涙 - the return -



 既に致命傷を負っているらしい強化兵を距離を保って囲い込んでいる前線へと足を踏み入れ、アイリスはそのあまりにも濃い血のにおいに柳眉を寄せた。だが、それは決して強化兵が流したものだけではないだろう。深手を負っているメルケルや他にも強化兵の手によって傷を負い、倒れた者は数多くいるのだから。
 強化兵に対して警戒を解かない兵士らの合間をすり抜け、アイリスとレオはメルケルの元に急いだ。今はレックスが中心となって強化兵に攻撃を加えているものの、最初に攻撃した者を狙うという特性は相変わらずの為、歯牙にも掛けていない様子だった。ただ、身体は痛みを感じなくとも、心では何かしら感じるものがあるのだろう。咆哮する強化兵のそれは、物悲しくアイリスの耳に届いた。
 どうしてこのような手段を取るのだろう、と彼女は顔を歪める。このような非人道的なことをしなくてもいいではないか、と。そこまで帝国軍は追い込まれているのだとしても、それでも決して許されないということはあるはずだ。


「……酷いよな。泣いてるように聞こえるよ」
「……うん」


 隣に並んだレオは顔を歪めながら言う。彼にも強化兵の咆哮は哀しく聞こえたらしい。そう思っているのは自分だけではなかったことに驚くも、アイリスは小さく頷くに留めた。この場には、帝国軍に恨みを抱いている者や傷つけられた者も多くいるのだ。そのような場で帝国軍を庇うような発言すれば、士気に関わる。レオもそれが分かっているらしく、それ以上は口を噤んでいた。けれど、ぽつりと小さく、けれど強い意志を秘めた声で彼は「だから、」と口にする。


「こんな戦争、早く終わらせなきゃな」


 それは切実な響きを含んでいた。本心から、レオは十数年に渡って続いているこの戦争を終わらせたいと願っているのだろう。それはアイリスも同じ思いであり、しっかりとした様子で頷いて見せた。戦争を終わらせるということは、どちからが勝ち、どちらかが負けるということだ。それはつまり、生き残りを賭けたものでもある。両者が生き残るという道は、既に存在し得ないのだろう。もし、そのような選択があっとしたら、もっと早くにこの戦争は終結していたはずなのだ。
 生き残る為には相手を倒さなければならない。仲間を、国を守る為には戦わなければならない。たとえ、それが人の命を奪うということであったとしても、屍が並ぶ血に染まった道を自分自身で選んだということを忘れてはならない。他の誰のせいでもなく、自分自身で選んだのだ。だからこそ、逃げるわけにはいかない。向き合わなければならないのだ。守りたいものの為に他者を犠牲にする痛みを感じながら、歩き続けなければならない。それが、自分の意志を貫く為に犠牲にした者に対するせめてもの贖罪だ。
 強化兵の咆哮が響き渡る。鼓膜を揺らすそれに彼女は目を伏せ、ちくりと苛むような痛みに唇を噛み締める。けれど、その痛みを感じているのは決して自分だけではないということは分かっていた。人を傷つけることは痛くて怖い、それを忘れたらただの殺しと変わらない――レオと初めて出会った時に、彼が口にした言葉を思い出す。その時はまだ戦場に立ったこともなかったため、レオの言っていることの意味を全て理解することは出来なかった。だが、今はしっかりと分かる。人を傷つけることは痛くて、そして怖い。しかし、その痛みも恐怖も、決して忘れてはならないものであるということを、自分自身に言い聞かせる。
 その間も周りからは絶え間なく、怒声や悲鳴が聞こえていた。そんな中、漸く前線から後方へと移動させられていたメルケルの元に辿り着く。一目見て重傷であるということが分かるほど、彼は血に塗れていた。


「メルケルさんっ」


 アイリスはすぐに荒い呼吸を繰り返しているメルケルの元に駆け寄った。そして傷の具合を確認していると、不意に強い力で腕を握られた。何事かと腕を掴んでいるメルケルに視線を向けると、彼は何か言いたげな様子で口を動かしていた。声がよく聞き取れず、その口元に耳を寄せる。すると、「あいつを、……頼む」と掠れた声が耳に届いた。メルケルが言う、あいつとは誰なのか――辺りを見渡していると、震える手で彼がある人物を指差した。


「レオ!あの人、あの人を守って!」


 メルケルが指差した人物は、血の気の引いた顔で身体を恐怖で震わせていた。そのことから考えられることはただ一つ――強化兵の標的となっている兵士だということだ。実際、強化兵はその兵士に向かって行こうとしている。アイリスはすぐに前線に加わろうとしていたレオを呼び戻すべく、彼の名前を呼んだ。戦場でもよく通る彼女の声はちゃんと彼に届き、すぐに事情を察したらしいレオは一つ頷くとその兵士へと駆け寄った。
 元より、最も酷い傷を治癒したとしても、レオはまともに戦えるような状況ではない。気力だけで保っている為、その気力も果てれば指を動かすことすらままならなくなるだろう。それはきっと彼自身が一番よく分かっていることであり、だからこそ、足手まといになるぐらいならば元から負担の少ない後方で標的の兵士を守っている方がいいと判断したのだろう。
 アイリスはレオが後退したことに安堵しつつ、そのことをメルケルに伝えた。その間にもローブを裂いて作った布で止血などの応急処置をしているものの、こんなものは気休め程度のものだった。早く回復魔法を使わなければと思う反面、今の自分の魔力の量では間に合わないということは明白だった。周りにいた兵士らにすぐに後方から回復魔法士を呼んで来るようにと指示を出し、アイリスはなけなしの魔力を使って回復を試みる。だが、傷を癒す光はあまりにも淡く、それは誰の目からしても魔力が足りていないことは明らかだった。


「……、っ」


 どうしよう、とアイリスは強く杖を握り締める。淡い光はメルケルの傷を包み込むも、癒すまでには至らない。出血を抑える程度のことしか出来ない今の自分に歯痒さを感じながら、せめて自分に出来ることをしなければ、と必死にメルケルに声を掛け続ける。けれど、声を掛け続けるだけでは彼の命を繋ぎ止めることは出来ない。腕を掴まれた時よりも冷たくなっているその指先に触れ、少しずつメルケルの命が失われかけているのだということを感じると、どうしようもない恐怖が彼女を襲う。
 まだ後方から応援は来ないのか、と焦れた様子で顔を上げると、「無事だったのか!」と見知った声が聞こえて来た。その声の主は西側で奮戦しているという報告を聞いていたヒルデガルトであり、彼女の姿は血に塗れていた。前線で戦い続けていたらしいヒルデガルトの顔は疲労の色が濃いものの、アイリスの無事な姿を見て安堵している様子だった。だが、彼女の足元で寝かされている自身の部下の姿を見るなり、その表情は凍りつく。


「メルケル……っ」
「ごめんなさい、……わたし、魔力が尽きて……治療が……」


 すぐに駆け寄って来たヒルデガルトに、合わせる顔がなかった。魔力が尽きて治療が出来ないなんて、なんて言い訳だと自分が情けなくて仕方なかった。長丁場になるということは分かり切っていた。強化兵との戦闘は想定外のことではあったものの、毛嫌いせずに攻撃魔法の鍛錬を積んでいたのであれば、このようなことにはならなかったはずだとアイリスは唇を噛み締める。
 傷ついた部下の姿を見ることが、どれほど辛いことであるのかを彼女自身、身を持って知っていた。たった一日にも満たない時間を共に戦っただけでも堪えるものがあるのだ。長年、メルケルと共に戦ってきたヒルデガルトの辛さは比ではないだろう。だが、彼女は強く唇を噛み締め、そしてすぐに顔を上げると、「回復魔法士の応援は頼んだのか?」とアイリスに問う。


「はい、でもまだ……」
「そうか。アイリス、君は出来るだけのことをやったんだ。だから、自分を責めるな」
「でも……!」
「メルケルはこんなところで死ぬような奴じゃない。ほら、しっかりしないか、メルケル。お前がそんな風だから、アイリスが泣きそうじゃないか」


 ヒルデガルトは何でもないような口振りでメルケルの頬を軽く叩く。何をするのか、とアイリスはぎょっとした様子でその手を止めようとするも、目を伏せていた彼の瞼が震え、そしてゆっくりと目を開けた。暫しぼんやりとした後にメルケルの視線はヒルデガルトへと向く。微かに笑みを浮かべた彼は、「ご無事でよかった」と掠れた声で呟く。
 自分のことよりも先にヒルデガルトの無事に安堵した様子のメルケルに彼女は言葉を詰まらせる。そして、自身こそが泣きそうに顔を歪めながら、「お前の方は死に掛けじゃないか」と微かに震える声で言う。


「こんなところで死ぬなんて許さないぞ」
「……はい、団長」
「すぐに回復魔法士が来る。それまで持ち堪えて、アイリスに迷惑を掛けるなよ」
「はは、っ……それが手負いの部下に、掛ける言葉ですか……」
「そうだ。私はこれからお前の尻拭いをしてくる。……説教は戻って来てからだ」


 そう言うと、ヒルデガルトは後は頼んだとアイリスの肩を叩き、前線で指揮を取っているレックスの元に合流した。他にも彼女に付いて来たらしい西側に展開していた兵士らが合流したことで、勢いは増していた。このままいけば、強化兵を倒すことは然程難しいことではないだろう。だが、メルケルのことはそういうわけにはいかない。レオも、今は立ってこそいるものの、いつ倒れるか分からない状態だ。早く応援は来ないのかと急いていると、「焦ったって仕方ないでしょ」と呆れた声が頭上から聞こえて来た。


「アベル……!」
「魔力切れなんだってね。あの人から聞いた」


 だからって僕に言われても困るんだけど、と溜息を吐きながらアベルはアイリスの傍らに膝をついた。メルケルの容体を一瞥し、暫し考え込む素振りを見せる。彼の姿も血塗れだった。怪我は大丈夫かと尋ねると、傷自体は然程負っていないらしく、殆ど返り血だとアベルは答えた。そして、一つ溜息を吐くと、アイリスに手を差し出すようにと口にした。


「え?」
「いいから。手、出して」


 言われるがままに手を差し出せば、その手に自身の手を重ねるアベル。その手は冷たく、アイリスの手を包み込んだ。


「僕の魔力を分ける。……ただ、僕のは……、攻撃に特化したものだから、回復向きではないと思う。だから、あまり分けるべきではないと思う」
「……うん」
「分けたら、なるべく暖かいものをイメージして。それで多分、使い物にはなるはずだから」


 アベルにしては、いつになく歯切れの悪い調子だった。こういったことは彼自身にとっても初めての試みなのかもしれない、アイリスはそう判断してこくりと頷いて見せた。暫くすると、手からひんやりとした冷たいものが流れ込んで来た。ちらりと重なっている手を見ると、アベルの手はいつもの黒い魔力がふわりとまとわりついていた。それが自身の中に流れ込んで来ると、そこから身体が冷え切っているようにも思えた。
 暖かいものをイメージして、という彼の言葉が脳裏に過る。暖かいものとは何だろうか――アイリスは目を伏せて考える。太陽を思い浮かべ、暖かな春の日を想像する。けれど、それでは足りない。手から伝わり、自身の内側へと入り込んで来る冷たい魔力はそのままだ。太陽が燦々とする、暖かな春の日、そして、そこで笑い合っている仲間の姿。いつかそんな日が来ればいいという、彼女の願いそのもの。
 ささやかなアイリスの願いは、ほんのりと冷え切った彼の魔力を温める。そっとアベルの手は離れ、彼にしては珍しく心配げに伺う様子で「どう?」と声を掛けて来る。ほんのりと温まり始めた魔力は、ゆっくりとアイリスが普段扱っているそれと変わらない温かさへと近づいていく。


「……うん、大丈夫」


 これなら大丈夫、そう続けてアイリスはメルケルへと声を掛ける。今から怪我を回復させると伝えると、彼は小さいながらも頷いて見せた。ヒルデガルトの言葉で、どうやら気を持ち直しているらしい。だが、予断を許さない状況は変わらない。早く治療しなければ、とアイリスは杖を持ち直し、メルケルの怪我を回復し始める。
 杖から零れる魔力の光は優しく、温かさがあった。それは彼の負った傷を包み込み、ゆっくりとではあるが、確実に治癒していく。けれど、魔法で治すことは出来るのは、あくまでもその怪我だけである。痛みを緩和させることは出来ても、身体が負ったダメージ自体を消し去ることは出来ない。メルケルも暫くは身体を動かすことは出来ないだろう。魔法は万能ではないということを、今ほど歯痒く感じたことはなかった。
 それでも、彼を助けることは出来た。幾分も顔色がよくなったメルケルは疲労の色が濃いままではあるが、掠れた声で礼を口にした。それに対し、アイリスはふるふると首を横に振った。怪我を治癒することが出来たのは、アベルがいたからだ。彼がいなければ、メルケルを助けることは出来なかった。そう言って彼女は顔を俯ける。すると、乱暴な手つきでぐしゃりとアイリスの頭を撫でる手があった。


「でも、僕がいてもアンタがいなかったら助けられなかった」


 そっぽを向いたアベルはぼそりと呟き、手を引っ込める。乱暴な手つきで彼女の頭を撫でたのは、彼だった。らしくないことをしているという自覚はあるらしく、アベルの色白の頬は茹蛸のように赤く染まっている。アイリスは暫しその様子を見つめ、それからありがとう、と告げる。照れ隠しのようにヒルデガルトに指示されたからだと早口に彼は言うが、それでも急いでくれたことには違いないだろう。アベルがいなければ、メルケルを助けることは出来なかったのだから。
 アベルはアイリスに背を向け、素っ気ない態度を取る。それが照れているからだということは、髪の隙間から見え隠れしている赤い耳を見ればよく分かることだった。そんな彼に微かな笑みを浮かべ、アイリスはやはりアベルのことを疑う必要なんてない、と思い直していた。メルケルに注意を促され、レックスにも気を配った方がいいだろうとは言われた。けれど、こうして仲間の為に駆けつけてくれるのだ。心配なんて杞憂でしかない、とアイリスは自身に向けるその背を見つめながら考えていた。
 すると、不意に一際大きな強化兵の咆哮が轟いた。慌ててアイリスとアベルはそれが聞こえる方を向き直る。メルケルを助けることは出来たが、戦闘はまだ終わっていない。アベルは立ち上がると、アイリスとメルケルの前で身構える。今この場にいる者で戦えるとすれば、アベルだけだ。だが、彼に出来ることは攻撃魔法だけであり、魔法が一切効かない強化兵相手には無力と言える。それでもそこに立つのは、通用しなくとも足止めを出来るのは自分だけであるという自覚があるからだろう。


「その人を連れて下がって」
「だけど、アベルは、」
「いいから。何とかなるよ」


 だから早く、と急かすアベルに押し切られる形でアイリスはメルケルの身体を支えて立ち上がろうとしたところで、「大丈夫だ」と彼は口を開いた。その視線は強化兵がいる方へと向けられ、先ほどまでよりもずっと意志のはっきりとした目をしていた。それに釣られるようにアイリスも強化兵を取り囲んでいる前線へと視線を向けると、強化兵は血に塗れ、動き自体も鈍くなっていた。


「……もう、あいつは終わりだ」


 その言葉と同時に、ヒルデガルトの号令で一気に前線の兵士らが畳み掛けていく。先ほどの咆哮は、最後の力を振り絞ってのものだったのだろう。鼓膜を震わせたそれは嘆きと悲しみに溢れていた。
 濃い血のにおいが鼻腔を突く。刃が突き立てられた所から血は溢れ、それを風が運んでいく。零れた血は地面に吸い込まれ、辺りをどす黒く染め、最後に残るのは物言わぬ肉塊だけだ。まさに戦場らしい光景が眼前には広がっている。血に塗れ、死臭が蔓延する戦場。けれどそれは、彼女にとって初めて見る光景でもあった。クラネルト川での戦いは、これほどまでに惨たらしいものではなかった。だが、それが珍しいだけであり、このような光景こそが戦場だった。
 凄惨な有様に、言葉が出なかった。自分で選んだ道であり、目を逸らさずに全て目に焼き付けて歩くと決めた。どれほどの痛みを感じても、その痛みこそが贖罪だと思った。それは今でも変わらない。けれど、血に塗れてもそれでもなお、立ち続けている仲間の背を見て、心が震えた。仲間が生きていたことに、自分が生きていたことに、安堵と喜びに心が満たされる。帝国兵の死がその裏にあるとしても、人を手に掛けたのだと分かっていても、生への喜びを感じずにはいられなかった。


「アイリスっ!ほら、あれ見てみろ!」


 心を満たす安堵に陶然としていたアイリスに、駆け寄って来たレオがリュプケ砦を指し示した。強化兵は倒したが、未だリュプケ砦の攻略は為し得ていない。はっとした様子で杖を握る彼女にレオは苦笑を浮かべながら、そうじゃないとばかりに杖を離させる。


「白旗だ」


 レオの指し示す方へと視線を遣ると、リュプケ砦には帝国の旗ではなく、白旗が掲げられていた。リュプケ砦の帝国兵らは降伏の意を示していた。強化兵が全て倒されたことで戦意を喪失したのだろう、とレオは嬉しそうに言う。これでもう戦わなくていいと呟くと、どうやらそこで気が抜けたらしく、彼の身体が傾いだ。咄嗟に支えようとするもそのまま転びそうになる。アイリスはとっさに目を閉じるも、痛みが襲って来る前に「しっかりしてよ」と呆れた声が耳に届いた。


「悪い悪い」
「悪いなんて思ってないくせに。怪我人なら座っててよ」
「ちょっと疲れただけだって。……無事でよかった、ありがとな、アベル」
「……気持ち悪」
「なっ、お前!人がせっかく!」


 体勢を崩しそうになったレオを支えたのはアベルだった。しかし、ぼそりと気持ち悪いと呟いた彼は容赦なく支えていた腕を離してしまう。衝撃こそ少なかったものの、地面に落とされる形となったレオは二重の意味で憤慨するも、アベルはふいと顔を背けてしまっている。宿舎の食堂などで見る二人の様子そのものであり、そんな日常のありふれた様を目にすると、今回の戦いは終わったのだということをじんわりと感じ始める。アイリスはアベルとレオの普段のようにくすりと小さく笑みを漏らした。


「おい、お前ら。遊んでる暇があったら負傷兵を運ぶの手伝えよ」
「遊んでなんかない。レオが一方的に、」
「何が一方的に、だ!お前が気持ち悪いとか言って手を離して来るからだろ!?」
「はいはい、煩いから少し黙ってろ。アイリスも笑ってないでこいつらどうにかしてくれ」


 前線から戻って来たレックスは血塗れではあったものの、大きな怪我は負ってはいないらしい。そのことに安堵しつつ、安心感に浸るのもここらで終えて早く後方に戻って救護の用意をしなければ、と頭を切り換える。レックスが言うように、負傷兵は多い。既に自身にはアベルに分けてもらったとは言っても、満足に魔力は残ってはいない。だからといって、仕事がないわけではなく、軽傷者の手当てや誘導などいくらでも仕事はあるのだ。
 レックスに言われて渋々といった様子でアベルはレオの身体を支えて歩き出す。「お前は先に後方に戻ってくれ」と早口に言うレックスに頷くも、後方支援を一手にまとめて上げているエルンストは不在のままだ。それを言うと、レックスはちらりと白旗を掲げているリュプケ砦を見上げる。


「多分、あの人が交渉したんじゃないかと思う。だから、そのうち戻って来るから大丈夫だ。それまでアイリスが後方をまとめてくれ」


 頼んだぞ、とレックスはアイリスの肩を叩くと、足早にリュプケ砦に向かった。彼は彼でやらなければならないことがあるのだろう。後方へと視線を向けると、相変わらず喧嘩を繰り返しながらレオとアベルが随分と先を歩いてしまっている。彼らよりも先に後方のテントに戻って次から次に運ばれて来るであろう負傷兵の手当の為の準備をしなくては、とアイリスは駆け出す。
 相変わらず辺りの血のにおいは濃いままだった。身体は疲労で鉛のように重いままだが、それでも走れるのは生きているからであり、自分に出来ることがあるからだ。自分に出来ることを精一杯やる――自分自身が決めたことだからこそ、走ることが出来るのだ。エルンストが不在である今、後方支援をまとめなければならない。人員の割り振りや物資の準備など、やるべきことは多くある。負傷兵が次から次に運ばれて来るまでに決めてしまわなければならない。アイリスはレオとアベルを追い抜き、先にテントに行くことを伝える。分かった、と手を振るレオに手を振り返し、アイリスはただひたすらテントに向かって走り続けた。



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