、そっとアイリスから視線を外すと、「お前は食べ過ぎだ、レオ」と彼の隣で菓子を食べているレオを窘める。これはアイリスに買ってきたものでお前のじゃない、とそう言って怒る彼は気付いていたのだろう。アイリスは指先で目の端を涙を払うと、みんなで食べようとレックスとレオに笑い掛けた。

 


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