涙 - the return -



 まるで逃げ出したみたいだ。
 テントを足早に出たアイリスは、自身の行動をそのように感じた。けれど、どうしてもこれ以上は今にも流れてしまいそうになる涙を我慢することは出来なかったのだ。我慢出来たのは偏に小隊長である自身が部下の前で涙を流すなんてことはしてはならないと思えばこそだ。たった一時の立場であろうとも、このような姿を晒すわけにはいかなかった。まだ日は浅くとも、武勇の誉れ高い第二騎士団の、それも遊撃部隊所属というプライドは彼女にもあるのだ。
 だが、それはあくまでも誇りであり、一人きりになったときに涙を流さない理由にはならない。テントを一歩出たところで、涙は頬を伝った。一粒流れれば、後はもう止まらない。ぽたりぽたりと零れていく。せめて人目に付かないところに行かなければ、と思うものの、足は竦んだように動かなくなってしまった。その時、不意にずっと握り締めていた拳に触れる手があった。溜息を吐く気配と共に、ゆっくりと手を開かせたその人物はアイリスの手を優しく握ると、「こっちにおいで」と口をした。鼓膜を震わせたのは、エルンストの声だった。


「エル、ンストさん……」
「そうだよ」


 彼の名前を呼ぶ声は震えていた。いつも通りに呼んだつもりだったのに、それは涙に濡れて震えていたのだ。けれど、その声を聞かずとも彼は気付いていたのだろう。アイリスの顔を見ようとせず、手が白むほどに力を入れて握っていた彼女の手を取り、立ち竦んでいた彼女を人目に付かないところに連れて行ってくれるのだから。
 手を引かれるままに暫く歩くと、エルンストはテントのすぐ近くに広がっている林へと足を踏み入れた。木々の間に紛れてしまえば、人目を気にする必要もない。そのまま少し進んだところで彼は足を止めた。それにつられてアイリスも足を止めるが、顔を上げることは出来なかった。エルンストは既に自身が泣いているということに気付いているのだから隠す必要もなく、また、隠したところで意味はない。それでも、顔を上げることは出来なかった。
 エルンストはそっと握っていた手を離した。そしてすぐ脇の木に凭れかかり、彼女から顔を背ける。気付いていながら、気付いていないふりをしてくれるつもりらしい。そのことを有り難く思いながら、零れそうになる嗚咽を押し殺すように唇に力を入れていると、「よく頑張ったね」という声が聞こえて来た。


「みんなの前ではちゃんと我慢してた。自分のしなきゃいけないことともちゃんと向き合った。頑張ったね、アイリスちゃん」


 耳に届いたその声は、今まで聞いたことがないほど優しいものだった。囁くような、そんな小さな声だったけれど、それでも彼女の耳には届いていた。力を入れていた唇が歪み、微かに嗚咽が漏れる。けれど、押し殺すことが出来ず、それをきっかけにぽたりぽたりと浮かんでいた大粒の涙が頬を滑り落ちていく。堪え切れない嗚咽が漏れ、その場に崩れ落ちるようにアイリスは座り込んだ。
 哀しくて辛くて苦しくて、心が痛くて仕方なかった。守ると決めた兵士を守ることが出来なかった無力感が、戦うことを決めたにも関わらず、人を手に掛けることの辛さが、自身の決めたことに努めているのにそれに感情が追いつかない苦しさが、心を痛ませる。もっと心を強く持たなければならないということは、クラネルト川の一件の後にエルンストから言われていたことだった。そうでなければ、先に動けなくなるのは自分自身であると。それを言われていながら、自分はあの時と変わらず弱いままだとアイリスは自分自身が情けなかった。
 それでも、エルンストはよく頑張ったと言ってくれる。涙を堪えて、自分のしなければならないことに向き合ってやりきった、と。こういったことで世辞や慰めの言葉を口にするような人物ではないということは、アイリス自身がよく知ってはいることだ。けれど、いざそれを向けられるとなると、本当だろうかと疑ってしまう。


「君はよくやったよ。最後の処置、俺に代わるように言うんじゃないかって正直、思ってた」
「……、でも、それは」
「君が彼の為に出来る最後のことだよね。でも、それを分かってるのと実行できるのはイコールじゃない」


 出来ないって言い出す人の方が多いぐらいだ――エルンストはそう言いつつ、背を預けていた木から離れてアイリスの前に膝を付く。そして両手で彼女の頬を包み込み、顔を上げさせると「酷い顔だなー」と苦笑いを浮かべる。親指で目元に溜まる涙を拭い、彼は優しく目を細めて笑った。


「よく頑張った。本当にそう思ってる」
「……っ、はい」
「今、こうして泣いてるのだって悪いことじゃない。こうして涙が流れるのは心が正常に働いてる証拠だ。嫌なこと、辛いこと、苦しいこと、哀しいことがあって涙が流れるのは、おかしいことじゃない。涙を流すことで、少しでも感じてる痛みを和らげようとする、ごく自然なことだ」


 後から後から零れる涙にエルンストは苦笑を深めるも、それを拭うことを止めなかった。


「それに、君はちゃんと成長してる。少なくとも、クラネルト川の頃とは見違えるほどしっかりしてる。それは俺が保障する」
「わたし……、少しは……」
「少しどころじゃない。正直、驚いたよ。でも、泣いてばかりいちゃだめだっていうのも分かってるよね?ああ、今はいいよ。無理しなくていい。こうして泣けるのは、まだ心が麻痺していない証拠なんだから」


 いつかは戦場に出ても、誰かを失っても、涙が出なくなるようになる。失うことに慣れてしまったからだ、傷つけることにも傷つけられることにも慣れてしまったからだ。だから、喪失感を感じても、痛みを感じても、心は麻痺して涙は零れない。エルンストは、自分がそうだと口にした。実際に前線の応援に出た自身の部下が強化兵に殺されたという報告を途中で受けていたが、彼は表情を変えなかった。涙が出ないのは失うことに、慣れているからだと、彼は困ったように笑う。
 けれど、それはエルンストに限ったことではない。彼だけでなく、レックスやレオ、アベル、そしてヒルデガルトやゲアハルトを始めとする多くの兵士も同様だ。戦い続ければ、それだけ仲間を失うということであり、そのような中で前を向いて戦い続けることに、涙は邪魔でしかない。


「……ねえ、アイリスちゃん」


 不意に、エルンストの雰囲気が変わった。真剣そのものの表情で、青い瞳をアイリスに向ける。心まで覗きこまれそうなその視線に息を呑み、気付けば止め処なく零れていた涙が止まっていた。近付かず、離れず、そのままの距離感を保ちながら彼は口を開く。


「戻っておいでよ、後方に」
「……え?」


 思いもしない言葉だった。確かに、アイリスの所属は元々はエルンストが束ねている後方支援だった。それをゲアハルトが半ば強引に配置転換を行い、第二騎士団の所属になっている。配置転換となった理由はそれぞれの騎士団から選抜した兵士で遊撃部隊を組織する為であり、アイリスは第二騎士団の遊撃部隊に所属し、回復や防御を担っていた。だが、その配置転換も、その理由もエルンストは承知していたはずだ。承知した上で、彼女の異動を認めたはずなのだ。
 一体どうしたのかと、アイリスはエルンストを見開いた目で見返すしかなかった。冗談で言っているわけではないということは、その顔を見ればよく分かる。だからこそ、どうしていきなりこのようなことを言い出したのかが分からなかった。


「このまま前線に置いておいたら、いつかきっと君は壊れる。たった一人、部下を死なせてこれなんだ。これから先、きっと司令官は君にもっと大きな隊を任せる。そうなれば、死傷者なんて増えるばかりだ。その度に君は涙を我慢して最後の処置をする、そして泣くんだ。……ねえ、アイリスちゃん、今ならまだ間に合う。無理に前線になんている必要はない」
「……エルンストさん」
「戦場に出るなとは言わない。君は優秀だし、君の力が必要だと思う。でも、何も前線じゃなくてもいいじゃないか。司令官になら俺が話を付ける、だから、」


 心配してくれているのだということが、よく分かる。レックスらはエルンストを苦手としているようだったが、アイリスはそのようなことはなかった。こんなにも心を砕いてくれる人のことを、そのように思うことなど有り得なかった。
 どうしてそこまで心配してくれるのかは分からない。けれど、回復魔法士としての力を必要としてくれているのだということは伝わって来た。出来ることなら、エルンストの力になりたいと思う。協力したいと思っている。けれど、アイリスは緩く首を横に振った。


「わたしは後方には戻りません」
「……アイリスちゃん」
「守る為に戦うって、決めたんです。わたしは仲間とこの国を守りたい、だから、戦います」


 今はまだ未熟で迷惑や心配を掛けることの方が多いだろう。けれど、クラネルト川の頃から今までの間に成長することが出来たのなら、今日からまはいつの日かまでの間に成長することだって出来るだろう。それは、もしかしたら心が失うことに慣れて涙を流さなくなることかもしれない。だが、きっとそれでも、仲間のことを思って胸が痛まなくなることはないと、そう思ったのだ。


「どれだけ辛くても、泣いていても、ちゃんと自分の足で立ち上がって前を向きます。……心配してくれるエルンストさんの気持ちは、すごく嬉しいです。だけど、わたしはこのまま第二にいます」


 彼は驚いた顔をしていた。彼女なら、この申し出を受けると考えていたのかもしれない。暫し、探るようにアイリスの瞳を見つめ、そしてエルンストは降参だとばかりに溜息を吐いた。そのまま地面に腰を下ろし、「頷くと思ってたんだけどな」と呟く。
 そんなエルンストにアイリスは微かな笑みを浮かべながら目の端に浮かんでいた涙を指先で払う。いつまでも泣いているわけにはいかない。これからしなければならないことは山のようにあるのだ。


「フラれちゃったなー……、でも、辛くなったらいつでも戻って来ていいからね」


 手を伸ばしてアイリスの頭を軽く撫でながら、エルンストは残念そうに笑う。そして手を引っ込めると軽い動作で立ち上がり、彼女の頭を撫でていた手を差し出す。「そろそろ戻ろうかー」と口にする彼を見上げると、先ほどまでの表情とは一変し、いつもの飄々とした笑みを浮かべていた。あまりにも先ほどとは異なる雰囲気に、一体どちらのエルンストが本当の彼なのだろうかと聞いてみたくなった。
 だが、口にしたところではぐらかされることは明らかであり、代わりにアイリスは差し出された手を借りて立ち上がる。今はまだ、一人で立ち上がれそうになく、差し出された彼の手を無碍にしたくはなかったのだ。
 目は腫れぼったく、赤く腫れていることは明らかだった。後で冷やさなければと思っていると、不意に大きな手によって視界が遮られる。一体何をするのかとエルンストの名前を呼べば、彼は楽しげな声音で「そう暴れないでよ」と言う。
 覆われた手からひんやりと冷たい気配が漂ってくる。それがエルンストの魔力であると気付いた頃には彼の手は離れ、腫れていた目元は常と変わらないものへと変わっていた。何が起きたのかと目を瞬かせていると、「このまま帰したら俺が泣かせたと思われそうだからね」と悪戯っぽくエルンストは笑う。どうやらアイリスの泣き腫らした目元を回復魔法で癒したらしい。


「ほら、戻るよ」


 そのまま軽い足取りで歩き出すエルンストに急かされ、アイリスは慌ててその背を追う。隣に追いついて礼を口にすると、「それなら俺のところに戻って来てくれたらいいのに」と彼は拗ねるように唇を尖らせる。その拗ね方に彼女が苦笑を浮かべると、エルンストは面白くなさそうに柳眉を寄せ、先ほどとは打って変わってアイリスの髪を乱すように撫で回した。
 何をするのか、と非難の声を上げる彼女にエルンストは「別にー?少しぐらい仕返ししたっていいでしょー」と反省する素振りも見せない。そんな彼の様に溜息を吐いていると、「これから色々とやらなきゃいけないことがあるんだけど、手伝ってよ」と彼は言う。


「なるべく早く、彼を家族の元に帰してあげた方がいいんでしょ?」
「……そうですね。早く帰してあげたいです」


 これから訃報を受けるであろう家族のことを思えば、心苦しいものはある。けれど、出来るだけ早く、彼を家族の元に帰してあげたかった。こくりと頷くアイリスにエルンストは微かに笑みを浮かべると、「何からしてもらおうかなー」と軽い調子で口にした。自分が気にしなくていいように、明るく振る舞ってくれているのだということがよく分かる。けれど、それに対して礼を口にするのは野暮というものであり、その調子に合わせるようにアイリスは「肩もみだとか、そういうのはなしですよ」と言えば、エルンストは不平を口にした。
 心は変わらず、じくじくと痛みを訴えていた。けれど、それも先ほどまでと比べれば幾分も軽いものに変わっている。だが、それは痛みを忘れたというわけでも、命を落とした兵士のことを忘れたというわけではない。痛みは傷となり、彼女の心に残っていく。そしていつか痛みを乗り越えて、傷は記憶へと変わる。それがいつになるかは知れないが、いつか乗り越えられる程に彼女はきっと成長する。先ほどまでよりも幾分も穏やかな顔でアイリスはテントを振り向いた。既に太陽は沈み、群青色の空に星が瞬いている。緩やかに時間は過ぎていく中、彼の時間はもう進まない。
 アイリスは足を止め、テントに向けて敬礼する。そこには彼だけでなく、他にも多くの兵士が彼らの時間を終えて眠りについた。戦い抜いた戦士たちに敬礼を捧げ、少し先で立ち止まっていたエルンストへと駆け寄る。その足取りは軽く、彼女の時間は止まらずに進み続けていることを示しているかのようだった。



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