優しさ - tender blind -



 ベルトラム山の斜面を後方から聞こえる戦場の音を背に駆け下り、漸く山の麓に着いた頃には既に太陽は上り切っていた。空はどこまでも澄み渡り、青かった。この空の下で血で血を洗うような、そんな戦争が行われていて、その戦闘行為に自分も加わっているのだということは酷く現実味が湧かなかった。しかし、目を閉じれば、倒れる敵兵や地に染まる地面が瞼の裏に浮かぶのだ。耳を塞げば、爆音と怒声、悲鳴が耳に響くのだ。あれは夢でなく、現実だ。目の前で起きた実際の出来事であり、帝国兵らの明確な殺意は自身へと向けられていた。
 今更ながらに背筋が冷えた。自分は生きている、しかし、相手は死んでいる。虚ろな目が此方を見上げていた。怒声が響いていた。罵られていた。助けてくれと、哀願されていた。けれど、それらには聞こえないふりをした。見えないふりをした。何も聞こえないと耳を塞ぎ、何も見えないと目を閉じるようにして、何も気付いていない、知らないふりをした。


「……、っ」


 そうしたのは他の誰でもなく自分自身であるにも関わらず、今更ながらに息苦しさを感じた。アイリスはぎゅっと拳を握り締め、その息苦しさに耐えるように柳眉を寄せた。こうなるということは分かった上で戦場に立っていた。そして、これからも殺意を向けられ、罵られ、そして助けてくれと哀願されることだろう。けれど、それに対して出来ることは何もない。ただ、見ているだけだ。彼らのその様を決して忘れずに覚えていること、それだけだ。
 それを決めたのもまた、自分自身だ。彼らのことを忘れずに覚えていることが自分が彼らに出来ることだとそう思ったのだ。だから、目を逸らさない。いくらそれで自分の足が重くなり、立ち止まりそうになったとしても最後まで走り続けると決めたのだ。こんなところで足を止めそうになって、どうするつもりだと強く自分に言い聞かせる。
 ローエで失った兄弟たちの分まで生き延びると決めた、そして戦場で自分に出来ることを精一杯やるのだということも決めた、そして敵である帝国兵らのことを忘れずにいるということも決めた。それら全てを最後まで、この戦争が終わるまで貫き通すと決めた。アイリスは頭を切り換えるように肺の中を空にするほど深い呼吸を繰り返した。深呼吸を終えると、アイリスは少し先を走っていたアベルに並ぶべく、地面を力強く蹴り出した。


「……もういいの?」
「え?」
「別に、何でもない。……こっちの本陣まであと少しあるけど、少し休憩する?」
「ううん、わたしは平気だよ。アベルは?」
「僕も平気。それじゃあこのまま行くよ」


 隣に並んだアイリスを横目でちらりと見遣り、アベルは呟くように口を開いた。一体何のことを指しているのか、アイリスは気付くことは出来ず、彼は呆れた様子で溜息を一つ吐いた。そして数時間前に出立した本陣までの距離を考えつつ、一度休憩を取るかどうかと問うアベルにアイリスは首を横に振った。疲れてはいるものの、自分たちだけ休憩を取るわけにはいかない。仮に休憩を取るにしてもゲアハルトに報告を終えてからの方がいいだろう。アベルはアイリスの返事に頷くと、今のペースを保ったまま本陣に向かうと口にした。
 それから暫く、どちらも無言のまま走り続けるうちに後方から聞こえていた本隊同士が戦っている物音も微かに耳に届く程度となり、その頃に漸くゲアハルトがいるベルンシュタインの本陣が視界に入った。本陣の周りの警備に就いていた兵士らはアイリスとアベルの姿を確認するなり、本陣へと駆け込む姿が目に入る。
 そして、本陣へと近付き、走るペースを落とし始めると奥からゲアハルトが姿を現した。肩で荒い呼吸を繰り返しながら本陣の手前で立ち止まったアイリスとアベルに近付き、彼は二人に怪我がないことを確認すると安堵した様子だった。


「よくやった、二人とも」
「大したことじゃないよ。あっちは起き抜けだったみたいだから」
「わたしはただアベルを守っていただけですから」
「何言ってるの。アンタは帝国の指揮官、ちゃんと捕縛してたでしょ」
「それは本当か?アイリス」
「あ、はい。レオが縄を掛けていたから……多分、誰かが連れて来ると思います」


 頷くも、アイリスはたまたま上手くいっただけだと付け足す。殆ど無我夢中でやったことであり、相手も油断していたから上手くいっただけで、今すぐこの場で同じことをしろと言われても正直なところ、成功する自信はない。戦場が落ち着いた頃、つまりはベルンシュタインの勝利で終われば、手が空いている兵士が捕縛した帝国軍指揮官を連れて来ることだろう。
 アイリスがそう言うと、ゲアハルトは目元を緩めて微かな笑みを浮かべると「よくやったな、アイリス」と彼女を褒めた。


「今後もその調子でやってくれ」
「は、はい!」
「それで、戦況はどうなの?」
「此方の有利で進んでいる。帝国本隊が破れるのも時間の問題だろう、ヒルダがよくやってくれている」


 そう言いつつ、ゲアハルトは二人に本陣に入るように促した。そして椅子を勧めると、テーブルを挟んだ向かい側に彼も腰かけた。テーブルにはベルトラム山付近の地図が広げられ、様々な字や記号が書き込まれ、駒が並べられている。その地図を覗き込んでいると、湯気が立つ温かな茶が淹れられたマグカップが置かれた。
 用意してくれた武官に礼を言ってからそれに口を付け、漸く気持ちも身体も落ち着いた。それはアベルも同様らしく、マグカップに口を付け、ほっと息を吐き出している。何だかんだ言っても身体的にも精神的にも疲れているのだ。だが、まだ戦いは終わってはいない。今はまだ余裕があるということもあってこうして休憩を取れているだけで、いつもこうであるとは言えないのだ。改めて気合を入れ直していると、「もうあと一時間もしないうちに此方の勝利で終わるだろう」とゲアハルトは地図に視線を落としたまま口を開いた。


「そんなに早く、ですか?」
「ああ。帝国本隊は既に退路を断たれているからな。現在、レオが率いていた第三の二個中隊が背後から本隊を急襲している」
「それじゃあ、僕の出番ってあるの?あと一時間もしないうちにこっちの勝ちなら、後は山の中を索敵しながら残党狩りをするだけじゃない」


 今回のような山の地形では、囲い込んで攻めなければ運良く戦場から逃げ出し、落ち延びる者もいる。そういった者が後々攻めて来ないように、そして帝国に戻らないように一人残らず見つけ出す必要がある。そのため、索敵はとても重要とされるものの、いるかいないか分からない敵を探すのだからアベルが面倒そうな表情を浮かべることも無理はない。
 アイリスはありありと面倒だとばかりに顔を顰めるアベルを宥めながら、ゲアハルトの言葉を待つ。


「予定通り、アベルはこの後、前線の応援に行け。念には念を、全てが終わるまでは手を抜く気はない」
「はいはい」
「アベル……」


 そんな態度はあんまりだ、とアイリスは眉根を寄せるもアベルは聞く耳を持たない様子でマグカップに口を付けるばかりで返事をしない。彼女はむっと顔を顰めるも、「構わない、アイリス」とゲアハルトに宥められ、困ったように眉根を下げた。


「命令に従って、しっかりとそれをこなすのであれば構わないさ。……それより、今後のことだが」


 今までと打って変わって真剣な声音に自然とアイリスは背を伸ばし、テーブルに肘を付きながらもアベルも表情を引き締める。ゲアハルトは視線を手元の地図へと向け、帝国軍が本陣を敷いていた場所を指し示す。


「退路を断った帝国軍本隊が捕縛されるのは時間の問題だ。レックスとレオも本陣から逃げた帝国兵らの追撃に出ているが、それもこの辺りまでで終えるだろう」


 ゲアハルトは帝国軍本陣から指を北上させ、そこに広がる森の中程で指を止めた。そこは既に帝国の領地内であり、いくらレックスやレオが二個中隊を率いているからといって深追い出来る場所でもない。その場所の地理についても、知っていることはあくまで地図から読み取ることが出来ることばかりで、地の利は帝国にあるのだ。下手に深追いすれば、大きな損失を負うのはベルンシュタインだ。
 これからどうするのか、とアイリスとアベルはゲアハルトへと視線を向ける。彼は相変わらず地図へと視線を落としたまま、「このまま砦を落とす」と口にした。


「砦……」
「それってつまりはこっちから打って出るってことでしょ?いけるの?」
「俺は無謀な作戦を実行したりはしない。それに、今回の二人の奇襲も奴らがあの抜け道を知らず、此方があそこに布陣するだろうと読めたから成功しただけのことだ」


 同じ手は通用しない。
 そう言って細められるアイスブルーの瞳は何処までも冷え冷えとしいて、見ている者の動きすら凍らせてしまうような、そんな錯覚さえさせるほどだった。アイリスは生唾を飲み、ゲアハルトが口にする続きを待つ。


「レックスやレオが討ち漏らした帝国兵らはこの砦、リュプケ砦に駆け込むだろう。どの程度の兵力を常時保持しているかは大凡のところしか分かってはいないが、此方の今の兵力でも十分事足りるはずだ」
「あっちも負けたとなれば増員して来るんじゃないの?」
「ああ、その可能性はあるにはある。が、その可能性の方は低い。……、そもそも、この程度のことで尻込みしていては勝てる相手ではないぞ」


 多少無理をしてでも攻めなければ勝てない、ゲアハルトは頬杖を付いて眉を寄せているアベルに対して平然とした様子で答えた。兵力の差は元より大きく開いているのだ。その差を如何にして削り取り、失くすのかが勝負の明暗を分けることに繋がるのだと彼は言う。ベルンシュタインには後がないのだということをまざまざと突き付けられたようにも思え、アイリスは緊張にテーブルの下でぎゅっと手を握り締めた。
 そんな彼女の緊張には気付かず、ゲアハルトは「今回はこの一戦のみのつもりだったが、あまりに作戦が上手く噛み合って余力もあるぐらいだ。此処は勢いに乗って攻めるべきだ」と地図に示されているリュプケ砦を指先でとんとんと示す。


「此方もいつまでも攻められたから追い返す、なんて手緩いことはしていられないからな」
「まあ、確かにそうだけど。……で、陛下もそれを承認してるの?」
「確認中だ。先ほど陛下にお伺いの使者を出した。遅くとも今夜には返答を頂けるだろう」


 どちらにしろ、山中の索敵の為にも今夜一晩は掛かるだろう。
 ゲアハルトはそう言いつつ、考え込むように地図へと視線を投じ始めた。休憩もそろそろ切り上げるべき頃合だろうと隣に座っているアベルをちらりと見遣るも、彼は相変わらず頬杖を付いたままマグカップの茶をちびちびと飲むばかりで立とうとする気配がない。このまま指示されるまで此処で粘る気なのではないかとアイリスが思い始めた矢先、「ちょっとちょっと、何のんびりとお茶してるのー」と拗ねたような声が背後から聞こえて来た。


「俺のことも呼んでくれたらよかったのにー」
「お前を呼ぶと煩くなるだろ、エルンスト」
「酷い!司令官ってば俺に対して酷過ぎる!アイリスちゃんもアベルもそう思うだろ?」
「別に」
「さ、さあ……」
「ほらみろ」
「二人も司令官側に付くって言うのかよ、うわー……本格的に拗ねるぞ、俺」


 そう言いつつ、エルンストはテーブルの端に腰かけるとアイリスが飲んでいたマグカップを何の前触れもなく手に取り、躊躇なく口を付けた。その傍若無人な様に彼女はぽかんとしているも、当の本人は気にした風もなく「それで、追撃するの?司令官」とまるでこれまでの話を聞いていたかのように言葉を発した。


「そのつもりだ。エルンスト、此方の損害はどうだ」
「あれからも増えてないよ。大怪我したっていう奴も数人ぐらいで殆どは回復魔法でどうにでもなる怪我人ばかり、今夜一晩ゆっくりさせたら全快でまた戦線に復帰できるよ」
「そうか。……なら、後は陛下の返答と帝国側が増援を寄越さないかどうかという点だけだな」


 その増援もゲアハルトの予想では、ないと考えられている。あるとしてもこれから落とそうとしているリュプケ砦に常時詰めている兵力ぐらいなものなのだろう。どうして帝国は増援を寄越さないのかとアイリスはその疑問をゲアハルトへと尋ねると、彼は地図を見るようにと促した。


「帝国の首都は此処、リュプケ砦から遙かに距離があるということは分かるな」
「はい。……伝令に時間が掛かる、ということですか?」
「それもある。奴らが伝令を出してそれに対して帝国が派兵準備をするとしても、その間に我々が砦を奪取して周りを固める方が早いだろう。それに、リュプケ砦は国境の砦ではあるものの、奴らが増援を寄越すほど価値もないと言えばない」
「……どういう意味ですか?」


 国境の砦ならば守らなければならないだろう。アイリスは単純にそう思うも、どうやらそうではないらしい。隣に座っているアベルは既に分かっているらしく、相変わらずの様子で地図を眺めているばかりだ。意味が分からないとばかりにアイリスが首を傾げると、「それはね、」と彼女のマグカップを片手にエルンストが口を開いた。


「増援を出すのもタダじゃないってこと。只でさえ、帝国は餓えに苦しんでるっていうのに派兵しようものなら食糧だっている。これだけ帝都とリュプケ砦に距離があれば、一日二日で来れる距離でもないからその分の食糧がいる。それをどうにか捻出するか、それともリュプケ砦を切り捨てるか、それだけの話だよ」
「俺ならリュプケ砦を切り捨てる。帝国には食糧がなく、此方には兵力がない。それは周知の事実だ。ならば、帝国は己が身を裂いてでも我々を自分の方に近付けさせる方が余程効率がいいというものだ」
「まさに肉を切らせて骨を断つ、ってやつだね」


 要は領地を侵されても、ベルンシュタインが動いて距離を詰められた方が食糧難と貧困に苦しんでいる帝国からしてみれば都合がいいということだった。言われてみれば確かに、と納得することもでき、アイリスは感心した。だが、つまりリュプケ砦に詰めている帝国兵らは帝国から見放されたとも言える。自分の国に裏切られるなんて、とそう思うと、自分の身に起きたことではないにしろ、胸が痛んだ。


「それで、エルンスト。何か用だったのか?」
「ん?ああ、別にないよ。こっちはもう大体の処置は終えたっていうのと、アイリスちゃんがなかなか来ないからどうしたのかなーと思って」
「あ、すみません……!」
「いいよいいよ。どうせ司令官に呼び止められてたんでしょ?もう本隊の方も終わったみたいだからね、何も聞こえて来ないし」


 そう言われて耳を澄ましていると、確かに微かに届いていた物音が聞こえなくなっていた。いつの間に、と思っていると、「失礼致します!伝令です!」と本陣に駆け込んで来る兵士がいた。肩で荒い呼吸を繰り返しながらも、その表情は晴れやかなもので表情だけでこれから伝えようとしていることを表しているようだった。


「何だ」
「バルシュミーデ団長より、帝国軍本隊を撃破。これより掃討戦に移行する、とのことです」
「そうか。怪我人は?」
「重傷者が数名出てはいますが、その他は軽傷ばかりです」
「分かった。エルンスト、アイリスは共に救護に回れ。アベルは掃討戦に参加しろ。君もご苦労、エルンストらに傷を治してもらうといい」


 ゲアハルトはそれぞれに指示を出すと、アベルは溜息を一つ吐いて足早に本陣を後にした。その背を見送っていると、「それじゃあ俺らも行こうか。ほら、付いておいで」とエルンストはアイリスと伝令の兵士に声を掛けて歩き出した。アイリスはゲアハルトに一礼してから薄汚れてしまっている白衣を翻して歩く彼の後を追いかけた。


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