鴉 - the shadow -



 リュプケ砦の内部は、誰もが張り詰めた緊張感の中で息を押し殺していた。昨日のベルンシュタインによる本陣急襲によって本隊と分断され、本陣急襲から辛くもリュプケ砦まで撤退することが出来た者はとても少なかった。まさかこのような事態になるとは思いもしなかった帝国兵らの顔色は暗い。何より、いつもならこの辺りで退くはずのベルンシュタインがリュプケ砦陥落を狙っているとの尖兵からの報告がリュプケ砦の空気をより重たくしている。
 机上の上では砦に籠城することの出来る帝国兵らの方が有利ではある。しかし、補給路を断たれた上に昨日の大敗もある。心情的には帝国兵らの方が余程不利と言える。その空気を変えることが出来るだけの勇将がいるというわけでもなく、寧ろ、リュプケ砦に派遣されている兵らの多くは帝都から左遷された者の方が多いぐらいだ。そのような条件が重なっている状態で士気が易々と上がるはずもなかった。
 リュプケ砦を任されている指揮官、アトロは自室の窓から暗闇の広がる外を見渡し、険しい表情を浮かべている。どうにか、この状況を打開しなければならないと思う反面、それだけのことが出来る余力があるのか、寧ろ、そのようなことをするよりも降伏した方が良いのではないかとすら彼は考えていた。
 降伏するとなると、帝都で半ば人質として暮させられている家族の身に危険が及ぶことは間違いない。飢饉や貧困が襲っているこの国において、食料を必要とする人間が減ることは寧ろ喜ばれることだろう。だが、こうして既に左遷されている身からすれば、いくら家族のことを思ったところで、彼らが既に亡き者にされている可能性も少なくはない。


「……随分と変わってしまった」


 ヒッツェルブルグ帝国は変わってしまった、とアトロは頭を抱えるようにして嘆いた。十数年前までは国民を思って行われいてた政治も今は見る影もない。恐怖政治によって国民を縛り付け、軍事行動によって他国を侵略する。それこそ、この大陸全ての国を手中に収めようとしているのではないかというほどに、変わってしまった。
 飢饉も貧困も、変わってしまった帝国も、全ての原因は明らかだった。そしてアトロ自身、その原因の近くにいたことを思えば、今のこの現状に対して、あまりの心苦しさに気が狂う思いだった。出来ることなら全てを明らかにしてしまいたいと彼は思う。しかし、そのようなことをすれば一体どうなってしまうのか――失うものなど、もう殆どないというのに、それでも自分の命惜しさにアトロは口を噤み続けて来た。己の罪深さに良心の呵責を感じながら、この十数年を生きて来た。
 もう楽になってしまおうか。窓の外に視線を戻し、目を凝らす。ベルンシュタインの兵士らが夜営している場所に使いを出そうか、そのようなことを考えていると、不意に視線を感じた。舐めるような、そんな背筋を冷やす視線を感じ、慌てた様子で振り向けば、反対側の壁に凭れかかる人の影があった。


「な、何者だ!」


 扉の開く音はしなかった。何の音もしなかったにも関わらず、その人物はそこにいた。一体いつからそこにいたのか、それすらも分からない。アトロは焦りか、それともその向けられる視線にか、まるで蛇に睨まれた蛙のように身を縮ませ、玉のような汗を額に浮かばせる。
 そんなアトロの様子に壁に凭れかかっていた影は催す笑いを噛み殺すも、堪え切れずに肩を小刻みに震えさせている。だが、ついに我慢できなくなったらしく、その口からは笑い声が漏れた。少し高い、少年の声だった。


「もう、気付くの遅すぎるよ。何をそんなに真剣に考えてたの?アトロさん」
「お、お前は……」
「あ!ちゃんとボクのこと、覚えててくれたんだ?アトロさんが帝都を出て以来だから、忘れられちゃってるのかと思ったのに」
「……どうして、鴉のお前が此処にいるんだ」


 その声は掠れていた。微かな震えさえあるその声に少年はくすくすと笑いながら、その背を壁から離す。暗がりから姿を現したその少年の体躯は小柄で、影をそのまま閉じ込めたかのような黒髪だった。
 アトロはその少年を知っていた。まだ彼が帝都で皇帝の傍近くに仕えていた頃に顔を合わせる機会が幾度となくあったからだ。アトロは彼が苦手だった。愛想こそいいものの、その冷淡で嘲るような、それでいて蛇のような執拗さを滲ませるその黒の瞳が苦手だった。
 少年は鴉と呼ばれる集団の一員だった。何名で構成されているのか、誰がそこに所属しているのか、何を目的にしているのか、詳しいことはアトロも知らなかったが、悪い評判ばかりが付いて回る集団であるということだけは確かだった。そんな人物が何故、帝国領の僻地に現れたのか――あまり考えたいことではなかった。


「それはもちろん、用があるからだよ。用もないのにこんなド田舎に来るほど、ボクは暇じゃないんだ」
「……」
「いくつか用はあるんだけど……、まあ、それよりもベルンシュタインなんかにやられて大半の兵を失ったらしいじゃん」
「……それは、……もう伝令が帝都に着いたのか!?」


 それでこの少年が援軍として遣わされたのか。
 アトロの脳裏にはそんな考えが過る。左遷されたとはいえ、皇帝はまだ自分のことを見限ってはいなかったのかと喜びすら胸の内に広がる。だが、口角を吊り上げた少年は残酷な言葉を吐き出す。


「そんなわけないじゃん。リュプケ砦から帝都までどれだけの距離があると思ってんの?それにそもそも陛下がこんなド田舎の砦一つの為だけに援軍を出すとでも?有り得ない。有り得ないよ、アトロさん!何でそんな風に考えが至るの?馬鹿なの?いつまでも陛下に重用されてるなんて思わないでよ。こんなド田舎に左遷された時点で分かるでしょ?」
「なっ……」
「それとも分かってて言ったの?だとしてもそんな冗談面白くも何ともないよ。そんな冗談言ってる余裕なんてあるの?だからダメなんだよ、アトロさん。そんなことばっかり考えてるから、砦に爆薬を仕掛けられちゃうんだよ」


 嘲るように言いながら、少年は懐から取り出した爆薬を近くのテーブルへと投げた。鈍い音を立てながらテーブルに落ちたそれを見て、アトロの顔色は青くなる。まさか爆薬が仕掛けられているとは思いもしなかったのだ。慌てるアトロを少年は目を細めて嘲笑う。


「砦の至る所に仕掛けられてるみたいだよ。ボクが見つけたのはそのうちの一つだろうね」
「は、早く撤去しなくては、」
「そんなの後々。ボクの話が終わってからにしてよ」
「何をそんな悠長な、」
「ボクの話が終わってから。アトロさん、耳付いてるの?今言ったところなのに聞こえてなかった?それとも忘れた?」
「……」


 砦がどうなるとも知ったことではないと少年の目は語っている。瞳孔の開いたその目に睨まれ、アトロは口を閉じざるを得なかった。黙り込んだ彼に満足げに少年は笑って頷くと、「最初からそうして大人しくて聞いてくれたいいんだよ」と機嫌のいい様子で口にした。


「この2年、ゲアハルトが指揮を執るようになってからというもの、こっちの兵力が削られるばかりだったよね。まあ、少しぐらい削られたところで困ることもないし、寧ろ食い口が減って助かるんだけどさ。……面白くはないよね、陛下は捨て置けと仰ってるんだけど」
「……」
「どうにかして偶には仕返ししてやれないかなーと思ってたところに、ベルトラム山に派兵するって話が出てさ。面白そうだから来たってわけ。カーサから頼まれてることもあったからね」
「……カサンドラか」
「そう!カーサのことも覚えてたんだね、アトロさん。カーサも喜ぶよ、きっと」


 少年は久しぶりに会った親戚と話すかのようににこにことしている。けれど、その口から吐き出されるものはどれも毒に塗れたもののように感じられ、アトロの背筋にはひんやりとしたものが流れる。そんな彼の様子を知ってか知らずか、少年は近くのテーブルに腰かけ、足をぶらつかせる。


「ベルトラム山ではゲアハルトにしてやられちゃったよね。本陣の急襲だっけ?それで本隊と分断されて大敗。うーん……、さすがゲアハルト司令官だよね」
「……何故それを知っているんだ」
「もちろん、話を聞いたからだよ?ボクは千里眼なんて持ってなければ、過去を視る目もないからね」
「……」


 全部知っているのだとばかりに少年は目を細めて笑う。帝都にいた頃から、この少年は本人の前で話していないことをどういうわけか知っていた。聞き耳を立てているのかとも疑ったが、どうやらそうでもないらしい。しかし、少年は何でも知っていた。
 鴉と呼ばれる者たちに常識は通用しない――そう誰かが言っていたことを思い出す。その通りだとアトロも帝都にいた頃、感じていた。そして今まさにそれを再び実感させられた。目の前のこの少年に常識は通用しない。


「けどね、あそこの陣には今、ゲアハルトはいないんだよ」
「何っ!?」
「クラネルト川からの国境越えがあってね、ゲアハルトはそっちに行ったらしい」
「……それは、本当なのか?」
「ボクが嘘を吐くとでも?」


 心外だとばかりに少年は溜息を吐きつける。機嫌を損ねれば何をされるか分かったものではなく、アトロは慌てて謝罪を口にした。しかし、どうしてそこまで知っているのかという疑問はやはり浮かんでしまう。聞いたところで、先ほどと同じように返されることは分かり切ってはいるものの、つい口に出してしまいそうになる。
 だが、アトロがその疑問を吐き出す前ににこりと笑う少年が口を開いた。


「だから、あいつらを殺して来てよ、アトロさん。ボクはベルンシュタインの奴らが死に絶えているところが見たいんだ」
「なっ、……無理だ!今残っている兵力では勝てるわけがない!兵たちを見たのだろう?昨日の大敗で士気も下がっているんだ……!」
「そんなのただの言い訳だよ。士気が下がってるなら上げればいいだけじゃん」
「簡単に上がるなら私も苦労していない!それに、ゲアハルトを欠いてるとはいえ、そもそも昨日の戦いでも率いているのは再三に渡って我々を撃退しているバルシュミーデだ!」
「だから何なの?」
「勝てるわけがない!士気も兵力もあちらの方が上だ、このような状態で挑んだところで負けは目に見えている!」


 そんなアトロに少年は蔑むような視線を向けた。負けるのが怖いのか、負ける戦はしたくないのか。そう言わんばかりの視線にアトロは息を呑んだ。しかし、それでも言葉を取り下げようとは思わなかった。負けるのは怖い、負ける戦はしたくない。そう思っているのは何も自分だけでなく、この砦にいる全ての兵士が思っていることだろう。
 アトロが今何を考えているのかなど、手に取るように分かってはいるのだろう。しかし、少年は笑う。愛想のいい、けれど、何者も受け付けないとばかりに冷やかな笑みを浮かべ、唇は愉しげに弧を描いた。


「それなら、勝てる戦ならするんだよね?」


 それは死刑宣告のような言葉だった。負ける戦がしたくないのなら、勝てる戦ならばしたいのだろう、と。少年は笑う。蛇のように暗闇の中でも爛々と輝く、その瞳孔の開いた目を細めて。



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