鴉 - the shadow -



「作戦の確認を行う」


 本陣を先日帝国軍が布陣していたベルトラム山を越えた開けた場所に移し、一段落ついたところでリュプケ砦奪取の作戦にあたる部隊長以上の人間が招集された。救護テントで包帯の交換などの手当を行っていたアイリスもそこに合流すると、ヒルデガルトが前方に立っている。いつもそこにいるのはゲアハルトであるということもあり、彼の不在を改めて実感することとなった。
 ヒルデガルトが指揮を執ることに不安感があるというわけではない。しかし、やはり思うところはある。それは他の誰もが同様らしく、はっきりと顔にこそ出してはいないものの、そのような雰囲気が感じられた。ヒルデガルトもそれに気付いていないわけではないのだろう。だが、何も言わずに辺りを見渡し、揃っていることを確認すると引き締めた表情で口を開く。


「明朝より、リュプケ砦奪取作戦を実行する。リュプケ砦は帝国軍の北からの進軍の足掛けだ。そこを奪取することで北からの進軍を停止させることを目的に進軍する」


 そこでアイリスは以前、ゲアハルトが口にしたことを思い出した。これからの帝国との戦争は全面戦争に発展するだろう、と。つまり、国境での小競り合いから大規模な戦闘へと移行するということである。その分、兵力を揃えなければベルンシュタインに勝ち目はなく、そのためにも国境にあまり戦力を分散させたくはないのだろう。そうでなくとも、山越しに戦闘行為を度々起こされると、掃討するにも手間が掛かるという点で、やはりリュプケ砦奪取は必須となってくる。
 そして、恐らくはこの作戦をもってヒルデガルト率いる第三騎士団を王都に戻すつもりなのだろう、とアイリスは思案した。ゲアハルトが彼女を買っているということぐらいは容易に察することが出来、尚且つ、これからの帝国との戦争のこと考えると、北の国境に置いておくには惜しい戦力というわけだ。
 尚更今回の作戦を失敗するわけにはいかなくなった、と思う反面、今ゲアハルトはどうしているのだろうかとつい考えてしまう。クラネルト川流域で敵影が確認されたということで彼は戻された。本来であれば、クラネルト川流域の作戦行動はベルンシュタイン王が指揮を執る予定だった。しかし、実際にはそうでなく、ゲアハルトが戻されたのだ。何かあったのだろうかと不安が脳裏を過るも、今はそれを考えているべきときではないとアイリスはヒルデガルトの声に耳を傾ける。


「明朝、リュプケ砦を四方から包囲。北はレオ、西はメルケル、南はレックス、君たちに任せる。そして私は東、それぞれに数個の中隊を任せる。各自、後ほど中隊の編成について確認するように」


 続いて、各中隊の編成やその部隊長が確認された。アイリスは変更もなく、南側を担当するレックスの下で小隊を率いて広範囲の防御魔法を展開する役割となっている。とは言っても、後方からではなく、前線に立っての魔法の行使であり、混戦も予想されるということでいつも以上に注意しなければならない。何より、今回は隊を任されている身だ。自分の判断一つで任されている部下の命を危険に晒すことに繋がるため、アイリスの表情は自然と険しいものになる。
 そんな彼女に気付いたらしいレックスは苦笑いを浮かべながら、「皺寄ってる」と眉間の間を軽く突っつく。突然のことにきゅっと目を瞑り、アイリスは突っつかれた眉間に触れながら曖昧に笑いつつも、緊張しているのだかた仕方ないではないかと内心ぼやいた。


「また、既にリュプケ砦には爆薬の設置が完了している。奪取が不可能と判断した場合、砦そのものを破壊する」


 爆破させる際の合図に注意するように。
 ヒルデガルトはそう言うと、いくつか出た質問に答え、その後解散となった。足早に動く兵士らと同様にアイリスも立ち上がって自身が任されている小隊の者に声を掛けに行こうとすると、「多分さ」と立ち上がったレックスが口を開く。どうしたのだろうかと足を止めて彼の顔を見上げれば、僅かに眉を寄せ、真剣な表情を浮かべていた。


「期限はあと六日ってことになってはいるけど、……オレは三日以内に終わると思う」
「どうして?」
「あくまでも計算上のことだから、その六日間っていうのは。実際にはそんなに戦い続けることは出来ない」
「……」
「バルシュミーデ団長もそのことは分かってると思う。それを言わないのは単純に士気に関わるからで、……あくまでオレの予想だけど、もし三日以内に奪取出来ないようなら、砦は爆破されると思う」


 つまり、事実上の残り日数は三日ということだ。しかし、兵力として数えている人員の中には多少なりとも怪我を負っている者も多く含まれている。決して万全の状況でない上にそもそも砦攻めは当初の予定には含まれていないことだった。そのような状況で砦攻めを行うのだ、とてもではないが計算通りに行くはずもない。
 だが、それでも行わなければならないのだということも分かる。だからこそ、誰も今回の作戦に異を唱えないのだろう。リュプケ砦を奪取することが出来れば、それだけ今後、北の国境に関しては懸念材料が減るのだ。


「まあ、そんなことばっかり考えてても仕方ないからな。オレたちはオレたちに出来ることをやって、一日でも早く終わらせよう」


 頑張ろうな、とレックスは笑うと、丁度彼の元に駆け寄って来た中隊の隊長らしい人物と話し始めた。自分もこうしてはいられない、とアイリスも待っているであろう小隊の兵士らの元に向かうべく、彼らの元に爪先を向けた。
 


















 ばしゃり、と盛大に水が撒かれる音と呻き声が夜の森に聞こえる。森の中の開かれた小さなその場所の中央には椅子に縛り付けられた男がぐったりと頭を垂らし、浴びせ掛けられたらしい水を滴らせている。その男の前にはいつもと変わらぬ白衣を纏ったエルンストが桶を手に冷やかな視線を男へと向けながら立っていた。
 よく見てみると、椅子に縛られている男の衣服は赤く染まり、怪我を負っているのだということが見て取れる。しかし、そもそもその血で染まっている衣服は徽章などから帝国軍の人間だということが分かる。そのことを現在の状況と合わせて考えれば、何をしている最中なのかということは容易く理解することが出来る。――拷問中である、と。


「なかなか口を割らないねー、あんまりだんまりされるとそろそろ俺も苛々してくるんだけどな」


 そう言いつつ、エルンストは手に持っていた桶を放り出す。そして離れたところに目を逸らしながらも控えている兵士を呼び寄せ、湯を用意するようにと告げる。視線は変わらず、アイリスが捕縛してきた帝国軍の指揮官の男へと向けたまま、「どうやら水はお気に召さないみたいなんだ、悪いね」と悪びれもなく言葉を吐き出した。


「それにさっきから水を掛け続けてるからいい加減、身体も冷えてるだろうし、丁度いいよね。ぐつぐつ煮え滾るお湯で一気に温まってみれば、落ち着いて話も出来ると思うんだ。今はすっかりと冷えちゃってうまく話せないんでしょ?」


 ごめんね、察しが悪くて。
 口角を吊り上げながら言うエルンストから視線を逸らす男の顔色は蒼白を通り越して既に紙のような白さだった。捕縛されてからというもの、ありとあらゆる手で締め上げられているのだ。そろそろ根負けする頃だろうかと冷静の男の様子を観察しながらも、手を抜くような甘さはエルンストにはない。
 傍に放り出していた刃先が血で染まったナイフを拾い上げ、それを手の内で弄びながらエルンストはちらりと視線を離れた場所に控えている兵士らへと向ける。決して人数は多くはないものの、仮に逃げ出されたときのことを想定してそれなりの人数は残されている。しかし、その誰もが顔を青くするばかりで、エルンストによって行われる尋問を見ていられないらしい。
 エルンストはそんな彼らに対して、全員で湯の用意をするようにと告げる。だが、万が一にも離れたたために男が逃げ出したとなれば、責任問題になりかねない。何より、このような夜の森で男一人を探し出すということはあまりにも難しい。だからこそ、彼らは互いに顔を見合わせ、従っていいのだろうかと困惑している様子だった。


「しかし、……」
「平気だよ。こいつに逃げるなんて度胸もなければ、体力もない」


 ひたり、と男の顔にナイフを押し当てながらエルンストは嗤う。同意を求めるように「ねえ?」と声を掛けるも、男は身体を震わせて視線を逸らすばかりで何も答えようとしない。そんな男の様子にエルンストは苛立ちを募らせるかのように、ナイフを握る手に力を込める。途端に薄く皮膚を裂く刃に男はひっと喉の奥を震わせ、「に、逃げない、逃げませ、」と慌てて掠れた声で同意する。
 男の返事にエルンストはわざとらしい笑みを浮かべて鷹揚に頷き、再度兵士らにこの場を離れて湯の用意をするように告げる。本当に使うかどうかは男次第ではあるものの、脅しに使うにしろ、本題の尋問をするにしろ、兵士らの存在はエルンストにしてみれば邪魔でしかなかった。
 兵士らは顔を見合わせ、「分かりました」と早口に言うと、我先にとばかりに押し合いながらその場を離れていく。口では渋ってはいたものの、本当のところは早くこの場を離れたかったのだろう。あまりに素直な行動の速さにエルンストは喉の奥で笑う。そして彼らが十分に離れたことを確認してから彼は視線をすっかりと当初浮かべていた攻撃的な視線や殺意が失せた男へと戻す。


「お前に聞きたいことがある」
「……ひっ」
「答え次第では、命の保障をしてやってもいい。ただし、嘘を吐けばこの場でお前を殺す」
「……っ」


 ナイフはそのまま男の首筋へと添えられる。柔らかな首の皮膚に刃が触れ、少しでもエルンストが力を加えれば、その刃が男の首を裂き、そこから鮮血が吹き出す。想像に難くないその映像が脳裏を過り、男は掠れた声で何でも答える、と途切れ途切れに口にした。緊張ですっかりと声が嗄れてしまっている。尋問を始めた頃は怒鳴り散らしていたのに――当初のことを思い出せば、なんて変わりようだとつい笑い出しそうになりながら、彼は本題を切り出した。


「輝石のことについて、知ってることを洗い浚い教えろ」


 輝石。エルンストが口にしたその言葉に男は目を見開く。どうやら男は何か知っているらしい――そう確信したエルンストは目をそっと細め、耳を欹てる。男が漏らすどんな一言も聞き逃すことがないように。しかし、男が口にしたのはエルンストが求める情報ではなく、「それだけは勘弁して欲しい」という許しを乞う言葉だった。


「勘弁してくれ!それだけは、どうか…!俺には妻や娘がいるんだ、帝都で俺の帰りを待ってる!もし俺が輝石のことを喋ったとなれば、二人は!」
「……」



 許してくれ、それ以外なら何だって従う。
 そう涙ながらに訴える男を冷やかに見つめ、エルンストは男の首に宛がっていたナイフを落とした。力一杯、男の大腿に向けて。突き刺さるそれにがくりと身体を揺らし、男は声にならない悲鳴を上げる。痛みに耐えるように歯を食いしばりながら荒い呼吸を繰り返すも、ナイフが突き立てられた大腿からはじわりじわりと血が溢れている。白衣に飛び散るも、エルンストは気にした様子もなく、ただ淡々とした様で男を見つめていた。


「お前の妻や娘のことなんて知るか。俺が聞いてるのは、輝石についてのことだ」
「……っ」
「それに、どうせお前の妻も娘も助からない。遅かれ早かれ帝都にはこの小競り合いに負けてお前が捕虜になったという知らせがいくはずだ。その時点でお前の妻も娘も終わり。そういうもんなんだろ?帝国のやり方は」


 唖然とする男を前にエルンストはわざとらしく首を傾げて見せる。まるで気付いていなかったらしい男のその顔を酷く滑稽だと嘲笑うその瞳はどこまでも冷たく、そして美しかった。
 エルンストは大腿に突き立てられたままのナイフを抜き取り、血で染まった刃を男の首へと宛がう。そしてまるで秘め事を囁くかのように、薄く唇は歌うように言葉を吐き連ねる。


「どうせお前が口を噤んだところで、妻も娘も助からないんだ。お前が捕虜になったから。お前が俺たちに屈したから。だから、お前の妻も娘も死ぬんだ。殺されるんだ。俺たちにじゃない、帝国に。お前が忠誠を誓った相手がお前の大事な人間を奪うんだ。憎くないか?憎いだろう?お前の大事な妻や娘は何もしていないのに。お前がただ捕虜になっただけで殺されるんだ。死ぬんだ。帝国がお前の妻と娘を殺すんだ」


 男は叫んだ。まるで気でも触れたかのように、その悲鳴にも似た絶叫は夜の森に響き渡る。そんな大声を出しては湯を用意している兵士らが戻って来てしまうではないか――エルンストは柳眉を寄せながら、絶望のためか、叫び続ける男の横っ面をナイフの柄で殴りつける。舌か口内を傷つけたらしく、男の口からは血が零れた。
 エルンストはだらりと先ほどとは打って変わって糸が切れた人形のように椅子に腰かける男にナイフを突き付け、「輝石について知ってることを全て言え」と再度同じことを口にする。


「……黒の輝石は、陛下がお持ちだ。普段どうしているかまでは知らない……俺も、一度しか見たことがない。詳しいことはリュプケ砦のアトロという男に聞け」
「何者だ?」
「リュプケ砦を治めている男……、昔輝石の研究をしていたと聞いた」
「なるほど。次、白については?」
「……探してる奴らがいる。そういうのは俺たちじゃなくて、もっと上の奴らがやってる」
「……上の奴ら?」
「陛下の側近。……俺たちはそいつらのことを、」


 鴉と呼んでる――男が口にしたその単語にエルンストは目を瞠り、そして口元を歪めた。


「鴉……」
「ああ、……禁術ばっか使いやがる気味の悪い連中だって話だ」
「……鴉について、他に知ってることは?女がいるだろ、そいつのことは?」
「知らない。……何だ、アンタ酷い顔だな。その鴉の女と何かあったのか?何だ、まさか昔の女か、」


 気でも触れたのか、男は下卑た笑みを浮かべながらエルンストを見上げた。しかし、嘲るように並べた言葉は最後まで続くことはなく、遮るようにエルンストに殴りつけられる。一切の手加減がされていないらしく、鈍い音がした。それでも男の下品な笑みは消えず、まるでその笑みを消そうとするかのようにエルンストは男を殴り続ける。それは異様な光景だった。殴られる男は下卑た笑みを浮かべ、そして狂ったような笑い声を上げている。一方、拳を振るっているエルンストはただ表情の消えた顔で淡々と機械的に拳を振るい続けている。それは湯の用意を済ませた兵士らが戻って来るまで続いていた。
 戻って来た兵士らによって引き離され、そこで漸くエルンストは正気を取り戻した。殆ど椅子の上で崩れている男の顔は見るも無残なほどに潰れていた。鈍い痛みを訴える自身の手を見れば、殴りつけた為に付着した男の血や唾液と力加減もなく殴り続けた為に出来た内出血でぼろぼろになっていた。


「大丈夫ですか……?」


 ぼんやりと己の手を見つめるエルンストに兵士は恐る恐るといった様子で声を掛ける。何が大丈夫なのだろうかと思いつつ、一先ずは頷いた。そして男を見やり、先ほどまで自分が何をしていたのかを思い返し、そこで漸く現状に至った原因が分かり、ああ、と納得した。


「……そいつは連れて行っていいよ。聞きたいことはもう聞けたから」
「手当の方は……」
「司令官は法律に則れって言ってたんだっけ……、なら、君たちがしておいてよ」


 ここに残されていた兵士らは決して救護担当の兵士ではない。手当しておくようにと言われても何をどのようにすればいいのか分からないのだろう。慌ててエルンストに手当をするように頼んで来るも、彼はそれを受け入れない。
 殆ど強引にその場を後にしたエルンストは暫く歩いたところで、ふらりと大きな木に凭れかかった。そしてそのままずるずると根元に座り込む。じんじんと痛む手を見つめながら、眉を寄せた。
 不快感や嫌悪感、憎しみや怒りで心が綯い交ぜになり、気持ち悪かった。努めてゆっくりと呼吸を繰り返し、何とか自身を落ち着かせようと試みるも、それも今のエルンストには難しいことだった。
 早く本陣と合流し、アトロという男の件を報告しなければならないのに――そう思いながらも、立ち上がることが出来なかった。散々人には偉そうに言っておいて、自分はこれか、とエルンストは自虐的な笑みを浮かべる。情けないにも程がある、そう思いながら苛立ちのままに握り締めた拳で地面を叩くことしか出来なかった。


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