優しさ - tender blind -



「陛下から進軍の許可が下りた」


 ゲアハルトから招集が掛かったのは、身体を休めるべくテントに入ろうとした矢先のことだった。集まった面々は主に遊撃部隊所属のや隊を率いている隊長クラスの者、そしてエルンストだった。予め、彼らには既に昼間のうちに進軍を予定する旨を伝えていた為、特に驚きもなく話は進む。そんな中、アイリスは腫れた目を隠すように目深のローブのフードを被り、隅に座っていた。


「よって、このままリュプケ砦奪取の為に進軍する。……が、その前に連絡事項がある。陛下より、クラネルト川流域に敵影ありの報告が来た」


 彼が口にした言葉にその場に集まっていた者たちはそれぞれ顔を見合わせてざわめき立つ。アイリスも不安を覚えるも、近くに座っていたレオは「司令官も言ってただろ、クラネルト川には警戒態勢が敷かれてるって」と昨夜、ゲアハルトが言っていたことを口にする。たとえベルトラム山で軍事行動中でも背後から襲われる可能性も考慮して既に手は打たれているのだということを思い出し、そうだったねと一つ頷く。
 静まるようにゲアハルトが声を張り上げると、口々に話していた隊長らは口を閉ざし、前方に立っている彼へと視線を向ける。それに対し、ゲアハルトはそれぞれの顔に順繰りに視線を向け、「陛下からクラネルト川流域での作戦行動の指揮を執るように命令が下った。以後の此方の指揮はバルシュミーデ団長に任せる」と口にした。


「そんな……」


 寧ろこれから、という時にゲアハルトを欠くということにアイリスは先ほどとは違う不安を覚えた。それは他の者も同様に感じているらしく、誰もが困惑している。決してヒルデガルトに指揮するだけの力がないと言うわけではないものの、途中から指揮官が変わるということには誰もが不安を感じることも仕方がない。レックスやレオでさえも芳しくない顔をしている。アベルだけは気にしていないようで、「作戦はあの人が考えるんだからいつもと同じでしょ」と周りの様子に溜息を吐いてさえいるが、そういう人物はごく少数だった。第三騎士団所属のメルケルを始めとする隊長らも互いに顔を見合わせていた。
 戦場において、ゲアハルトが最前線まで出て来るということはアイリスが知る限りでは今までになかった。しかし、それでもその戦場に彼がいるという事実だけでも心強く思えるのだ。ゲアハルトは象徴だ、彼が司令官に就任してからの2年間、ベルンシュタインに勝利を齎し続けた、まさに勝利の象徴と言える。けれど、それを欠くのだ。兵士を率いる隊長クラスでこの困惑なのだ、末端の兵士ともなれば逃げ腰になることが目に見えている。ちらりとヒルデガルトの方を見遣ると、彼女も緊張しているらしくその表情は硬い。


「ベルトラム山近辺の地理は俺よりもバルシュミーデ団長の方が詳しい。指揮も彼女の方が向いているし、先の作戦においてもバシュルミーデ団長は本隊を率いてよく活躍してくれた。今回も必ず戦果を上げてくれると信じている」


 はっきりと言い切るゲアハルトにその場は漸く落ち着きを取り戻す。そして彼はもう一度、順繰りにその場に集まっている面々に視線を向けてから「それでは作戦の説明に入る」と明朝以降の作戦について説明し始める。


「既にベルトラム山には帝国兵が潜んでいないことが夕方までの索敵で判明している。だが、明朝、山中で警備に当たっていた者からの報告を聞いてから移動を開始する。本陣は先日帝国軍本陣が置かれていたところに置け。そこまで移動するだけでも時間が掛かるだろうから、明日一日は本陣を移動させることに集中する」
「その間にリュプケ砦から帝国兵が攻めて来た場合は?」
「その可能性は極めて低いだろう。帝国本陣が落とされても援軍を送って来ないような奴らだ、此方に向けて兵を出す準備どころか、帝都に伝令を出している頃だろう。……それでも帝都に到着するまでに日が掛かる」


 よって、此方に攻めて来るということはまずないと見ていい。そう言って兵士の質問に答えたゲアハルトは他に此処までで質問がある者はいるかと問う。だが、誰も挙手はせず、その様子に一つ頷いた後に説明を再開した。
 本陣を置いた翌日に本格的にリュプケ砦を攻める。全体を四つに分けて全方位から砦を攻める為、その四つの隊を率いる隊長をまず決めなければならない。ゲアハルトは、ヒルデガルト、レックス、レオ、メルケルにそれぞれ隊を率いる隊長に任命し、彼らの元にそれぞれいくつかの中隊を分けた。


「帝国兵らは砦から攻撃して来るだろう。その攻撃からの防御として、それぞれ前線で防御魔法を展開する小隊を編成する。……アイリス」
「は、はい」
「君には小隊を率いてもらう。リュプケ砦の南側、レックスの隊に付いてくれ」
「分かりました」
「それから――」


 まさか自分が小隊とは言え、隊を率いることになるとは思いもしなかったアイリスは一気に緊張感が増す。緊張に顔を強張らせる彼女にレックスは苦笑いを浮かべながら、「そんなに気張る必要もないって」と口を開く。しかし、そうは言われても、緊張せずにいられるはずもない。防御魔法を展開するといういつも通りの行動ではあるものの、いつも一人でやっていたことであり、他の兵士の上に立つことになるとは思いもしなかったのだ。先ほど名前を呼ばれたときも、自分は小隊として動くのではなく、単独行動と言われるとばかり思っていたぐらいなのだ。
 アイリスが緊張の色を濃くしている間にも話は進み、アベルは砦を魔法攻撃する為に同じく小隊を率いて東側から攻めるヒルデガルトの隊に付くこととなった。思えば、彼とは水中花作戦の頃から作戦行動の際には共に行動していたが、今回初めて別行動となった。そのことを言うと、アベルは「子守りから解放された気分だよ」と鼻で笑う。あんまりな言い草だとアイリスは眉を寄せるも、その場で言い返すことはせずにゲアハルトへと視線を向ける。


「出来るだけ砦は破壊しないように奪取したいところだが、帝国兵が抵抗するようであれば破壊しても構わない。また、帝国兵が降伏するようであれば、国法に則って捕虜として扱うように。それから、万が一にも帝都から援軍が来た場合はすぐに撤退。無理に戦う必要はない。その場合には、砦は必ず破壊しろ」


 ベルトラム山への足掛かりは必ず潰しておけ。
 その言葉からゲアハルトは二度とベルトラム山付近を戦場にする気がないということが伝わって来る。先の作戦のような奇襲は二度は使えず、また、山中が戦場となることはその困難さからも避けたいからだ。何より、此処は村が近い。彼らの為にも早々に軍事行動は切り上げるべきなのだろう。リュプケ砦さえなければ、帝国もそう易々とベルトラム山を越えて来ようとしなくなり、そうなるとこの付近にほぼ常駐していると言える第三騎士団を別の作戦で使えるようになる。その利点は大きい。


「リュプケ砦の帝国兵の粘り具合によっては長期戦になる可能性もある。だが、限度は一週間だ。明日からの一週間でリュプケ砦を攻略し、奪取しろ。作戦行動は以上だ。」


 一週間以内にリュプケ砦攻略に成功、つまり奪取することが出来なければ、砦を破壊して撤退する。今までよりもずっと長い戦いになるということは必至であり、帝国兵らが砦を捨てて降伏してくれることを願わずにはいられない。そうすれば、被害も最小限に留めることが出来る。だが、彼らが戦い続ければ、その先には互いに甚大な被害しか待っていない。このような考えが甘いということは分かってはいるものの、アイリスはやはり考えずにはいられなかった。出来るだけ、傷つく人が少ないように、と。
 解散を告げられ、小隊を任されたことの緊張やこれから起こるだろう被害に気が重くなりながら立ち上がると、「アイリス」と声を掛けられる。顔を上げると、そこには先ほどまで前で作戦行動の説明をしていたゲアハルトがいた。


「司令官……」
「君に小隊を任せることにしたが、そこまで緊張することはない。普段通りに自分のすることをやればいい」
「……はい、頑張ります」
「ああ。君の働きに期待している」


 そう言ってアイリスの頭を撫でるゲアハルトの手は相変わらず不器用なままだった。されるがままになっていると、「まだ出発しなくて大丈夫なですか?ゲアハルト司令官」と背後からレオがひょっこりと顔を出した。突然のことにアイリスは素っ頓狂な声を上げ、ゲアハルトも彼の存在に気付いていなかったらしく目を瞠っている。


「レオ、いたのか」
「酷い言い草ですね、司令官。急がなきゃいけないんじゃないかと思って声掛けたのに」
「そう急かされずともすぐに行く。馬の準備が出来次第、な」


 ゲアハルトがそう言って溜息を吐いていると、見計らったかのように馬の準備が出来たという旨を伝えに兵士が駆け寄って来た。言ってる傍から出発することとなり、額に手をやり溜息を吐く彼にアイリスは苦笑を浮かべる。


「レオ、アイリスを任せたぞ」
「それを言うなら、何でオレのところに彼女の隊を配置してくれなかったんですか?」
「ああ、そう言えばレックスの元に割り振ったんだったな。それなら、彼女のことはレックスに頼んでおかなければならないな」


 むっと眉を寄せるレオに対し、ゲアハルトは白々しく言ってのける。先ほどから突っ慳貪な態度を取っているレオに対しての仕返しといったところだろう。意外と子どもっぽいところもあるのかもしれないと物珍しい様でアイリスはゲアハルトを見ていると、どうやらその視線に気付いたらしい彼は照れ隠しのように何度か咳払いをした。


「行って来る。……二人とも、気を付けてな」
「司令官も」
「ご武運をお祈りしてます、司令官」
「ああ」


 ゲアハルトはアイリスとレオの肩を軽く叩くと踵を返して歩き出した。それを見送りつつ、アイリスはちらりと視線を隣に立っているレオへと向けるといつになく彼は不機嫌な表情を浮かべていた。いつも明るく、そして親切だというイメージをレオに対して持っている彼女からしてみれば、初めて見る表情でもあった。何かあったのだろうかと心配になったアイリスは「どうかしたの?」と声を掛ける。


「眉間に皺が寄ってて、ちょっと不機嫌な顔してるよ」
「……そんな顔、してた?」
「うん。それに司令官に対しても刺々しかった。何かあった?」


 レオはゲアハルトのことをとても尊敬している。それは見ているだけでも伝わって来るほどのものだ。けれど、ベルトラム山に来てからというもの、どうにもレオはゲアハルトに対して突っかかるところが多々見受けられるようにアイリスには思えてならなかった。何かあったのではないかと問う彼女にレオは何でもないよと頭を振る。そして「そろそろ休もう」とアイリスを促して歩き出そうとした矢先、「アイリスさん」と聞き慣れない声に呼び止められた。
 振り向くと、そこには桶を持った兵士が立っていた。どうしたのだろうかとその桶と兵士の顔を交互に見て首を傾げていると、兵士は抱えていた桶をアイリスに差し出した。


「ゲアハルト司令官から、温めたタオルを渡すようにと」
「え……?」
「多分、その……目元が腫れているので……」


 そこで言葉を切り、彼は言い難そうに口ごもった。特に顔見知りではない相手に泣き腫らした目を温めるように、それがたとえ伝言であったとしても言い難いだろう。腫れているらしい目元に指先で触れ、気恥ずかしさを感じながらもアイリスは差し出された桶を受け取った。温かな湯が張られたそれは、どうやらゲアハルトが出発する時に用意するように彼に命じたらしい。
 手間を掛けさせてしまったと思いつつ、アイリスは礼を言うと、彼は人のいい笑みを浮かべて首を振ると踵を返して走り出した。その背中を見送ってから、湯の中で揺れている白いタオルへと視線を落とす。
 ゲアハルトは決して何も言わなかった。泣き腫らした目元に気付いていながら、そのことは一切触れなかった。それを有り難く思うと同時に心が温かくなるようだった。そして、アイリスは桶を抱え直し、レオに行こうと告げようとして、その影のある顔を見て口を噤んだ。


「……レオ?」
「え?ああ……うん、何でもない。行こう」
「……」


 きゅっと、唇を噛んでいた。その様子に不安を覚えながらも、レオはアイリスに背を向けて歩き出した。いつもならば歩幅を合わせて隣を歩く彼らしくなく、足早に先を行ってしまう。少しずつ離れる距離はそのまま心の距離を表しているようにも思え、アイリスは咄嗟に「レオっ」と彼の背中に向けて声を張り上げた。
 その声に足を止めたレオは顔を俯けている。アイリスは湯を零さないように気を付けながらもなるべく早足で彼へと追いつき、口を開く。けれど、何と声を掛けて良いのかが分からず、結局口から出たのは「置いていかないで」という言葉だけだった。


「……うん」
「……」
「ごめん、アイリス。……置いていって、ごめん」


 もう、置いていったりしないよ。
 レオはそう言うと、笑みを浮かべた。いつもと同じ、けれど寂しげにも見える笑みだ。どうしてそんな風に笑うのかと問いたいアイリスだが、何も問うことは出来ず、「……行こう、レオ」とテントがある方向へと爪先を向けた。そして歩き出した頃にはいつもと同様に彼女に歩幅を合わせたレオが隣にいた。



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