野営 - 2 years ago -



 ホットミルクが丁度いい温度まで冷めた頃、アイリスは相変わらず傍に座って火の番をしているゲアハルトをちらりと見た。彼の表情は先ほどの張り詰めた様子が消え去り、幾分も穏やかな様子だった。その様から、随分とローエの件について気に病んでいたことが分かる。それだけローエの生き残りであるアイリスに打ち明けられたことが大きかったのだろう。
 アイリスの視線に気付いたゲアハルトはちらりと視線を向け、「どうした?」と口を開いた。彼に聞きたいことがあったアイリスは今の雰囲気ならば聞けそうだと口を開くも、そこから出たのは言葉でなくくしゃみだった。小さくくしゃみをする彼女にゲアハルトは苦笑いを浮かべ、「さすがに夜は冷えるからな」と自身が着ていた上着を脱いで立ち上がると、それをアイリスの肩に掛けた。


「あ、大丈夫です。それでは司令官が冷えます、」
「構わない、これぐらいで風邪を引くほど柔ではない。それに今回の作戦では、俺よりも君の方が重要だ」


 着ていてくれ、とそこまで言われて固辞するわけにもいかず、アイリスはゲアハルトに礼を言って彼が着ていた上着に包まった。温かなそれに包まると、自分の身体が随分と冷えていたことに気付く。黒のそれはいつも彼が着ているもので、それを脱いでいるということはいつもよりもずっとゲアハルトの素顔が露になっていた。
 黒のフードを被っていないゲアハルトは普段は微かに見え隠れするだけの美しい銀髪が露になっていた。普段ならば冷え冷えと目に冷たく映るだろうその髪も炎に照らされて柔らかな印象をアイリスに与える。物珍しくその様を見ていると、彼は苦笑いを浮かべ、アイリスは慌てて視線を逸らした。じろじろ見られて気持ちのいい人物はあまりいないだろう。


「す、すみません……」
「いや。そんなに珍しいか?」
「だって……、司令官はいつもフードにマスクまでしていらっしゃるので」
「ああ、確かにそうだな」


 今もフードこそ上着がないためにしていないが、顔はマスクで半分以上が隠されている。どうしていつもフードにマスクまでしているのだろうかと疑問に思っていたが、どうやらそこまで真剣に隠すつもりもないらしい。そうでなければアイリスの前でフードを外すことはせずにテントから毛布を持って来るか、アイリスをテントに帰すなりするだろう。
 しかし、それ以上は何も言わずに口を閉ざす様を見ると、あまりこの話はしたくはないようだった。無理に聞く気もないアイリスは最初に聞こうと思っていたことを代わりに口にする。


「一つ、お尋ねしたいことがあります」
「何だ?」
「司令官がわたしを第二に入れた理由、……わたしが役に立つからだとあの時は仰っていましたが、それだけではないですよね?」
「……」


 殆ど確信していた。最初はどうして急に異動になったのかとそればかりが先行し、出来ることがあるからだと言われても納得出来ず、また、彼のことをよく知らなかったということもあり、他に何かあるのではないかと思ってはいたが、それが何かまでは分からずにいた。しかし、これまでの話を聞いて全てに合点がいった。彼はきっと、ローエの生き残りであるということを気にしているのだということに。
 現にゲアハルトは口を閉ざしている。それは答えることを拒否する沈黙でなく、肯定の沈黙だということが伝わってくる。


「……そうだ。もちろん、君の力が使えるからという理由の方が大きい、が」
「……」
「アイリスの思っている通り、……君がローエの出だからだ」


 ああ、やっぱり。
 アイリスはそっと目を伏せた。ローエは酷い有様だったという。街の者は殺され、火を放たれた。その時、運よく生き残った者もいたが、搬送された先で息を引き取った者が殆どだった。そんな中で彼女が生き残れたのは、まさに、運が良かったと言わざるを得なかった。命の危機に瀕し、何とか助かろうと無意識のうちに防御魔法を展開したのではないかということが彼女を助けたクレーデルの見解だった。それならば、もっと早くに使えていれば、一緒にいた同じく孤児の小さな少女を助けることも出来たのに、と養父の話を聞いたときにアイリスは自分の無力さを呪った。そのこともあり、クレーデルから魔法についてのいろはを学び、現在に至るのだ。
 目を伏せるゲアハルトにアイリスは何と声を掛けるべきか、分からなかった。彼が自分を気に掛けてくれている理由は分かったが、少し心苦しいものがあった。


「そこまで、気にしてくれなくて平気ですよ。先ほども言いましたが、わたしはあの話を聞いても貴方を恨んだりしていませんから」
「……ああ」
「……」
「何度も言ったが……、俺は出来ない人間に出来ないことをやれとは言わない。使えない人間をわざわざ引き抜くこともしない。俺がアイリスを第二に呼んだのは、確かにローエのこともある、クレーデル殿に世話になったからということもある。だから、なるべく目の届くところに置いておきたいと思った」
「……」
「だが、思ったことと実際にやることは別だ。君が何も出来ないなら呼ぶこともなかった」


 出来ると思ったから呼んだ。
 それはこれまでにも何度も、ゲアハルト以外にも言われたことだ。彼は出来ない人間に出来ないことを要求することはない。出来る人間に出来ることを要求する。何度も何度も言われた、出来ると言われているのだから自信を持て、と。
 ゲアハルトのその横顔を見ていると、彼は本当に力を見込んで第二騎士団に呼び寄せたのだということが伝わってくる。もちろん、彼が先ほど自分で口にしたように決して他意がなかったわけではない。世話になったクレーデルが引き取り、育てていたからだと、自分の判断ミスによって起きた悲劇の生き残りだからだとも言った。けれど、決してそれが全てではない。それ以上に、アイリス自身を見て、第二騎士団にと判断したのだ。
 アイリスはほっとした。これまでに掛けられた言葉を信じていなかったというわけでは決してない。けれど、ローエの話を聞いて、もしかしたら自分はお情けで呼ばれたのかもしれないとも思ったのだ。だが、そうではないとゲアハルトはきっぱりとした口調で言い切った。そのことに、安堵した。


「……よかったです。それを聞いて、安心しました」
「……そうか」


 それっきり、ゲアハルトは口を閉ざした。聞こえるのはぱちぱちと木の燃える音だけ。空になったマグカップをそのまま両手で包み込み、ゆらゆらと揺れる炎を見ていると、「あともう少ししたら、」と彼は口を開く。


「作戦が始まる」
「……はい」
「前回は兎も角として、今回がアイリスにとっての初陣だ。それも先行することになる」
「……」
「……君を戦地に送る俺の言うことではないが、……必ず生きて戻って来い」


 真っ直ぐに向けられる青い瞳を見返し、アイリスは頷いた。緊張も不安もある。けれど、それは他の誰もが持っているものだ、目の前にいるゲアハルトでさえも。それに最前線に立つといっても、決して一人ではない。自分の出来ることを一生懸命するだけだ。
 頷くアイリスにゲアハルトは小さく笑うと、「君の帰りを待っている」と少し手を伸ばして彼女の頭を撫でた。少し不器用に触れるその手がくすぐったく感じていると、もう寝るようにと促される。


「上着、有難うございました」
「ああ」
「おやすみなさい、司令官」
「ああ、おやすみ」


 差し出された手にマグカップと上着を返し、アイリスはテントへと戻った。あれだけ緊張していたというのに、気持ちは随分と落ち着いていた。これならば寝られるだろうとそっと足音を殺してテントに戻ると、むくりと起き上がっている人影があった。目を凝らして起き上がっている人物を見ていると、「……アイリス?」と押し殺した声で名前を呼ばれる。どうやらレックスが起き上がっていたようだ。


「どうかしたのか?」
「眠れなくて……、ちょっと外にいたの」
「そうか。大丈夫か?」
「うん、平気だよ。レックスはどうしたの?」


 声を押し殺し、アイリスはレックスの傍へと寄った。起こしてしまっただろうかと不安になるも、どうやらそうではなかったらしくレックスは毛布から抜け出すと身支度をし始めた。一体どうしたのかと思っていると、「そろそろオレが火の番だから」と起きた理由を教えてくれた。


「もう眠れそうなのか?」
「多分ね」
「それなら此処を使えばいい。アイリスの毛布はもう冷えてるだろうし、オレはもう使わないから」


 そう言うなり、レックスは半ば無理矢理、自身が先ほどまで寝ていたところにアイリスを座らせる。彼の言うようにアイリスが使っていた毛布は既に寝る前同様に冷えてしまっているだろう。そこに包まって寝るよりもレックスが使っていたばかりの毛布に包まる方が余程温かい。聊か照れのようなものを感じつつも、いつまでも寝ずにいると眠っているレオやアベルを起こしかねない。
 アイリスは「それじゃあ借りようかな」と毛布に潜り込んだ。温かな毛布に包まると少しずつ瞼が重くなる。緊張しているといっても、身体はやはり疲れているのだ。レックスはうとうとし始めたアイリスに苦笑を浮かべ、「お休み三秒か?」と近くに膝を付く。


「……だって」
「嘘だって。……おやすみ、アイリス」
「……おやすみ」


 ゆっくりと頭を撫でられる。その温かい手が心地よくて、余計に瞼が重くなった。聞こえて来る小さな苦笑に言い返したくなるも、眠気がそれを上回る。子どもではないのに、と少しばかり拗ねながらもその温かな手に導かれるように、アイリスは眠りに落ちた。


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