優しさ - tender blind -



 エルンストが本陣の近くに着いた頃には、周りは勝利を噛み締める兵士で溢れていた。誰もが何処かしらに傷を負ってはいるものの、見るからに大怪我を負っている者はその場にはいないらしい。後が閊えるから早く救護場所に行けば良いのにと思うも、わざわざ声を掛けるような性格でもないエルンストは足早に本陣へと足を踏み入れた。
 本陣に入ると、そこではゲアハルトとヒルデガルトが向かい合って座っていた。ぱっと見たところ、本隊の指揮を執っていたヒルデガルトに怪我は見受けられない。


「なーんだ。さすがバルシュミーデ団長、ぴんぴんしてますねー」
「それが本隊を率いて戦っていた人間に対しての第一声か」
「ええ、まあ。そもそも心配もしてませんでしたから」
「エルンスト」


 窘めるように名前を呼ぶゲアハルトに肩を竦めて見せながらエルンストは彼の隣の席に着いた。テーブルに広げられているのは先ほどと変わらずリュプケ砦周辺の地図であり、どうやらその話をしていたところらしい。ヒルデガルトの表情を伺うと、どうやら彼女もリュプケ砦を制圧することには賛成らしい。


「陛下からの返答は?」
「まだだ。だが、今日中には返答を頂けるだろう。帝国兵の掃討はどうなっている?」
「怪我が特に浅い者を中心に行っているが、逃げ出した帝国兵も少ないから夕暮れまでにはどうにかなるはずだ。勿論、念入りに行う為にも明日一日掛ける方がいいとは思う」
「そうだな。ここで見逃すと後々厄介なことになりかねない」
「でも、明日一日、時間を費やすとしてもそれはレックスやレオからの報告を聞いてからの方がいいんじゃない?」


 レックスやレオは二個中隊を率いて帝国本陣から撤退した帝国兵を追撃している。無論、リュプケ砦まで追撃しているというわけではないものの、どの辺りまでどれほど追撃出来たのかによって取るべき行動は変わるだろう。エルンストのその指摘にゲアハルトは一つ頷き、「そろそろ戻って来るはずだ。帰還するように伝令を出したからな」と答える。
 その返事に「それなら後はもう陛下の返事を待つだけかー」と気の抜けた風に口を開けば、不意にゲアハルトの青の瞳が向けられていることに気付いた。自身のものとは色合いの違う、もっと明るい青の瞳。それはまるで見透かそうとしているようにも思え、居心地の悪さを感じる。何も隠していることも後ろめたいこともないというのに、その目に映ると自分の考えていることを全て見抜かれてしまうのではないかとすら思え、エルンストは露骨なほどに顔を逸らした。時間にして僅か数秒のことだったのだろう。しかし、彼からしてみればそれは酷く長い時間に感じられた。


「話がそれだけなら俺は、」
「待て、エルンスト。お前にはアイリスが捕縛した帝国指揮官を任せる」
「ちょっと待て、ゲアハルト。どういうことだ、それは」
「ヒルダの教え通りに彼女が帝国本陣を指揮していた指揮官を捕縛した。レオが縄を掛けたと言っていたからうちの二個中隊が連れて来るだろう」
「ゲアハルト、アイリスは、」
「彼女はベルンシュタインの兵士だ。第二の遊撃部隊所属として、まだ未熟だがよく働いている。……彼女は、君が失ったあの子ではない」
「……」


 その当時のことを、エルンストは知っていた。ヒルデガルトが第三騎士団の団長に着任した際の最初の部下だった女性兵士を彼女はとても可愛がっていた。まるで妹のように可愛がり、稽古を付けていた。彼女はアイリスと同じように防御魔法は得意だが、攻撃魔法は不得意だった。そんな彼女の為にヒルデガルトは様々なことを教えていた。今回の防御魔法の反転もそうだ。けれど、彼女は死んだ。数年前の帝国軍との戦いの最中、ヒルデガルトを庇って命を落としたのだ。
 エルンストはその光景を覚えている。まだ前線に出ていた頃のことであり、いつも気丈に振る舞っているヒルデガルトが慟哭した唯一のことだからだ。ゲアハルトの指摘に漸く彼女がアイリスを気に掛けていた理由に納得がいった。いくらたまたま鍛錬場で見かけて放っておけない腕前だからだと言っても、ゲアハルトに命令されていたことを差し引いても、ヒルデガルトのそれはエルンストからしてみれば異常だった。


「……分かっている。そんなことは、分かっているさ」
「ならば、結構。アイリスのことをどう思おうと、あの子の面影を重ねようとそれは君の自由だ。だが、彼女はアイリスだ。第二騎士団の兵士として、彼女が望む限り、戦場に出続ける。そして君は第三騎士団の団長だ、……その立場を忘れるな」


 それだけ言うと、ゲアハルトは「怪我の手当てをしてくると良い。陛下の返答があるまでは待機、下がってくれ」とヒルデガルトを促した。何か思うところがあるのだろう、彼女はいつになく大人しい様子で頷くと、そのまま本陣を後にした。その様子をエルンストは珍しいものを見るかのように眺めてはいたが、次第にゲアハルトと自身しかいない本陣に感じていた居心地の悪さがむくりと身を起こす。
 負傷者の手当てをするから、と逃げようにも、捕縛した帝国軍指揮官を任せると言われている手前、逃げられないことは明らかだ。仕方がないと溜息を吐きながらヒルデガルトが座っていた椅子へと移動すると、正面に座しているゲアハルトは「何かあったのか?」と口を開いた。


「別に、何もないよ」
「嘘だ」
「……アイリスちゃんにさ」
「アイリスがどうかしたのか?」


 ああ、目の色が変わった。
 エルンストは真正面から明るい青の瞳を見返しながら、ぼんやりと思った。ゲアハルトも、決してヒルデガルトに強く言えないではないか、と。彼もまた、ヒルデガルトとは違う目でアイリスを見ていることをエルンストは知っていた。
 ゲアハルトにとってアイリスは自身の驕りによって生んだ悲劇の象徴であり、贖罪の対象だ。そのため、彼はアイリスに対して自身の出来ることを惜しまない。それは第二騎士団へ異動させることであり、騎士団内に居場所を作ることであり、レックスやレオ、アベルといった歳が近く仲の良い仲間を傍に置くことであり、自分の元に置いて彼女を守ることだ。理由はあれこれを用意してはいるものの、結局のところは全て、アイリスの家族を奪い、居場所を奪い、そして彼女の未来を変えてしまったことへの贖罪のつもりなのだろう。だが、それらの全てが決して彼女の為になっているかと言えば、そうではない。少なくとも、アイリスはゲアハルトの側近として周りに認識されている。それは彼女に幸運を齎すことはないだろう。
 ヒルデガルトのことをとやかく言えたものじゃない。エルンストはそう思うも、口にすることはしなかった。そんなことは、ゲアハルトも分かっているのだろう。分かっていて、口にしたに違いないのだ。


「もっと疑うことをした方が良いって言ったんだ。あの子は何でもすぐに信じるから、俺みたいな嘘吐きもいるんだよって」
「……」
「それなのに、俺のこと信じたいんだって……気をつけろって言ってる傍から、あの子馬鹿じゃないの」
「……エルンスト」


 違う、違う違う違う。人のことを言えないのは、自分だ。
 ぎゅう、と拳を握り締め、エルンストは視線を逸らす。何を言ったところで結局はただの戯言にしかならないのだということには気付いていたのだ。アイリスに面影を重ねて見ていることも、異常なまでに気に掛けていることも、彼女の為を思って声を掛けていることも、決して人のことを言えたものではないと、自嘲するように歪んだ笑みを浮かべる。


「今さ……あの子、司令官にあげるんじゃなかったって思ってる」
「……」
「俺のところに置いておいて、汚いものから遠ざけておけば良かったって」
「……」
「だって、素直過ぎるんだ。素直ないい子だから……戦場になんて出したくないって思った。……それに、あの紫の目を見る度に俺はあいつのことを思い出すんだ。真っ直ぐに俺を見るあの目を見てると……」


 それっきり、エルンストは口を閉ざした。いつも飄々としている彼のそんな様からゲアハルトは視線を外した。どちらも重く口を閉ざし、その場の雰囲気はこれ以上ないというぐらいに重たくなる。
 そんな中、不意に「……言われてることはちゃんとやるから心配しないで。その指揮官から全部聞き出すよ」とぼそりとエルンストの口から声が漏れた。


「俺たちの探し物の手がかりも、帝国の鴉共の動きも、全部」
「……ああ」


 そしてまた口は閉ざされる。エルンストは瞳さえも伏せ、深く息を吐き出す。それでも少しも気持ちが晴れないのは、紫の瞳が頭から離れないからだ。あの目に背を向けたのは他でもなく自分自身であるというのに、エルンストは嘲るような笑みを口元に滲ませた。一番馬鹿なのは、自分じゃないか、と思いつつ。



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