強化兵 - the berserkers -



 エルンストが展開した防御魔法の解除によって、一気に戦況は変わった。下げられていた前線を押し返し、兵力が補充されたということもあり、勢いをもって畳みかける。このままいけば、南側の制圧完了までそう時間は掛からないのではないか――誰もがそう思ってしまうほど、順調に事は進んでいた。
 しかし、その時だった。風を切る音が幾人かの耳に届き、幾人かの目にそれが飛び込んだのは。「な、何だ!?」と口々に叫び声が戦場に飛び交う怒声の合間を縫ってアイリスに耳に届いた。何事かと辺りを見渡せば、空を見上げている兵士らの姿が目に入る。帝国の新たな攻撃だろうかとアイリスも空を見上げ、そして言葉を失った。
 突如として落下して来たそれは、迷うことなく戦場のど真ん中へと落下した。展開されていた防御魔法がばちりと音を立てて壊れ、それは戦場へと侵入して来た。アイリスは、否、それを目にした誰もが視線を外すことが出来ず、ただそれを見ていることしか出来ない。それはアイリスら、ベルンシュタインの兵士も帝国兵も同様だった。誰もが手を止めて、それから視線を逸らせずにいた。


「……何、これ」


 ぽつり、とアイリスの背後にいた女兵士が呟いた。信じられないものを見るかのように、彼女の目は見開かれている。視線を捕えて離さないそれは、あまりにも異様な姿をしていた。アイリスは注意深く警戒しつつ、ヒルデガルトやメルケルがいる東側と西側の様子を確認しようと試みる。だが、南側の戦場のほぼど真ん中へと落下してきたそれは、つまり、アイリスらの近くにいるということであり、視線を逸らすことは用意ではない。それでも、聞こえて来る怒声や叫びを聞いている限り、同じような状況であるということは伺えた。東、西、そして南がこのような状況であるのなら反対側のレオがいる北側も同様の状況だと考えられる。
 しかし、考えている時間もない。アイリスは一先ず、破られた頭上の防御魔法を展開し直すように指示を出し、自身も杖に魔力を集中させる。いつまでもこの状況が続くということは有り得ず、リュプケ砦から狙い撃ちにされたら一溜まりもないのだ。だが、指示を出された兵士らは思うように魔力を集中させることが出来ずにいた。目の前に異様な姿をしたモノがあるのだ、そちらに意識が逸れても仕方がないと言える。
 それでも、防御魔法を展開出来なければ死ぬのは自分たちの方だ。アイリスは「早く!」と急かし、一足先に広く防御魔法を頭上に展開する。それを皮切りに再び一斉にリュプケ砦からの攻撃が始まった。いくらアイリスでも、広範囲の防御魔法をいくつも展開することは出来ない。だが、他の兵士らが集中して展開出来ないのであれば、出来る者が代わりに展開するしかない。アイリスが後方へと下がり、そこで防御魔法を展開しようとしたところで――それは動いた。ぴくりとも蹲ったまま動かなかったそれが、ゆっくりと身体を起こし始めたのだ。


「下がって……、逃げて!」


 獣の咆哮にも似た声を上げ、それはゆっくりと巨体を起こした。人のモノとは思えないほど、異様に発達した筋肉を持ちながら、表情は虚ろで、だらしなく口を開き、そこからは唾液が零れている。一見しただけでも尋常な状態ではなということと、それが元は自分たちと何ら変わりない人間だったのだということが伺える。だが、それはアイリスらに与えた恐怖を払拭するものには成り得なかった。寧ろ、どうして自分たちと変わらない人間がこんなにも異様な姿になっているのか――そんな底知れない恐怖を与えるばかりだ。
 身体を起こしたそれは少し離れたところにいたアイリスが任された小隊へとゆっくりと歩を進める。逃げるように悲鳴にも似た声で叫ぶも、恐怖に魅入られた彼らの足は縫いつけられたかのようにそこから一歩たりとも動かすことが出来ない。
 アイリスは後方に展開しようとしていた防御魔法の魔力をそのままに彼らを守るべく、地面を蹴り出した。先ほどは失敗したが、今度ばかりは失敗は許されない。何とか目の前の敵の足止めをしなければ、それに失敗すれば、死ぬのは自分だけでなく、自分に任された三人もだ。それだけは避けたい――その一心で、アイリスは自分の何倍もの体躯をしている相手の捕縛を試みる。


「……っ」


 三人を背に庇い、杖に込めた魔力を相手にぶつけて防御魔法を反転させる。今度は避けられることもなく、防御魔法は先日のように相手を取り囲み、そして一気に締め上げた。バランスを崩したそれはそのまま倒れ込み、唸り声を上げている。油断は出来ないものの、アイリスは肩越しに三人を振り向くと、すぐに後方へと下がって頭上に防御魔法を展開するようにと語気を強めた。


「は、はい!」


 口々に早く後ろへと急かし合いながら慌ただしく後方へと向かう彼らに安堵したのも束の間、リュプケ砦から放たれた矢が空を切る複数の音が耳に届く。アイリスが展開した防御魔法はレックスらが戦っている前線を覆ってはいるものの、自身や後方に下がらせた兵士らは上空は無防備な状態だ。後方へと下がった彼らはすぐに防御魔法を展開しようとするも、それよりも先に彼らの元に矢が届いてしまう。誰も傷つけることなくそのまま地面に落ちるものもあるが、防御魔法が間に合わなかったために兵士らを傷つけている矢の数も多い。
 上がる数々の悲鳴にアイリスは咄嗟に駆け寄ろうとするが、不意にぴしりと罅の入る音が近くからした。何事かと視線を締め上げている巨躯へと向け、彼女は目を瞠った。決して破られることがないようにと十二分に魔力を注ぎ込んでいるにも関わらず、その巨躯を締め上げている防御魔法に罅が入り始めていた。


「どうして、……っ」


 何で、と言葉は続かず、防御魔法を弾き飛ばしたその衝撃をアイリスは真正面から受け、そのまま後方へと弾き飛ばされてしまう。受け身を取ることすら儘ならず、勢いのままに地面に叩き付けられ、転がされた。地面に叩きつけられた衝撃で呼吸すら儘ならず、アイリスは咳き込みながら何とか身体を起こそうとするも、それすら出来ない。全身に痛みが駆け巡りながら、彼女はちかちかと明滅し、像を結ばない視界で何とか事態を把握しようと努める。
 一度はアイリスが拘束したそれはゆっくりとした足取りで彼女の元へと向かっていた。先ほどまでは意志も何も感じることはなかったが、今は明確な殺意がその虚ろな目に宿っていた。その目を向けられ、それを見返したアイリスの背筋を冷たいものが伝う感覚が襲う。逃げなければ――反射的にそう思うも、身体は未だ上手く動かすことが出来ない。幸いにも杖は近くあったものの、止める手立てが彼女にはなかった。


「う、…くっ」


 何とか腕に力を入れて上半身を起こし、そして像を結び始めて格段にはっきりと見えるようになった目で辺りを見渡し、アイリスは目を見開いた。後方に下がって防御魔法を展開するように指示した小隊の兵士の一人の背に矢が突き刺さっていたのだ。手当をしなければと自身の身体の痛みを忘れたかのようにアイリスは無理矢理身体を起こす。――しかし、数歩も歩かぬうちにその場に崩れ折れ、そこで漸く足に傷を負い、出血しているのだということに気付いた。
 傷口が妙に熱を持ち、鈍い痛みが広がっているようにも感じられる。アイリスは自身が吹き飛ばされていた辺りを見渡し、その近くに血液が付着している矢が落ちているのを見つけた。そしてその広がるような熱と痛みを持つ傷から、毒矢で足を切ったのだということを理解すると、アイリスは着ていたローブを脱ぎ、それを腰のポーチに入れていた小型のナイフを取り出して裂くと毒が広がらないように心臓に近い方を布で縛り上げた。
 そのまま這うようにして倒れ込んでいる兵士へと近付くと、まだ息はあるようだった。そのことに安堵しながら他の二人の姿を探すと、彼らは離れた場所で防御魔法を展開していた。怪我は負ってはいるものの、倒れ込んでいる兵士よりも傷は浅いらしい。アイリスは肩越しに振り向き、こちらにゆっくりと迫っている巨躯の敵兵との距離がまだ十分あることを確認してから、男の背に刺さっている矢に手を掛け、それを一気に引き抜いた。短い悲鳴が上がるも、気にしている余裕はない。アイリスは傷口に口を付けると、毒を吸い出し始めた。


「ア、アイリス……さん、」
「頑張って。大丈夫だから……ちゃんと助けるから」


 アイリスが彼が傷を負っているのだということに気付いてから既に時間は経っている。口だけで全ての毒を吸い出すことは出来ないということは分かってはいたが、吸い出さないよりは余程ましだろう、とアイリスはそれを繰り返した。そして、ある程度吸い出してからアイリスは杖を構えて回復魔法を掛ける。
 このまま見捨てるなんてことは、アイリスには出来なかった。もちろん、自分の回復魔法だけで治癒することは出来ないが、それでもより後方にあるテントまで行くことが出来たら、そこで治療を受けることが出来る。軍医であるエルンストこそ不在ではあるが、それでも他の救護兵が治療してくれるはずだ。
 回復魔法を掛けながら、アイリスは初めて戦場に出た時にエルンストに言われた言葉を思い出していた。助かる見込みがなければ切り捨てろ、全員を救えると思うな――自分たちは神でなく、ただ少し怪我を治すことが出来る、人間だ、と。彼の言いたいことはアイリスもよく理解していた。けれど、それでもそう簡単に人の命を諦めるということは、彼女には出来なかった。それが自分の部下なら尚更そうだった。


「……大丈夫だよ、大丈夫」


 既に意識は朦朧としているのだろう。けれど、彼の耳にアイリスの声は届いていたらしく、彼は弱々しい笑みを浮かべて小さく頷いた。アイリスは唇を噛み締め、そして肩越しに背後を振り返る。殺そうとゆっくりと歩を進めて巨躯の兵士との距離にもう余裕はない。急がなければ、と彼女は掛けていた魔法を止めるとぐったりとしている彼の腕を肩に回し、ふらつきながら立ち上がった。
 意識のない、それも自分よりも上背のある男を支えながら歩くということは怪我を負っていなくとも難しいというのに、今は怪我を負っているのだ。そんな状態でありながらも、アイリスはゆっくりを足を進めながら「全員、撤退!」と声を張り上げる。自分の敵う相手ではなく、何より様子が普通ではないのだ。負傷した兵士も出ているということもあり、これ以上は前線で作戦行動に従事することは出来ない。そう判断したアイリスは撤退命令を出した。
 だが、このまま逃げられるはずもない。アイリスは駆け寄って来た二人の兵士に支えていた負傷兵を託すと、こちらへと向かって来ている敵兵へと向き直った。「何してるんですか……!アイリスさんも早く!」と女の悲鳴に近い叫びが聞こえる。けれど、彼女は杖を構える。


「誰かが足止めしなきゃ、みんな逃げられないもの」
「そう、だからそういう役目はオレに任せてお前も行け」


 巨躯の背後から息を弾ませたレックスの声が聞こえた。それが耳に届くと同時に背後から斬りかかったらしく、敵兵の獣の咆哮のような悲鳴が上がる。そして痛みに身体を捩る敵兵を横目にレックスはアイリスの傍まで来ると、「よく頑張ったな」と笑いかける。


「すぐにこっち来ようと思ったんだけど、なかなか来れなくてごめんな」
「……ううん、来てくれて助かったよ。ありがとう」


 レックスの姿は傷だらけだった。至る所に切り傷を負っているらしく、衣服にも血が滲んでいる。荒い呼吸を繰り返すその様を見ていれば、彼がどれだけ必死に此方に来ようとしてくれていたのかが痛いほど分かった。だが、やはりこのような状態のレックスを一人置いて逃げることなど出来るはずもない。
 彼は早くアイリスにも下がるように言うが、彼女は頑なに首を横に振った。自分がいても足手まといだろうが、それでも出来ることはあるはずだ。アイリスは食い下がるように「後方から交代の防御魔法の小隊が来るまではわたしが残る」と言い張った。だが、このことについては彼女の言い分の方が正しくもあり、レックスが引き下がるを得なかった。


「みんなは先に戻ってて」
「アイリスさんが残るなら、私も……!」
「大丈夫だから、彼をお願いします」


 自分も残ると主張する女にアイリスは首を横に振って男に担がれている負傷兵を一瞥した後に彼を頼むと口にした。納得出来ないという様子ではあったが、早く戻って応援を呼ぼう、と声を掛ける男の主張も分かるらしく、彼女は一つ頷くと「すぐに応援を呼んできます、解毒剤も預けるから待っててください」と踵を返して駆け出した。離れていくその背を見送り、アイリスは杖を構えて敵兵へと向き直る。
 改めてその姿を見ると、やはり異様としか表現できなかった。こんな人間がいるのだろうか、寧ろ本当に人間なのだろうかとすら思ってしまうほど、人の姿とは異なっていた。レックスは剣を構えながらアイリスに離れているように言う。


「でも……」
「多分、こいつは強化兵だ。どんな薬使ってこんな姿になったのか知らないけど、その薬の影響で魔法も利かないみたいだ」
「強化兵……」
「たまにいるだ、帝国と戦ってると。でも、今まで見てきた中にこんな風になった奴らはいなかった」


 いつもは俺らと同じぐらいの大きさでもっと気の荒い奴なんだけどな、とレックスは様子を伺いながら口にした。強化兵、という名をアイリスはそこで初めて耳にした。彼が言うには、何かしら薬を服用してこのような姿になったのだと言うものの、彼女には俄かに信じ難いことだった。そんな薬が本当にあるのかとすら考えてしまうが、こうして目の前にこのような異様な姿で現れれば、信じるしかないのだとは思う。
 ただ、これが薬による強化であるとしても、アイリスには到底受け入れられないものだった。なんて酷いことをするのだと彼女は眉を寄せるも、そこまでして帝国は勝利を得ようとするぐらいに切羽詰まっているのだということも伺えた。
 彼らは本気なのだろう。本気でベルンシュタインを手中に収めようとしている。今まで参加してきた作戦はどれも国境を侵した帝国軍を追い返すものばかりで、あまり実感は湧いていなかった。ただの小競り合いのように感じられていたのだ。けれど、そうではなかった。帝国軍は本気だ。だからこそ、強化兵なんて非人道的なことをしてまでベルンシュタインと戦っている。
 アイリスは自身の認識が甘かったのだということに反省しながらも、獣の雄叫びを上げる目の前の強化兵を哀れむことしか出来なかった。なぜ彼はそんな薬を服用したのだろう、こんな姿に進んでなったのだろうか――当の本人にしか分かり得ぬことを考えるも、「アイリス、来るぞ」というレックスの声にアイリスは足を引き摺るようにしながら後方に下がり、綻び掛けていた頭上の防御魔法を展開し直した。そして自身の魔法は利かないと分かりつつも、レックスの万が一の時には少しは足止めになるはずとすぐに捕縛出来るように杖に魔力を集中させた。



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