鴉 - the shadow -



「無事か!?って、エルンストさん!?」


 前線を抜けて来たレックスはアイリスの無事を確認して胸を撫で下ろすも、その隣にいたエルンストの顔を見るなり驚きの表情を浮かべる。忙しなく表情を変えるレックスの様子にエルンストは可笑しそうに笑いながら「ご苦労さま」と彼を労う。レックスは一先ずは頭を下げるも、どうしてエルンストがこんな前線にまで来ているのかと問い掛ける。


「ちょっとした野暮用でね。リュプケ砦に行かなきゃいけないんだよ」
「砦って、あの中に!?」
「そうだよ。……ああ、別に俺のことは心配しなくていいから、君は俺の実力をよく知ってるでしょ?」
「知ってますが……でも、一人でなんて無茶すぎます」


 エルンストが前線に出ていたときのことを知っているレックスからしてみれば、その実力はよく知るところであり、出撃すること自体は然程気にすることでもなかった。だが、その出撃先が問題なのだ。いくら実力を知っているからといっても、味方のいない敵陣の中に突入すると言っているのだから、やはり渋面にもなる。
 送り出すと決めたアイリスもこうして顔を顰めるレックスを見ていると、やはり押し留めるべきではと思い始めてしまう。そんな彼女の気配に気づいたのか、エルンストは「無茶でも何でもやらなきゃいけないの」と早口に言う。


「だから、協力してもらうよ」


 協力を頼むと言うよりも、強いる形で言い切るエルンストにレックスは呆れて何も言えないとばかりに溜息を吐く。こうなってしまうと、何を言っても彼は聞かないということをレックスはよくよく知っていた。そして仕方がないとばかりに、「アイリス、言う通りにしよう」と溜息混じりに言う。
 アイリスとしては、レックスも一緒に説得してくれるのではないかと考えていたため、こうもあっさりと折れたことに戸惑いを隠せなかった。しかし、彼を見ていると、単に仕方がないと思っているだけではないのだということが分かる。エルンストを見るレックスの目を見ていると、彼のことをとても信頼しているのだということが分かったのだ。以前、エルンストのことを苦手だとレックスは言ってはいたが、彼の持つ実力は信頼しているのだろう。


「……うん」


 こうなると、アイリスにはもう何も言うことは出来ない。レックスはエルンストのことを信じている。ちゃんと生きて戻って来ることを、彼は信じている。だからこそ、最初は渋りはしたものの、最後にはこうして送り出すと決めたのだ。それに反対するなど、エルンストのことを信じることは出来ないと言っているようなものであり、彼女自身の思いとも異なってしまう。ならば、自分の思うように、彼のことを信じようと思う心のままに、協力することこそが自分のすべきことであると、アイリスは踏ん切りを付ける。
 もう引き止めることは止めよう、とアイリスは真っ直ぐにエルンストを見上げる。真っ直ぐな視線を向けられ、エルンストは微かに笑うと、「これは、ちゃんと戻って来ないと後が怖いかな」と軽口を叩いた。


「当たり前です。エルンストさんが帰って来なかったら、迎えに行きますから」
「なので、ちゃんと自分で戻って来てくださいよ」
「分かった、分かったから……ああ、今更だけど頼む相手を間違えたかも」


 エルンストは頬を掻きながら溜息混じりに言う。だが、わざわざ北側に回ってレオの協力を仰ぐよりもアイリスとレックスがいる南側の方が移動距離のことを思っても手っ取り早い。ヒルデガルトとアベルのいる東側も一度は候補にはなったが、特務であると主張してもヒルデガルトならば、了承することはまずないだろう。それは彼女の忠実な部下である西側のメルケルにも言えることで、ヒルデガルトの許可があると主張したところで、彼女の性情をよく知る彼はそれを信じることはないだろう。だからこそ、エルンストには元よりこの南側からの突入しか道はなかった。
 そうこうしている間に背後には前線の兵力補充として兵たちが集まりつつあった。それに気付いたレックスはその場で待機の命令を出し、「それで、オレたちは何をすればいいんですか?」とエルンストに指示を仰ぐ。


「その前にまず後ろの片付けから。このままだと邪魔になる」


 エルンストはそう言うと、待機している兵士を数人呼び寄せ、先ほど自身が手に掛けた帝国兵の遺体を運び出すように指示を出す。そして自身も遺体に近付くと、本当に死亡しているのかどうかをよく検分してから布を手にやって来た兵士らに後を任せた。
 アイリスは運び出されていく布に包まれた敵兵の遺体を見つめ、顔を曇らせた。彼女のそんな様子に気付いたレックスは眉を下げ、「ごめん」と一言口にした。


「え?」
「あいつを取り逃したせいで、危険な目に遭わせた」
「そんな……レックスのせいじゃないよ」
「いや、オレの指揮が甘かった」


 前線で陣形を崩さないよう気を配ってはいたが、実際には取り零してしまった。下手をすれば、防御魔法を展開していたアイリスの小隊はたった一人の敵兵に壊滅に追い込まれていたかもしれない。それはそのまま前線で展開しているレックスに任せられている中隊の壊滅にも繋がっていた。だからこそ、誰一人として取り零して抜けられることなど許されてはならないことだったにも関わらず、取り零してしまった。
 アイリスはレックスのせいではないとそう言い張るも、エルンストが間に合わなければ死んでいたということは明らかだった。目に見えて気に病んでいるレックスに何と言葉を掛ければいいのかと困惑するアイリス。そんな二人の様子にエルンストは「まあ、今回のことはお互い様なんじゃないの?」と口を開く。


「レックスはもっと周りをよく見て的確に指示を出す。層の薄いところを見つけたらそこを補充して抜かれないようにする。特に今回は前線のすぐ内側に非戦闘員とも言える防御魔法の小隊がいるんだから、気を付けなきゃ壊滅する」
「……はい」
「アイリスちゃんも、自分一人に注意を引き付けるっていう判断は良かった。でも、あそこで外すのはやっぱり頂けないよね」
「……精進します」
「そうしてください。まあ、お互いに改善点が見つかってよかった、ってことでいいんじゃない?気にしてばかりいないで、今回の失敗を取りも押せるように頑張ればいいんだよ」


 そうと分かれば、俺にしっかり協力してね、と締め括るとエルンストはちらりと背後を振り向く。そこには変わらず待機している補充要員の兵士らがいる。その人数を把握し、エルンストは気を引き締めた直したレックスを見遣る。


「そこの補充要員って前線に補充するんだよね」
「そうですよ。……それで、エルンストさんはどうやってリュプケ砦まで行くつもりですか?」


 エルンストの問い掛けに頷きながら、レックスは本題を切り出す。協力を求めるということは、何かしらレックスやアイリスに求めることがあるのだろう。それが一体何なのか、想像もつかない二人は早くそれを言えとばかりにエルンストを見つめる。こうしている間も戦況は変わりつつあり、隊を率いているレックスとアイリスは長時間指揮せずにいるわけにもいかず、あまりエルンストのことばかりに割いている時間もないというのが実際のところだった。
 そんな二人の本心にも気付いているのだろう。エルンストは一つ頷くと、「戦線を下げて欲しいんだ」と口にした。


「戦線をって……」
「押し上げているところ、申し訳ないんだけどね。こうも押し上げられているとさすがの俺も行き難い。だから、このまま戦線の真ん中を中心に後退して、そこにあいつらを引き込んで砦側に隙間を作って欲しいんだ」
「でも、どうやってエルンストさんは突入するんですか?」


 砦側の隙間が出来れば、確かに突入するには容易になるだろう。しかし、ベルンシュタイン側が後退しているということで帝国兵らは勢い付く可能性もあり、そこを突破出来るのかどうかが問題となる。ただでさえ、交戦状態にある最前線を突破することは容易ではないというのは、遠目に見ていても分かるほどの激戦を呈している。
 そんなアイリスの不安をエルンストは「それこそ簡単だよ」と笑って宥める。彼は二人から離れ、前線の端辺りで足を止めた。そして魔力を集中しながら、駆け寄るアイリスとレックスに指示を出す。


「今から筒状の防御魔法を作る」
「筒状の防御魔法?」
「そう。それを通って俺はリュプケ砦に向かう。アイリスちゃんには俺が向こうに着くまでの間、この防御魔法の維持して欲しいんだ」
「分かりました」
「それで、完成するまでにレックスにはあいつらをなるべく引き付けてもらう」


 エルンストの指示にレックスは頷き返す。そして「俺が通り終えたら、アイリスちゃんが魔法を解除して。それから補充要員で解除後に出来る穴を塞ぐこと。それから今出てる兵士と一緒に一気に押し返す」と続けた。そして何か質問はあるかと二人に問い掛け、アイリスとレックスは互いに視線を交わした後に首を横に振った。
 そしてレックスはアイリスに防御魔法の解除のタイミングは任せると言うと、補充要員らにこれから実行に移る作戦の旨を説明するために彼らの元へと駈け出した。伝え終えると、すぐに前線へと取って返すレックスの行動の速さにアイリスは感心していると、エルンストはそんな彼女の様子に苦笑を浮かべた。


「君もあれぐらい出来るようにならないと」
「が、頑張ります……」
「そうだね。じゃあ、まずは自分の小隊の子たちにちゃんと話して来ておいでよ。さっきから心配そうにしてるよ」


 そう言われて彼らの方を見ると、エルンストが言うように心配げな表情でアイリスをちらちらと見ていた。すっかりと任せっきりになっていた元々の任務を思い出し、アイリスは慌てて彼らの元へと駈け出した。エルンストは彼女の背を見ながら可笑しそうに噴き出し、まだ小隊長に任命するのは早かったんじゃないの、とアイリスを小隊長に任じた今は此処にいないゲアハルトに向けて口にした。



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