優しさ - tender blind -



「ああっ!アイリス!」


 すぐ傍まで戻って来たレオは人混みの中にアイリスを見つけると、ぱっと表情を明るくさせた。そして駆け寄ろうとするも、寸でのところでレックスに襟首を掴まれてつんのめる。「何すんだよ!レックス!」と自身の襟首を掴んでいるレックスを睨み上げるも、「先にすることがあるだろ」と彼は呆れた顔で溜息を吐いている。
 そんな二人の相変わらずの様子を見ていると、二人が帰って来たのだということを実感してアイリスはほっと安堵の息を吐いた。しかし、未だにアベルの安否は定かではない。もしかしたらもう何処かに戻って来ているのではないかとも思うものの、辺りを見渡す限り、彼の姿は見つからない。


「先にゲアハルト司令官のところに行って来る。後で行くから待っててくれ」
「あ……」


 そう言うレックスの後ろには縄に繋がれ、手錠を嵌められ猿轡を噛まされている男がいた。その男は殺気にぎらついた目で周りを睨みつけていたが、唐突にその視線はアイリスへと向けられる。その血走った目で睨みつけられ、彼女は身を強張らせて反射的に数歩後ろに下がった。それでも男の視線は向けられたままで、アイリスもまた視線を逸らせずに見返していると不意に気付いた。その男は自分が捕縛した帝国軍の指揮官ではないか、と。
 アイリスの様子に気付いたレックスとレオはその背中で男を彼女から隠し、「あー…っと、」とレオは言葉を濁らせる。


「レックス、レオ、そいつは私が預かろう。ゲアハルト、というより、エルンストに引き渡せば良いんだろう?お前らは手当を受けろ」


 ヒルデガルトはちらりとアイリスを一瞥した後に、前に進み出たところで「戻ったのか」と背後からゲアハルトの声が聞こえた。振り向けば、エルンストを伴った彼がレックスとレオを見据えていた。ゲアハルトは気にするなとばかりにアイリスの肩を軽く叩くも、エルンストはどこか気まずそうに視線を逸らしていた。
 そんなエルンストの様子に眉を下げていると、レックスやレオら帰還した第二騎士団の兵士に近付いたゲアハルトは彼らを労い、怪我を負った者は手当を受けるようにと促した。そして報告の義務がある隊を率いていたレックスとレオには手当を受けてから報告するようにと言うと、帝国軍の指揮官を拘束している縄を兵士からそれを受け取り、縄をエルンストへと手渡した。


「……あの」
「い、いたたたー……っ!アイリス、痛い、すっげー痛い!」
「あー……オレも何か気が抜けたら体中が痛いような……」
「手当してやってくれ、アイリス」


 声を掛けようとしたアイリスのそれを遮るように唐突にレオは腕を押えて痛みを訴え始めた。同様にレックスも肩や腕、腹などを忙しなく押えながら痛みを訴えている。急にどうしたのだとぽかんとするアイリスに彼女の傍まで戻って来たヒルデガルトが手当をするように促し、そこで漸く彼女は救護場所に行くようにと二人を促した。
 痛い痛いと子どものように騒ぐ二人に違和感を覚えながら、エルンストによって連れられて行く自分が捕縛した帝国軍の指揮官の男を振り向く。既に男の視線はアイリスには向いてはおらず、引き摺られるようにして本陣へと連行されている。彼はこれからどうなるのだろうか、その疑問が頭の中を駆け巡った。


「ねえ、レックス、レオ……あの人って、これからどうなるの?」


 あの時は無我夢中だった。兎に角、あの指揮官の男をどうにかすることが出来れば、後から挟撃するレックスやレオも動きやすくなる。延いてはベルンシュタインの為になると思っていた。それは間違ってはいないだろう。しかし、捕縛した後のことまでは考えていなかった。一体どうなるのか、ヒルデガルトはエルンストに引き渡すと言っていたが、それは彼を手当する為になのか。そうであればいいと思う反面、そんな考えは甘いということも自覚していた。捕まった兵士がどうなるのか、それすら知らないというわけではない。
 自分がしたことの大きさを改めて思い知らされたように思え、アイリスは足を止めた。これからこういうことはいくらでもあり、勝つ為には必要だということも分かってはいるのだ。それでも、自分が捕まえた為にこれからあの男の身に起きることを思えば、息が苦しくなった。


「捕虜として扱われる、ちゃんと法に則った扱いだ」
「うちはそういうところ、しっかりしてるから大丈夫。アイリスが気に病むことないよ」


 アイリスが何を考えているのかなど、付き合いの浅い彼らにも手に取るように分かるらしい。困ったような笑みを浮かべながら、二人は交互に「大丈夫」「気にしなくていい」と曇る彼女の表情を何とか明るくさせようと声を掛け続ける。そのただただ向けられる優しさにアイリスは申し訳なさを感じずにはいられなかった。気を遣わせてしまっているということが心苦しく、帝国は敵なのだと心から思えないことが苦しかった。
 自分の両親も自分が育った孤児院も、その全てを奪ったのは他でもないヒッツェルブルグ帝国だ。帝国さえなければ、自分は両親の元で育ち、そして今とは違う生活をしていただろう。それを夢に見なかったわけではない、それを得たいと思わなかったわけではない。だが、どうして実感が湧かないのだ。両親の顔も名前も、どのような人物であったのかという記憶もなく、孤児院の兄弟たちを失ったことも実感が未だに湧かないままだ。あまりにもあっという間で、夢のようで、その瞬間のことはあまり覚えていない。覚えているのは炎の中で妹のように可愛がっていた息絶えた幼い少女を抱えていたということだけ。今でもどこかで兄弟たちは生きているのではないかとすら、思えてならないのだ。
 彼らを失ったという痛みはある。けれどそれも酷くおぼろげなものだ。ともすれば消えてしまいそうなほど微かな痛み。養父の憎しみも復讐も何も生み出さないのだという言葉を免罪符に自分はその痛みすら忘れようとしているのではないかと思うと、酷く自分に嫌気が差した。何て自分は薄情なんだろう、と。


「……だけど」
「アイリスは間違ったことをしたわけじゃない。……だから、そんな顔しなくていいんだ」
「そうだよ。それにアイリスが捕縛してくれたお陰でオレもレックスも動きやすかったし、こうして無事に戻って来れたんだ」


 第二の他の奴らもみんな、感謝してる。
 そう言ってレオは笑みを浮かべると、手を伸ばしてアイリスの頭を撫でた。そして同じようにレックスも彼女の頭を撫でて笑う。気にすることはない、お前のお陰だと、アイリスのしたことを肯定するように、彼らは言葉を掛け続ける。それらは決して嘘ではない。しかし、あの場でアイリスが帝国軍の指揮官を捕縛しなかったとしても結果はそれほど変わらなかっただろう。動きやすくなった、結局のところはそれだけだ。彼女もそのことには気付いている。自分があそこで手を出さなくとも、二人ならば帝国軍本陣を制圧していたはずだ、と。
 けれど、掛けられた言葉に否と言わず、受け入れているのはただ彼らの優しさに甘えているだけだ。その優しさは見たくないものから優しく目隠しし、知りたくないことを、聞きたくないことを耳に届かないように優しく耳を塞いでくれている。何も知らなくていいように、気付かなくていいように、二人がその背で男を隠してくれたように。


「それじゃあ、オレたちは司令官のところに報告に行って来るから」
「アベルのこともちゃんと聞いておくから、そんなに心配しなくても大丈夫だって」
「……うん、ありがとう」


 手当を終えたレックスとレオは揃って立ち上がると、本陣に行くべく救護場所を出て行く。それを出入り口まで見送る為に二人に付いて行く彼女の顔は少しは明るくはなったものの、未だに気鬱な様子は変わらない。しかし、レックスもレオも何も言わずにいる。甘やかすことにも限度はある。その限度を超えてしまえば、それは決してアイリスの為にはならないと彼らは知っているからだろう。
 救護場所の出入り口まで来て、彼女は足を止めた。そしてレックスやレオを見送るも、彼らに言い忘れていたことをがあることを思い出し、その背を呼び止める。


「おかえり」


 レックスもレオも虚を突かれた表情を浮かべるも、すぐに嬉しそうに破顔すると「ただいま」と口にする。生きて戻って来たからこそ、言える言葉だ。歩き出す彼らの背を見送りながら、その後ろ姿に「ありがとう」と声を掛ける。本当は直接伝えたい言葉ではあるが、それをするにはまだ早い。本当に、自分一人で受け止められるようになったときにこそ、口にするべき言葉だ。早く強くならなければと思いながら、まだ手当の終わっていない兵士の手当をしようと踵を返しかけたところで、アイリスはその動きを止めた。
 救護場所の程近い場所に立っている木の陰に座りこんでいる人物がいた。どうしたのだろうかと爪先をそちらに向けて歩き始めたところで、その座り込んでいる人物がアベルだということに気付いた。アイリスは目を瞠り、すぐに彼の元に駆け出した。


「アベルっ」


 どうしてそんなところにいるのか、いつの間に戻って来たのか、ずっと此処にいたのか。問いかけたい言葉は沢山あったが、それよりもまず彼の安否を確認しなければならない。アイリスはアベルの傍に座り込み、木の幹に背を預けているアベルに声を掛け続ける。アベル、アベル、と名前を呼び続けながら怪我を負っているのかとその身体を見回し、そっと腕を取って脈を取る。
 息があった。そのことに酷く安堵していると、小さく呻いた後にアベルは重たげに瞼を持ち上げ、黒曜石のような瞳をアイリスへと向けた。


「……アイリス」
「そうだよ、わたしだよ。アベル、どうしてこんなところに、ううん、どこか痛むの?」


 いつだって名前を呼ばず、アンタと自分のことを呼んでいたアベルに名前を呼ばれた。そのことにアイリスは一瞬目を瞠るも、それよりもずっと、彼が戻って来たことが、意識を取り戻したことの方が嬉しくて、何度も頷きながらアイリスは擦り傷のあるアベルの手を握った。その手は少し冷たくて、けれど確かな温もりもあった。そんな些細な、当たり前のことが嬉しくて、つい泣き出してしまいそうになる。
 アベルは深い溜息を吐き出しながら、軽く首を横に振った。小さな怪我あるものの、どれも大したことはないと言う。それよりも酷く疲労しているらしい。そして少しのつもりが気付けば、眠ってしまっていたのだと彼は言った。


「馬鹿……、心配したんだよ」
「……何、それで泣きそうなの?」
「泣きそうになんて……」
「なってるよ。アンタ、馬鹿だなあ……」


 こんなことで死ぬわけないのに、アベルはそう言いながら呆れたように笑う。馬鹿だ馬鹿だと普段なら腹が立つそれも今は彼が戻って来たのだと思えて、嬉しかった。アイリスは様々な感情が綯い交ぜになった、曖昧な笑みを浮かべた。レックスたちに知らせに行かなければ、アベルが帰って来ていたのだと早く教えなければ――そう思うのに、今はどうしても本陣には行きたくなかった。立ち上がりかけるも座り直す彼女にアベルは不思議そうな顔をするものの、行かないのならばと自分の隣に座るようにと隣を軽く叩いて見せる。


「何?」
「隣、こっち来て。僕が戻って来た報告なら……ねえ、ちょっと」


 近くを通りかかった兵士を呼び止めて手招きし、自分が戻った旨をゲアハルトに伝えるようにアベルは頼んでいる。その様子を見ていたアイリスはどうして自分の考えていたことが分かったのだろうかと不思議に感じていた。そんな彼女にアベルは溜息を吐き、「アンタは分かりやすいの。……どうせ、本陣にアンタが捕縛した帝国兵がいるから、行きたくないんでしょ」とすらすらと唇を滑らせる。
 理由まで簡単に言い当てられたアイリスは目を瞠り、そこまで分かってしまうのかとアベルに詰め寄る。いくら何でもそこまで分かるのはおかしい、と。


「捕縛された指揮官クラスの帝国兵はまず間違いなく司令官が尋問する。あとエルンストがね。……アンタの性格を考えれば、後は自ずと分かるよ。アンタは優しすぎるから」


 考えなくてもいい相手の事情まで考えて、心を痛めてる。それはあまりにも優しすぎる。兵士としては致命的な優しさだ。
 疲れたように目を伏せながらアベルはそう口にした。そして「敵から掛けられる同情なんて、ただの屈辱でしかない」と続ける。その言葉に、ああ、だから彼はあんなにも自分を睨みつけていたのかと合点がいった。自分が彼を見る目は酷く彼のプライドを傷つけたのだろう。
 肩に重みを感じ、ちらりと視線を隣に座っているアベルへと向けると、彼は余程疲れているのかアイリスの肩に無防備に頭を預けていた。あどけない寝顔がすぐ近くにあり、穏やかな呼吸が聞こえる。


「……でも、だからって無理に変わる必要はないんじゃないの。無理に戦場をちゃんと目に焼き付けようと思わなくていいんだよ」
「……」
「アンタはアンタのままでいいんだよ。優しすぎて自分を追い込みやすいままで、無理に僕たちみたいに受け入れてしまわなくてもいいんだよ」
「だけど……」
「そんなに慌てて適応しようとしなくても、いつかは僕たちのいるところまで墜ちて来るんだから」


 殺して殺して殺して、そんな自分を受け入れてしまえば、肯定してしまえば後はもう全て同じだ。元には戻れない。殺すことへの抵抗感も、倫理観もなくなる。国の為と大義名分を掲げて、ベルンシュタインの為にという免罪符の下で、血で血を洗い続ける。それはどちらかが死ぬまで終わらない。死んで初めて解放される。
 けれど、誰も最初はそこまで墜ちてはいない。悩み苦しみ、もがいてもがいて、そして諦める。そして自分を納得させて漸く、人を殺してもその後に仲間と笑い合える。いつもの、けれど歪んだ生活に戻れる。


「……レックスやレオは、こんなこと言わないでしょ」
「……うん」
「だろうね、……あの二人は、優しいから」
「……うん」
「それにアンタのことが眩しいんだよ。自分たちが失くしたものをアンタは持ってるから」


 それが眩しくて、少し羨ましいんだよ。
 アベルはそれっきり、口を閉ざした。肩に掛かる重みが増し、彼が眠りに落ちたのだということが分かる。アベルは言っていた、このようなことを、何もかもを包み隠さずに言うことをレックスやレオはしないだろう、と。しかし、彼は口にした。包み隠さず、言葉にした。暗に自分は優しくはないのだと言いながら。


「……でも、アベルだって優しいよ」


 優しくはないと暗に口にしていても、それでも彼は優しかった。本陣に行きたくないアイリスの気持ちを汲んでくれた。今だって、何処にも行けないようにしている。それはきっと彼の優しさのはずだ。
 柔らかな髪に頬を寄せて、アイリスは目を細める。いつかは自分も、アベルの言うように墜ちるところまで墜ちるのだろうか。この手で誰かを殺して、そしてそのことを悩み、苦しみ、もがき続けて、諦めるのだろうか。人を殺しても、平気になるのだろうか。
 だが、それはまだ分からない。けれどいつか来るかもしれない未来だ。レックスもレオもゲアハルトもエルンストも、そしてアベルも、いつまでも優しく目隠しをして、耳を押えてくれているわけではない。いつかは一人でも耐えることが出来るようになるかもしれない、けれどそれは本当に自分が望んだ強さなのだろうか。
 分からない、そう思いながら彼女は視界に映る全てを遮断するように瞳を伏せ、聞こえる物音や声から耳を塞ぐように傍に聞こえる小さな呼吸音と鼓動に耳を傾けた。

 
 
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