涙 - the return -



 森を抜けると、戦場は騒然としていた。今も尚、強化兵の姿がそこにはあり、けれど、負けじと数人で一組となって場所を入れ換わりながら攻撃を繰り返している。だが、彼らの顔には疲労の色が濃い。夜通し戦い続けていたのだろう。すぐに加勢しなければと駆け出そうとするレックスの腕を掴み、辺りを見渡して違和感を感じていたアイリスは先に現状報告を聞いた方がいいと口早に言う。
 ちらり、と視線はリュプケ砦の南側後方に設置されているテントへと向けられる。そこには、重傷を負った兵士らが寝かされ、アイリスの小隊の兵士の一人も治療を受けている。彼の容体はどうなのだろうか、と心配は募るものの、どちらを優先するべきかなど考えるまでもない。気がかりではあるが、今は強化兵を倒すことが最優先であり、アイリスは殆ど無理矢理、視線をテントからリュプケ砦へと向けた。
 既に戦場は混戦の呈している。強化兵の姿は見えるものの、残り三体のうちのどの方角に現れた強化兵であり、誰が狙いとなっているのかも分からない。被害状況や手の足りない場所を先に聞いた方がいいというアイリスの意見は尤もであり、レックスは一つ頷いて冷静さを取り戻すと、辺りを見渡した。そして、「伝令の兵士がいる。あいつに聞こう」と慌ただしく動き回っている兵士を捕まえるべく駆け出した。


「おい、状況を教えてくれ」
「レックス隊長!それにアイリスさんも、ご無事で何よりです!」


 レックスが声を掛けたのは、どうやら第二騎士団所属の兵士らしい。二人の姿に顔を明るくさせた兵士は、二人の無事に安堵したらしく目の端に涙さえも浮かべているほどだった。そんな兵士の様子にアイリスとレックスは顔を見合わせると苦笑いを浮かべる。すっかりと心配させてしまっていたらしい。レックスは「心配かけて悪かった」と兵士の肩を叩き、現状報告を改めて求めた。
 兵士はすぐに頭を切り換えると、背筋を伸ばして報告し始める。現状は見ての通り、混戦状態にある。強化兵は残り二体であり、北側に展開していたレオの隊を二つに分けて西側と東側に合流させているとのことだった。


「ということは、レオは倒したのか?」
「はい、夜中に漸く。北側はレオさんが標的になっていました。今は西側でメルケル隊長の援護に回っています。……それから」
「それから?」
「これも夜中のことなのですが、……帝国兵が籠城戦に切り換えたのか、撤退したんです」


 そう言われて改めて戦場を見渡せば、リュプケ砦を守るべく出撃していた帝国兵の姿は見受けられなかった。先ほど感じた違和感の正体はそれだったのか、とアイリスはリュプケ砦を見上げた。だが、どうして今更籠城戦に切り換えたのかが分からない。強化兵という切り札まで使っていながら、籠城する意味はあるのだろうか。本来であれば、このまま強化兵と共に一気に畳みかけることが上策だろう。
 まだ何か仕掛けて来る気なのだろうかと不安が過る。それはレックスも同様らしいが、アイリスの感じている不安は彼以上のものだった。リュプケ砦には、エルンストがいるはずだった。既に撤退したのかもしれないが、まだ中にいるのかもしれない。いくら彼の腕前が武勇の誉れ高いものであったとしても、多勢に無勢だ。リュプケ砦に配置されている帝国兵全てをたった一人で叩き潰せるはずがない。それこそ、リュプケ砦に仕掛けられている爆薬を全て爆発させて共倒れになるしか、帝国兵全てを叩き潰す術はないだろう。
 不安は募る一方だった。だが、エルンストがリュプケ砦に突入しているということを知っているのは少なくとも南側に展開していたレックスが率いていた部隊の人間だけだ。中にエルンストがいるということがヒルデガルトに知れたら、彼女はきっとすぐに救助するべきだと兵を割こうとするだろう。しかし、特務として突入しているエルンストは、きっとそれを望んではいない。ならば、彼の無事を信じるしかない――どうやら同じことを考えていたらしく、二人の視線は重なる。小さく頷き、レックスは「東側はどうなってるんだ?」と話題を変える。


「東側ではバルシュミーデ団長が強化兵と戦っています。あともう少し、というところです」
「そうか。なら、東側と西側、どっちの応援に行けば、――」


 言葉は最後まで続かなかった。レックスの言葉を遮るように、「レオさんっ!」と悲鳴にも近い声が西側から届いたからだ。咄嗟に声が聞こえて来た方向を見ると、手負いの強化兵が無茶苦茶に腕を振り回していた。その腕は次々と囲い込んでいる兵士らを薙ぎ払う。どうやら死期が近いと悟ったらしい強化兵が最後の力を振り絞って暴れ始めたらしい。
 アイリスとレックスは顔を見合わせて頷き合うと、「応援に行く!」と伝令に言い残してすぐに駆け出した。体力も魔力も既に限界であり、気力だけで保っている状況だった。それでも、アイリスは歯を食い縛って懸命に足を動かし続ける。止まりそうになる足を動け動けと命令し、西側に展開している兵士らを押しのけて前に出ると、傷だらけとなり、血に塗れながらも懸命に起き上がろうとしているレオの姿があった。


「レオっ」


 彼の名前を呼ぶその声は引き攣っていた。腹部を押えながら起き上がろうとするレオの身体は傷だらけで服も血に染まり、色を変えていた。深い傷もいくつかあるらしく、心臓の鼓動に合わせて血が滲みでているのが分かる。アイリスはレオに駆け寄り、その身体を支える。そこで漸くアイリスに気付いたらしいレオは彼女の泣き出してしまいそうな顔を見て、「アイ、リス……」と掠れた声で彼女の名前を呼んだ。そしてすぐに微かに嬉しそうな笑みを浮かべると、生きていてよかった、と口にする。


「わたしなら平気だよ。ほら、下がろうよ。手当しなきゃ……」
「いや、……オレなら、平気」
「平気なわけあるか。アイリスの言う通りに下がってろ」


 剣を抜いたレックスがレオを庇うように前に進み出る。そして剣を構えながら、別方向で同じく構えているメルケルに声を掛けた。


「こいつの標的になってる兵士は?」
「こっちの後ろにいる兵士だ!」


 ちらりと視線を向けると、メルケルの後ろで身体を震わせている兵士の姿があった。どうやらレックスが走らせた伝令が間に合わず、一般兵が最初に攻撃を加えてしまったらしい。だが、そう思っていると、メルケルは苦虫を噛み潰したような渋面を浮かべ、「だが、こいつは二人目だ」と付け足した。
 すると、「狙った奴を殺したら、次はその後に攻撃を加えた奴を狙い始めた」とレオがアイリスに支えられながら口にした。どうやら同じことがレオの元でも起きていたらしい。それを聞いたレックスは眉を寄せながら、ここは任せてレオを連れて下がるようにと言う。この場はあまりにも強化兵に近く、危険だ。アイリスは頷くと、レオを支えながら強化兵から距離を取るべくゆっくりと歩き出した。


「……ごめんな」
「何でレオが謝るの?」
「手間掛けさせてる、……その上、アイリスにこんな情けないところ見られるなんて、最悪だ」


 軽口を叩くも、その声音は疲れ切ったものであり、いつものような明るさはすっかりと鳴りを潜めてしまっていた。本当は身体中に激痛が走り、話すことも歩くことも辛くて仕方ないはずだ。それでも何でもない風に装って軽口を叩くのは、偏にアイリスに心配を掛けたくはないからだ。
 ある程度、距離を取ったところでアイリスはそこに横になるように言う。素直に膝を付き、身体を横たえるレオを支えていると、彼がどれほどの傷を負っているのかが見て取れる。衣服は血に染まり、切り傷だけでなく殴打による打撲も多数見受けられた。本当なら、すぐに全て治したいところだが、それだけの魔力がアイリスには残っていない。それを歯痒く思いながら、一先ず最も酷い傷から手当しなければと「痛いと思うけど、傷の具合を見るから」と断りを入れてからレオの身体に触れる。
 傷の具合や骨に異常がないかを確認する為にそっと身体に触れると、レオが痛みに耐えるように息を呑む気配がした。怪我に響かないように注意はしているものの、それを一切なくすということはさすがに出来ない。眉を寄せるレオにアイリスは「痛むよね、ごめんね」と口にすれば、彼は少しの笑みを浮かべて気にするなと掠れた声で言う。
 なるべく傷が痛まないように細心の注意を払いながら傷の具合を確認し、命に関わるような怪我がなく、骨にも異常がなかったことに安堵する。ほっと息を吐き出すと、アイリスは残り少ない魔力でどれだけの怪我を治すことが出来るかは分からないが、最も酷い怪我である腹部の打撲を回復させることに決める。内出血で赤黒くなった腹部は見ているだけで痛々しく、よくこの状態で戦っていたものだとレオの我慢強さには尊敬する思いだった。


「とりあえず、酷い傷から手当していくね。わたしの魔力はもう殆ど残ってないから、全部を治すことは出来ないの……」
「そんなことは、気にしなくていい。……アイリスだって、ずっと戦い続けなんだから……」


 仕方のないことだよ、とレオは笑う。彼は気にするなと言ってはくれるが、それでも申し訳なさは募る一方だ。もっと自分に魔力があったのなら、レオの感じている痛みを取り除くことが出来るのに、と思わずにはいられない。肝心な時に役に立てないのなら意味がないではないか、と唇をかみしめながら、アイリスは杖を手に魔力を練り上げる。そして柔らかな光が腹部の傷をゆっくりと覆う。
 あったかい、とレオは微かに笑った。その笑みにアイリスは「特に痛いと思うところってある?」と尋ねる。残りの魔力はいよいよ少ない。最も酷い傷はほぼ完治させられたが、他にも痛みを感じている傷はあるだろう。彼女の問い掛けにレオはもう大丈夫だと口にする。


「大丈夫なわけない!レオ、お願いだから無理はしないで」
「いいから、一番痛かった腹を治してくれただけで、もう十分。だから、」


 もういいよ、と優しく言うレオの声に被さるように悲鳴に近い声が聞こえて来る。メルケルの名を呼ぶその声にアイリスとレオは視線を先ほどまでいた西側の強化兵の方向へと向ける。続いて聞こえるレックスの怒号から、何が起こったのかは容易に想像がついた。行かなくては、と反射的にアイリスは立ち上がるも、目の端で横になっていたレオも身体を起こしていることに気付き、足を止める。
 彼が言ったように最も酷かった腹部の打撲は治癒したものの、だからといって戦えるような身体の状況ではない。とてもではないが、行かせることは出来ない、とアイリスはレオにこの場に残るようにと訴える。しかし、彼は「平気だ」と言って得物である二振りの剣を手にする。


「レオっ」
「これぐらいの修羅場、何度だってくぐり抜けて来たんだ。仲間の危機だっていうのにオレだけ寝てるなんて、第二の隊長の名折れだ」


 走れるはずがなかった。身体中は傷だらけで体力も既に限界を超えていることだろう。それでも、レオは剣を手に駆け出した。傷を負っていることなど、見受けられないほどのごく自然な、いつも通りの走りだった。彼を今、走らせているのは仲間の危機を助けたいという想いと、第二騎士団の団長としてのプライドだろう。
 血塗れのその背を見つめ、アイリスはきゅっと唇を噛み締め、そして後を追うように駆け出した。彼女もまた、武勇の誉れ高い第二騎士団の所属だ。体力が尽き、魔力が尽きようとも、出来ることがあるはずだ。少なくとも、負傷した兵士の離脱に手を貸すことぐらいならば出来る。アイリスはメルケルの無事を祈りながら懸命に足を動かし続ける。


「アイリス、お前は、」
「ううん。わたしにだって出来ることはあるよ、それに、わたしだって第二の遊撃部隊の所属だよ。小隊だって任せられたのに、一人だけ引っ込んでられない」


 レオの横に追いつけば、彼は下がっているように言いかける。けれど、アイリスはそれを遮り、はっきりとした声音で言う。いつまでも守ってもらってばかりいるわけにはいかない。守る為に、軍への入隊を決めたのだ。そして、今ここにいるのは、守る為に戦うと決めたからこそだ。
 紫の瞳に宿る意志は強く、レオはそれを見据えた後に「それじゃあ、アイリスはメルケルさんを連れて退いてくれ。オレはレックスと一緒に強化兵の相手をする」と指示を出す。アイリスは一つ深く頷くと、負傷しているらしいメルケルを助ける為に杖をぎゅっと握り締め、相変わらず混戦の様を呈しているそこに踏み込んだ。



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