鴉 - the shadow -



「次の動作に移るのが遅い!」


 杖の大きさの棒を振るうアイリスに向けてヒルデガルトはぴしゃりと厳しい声音で言い放つ。朝から始まった稽古は太陽が真上に昇る昼頃まで続いていた。頬を伝う汗を散らせながら、アイリスは返事を返して教わった通りに木の棒を目の前にいると想定している敵に向けて振るい続ける。
 ヒルデガルトはそんな彼女の様子を厳しい目で見つめ、注意点を見つけては口を開いていた。その注意全てをすぐに活かすことは出来ないものの、アイリスの動きは今までよりも格段によくなっていた。無論、護身術は身につけていても実戦的ではなく、これもまた付け焼刃であるということに変わりはないものの、何の術を持っていないよりもずっといいということは言うまでもない。
 疲れもあってか、最初に比べてアイリスの動きも悪くなってきている。潮時か、とヒルデガルトは「そこまで」と彼女に声を掛ける。動きを止めたアイリスは肩で呼吸を繰り返しながら、頬を伝う汗を拭う。


「最初よりもずっと動きはよくなっている。ただ、踏み込みの甘さや次の動作に移るのが遅いときが多々あるな」


 それが戦場では命取りになる。
 アイリスに水を差し出しながらヒルデガルトは極めて冷静にそう言い放つ。冷たい言い方ではあるものの、それは紛れもない真実だ。一瞬のミスがそのまま自身の命を落とすことに繋がる、それが彼女が足を踏み入れた戦場という場所だ。今までは運よく接近戦に持ち込まれることはなかったものの、次はどうなるかは分からない。いつまでも後方にいれるというわけでも、自分が得手する場所で戦えるというわけではないのだ。
 現にアイリスは次のリュプケ砦奪取作戦において、部隊を任されている。配置場所は前線ではないものの、相手は砦からの攻撃が可能であるため、実質的に全部隊が前線に置かれていると考えるべき状態である。また、相手の出方次第では、混戦になることも考えられるということもあり、接近戦は避けられない。
 ヒルデガルトは予想出来得る明日の作戦の状況を口にすると、アイリスの表情は硬くなる。部隊を任されてたというだけでなく、砦攻めや混戦、接近戦など、あらゆることが彼女にとっては初めてなのだ。しかし、不安を煽ることになるとは分かっていても、元より知っているのと知らないのとでは、やはり違うのだ。だからこそ、ヒルデガルトは考えられうる全てのことを口にする。


「やはり、不安か?」


 顔を見れば容易く分かることを彼女は口にした。アイリスは言葉を探す素振りを見せた後、結局は何も口にせずに頷いた。しかし、不安で仕方がないと言わんばかりの顔をしながらも、彼女は強い意志を秘めた紫の瞳をヒルデガルトへと向ける。


「でも、不安を感じてばかりはいられませんから。……わたしは、ゲアハルト司令官から部隊を任されました。数人だけの小隊です。だけど、数人だけでも、わたしにとっては大切な部下だから」


 まだ入隊して一か月も経っていないながらも小隊の部隊長に任命されたアイリス。隊を、他人の命を任されるなど、彼女にとっては荷が重すぎるぐらいだろう。それでも、アイリスの瞳は強い意志を持っているのだと伺わせるほどに光を湛えていた。真っ直ぐな視線を向けられ、ヒルデガルトは肩の力を抜いて微かに笑いかける。


「自信があるんだな」
「いえ、自信なんて……。ただ、わたしを信じて隊を任せて下さったゲアハルト司令官のご期待に応えたいだけです」

 
 出来ると思ったからこそ任せて頂けたんですから、とアイリスは続ける。日頃から出来る人間に出来ることを任せる、と口にしているゲアハルトを思い出し、ヒルデガルトは苦笑いを浮かべる。確かにあのように言われれば、それに応えなければと思うだろう、と。


「……アイリスは強いな。私が初めて隊を任された時は、逃げ出したくなったものなのに。意外と肝が据わっているというか、将来が楽しみだな」
「からかわないでください」
「からかってなどいないさ。……君は、私が思っていたよりもずっと強い」


 強いと、そう言葉を掛けるヒルデガルトにアイリスは少し困ったような、曖昧な笑みを浮かべて首を横に振った。彼女が言うような、そんな強い人間などではないのだと。そして思い出すのは、後方支援として初めて参加したクラネルト川での水中花作戦だ。あの後、水中花が敵も味方も関係なしに水底に引き摺り込む様を何度も夢に見て、そして自分のせいだと思い込んで塞ぎ込んでいた。作戦を作戦と割り切ることが出来ず、ずるずると引き摺る自分は決して強くなどない。それを口にしようと、いつの間にか伏せてしまっていた視線を上げたところで、ヒルデガルトの碧眼と視線が重なる。


「自分は弱い、そう言おうとしただろう」
「……はい」
「自分の弱さを認めることが出来る、そんな人間は早々いない。誰だって自分の弱さを認めるのは怖いからな」
「……」
「だから、自分の弱さを認めて、それを克服しようと足掻くことが出来る人間は、自分は弱くないと嘯き、自身を驕る人間よりもずっと強い。少なくとも私はそう思っている」


 ヒルデガルトはそう言ってアイリスの肩を軽く叩いた。優しく細められるその瞳を見返し、小さく頷いた。そして、「ヒルダさんのようになれるように頑張ります」と口にすれば、彼女は苦笑いを浮かべて首を横に振った。私は強くない、そう口にするヒルデガルトに否定の言葉をぶつけようとするも、それが音になる前に「バルシュミーデ団長!」と急ぎの様子の兵が駆け込んで来た。
 一気に表情を引き締め、周りは緊迫した空気へと変わる。敬礼する兵士を急かし、何かあったのかと問えば、兵士は落ち着いた様子で口を開く。


「本隊の移動がほぼ完了しました。また、ゲアハルト司令官からの任務も完了です」
「そうか。なら、私たちも移動しよう。ご苦労だったな」


 労いの言葉を掛けると、兵士は首を振り、慌ただしい様子で駆けて行った。それを見送りながら、アイリスは彼が口にしたゲアハルトの任務とは一体何なのだろうかと思案する。すると、そんな彼女の様子に気付いたらしいヒルデガルトは「大したことじゃない」と口を開く。


「リュプケ砦に爆薬を設置したということだ」
「爆薬……、いざというときの為の……」
「ああ、今日を含めて一週間、つまりあと六日でリュプケ砦を落とさなければならない。もちろん、そんなに時間が掛かるとは思ってはいないが、その場合、あちらの降伏かこちらの撤退か、二つに一つだ。こちらが撤退する場合には、ただで撤退するわけにはいかない」
「……だから、リュプケ砦に爆薬を」
「そうだ。使わないに越したことはないが、あった方がいいということは確かだ。何より、今回は砦攻めなんて予定はなかったからな、梯子なんて持ってきていない」


 今回は厳しい戦いになるだろうな。
 ヒルデガルトは柳眉を寄せながら囁くように口にした。砦攻め、つまりは相手は籠城しているということであり、攻めることは容易ではない。残り六日間という時間制限も兵糧攻めという点から考えると、うまく機能することはないだろう。寧ろ、六日を過ぎれば、兵力や兵糧、武器など、あらゆる面でベルンシュタイン側の方が状況的に不利になる。
 だからこそ、六日間で決着を付けなければならない。どうなるかは分からないが、それでも自分に任せられたことをしっかりとやり遂げることが大切だと自分自身に言い聞かせ、アイリスは「わたしたちも移動しましょう」とヒルデガルトを促した。


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