野営 - 2 years ago -



 馬車が目的地であるベルトラム山の麓に到着した頃には、月が昇っていた。アイリスは馬車から降り、身体の筋を伸ばしていると幾分か顔色がよくなりつつも気だるげな様子のアベルも降りて来た。大丈夫かと声を掛けると、メルケルから貰った酔い止めの薬が効いているのか、彼はこくりと小さく頷いた。作戦開始は夜明けで、まだ幾分か時間がある。このまま身体を休めれば、大丈夫だろうとアイリスも安堵した。
 これから各隊ごとに集まって作戦行動について確認することになっている。ふらついて見ていて危なっかしいアベルの腕を掴みつつ、一先ずはこの人混みから抜けようとしていると、「あ、いたいた」と緊張感のない声が耳に届いた。声が聞こえた方向に視線を遣ると、人混みの中でも目立つ白衣を纏ったエルンストが二人の方に向かっていた。


「エルンストさんも来てたんですね」
「そりゃあね。割と規模のある作戦だから、……で、この子はどうしたの。いつもなら真っ先に噛みついて来るのに」
「えっと……馬車に酔っちゃって……」
「え、何それ」


 酔ったの、この子。エルンストは笑いを堪えながらアベルを指差した。いつもと違って全く言い返して来ず、恨めしげに睨むアベルにエルンストは噴き出しそうになるところを手で口を押えて我慢している。アイリスはその様子に苦笑いを浮かべ、「それで、何か用があったんじゃないんですか?」と話を先に進める。
 エルンストは用があるのだと笑いを堪えることに苦しみながら言うも、余程アベルの様子がツボに入ったらしく相変わらず肩を震わせている。そんな彼にアベルは眉を寄せ、エルンストの爪先を力いっぱい踏みつける。足を踏まれたエルンストは笑いと悲鳴の混ざった何とも言えない声を上げると、踏まれた足を押えるようにしゃがみ込んだ。


「力に訴えるのは無しだろー……」
「……煩い黙れこの人でなし軍医」
「え、っと……エルンストさん、大丈夫ですか?」
「無理。もう歩けない」
「じゃあ一生、そこにいろ」


 吐き捨てるように言うと、アベルはふらふらとした様子で歩き出してしまう。アイリスは慌てて彼の腕を掴んで呼び止め、エルンストの方を振り向くと彼は呆れたように溜息を吐いて立ち上がっていた。その様子に彼女は何とも言えない心境になりつつも、何の用があって来たのかとを再度問うた。


「ああ、そうそう。司令官が呼んでるよ」
「そ、そういうことは早く言って下さい!」
「あははー、ごめんねー」
「というかさ、何で司令官もこの人に頼んだの。おかしいでしょ、こうなるって分からないあの人じゃないでしょ」


 アイリスは文句を言い始めるアベルを宥め、相変わらず笑っているエルンストを急かす。ゲアハルトが呼んでいるということは、作戦行動についての指示を出す為だろう。となると、勿論の事、急がなければならない。どうしてそれを早く言ってくれなかったのかとエルンストに言うも、彼はただ笑うばかりで「別に大丈夫だって」と根拠のないことを言い始める。
 本気で、どうしてゲアハルトはエルンストに頼んだのだろうかとアイリスとアベルは頭を抱えたくなりつつも、人混みの中をすり抜けて行く彼の背中を追いかける。そして人混みを出てしばらく歩いたところにはテントが設営され、そこに見知った人物らの顔があった。


「エルンスト、遅いぞ」
「ごめーん。探すのに手間取っちゃって」
「アンタが単純にふざけてただけでしょ」
「えー、どこがだよ」
「エルンスト」


 あまりふざけるな、と鈍い音を立てながらゲアハルトの手刀がエルンストの脇腹を突いた。声も出さずにそこを押えてしゃがみ込む彼の様子にその場に揃っていたアイリスやアベル、そしてレックスやレオ、メルケルら第三騎士団から選出された遊撃部隊の面々は顔を青くした。
 ゲアハルトはそんなエルンストを捨て置き、アイリスとアベルに座るように促した。


「今回の作戦は今まで以上に細かな行動を取ることになる。各自、これからの作戦行動についてしっかりと頭に叩き込むように。まず、第二からはレックスを中心にレオ、アベル、アイリスの計四名に遊撃部隊として動いてもらう。第三からはメルケルを中心に同じく四名。土地勘のある彼らに作戦位置まで誘導してもらうことになる」


 夜明けと共に実行に移される今回の作戦は、ゲアハルトが言うようにそれぞれに細かな行動が求められるものだった。
 先発としてアイリスら第二騎士団から編成された遊撃部隊は、第三騎士団から編成された遊撃部隊と共にベルトラム山の向こうに布陣している帝国軍の本陣を急襲する。その為にまずは帝国軍が本陣を置いている麓の傍に通じている、地元の者しか知らない洞窟の抜け道を使用する。その誘導をメルケルらが行うことになっている。


「この抜け道は地元の者とベルトラム山の国境警備に付いている第三の者しか知らないはずだ。仮に帝国軍がこの洞窟の抜け道を押えていた場合はすぐに撤退し、此方に合図を送れ。止むを得ず、交戦状態に入った場合はアベルの魔法攻撃を中心に少しずつ後退。最悪の場合、洞窟を崩して道を断て」
「了解」
「その後、アイリスは防御魔法で洞窟の入り口を固めておけ。誰一人としてそこから抜け出せないように」
「分かりました」


 最悪の場合も視野に入れておかなければならない。この方法は、要は洞窟にいる帝国兵らを生き埋めにするということだ。出来れば、そのようなことがなければいいと思わずにはいられないが、そう甘いことを言ってもいられない。
 アイリスはきゅっと杖を握り締めつつ、続くゲアハルトの説明に耳を傾ける。


「その場合、遊撃部隊は全て此方に戻れ。戻り次第、本隊の増援としてバルシュミーデ団長の指揮下に入れ。アイリスは後方支援に回れ。問題なく抜け道が使用出来る場合、レックスとレオは此方に合図を送れ。すぐに隊を向かわせる、合流するまで二人は抜け道の入口に待機。アベルとアイリスはそのまま進め。抜け道の先は帝国本陣を見下ろす高台だ。そこからアベルが本陣に攻撃。アイリスは防御魔法を展開してアベルを守れ」
「待って下さい、司令官!たった二人でなんて危険すぎます!」


 レオは椅子から立ち上がって反対するも、ゲアハルトの態度は変わらない。ただ、淡々とした冷やかな青い瞳がレオへと向けられる。


「問題ない。アイリスの防御魔法の腕前は任せるに値する」
「ですが……」
「レオ」
「……」


 窘めるように名前を呼ばれ、レオは納得出来ないとばかりに顔を歪めながらも椅子に腰を下ろした。アイリスは眉を寄せて渋面を作っている彼に視線を向け、「大丈夫だよ」と声を掛けると、レオは弱々しく笑った。
 レオに言った言葉に嘘はない。高台からの急襲であり、アベルと自分の身を守るように防御魔法を展開するだけのことだ。以前のクラネルト川での時よりも反撃は厳しいものになるだろうが、守り切ることに関しては自信があった。


「アベルが本陣を急襲する間にレックスとレオはそれぞれ隊を率いて本陣を挟撃する。二人は後で第三と位置を確認しておくように」
「了解」
「……了解」
「尚、向かわせる隊は第二、第三からそれぞれ二個中隊だ。本陣を急襲すれば、既に山に入っているだろう帝国本隊も動き出すだろう。帝国本隊は此方で相手をするが、本陣を急襲している四個中隊のうち、第三の二個中隊は背後から帝国本隊を攻撃し、此方と共に挟撃する。指揮はメルケル、君に任せる」
「了解しました」
「レックスとレオはそれぞれ隊を率いて本陣を急襲。そのまま後退するようであれば追撃しろ。アベルとアイリスはレックスとレオが隊を率いて本陣に急襲を仕掛けた時点で攻撃を中止。アイリス、バルシュミーデ団長から報告は受けているが、余裕があれば敵大将の捕縛を試みてくれ。だが、無理はしなくていい。その間、アベルはレックスらの援護に回れ。本陣の帝国軍は撤退し始めたら、アベルとアイリスは抜け道を使って此方まで戻って来い。戻り次第、アベルはバルシュミーデ団長の指揮下に入り、本隊の援護。アイリスは後方支援に回り、エルンストの指示に従え」


 作戦行動は以上だ、何か質問はあるか。
 ゲアハルトがそう言って面々の顔に視線を遣ると、メルケルが挙手した。


「今回の作戦中、クラネルト川などの国境の防衛はどうなっているのでしょうか」
「クラネルト川流域は第七、第八、第九が展開中だ。指揮は第一を率いて陛下が執られる。仮に帝国軍は背後を狙ったとしても、そう易々と取られないさ。他に質問はあるか……ないならば、話は以上だ。互いに行動を確認の上、開始時刻までは身体を休めておけ。君たちの活躍に期待している」


 武運を祈る。
 ゲアハルトは敬礼をすると、それに応えるように立ち上がったアイリスらも彼に敬礼を返した。足早にテントを後にするゲアハルトの背を見送ったところで、レオに声を掛けられた。酷く心配した表情を浮かべているが、アイリスは安心させるように笑みを浮かべて見せる。


「大丈夫だよ、心配し過ぎだよ」
「でも、……」
「ゲアハルト司令官は、出来ない人に出来ないことを押し付けるような人じゃない。そうでしょ?」
「そうそう。レオは少し心配し過ぎだ、アイリスなら大丈夫だって」


 レオの肩に肘を置き、レックスは苦笑いを浮かべた。そんな彼に対してレオは眉を寄せ、お前は心配じゃないのかとむっとした顔で言う。レックスは目を瞬かせ、「そりゃあ心配だよ」とあっさりと返す。


「でも、オレはアイリスなら大丈夫って思ってる。司令官だってそう思ったからアイリスに行かせるんだろ」
「そうだけど……、アイリスは女の子だぞ」
「それを言うならバルシュミーデ団長も当てはまるだろ」
「うっ……」
「それより打ち合わせしようぜ、メルケルたちが待ってる」


 そう言うと、レックスは半ば無理矢理引き摺るようにしてレオを連れてメルケルらの方へと移動した。アイリスは苦笑いを浮かべながらそれを見送り、椅子から動かずに机に突っ伏しているアベルの隣へと腰かけた。
 また、彼と一緒の作戦行動だった。それが嫌だというわけでもなく、単純に相性がいいからだということも分かっている。けれど、メルケルに言われた言葉が心に引っ掛かっていた。だが、それも彼の考え過ぎかもしれないのだ。偶然が重なった結果、そのように思えてしまっただけのことでしかないのではないか――アイリスはそう結論付けると、隣で机に突っ伏しているアベルへと視線を向ける。
 黒髪の隙間から見え隠れする寝顔はまだ幼さの残っている顔だった。顔色も大分良くなり、アイリスはほっと小さく安堵の息を吐く。その横顔を見ていると、不意に「そんなに見られると眠れない」と不機嫌な声が聞こえて来た。


「え、えっ!?起きてたの!?」
「誰も寝てるなんて言ってないでしょ。それより、作戦の確認しようよ」


 ちょっと地図貰って来る、アベルはそう言うとゆっくりと身体を起こし、先ほどよりもはっきりとした足取りでレックスらへと近づいた。そして二言三言言葉を交わした後に地図を手にアイリスの元へと戻ってくる。そして地図を机に広げると、「夜明けになったら、――」と先ほどゲアハルトから指示された行動についてを思い出しつつ、数時間後の行動を確認し合った。


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