野営 - 2 years ago -



「……ね、眠れない……」


 テントの中に用意した寝床に横になっていたアイリスは閉じていた。が、開いたアイリスの目は少しも眠たげでなく、冴えているようだった。テントでは彼女の他にレックスやアベル、レオが横になっていた。起こしてしまわないように静かに身体を起こし、アイリスはそっとテントの外に出た。眠気が来るまで少し周りを歩こうと考えたのだ。
 眠れない理由は分かっていた。夜明けと共に最前線に行くことが決まっているからだ。クラネルト川での戦闘にも参加してはいたが、あれは急遽決定したことであり、今回のように事前に分かっていたことではない。殆ど勢いだけで乗り切った前回とは違い、これからの作戦は全て事前に行動を説明されたものになる。アイリスは一つ溜息を吐き、「こんなんじゃだめだな……」と小さく愚痴る。
 夜明けまで残り数時間であり、その時には万全に動けなければならない。緊張して眠れなかった、は言い訳にはならないのだ。
 テントを出ると、辺りは静まり返っていたが、暗くはなかった。月明かりが照らし出しているだけでなく、テントから少し離れたところに小さな焚き火があった。そちらへと視線を向けると、焚き火の傍に人影があった。


「どうした?」
「え、あ、……司令官」


 そちらの方へと近付くと、黒のフードを被ったゲアハルトが振り向いた。どうして彼が起きているのかとアイリスは驚いた表情を浮かべて足を止めた。向けられる視線はやはり静かで、けれど炎に照らされるその瞳はいつものような冷たさはなかった。
 不意にアイリスから視線を外すと、ゲアハルトは「眠れないのか?」と口を開いた。


「……はい」
「そうか」


 座ったらどうだ、とゲアハルトは手招きした。アイリスは遠慮がちに焚き火に近付き、少し離れたところに座った。ぱちぱちと小さく木々の燃える音が聞こえる。揺らめくオレンジの炎を見つめていると、「緊張しているのか」と声が聞こえて来た。ちらりとゲアハルトに視線を向けると、彼は炎を見つめていた。
 アイリスが小さく頷くと、彼は暫しの間を置いて「誰でも最初は緊張するさ」と口にした。


「レックスもレオも初めて前線に行くように言った後、今の君と同じように酷く緊張していた」
「……司令官も、ですか?」
「さあ、どうだったかな。もう随分と昔のことだから覚えていない、……ただ」


 作戦前はいつも上手くいくかどうか、少なからず緊張する。
 そう言うも落ち着いた様子のゲアハルトの横顔をちらりと見やり、アイリスは開きかけた口を閉ざした。緊張しているといっても、自分よりもずっと落ち着いているように見えてならない。そのことに視線を伏せれば、ゲアハルトは「嘘ではないぞ」と苦笑い混じりの声が聞こえて来た。
 それがもう嘘に聞こえる、とアイリスは眉根を下げてちらりと恨めしげに彼を見た。


「そういう顔をするな。……眠れないのなら、ホットミルクでも飲むか?」
「あるんですか?」
「エルンストがさっき飲んでいた。少し待ってくれ」
「あ、用意ならわたしが、」
「いい。俺がする」


 彼はそう言うと、ゲアハルトは立ち上がってアイリスらが使っているテントとは別のテントに入って行った。その背を見送り、アイリスは足元で揺れている小さな焚き火へと視線を戻した。
 ゲアハルトも、緊張すると言っていたことを思い出す。本当に緊張するのだろうかと思っていたが、もしかしたら本当のことかもしれない――揺らめく炎を見つめながら、そんな風にも思った。
 ベルンシュタインの兵士はゲアハルトの命令に従う。生かすも殺すも彼の命令次第だ。今回の作戦も、成功すると確信しているからこそ実行しているのだろうが、作戦の成功に絶対は有り得ない。少なからず、失敗する可能性は捨て切れない。その可能性を限りなく低くし、尚且つ成功するように兵士を動かすことが彼の任務だ。ゲアハルトは思っている以上に多くの命をその背に背負っている――緊張しないはずがなかった。
 絶対など戦場において有り得ないにも関わらず、それでもゲアハルトならばと信頼を寄せる者たちは彼に絶対的な勝利を求める。兵士だけでなく、国民も全て。アイリスも入隊する以前から彼のことを知っていたし、同じようにゲアハルトならば勝つだろうとそう思ってもいた。けれど、彼も人間だ。自分と何ら変わりなく、こうして作戦前には緊張する、人間だ。冷たい人だとも思っていたが、こうも自分と変わらない様子を見ると、本当の彼はどちらなのかが分からなくなってきた。


「出来たぞ。熱いから気をつけろ」
「有難うございます、司令官」


 受け取ったマグカップは湯気が立っていた。じんわりとした温かさが掌を温め、アイリスはふうと息を掛けて冷ましてからマグカップに口を付けた。ミルクの甘さだけでなく、ほんのりとした蜂蜜の甘さが口の中に広がる。


「……蜂蜜入りですか?」
「ああ。エルンストが何故か持っていた」


 呆れたように言うゲアハルトにアイリスは苦笑いを浮かべた。どうして持っていたのかは不思議ではあるものの、それを本人に聞いたところで「何となくだよ」の一言で済まされてしまいそうだと心の中で考える。
 冷ましつつ甘いホットミルクを飲みながら、アイリスは「エルンストさんと仲がいいんですね」と口にした。ゲアハルトは目を瞬かせ、そして柳眉を寄せた。


「そう見えるのか?」
「見えますよ」
「……心外だ」


 大袈裟なまでに肩を落として溜息を吐く。そんなゲアハルトの様子にアイリスは小さく噴き出した。心外だと言ってはいるものの、口振りに対して嫌悪感は感じられなかった。くすくすと小さく笑う彼女に僅かに苦笑いを浮かべたゲアハルトは肩を竦めた。
 炎の燃える音が聞こえるほどの静けさが訪れる。何か言うべきだろうかとアイリスが言葉を探していると、まるでそれに気付いたかのようにゲアハルトが先に口を開いた。それはとても静かな声で、先ほどまでとはまた違った様子だった。冷やかな氷のような様でなく、微かに浮かべた苦笑いでもなく、どこか苦しげな様が見え隠れするようだった。


「……メルケルと話したと聞いた。ローエの件だ」
「……はい。でも、それは司令官が就任される前のお話ですよね」
「ああ、確かにそうだ。……だが、俺もあの一件の当事者だ」
「え……」


 小さな音を立てて燃え続ける炎に視線を投じたまま、ゲアハルトは静かに口を開いた。
 当時、彼はまだ司令官ではなく、第二騎士団の一団長の立場だった。その日、ゲアハルトは国王と共にクラネルト川の国境の戦線にそれぞれ騎士団を率いて参加していた。そんな中、王都からの伝令が帝国軍がベルトラム山を越えようとしているという情報が入った旨を伝えに来た。
 司令官として軍全体の指揮を執っていたルヴェルチは、すぐに第三騎士団を中心に迎撃に向かわせた。まさに急襲であったという。そこまでを伝令から報告を受けたゲアハルトはすぐに違和感のようなものを感じた。あまりにも帝国軍の動きが早すぎる、と。
 そして改めて今まで交戦していた帝国軍の様子を考え直すと、彼らの様子のおかしさにも気付いた。付かず離れずの距離を保ち、積極的に攻めることもなく、まるで時間を稼ぐような動きをしていたのだ。これは罠だと、すぐにゲアハルトは気付いた。


「その後、やはり予想通りに後方から帝国の別働隊が攻め込んで来た。ベルトラム山に兵力が集中し、その前から主力はクラネルト川へと集まって交戦中。一度に二か所へ兵力が分散され、ローエの辺りは手薄になっていた。……今更こんなことを言ったってどうにもならないことは分かっているのだが……、あの一件は、ローエの件は……防げる被害だった」
「……防げる、被害」
「そうだ。第二を率いて川越しに奴らを見たときに、実際に交戦したときに思った、気付いていた。奴らの雰囲気も動きもいつもと違うということに」
「……」
「何かあると気付いていながら俺は深く考えなかった。いや、違うな。俺は多分、驕っていた。罠があったとしても叩き潰せると思っていた、時間なんて掛からないと思っていた。だから、ルヴェルチがローエに回す予定だった兵力を此方に回して来た時、俺はそれを受け入れた。それが原因だった。俺があの時、受け入れずに予定通りにローエに回していたのなら、あんなことにはならなかった」


 増援を得て一気に攻め入ろうとした時、ローエが帝国軍に攻め込まれたという知らせが入った。すぐにゲアハルトはその場を国王と他の騎士団に任せ、自身は第二騎士団を率い、応援として第七騎士団と共にローエへと向かった。けれど、そこは既に、彼の知っている街ではなくなっていた。
 立ち上る黒煙と噎せ返るような肉の焼けるにおいや血のにおい。辺りは炎の赤、血の赤、黒い煙、そして倒れる傷だらけの人々で埋め尽くされていた。


「でも……それは司令官のせいでは……誰か一人だけに原因があったとは……」
「確かに、周りはそう言ってくれた。だが、俺は自分を許せなかった。ただの寄せ集めの軍隊なんて頭を潰せば烏合の衆、……頭をすぐに潰すだけの自信があったんだ。だけどそれはただ驕っていただけだった。力任せにどうにか出来るなら、戦争は続いていない」
「……」
「誰か一人に原因はないとしても、それでもローエを攻められた被害の責任は誰かが負わなければならなかった。俺は自分だとも思っていたし、第二の団長を辞任しようとも思っていた。……だが、責任を追及されたのはルヴェルチだった」
「……前の、司令官の人」
「そうだ。ルヴェルチは兵力の分散を誤った、背後を空けるような指揮を執ったことがそもそもの原因だ、と。そして司令官の座が俺に回って来た」


 ゲアハルトが司令官に就任してからというもの、帝国軍に押されていた現状を押し返し、それだけでなく勢いに乗ってベルンシュタイン優勢の状態にまで持っていった。それも偏にローエでの一件を忘れずに手堅く攻め、国境を防衛しているからだろう。そしてこれからは帝国軍の攻撃を凌ぐだけでなく、打って出ることとなる。
 細かな作戦を立案し、それを実行する為により厳しい鍛錬を兵士に課した。それによって帝国軍よりも劣る兵力ではあるものの、一人一人の戦力が底上げされた。そのためにゲアハルトは一体どれだけのことをして来たのだろうか、アイリスはカップに唇を付けながらぼんやりと考えた。自分の想像では推し量れないような苦労があり、またその重責に耐えて来たのだろうかと思うと、とてもではないが自分ならば一人では立っていられそうになかった。
 ホットミルクが冷めてきた頃、アイリスはどうしてその話をしてくれたのかと彼に問う。もしも自分がゲアハルトの立場であるのなら、あまり口外したくはないことに思えたのだ。口にすることも辛く思えてならなかった。ゲアハルトは微かに困ったように笑うと、視線を投じていた焚き火からアイリスへと視線を移した。青い瞳は常のような冷え冷えとする様を潜め、炎に照らされている為か、違う様を呈していた。


「君にはこの件の真相を知る権利があるから」
「……権利」
「ああ。何があったのか、どうしてあんな目にあったのか、アイリスには知る権利がある。……とは言っても、君が聞きたいと言って来たわけでもなく、ただ俺が話したかっただけ、というのが本当のところだ。俺だけが全て知っていて、君が何も知らないのはずるいだろう」
「……」
「何て言っても、……結局、君も意思を無視したことに変わりはない、か」


 俺は本当に勝手だな。
 風に溶けて消えそうなほどの、微かな声。それでも彼女に耳はその声を拾い、アイリスは開きかけた口を閉じた。気付いてしまったのだ。僅かに細められたその目が揺れている理由も、小さく噛まれた唇も、強く握りしめられた拳も、全て。
 アイリスを前にして打ち明けずにはいられなかったのだ。ローエの件はそれだけゲアハルトにとって重く心に圧し掛かることだった。黙ってはいられなかったのだ。口にせずにはいられなかったのだ。アイリスがメルケルから一件について聞いたと知れば、尚更。


「……でも、わたしが今ここにいるのは、司令官のお陰ですよ」


 彼は勝手な人だと思った。勝手に所属を異動させ、稽古を組み、一方的な命令ばかりするのに教えてくれないことも多い。とても勝手な人だと、思っていた。けれど、冷たい一面ばかりでなく、たまに微かに笑ったり、ふざけたりもする。苦しそうな顔もする、自嘲めいた表情も浮かべる。他者よりも自身の感情を押さえつけて冷静に振る舞ってはいるが、本当のところは、アイリスともレックスらとも何ら変わらない、ただの感情のある、悩みのある人間だ。
 現に彼は今、アイリスの口にした言葉に驚き、目を瞠っている。


「司令官がすぐに騎士団を動かしてくれたから父がわたしを見つけてくれて、助けてくれました」
「……だが、君の友人たちは死んだ」
「そうですね。でも、司令官が殺したわけではありません」
「俺が殺したようなものだ」
「わたしはそうは思っていません。確かにわたしは生き残りだけど、わたしが司令官を恨んだところで、復讐したところで何か変わりますか?」


 何も変わったりなどしない。時間を戻すことは出来ず、過去を変えることも出来ない。死んだ者を生き返らせることも出来ないのだ。何よりも、アイリスにはクレーデルの言葉がある。憎しみも復讐も何も生み出さない。生み出すものは彼女と同じような存在だけだということ。アイリスはぎゅっと手で包み込んでいるマグカップを握り、僅かに顔を歪めているゲアハルトに視線を向ける。


「わたしに許しを請われても、わたしは何も言えません。わたしは司令官のせいだとは思っていないし、恨んでもいないから……」


 孤児院で一緒に暮らしていた兄弟たちを失ったことを何とも思っていないわけではない。けれど、少なくともこの話を聞いても、ゲアハルトのせいだとは思わなかった。偶然が重なった結果のことだ。作戦を読み違えたと言えばそれまでだが、何もローエを火の海にしようと彼も誰も思っていたわけではないだろう。
 アイリスはゲアハルトへと視線を向けたまま、「司令官が責任を感じているのなら、この戦争が終わるまでずっと司令官としてわたしたちを勝たせ続けることが手向けになると思います」と伝えた。


「……難しいな」
「難しくても、それが司令官がローエで亡くなった人たちに、……前線で戦って死んでいった仲間に出来ることですよ」


 水中花作戦に巻き込まれて命を落とした兵士らのことを思い出しながらアイリスは口にした。きっと今までも、あのように命を落とす者は少なからずいただろう。彼らの為にも、ゲアハルトはベルンシュタインを勝たせ続けなければならない。それが彼に出来る、死んでいった者たちへの唯一のことだ。
 ゲアハルトは一つ息を吐き出し、「さすが、クレーデル殿の息女は手厳しいな」と困ったような笑みを浮かべた。彼のその言葉にアイリスは悪戯っぽく笑って見せる。


「そうですよ。お忘れでしたか?」


 悪戯な笑みを浮かべるアイリスにゲアハルトは小さく噴き出し、そしてつられるように肩を揺らして笑った。重く圧し掛かるような憂鬱な雰囲気も一気に霧散し、今は涼しい夜空と同じように胸がすっとするような、そんな雰囲気へと変わった。



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