鴉 - the shadow -



「準備は出来てるか?」
「うん、大丈夫」


 夜明け前。アイリスはレックスと共にリュプケ砦の南側後方にいた。既に準備を終え、後はヒルデガルトの号令を待つのみとなった。リュプケ砦に籠城している帝国兵らも既に取り囲まれているということには気付いているのだろう。明け方から慌ただしく動き回っている様子が伝わって来ていた。こうして取り囲まれている時点で降伏するのではないかと考えていたアイリスだが、帝国兵らにそのような気配はなかった。
 出来ることなら誰も傷つけずに事を済ませたかった。それはアイリスだけでなく、ヒルデガルトを始め、多くの者が考えていたことだろう。だが、徹底抗戦の構えを見せている帝国兵らに対して、言葉を重ねたところで通じることはないだろう。
 アイリスは後ろに控えている自身に任せられた兵士らの顔を順繰りに見た。男性二名、女性一名の計三名がアイリスに任せられた小隊の面々だった。人数はとても少なくはあるものの、防御魔法を展開する小隊は他にもいくつもある。長期戦になるため、数隊が順番に交代しながら常時美防御魔法を展開する手筈になっている。


「そろそろ号令が掛かる。……頑張ろうな、アイリス」


 レックスはアイリスの肩をぽんと叩き、背負っている剣の柄に手をやる。そして周囲は誰もが息を潜め、緊張感に満ちたその場は静まり返る。アイリスも口を閉ざし、生唾を飲み下しながらぎゅっと杖を握り締めた。自分の肩には任せられた兵士三名の命が掛かっている。そのことを改めて実感しながら、自分に出来ることを精一杯やり遂げようと心に決め、その瞬間を待った。
 薄暗い空が徐々に白み始め、――そして、号令が下った。


「行くよ!」


 肩越しに振り返り、緊張した面持ちの彼らに声を掛け、走り出す。前方を走るレックスの隊に続くように前線へと駆け出し、アイリスは杖を構える。リュプケ砦の窓や屋上からは弓兵が此方に狙いを定めているのが伺え、砦からは歩兵が飛び出して来ている。彼らとの交戦を開始する後方で足を止めたアイリスはレックスらの上に大きく防御魔法を展開した。それに付け加えるように彼女の後方に配置されている小隊の兵士らも同様に防御魔法を展開し、弓兵の放った矢から身を守るように自身の上空に壁を為す。
 一先ず間に合ったことに安堵しながら、アイリスが周りを見渡すと他の隊も同様に防御魔法を展開しているようだった。しかし、問題はここからである。あまりに分厚い壁を形成し続ければ、それだけ魔力を消費することにもなり、かといって薄ければ矢だけならば兎も角としても、攻撃魔法を弾き続けることは出来ない。厚過ぎず薄過ぎず、そしてそれを長時間に渡って展開し続けるということは決して容易なことではない。


「アイリスさん、攻撃魔法来ます!」


 その叫びが聞こえると同時に展開している防御魔法に攻撃魔法が激突する。揺れる壁と罅の入る音にアイリスは唇を噛み締めると、注いでいる魔力の量を増やし、壁を分厚くする。こうなると後は持久戦だ。どちらの魔力が先に尽きるのか、ということになる。交代要員がいると言っても、それは帝国軍においても同様だろう。この状態がいつまで続くのか、アイリスには予想も付かなかった。
 しかし、戦っているのは何も彼女たちだけではない。前方では歩兵同士が一進一退の攻防を続けている。それこそ血のにおいが鼻を突き、怒声や悲鳴が鼓膜を震わすほどに。こんな戦いが少なくともあと三日は続くのかと思うと、つい気が重くなってしまう。それまでに決着が付けばいいのだが、帝国側の攻勢を見ている限り、降伏する気配はやはりない。


「もうすぐ此方からも攻撃魔法の部隊が展開されるはずだから、少しは楽になるはず。それまで持ち堪えましょう!」


 背後に向けてそう声を掛けると、力強い返事が返って来る。その声の強さに彼らはまだ大丈夫だとアイリスは安心しつつ、東に展開している友軍へと視線を向けた。東側ではヒルデガルトが隊を率いて善戦しているようで、前線を持ち上げているようだった。後方からはアベルによる攻撃魔法も展開され、次から次へと炎の塊がリュプケ砦へと打ち込まれ、時には打ち込んで来る帝国側の攻撃魔法にぶつけて相殺している。
 一先ずはアベルやヒルデガルトの無事な様子に安堵していると、どうやら南側の攻撃魔法の部隊も攻撃を開始し始めたらしい。次々と打ち込まれる炎や雷に、やがてリュプケ砦から攻撃魔法を放っていた彼らの標的が後方へと逸れ始める。幾分も楽になった防御魔法の展開にほっとするのも束の間、今度は止んでいた弓兵による攻撃が再開される。


「みんな、気を」
「アイリスさん!後ろっ」


 気を付けて、と肩越しに振り向いて声を掛けるも、それを遮るように悲鳴に近い声で小隊の女が叫んだ。咄嗟に振り向けば、そこには前線を抜けて来た帝国兵が血の付いた剣を振り被っていた。アイリスは目を見開くも、咄嗟に杖を構えてその一撃に耐えて後方に飛び退き、距離を取った。敵兵を取りこぼしたことに気付いたレックスが彼女の名を叫ぶも、彼も容易には戻って来ることが出来ない。


「みんなは下がって、……誰か、わたしの代わりに前線の防御魔法を……」
「俺がやります!」


 そう言うと、近くにいた兵がアイリスの脇を通って崩れかけていた前線を守っている防御魔法を修復し始める。他の二人もちらちらとアイリスを心配げに見ながらも、防御魔法を崩すわけにもいかないため、それぞれの維持を再開する。
 アイリスは杖を構えながら敵兵に視線を向ける。相手の方が怪我を負っているため、不利であるかのように思えるが、実際にはアイリスの方が不利だ。彼女の武器は杖であり、その細い杖で一撃で致命傷を与えることは難しいだろう。それに対して帝国兵は手負いではあるものの、武器は剣であり、場数もアイリスより多く踏んでいることは間違いない。何より、このような後方まで攻め入って、何もしないはずがないのだ。現に今も剣を構え直し、いつ斬りかかって来てもおかしくはない状態だ。
 杖を構えるアイリスは男をどうにか捕縛しようと杖に魔力を集めるも、それを放てずにいた。先日、防御魔法を反転させ、上手く帝国軍指揮官の男を捕縛することが出来た。だが、あれはまぐれでしかなく、何度も失敗しながら最終的に成功したに過ぎないのだ。今回はあまりにも先日とは状況が違う。こんなにも距離は近くなかった、一発で成功しなければならないということもなかった。だが、今回は一度で成功しなければ、あの剣の餌食になるのは目に見えている。だからこそ、慎重にならざるを得なかった。


「く……っ」


 どうしようもないプレッシャーに背筋が粟立ち、杖を握る手が目に見えて震えそうになる。逃げ出したい気持ちに駆られるも、背を向けるわけにはいかないとアイリスは歯を食いしばる。ここで背を向けて逃げようものなら、自分はきっと後悔する、と。
 任されている兵を守ることもせず、ただ自分の命惜しさに逃げるなんてことはあってはならない――努めて深い呼吸を繰り返し、アイリスはきゅっと唇を噛み締めて目前の敵兵を睨みつける。逃げる素振りを見せないアイリスに男はにたりと笑い、腰を落として剣を構え直す。その間も、前線の方からはレックスの声が聞こえている。だが、彼にアイリスの元まで戻る余裕もない様子だった。
 レックスを頼ることは出来ない、否、頼ってばかりでいるわけにはいかない。だから、自分でどうにかするしかない――アイリスは覚悟を決めると、杖を男に向けて防御魔法を展開し、それを即座に反転させた。が、それよりも一瞬早く、男は動き出し、捕え損ねてしまう。


「……っ!」


 剣を振り被った男が迫る。外してしまったことにアイリスは唖然とするも、身体は反射的に剣を避けようと後方へと飛び退る。だが、それに追い打ちを掛けるように男は更に一歩踏み込む。杖を構え、咄嗟に防御魔法を展開するも、――間に合わない、アイリスはきゅっと目を瞑り、数瞬後に身体を襲うであろう痛みを想像して身を小さくするしかなかった。


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