野営 - 2 years ago -



「アベル、大丈夫?」
「……これが大丈夫な状態に、思えるなら……アンタの目は、おかしいんじゃないの……」


 昼頃に王都ブリューゲルを出立し、今は夕刻。北の国境、ベルトラム山まで残り半分を切っていたところで馬車の馬を休ませる為に休憩が取られた。
 アイリスは馬車を降りると、続いて降りて来たアベルを見て眉を下げた。元より色の白い彼ではあるが、今はその顔が真っ青になっている。馬車の揺れにすっかりと酔ってしまっているのだ。ふらふらと危なっかしいアベルの身体を支え、馬車から少し離れたところへと移動し、剥き出しになっている岩に座るようにと促した。いつもならば触るな、気を遣うなと言うアベルも今ばかりはアイリスに言われた通りに動き、まるで借りて来た子猫のように大人しい。


「水でも飲む?」
「……いい」


 そう言ってアベルは口元を押さえて身体を小さく丸めた。アイリスはその背を撫でつつ、心配げな表情を浮かべる。回復魔法を掛けようにも、車酔いに掛けるような魔法はなく、今後もまだしばらく馬車に乗るのだから出来たとしても一時凌ぎでしかない。しかし、このままの状態にしておくことも出来ず、酔い止めを貰って来ようかと立ち上がると「どうしたんだい?」と声を掛けられる。
 振り向くと、不思議そうな顔をしているメルケルとレオが連れ立ってやって来た。アイリスは二人にアベルが馬車に酔ってしまったのだということを伝えると二人も心配する顔へと変わった。


「大丈夫なのか?」
「……んなわけ、ないでしょ」
「酔い止めがあるが、飲めるか?」


 自身に荷物に手を入れて言うメルケルにアベルは力無く首を横に振った。今は何かを口に入れることすら出来ない状態らしい。三人は顔を見合わせ、どうしたものかと眉を下げる。このような状態のまま、連れて行くわけにはいかない。夜明け前には行動を開始することになっているのだから、それまでには平常時と変わらず動けるようになっている必要がある。
 仕方ないとばかりにレオは溜息を吐くと、「一度吐いちゃえ、アベル」と彼の前に膝を付いて声を掛けた。


「そうすれば楽になるから。それでメルケルに酔い止め貰って、それを飲んで後は寝てろ」
「……何で、僕がアンタなんかの、」
「いいから言う通りにしとけって。ほら、ちょっとあっち行こう」


 そう言うと、レオはアベルの抵抗も言葉も全て無視して彼の腕を自分の首に回した。そしてそのまま身体を支え、近くの林へと向かって歩き出した。アベルも抵抗する気力がないらしく、結局のところはレオに連れて行かれた。それを見送るアイリスとメルケルは何とも言えない表情で苦笑を浮かべている。
 しかし、今はそれが最良だろうとも思い、アイリスはメルケルが差し出した酔い止めの薬を預かった。酔い止めを持ち歩いていることから、彼も酔いやすいのかと尋ねると、メルケルは笑って首を横に振った。


「実家が薬屋で昔からよく薬草を煎じて薬を作ってるんだ。それで、こういう作戦時はいつも持ち歩くようにしてる」
「そうだったんですか」


 アベルが今後も馬車に酔わないとも限らない為、薬の作り方をメルケルに習おうかと思っていると、不意に彼は「団長に聞いたんだが、」と口を開いた。


「君は戦争孤児なんだってね。もしかして、ブロムベルグ孤児院にいたのかい?」
「あ、はい。もしかして、メルケルさんも……」
「いや、俺は違うよ。ただ、孤児院の近くに住んでいたから、団長から孤児だって聞いたときにもしかしてと思ってね」


 同じ孤児院出身だったのか、と一瞬思うも、どうやらそれは違ったらしい。実家が薬屋だと先に言っていたのだから、考えずとも分かったことのはずだった。それでも、同じだったのではないかと思ってしまったのは、心のどこかで家族として育った者たちを探していたからかもしれない。アイリスは僅かに盛り上がり掛けた気持ちが萎んでいく様に感じ、溜息を吐いた。勝手に期待して勝手に落ち込むなど、勝手過ぎると思いつつ。


「……ただ、俺も君と似たようなものではあるよ」
「え……?」
「俺は君と同じローエの出だ。だから、……分かるだろう?俺も君と同じように、家と家族を失った」
「あ、」


 2年前のことだ。クラネルト川下流域には長閑な小さな街、ローエがあった。戦争など、どこか別世界の出来事のように思えるほど、ゆっくりとした時間が流れる街。そんな街が一夜にして焼き払われたのだ。市場も街並みも、メルケルの薬屋もアイリスのいた孤児院も、全て炎に呑まれた。
 まさに急襲だった。一気に川を渡り切り、国境警備に就いていた国境連隊を撃破し、彼らの刃は街に届いた。火が放たれ、全てが赤く燃え盛る炎に呑まれ、誰もが泣き叫び、逃げ惑うそれは宛ら地獄絵図のようだったという。街は未だに廃墟のままで、その当時の焼け焦げた瓦礫がそのままにされているという。
 ローエを襲った帝国軍はそのまま王都ブリューゲルに向けて侵攻しようとしたものの、報告が届いた近隣の国境連隊や騎士団の到着によって食い止められたのだとメルケルは語った。


「その時、俺は今から行くベルトラム山の辺りにいた。知らせを聞いたときは驚いた……、故郷がやられたんだから」
「……メルケルさんが今も軍にいる理由は、それでですか?」
「いや、最初は違った。最初はただ国の為……、いや、街の為に出来ることをしようと思ってた。だけど今は帝国が……」


 そこでメルケルは言葉を切り、「いや、違うな」と呟いた。そしてくしゃりと前髪を掻き、短く息を吐き出す。


「帝国以上に、あの時、背後を警戒しなかったあいつが憎い」
「あいつ……」


 その言葉が差す相手は、作戦の指揮を執っていた人物だろう。アイリスの知る中でその自分はただ一人しかいない。冷やかな青の瞳を思い出すも、彼が背後の敵を警戒しないほど、手緩いことをするとは思えなかった。


「それって、ゲアハルト司令官のことですか?」
「違う、……ああ、君は知らないか。ゲアハルト司令官が司令官に任命されたのは、この一件の後なんだ。それまでは……ルヴェルチという男が就いていた」
「ルヴェルチ……」


 聞いたことのない名前を反芻し、アイリスはどういう人物なのだろうかと考える。しかし、メルケルにはどういう人物かまでは聞けそうになかった。前司令官を帝国軍よりも憎いと言うほどに、その男のことを憎んでいるのだ。迂闊に聞けるようなことではなく、アイリスは口を噤んだ。
 メルケルは落ち着くように努めてゆっくりと呼吸を繰り返し、そしてアイリスを見遣る。


「アイリス、君はどうして軍人になったんだい?」
「え……?」
「団長が言っていたように、君は優しすぎる。軍人には不向きな性格だ。今後は君が思っている以上に戦争が激化していく……引き返すなら今しかない」


 その言葉に、本当はこの話をしに来たのだということに気付いた。向けられる視線は、心配そのもので、とても先ほどまで憎いと言葉にしていた人間の目とは思えないほどだった。本当に心配してくれているのだということが、その目から伝わってくる。それが嬉しくて、けれど、応えられないことが同じぐらいに申し訳なく思えた。


「わたしは、メルケルさんと同じように自分に出来ることがしたくて、入隊しました。それは今でも変わっていないし、たくさんの人と関わって、余計にそう思うばかりで……自分に出来ることをやりたいって、心から思いました」
「……だけど」
「確かにわたしは不向きな性格かもしれません。でも、わたしを引き取って育ててくれた父が言っていたんです。憎しみも復讐も、それらは何も生み出さないんだって。生み出したとしても、それはわたしのような孤児だけです」


 だから、わたしはそんな存在を生み出さない為に、戦争を終わらせたい。その為に自分の出来ることをしたい。


「それで、わたしの兄弟たちの分まで生きるんです」


 そう思えるようになるまでに時間は掛かった。家族が死んだことを、兄弟を失ったことをなかなか受け入れることが出来なかった。悲しくて、寂しくて、自分一人が生き残ってしまったことを悔いたことも何度もある。それでも、今こうして前を向いて歩くことが出来るのは、偏に引き取ってくれた養父の存在があったからだ。
 憎んでも復讐しても、失ったものが返ってくるわけでもなければ、痛みが消えるわけでもない。それらは何も生み出さない。
 彼は何度もそう言って、アイリスを抱き締めた。頭を撫でて、笑いかけた。アイリスが今の答えに至るまでの養父との生活はとても短いものだった。それでも、掛け続けられた言葉は今も彼女の中に刻み込まれている。


「……俺には少し、君が眩しすぎるよ」


 メルケルは困ったように笑った。彼は反対だ。憎しみを抱いたまま、怒りを溜めたままだ。どうしてどうして、と過去のことを考え続けている。アイリスからすれば、彼の存在はまさにもう一人の自分のようにも思えた。もし養父に助けられていなければ、引き取られていなければ、彼と同じように憎しみを持ち続け、復讐しようと考えていただろう。
 出来ることなら、メルケルにもそのような考えは止めて欲しいと思った。だが、そう易々と彼の考えは変わらないだろう。彼の怒りは薄れていない。悲しみも薄れていない。彼は家族を失ったのだ、守りたいと思った街を失ったのだ。その記憶が色褪せずにメルケルの中にある限り、その気持ちは消えることはないだろう。


「メルケルさん……」
「俺の考えを君に押し付けるつもりもないし、君の考えを受け入れることも出来ない。でも、……そうだな、君は不向きだと言っておいてなんだけど……君みたいな考え方が出来れば、もう少し見えるものも違うかなって思えた」


 最後までその考えが変わらないことを祈ってる。
 相変わらずの困ったような笑みを浮かべる。けれど、その表情は少しだけすっきりとした様子でもあり、その目には僅かな羨望のようなものが混じっていた。メルケルは徐々に馬車に集まりつつある兵士らを一瞥し、「それじゃあ俺は先に行くよ」と口を開き、軽く手を振りながら踵を返した。アイリスは慌てて薬の礼を言うと、彼は足を止めて振り向いた。


「こんなことを言うのもどうかと思うんだが……」
「何ですか?」
「……アベルには気を付けた方がいい、かもしれない」
「え……」


 急にどうしたというのか、アイリスは困惑した表情を浮かべる。何故ここで急にアベルの名前が出てくるのかが分からず、困惑しているとメルケルも表情を曇らせつつ、彼は言い辛そうにしつつも切り出した。


「アベルがどういう経緯で入隊したか知ってるかい?」
「えっと、確か武官の方からの推薦だって聞きましたが……」
「……その武官が、ルヴェルチだ。あいつはあの一件で司令官の座から失脚し、政治からも遠ざかった。だけど、最近不穏な動きを見せているようだって団長から話を聞いた。……あいつはもしかしたら、アベルを足掛かりに戻ってくるかもしれない。ああ、もちろん、気をつけろって言ってもこれは単に俺の考えであってただの杞憂かもしれない。ただ、君は彼の仲がいいようだから、何かあるかもしれないし……とにかく、アベル……と言うよりも、ルヴェルチに気をつけろっていうことで……気を悪くしたようならすまない」
「いえ、それは大丈夫ですが……あの、ゲアハルト司令官はアベルの推薦がその人だということは……」
「ご存じのはずだ。そういうことが分からない方ではないし……なんて言っても、俺はただの兵だから、司令官の考えていることなんて分からないけど」


 とにかく、少しだけでもいいから気に留めておいてくれたら嬉しい。
 メルケルはそれだけ言うと、今度こそ踵を返して馬車の方へと歩き出した。その背を見送るアイリスは、彼から聞かされたことを咀嚼しつつも、なかなか理解することが出来なかった。
 孤児院を襲った戦火がどのような経緯で起きたことであったのか、今までそのことを考えたことがなかった。警戒しなければならなかったはずの背後、けれど警戒を怠ったルヴェルチという司令官の座から失脚した男、そしてその男に推薦され、入隊したアベル。知らなかった経緯や事情についてを教えられたアイリスは急な不安感に押し潰されそうになりつつ、ぎゅっと手に持っていた薬を握り締めた。


120421


inserted by FC2 system