涙 - the return -



「……これは」


 エルンストに連れられてリュプケ砦に入ったアイリスは、彼の背を追って階段を上りきったところ広がっていた光景を前に絶句した。一体誰がどのような方法でこんなことをしたのだろうかと思うほど、廊下は血に染まっていた。廊下には血液だけでなく、殺されたらしいかつて兵士だった者の肉塊が散乱していた。どろりとした臓物すらはみ出した遺体もあり、アイリスは堪らず口元を押えた。
 窓が開け放たれていることもあり、血のにおいは薄まってはいた。だが、何処を見渡しても赤い色が目に付くその凄惨な廊下に一歩を踏み出すことは出来なかった。このようなところに一体、エルンストは何の用事があるのだろうかと彼を見上げると、「この奥の部屋に用事があるんだ」とアイリスの心を読んだかのように彼は口を開いた。


「床、滑りやすくなってるから気を付けて」
「……はい」


 この場で起きた惨劇から少なくとも一日は経っているはずなのに、未だに床は血で濡れていた。足を踏み出す度に微かに聞こえる水音に、アイリスは不快感を露にする。どのようにすれば、このような惨状を作り出すことが出来るのだろうか。そんなことを考えていると、気を付けて歩いていたにも関わらず、アイリスは濡れた床に足を取られた。転んでしまう、ときゅっと目を瞑ったところで、「だから言ったでしょ」と呆れた声が頭上から聞こえて来た。


「……ごめんなさい」
「こんなところで転んで戻ったらみんな驚くよ」


 傾いだアイリスの身体を受け止めたエルンストは溜息を吐く。そしてそのまま華奢な彼女を軽々と抱き上げると、「ここを過ぎるまで我慢してね」と言いつつ、彼は歩き出す。思いがけない彼の行動にアイリスは目を白黒させ、下ろして欲しいとエルンストは訴える。だが、次にまた転ばれそうになってもすぐに助けられる保障はないから、と彼は一向に取り合わない。
 抱き上げられている状態で暴れれば、エルンストも巻き込んで転ぶことになるということは目に見えている。アイリスは身を縮ませながら、彼に身体を任せることにした。緊張した様子ではあるものの、抵抗することも下ろして欲しいということも口にしない彼女にエルンストは満足した様子で一つ頷き、「物分かりがよくて助かるよ」と彼は口にした。
 エルンストに抱き上げられていると、視界には主に彼と窓から覗く空、そして壁に飛び散った血痕のみが映り込んでいた。足元に広がる赤い血溜まりは映らず、鼻腔を突く血のにおいも随分とましだった。そんなことを考えていると、「着いたよ」とエルンストは一声掛け、アイリスを下ろした。目の前には扉があり、その部屋がどうやらエルンストの目的地だったらしい。


「この部屋はリュプケ砦の指揮官の部屋なんだ。俺の目的はその人の捕縛だったんだけど……」


 そう言いつつ、エルンストは扉を開け放つ。そして視界に飛び込んで来たのは、床に出来た血溜まりだった。その血痕は考えずとも、この部屋の主のものであり、エルンストが捕縛しようとしていたリュプケ砦の指揮官のものであるということはアイリスにも容易に察することが出来た。遺体はなく、既に運び出されているらしい。それならば、早くあの廊下も片付ければいいのにとも思うが、この忙しさの中、形がしっかりとしている遺体ならまだしも、あのようなバラバラにされている遺体を片付け、廊下を清掃することは容易なことではない。
 努めて背後を振り向かぬようにしつつ、アイリスは部屋の奥へと進むエルンストの後に続いた。室内は特に荒らされた形跡もなく、開き放たれた窓からはこの場にそぐわない爽やかな風が吹き込んでいる。


「あの、どうして殺されたんでしょう……」
「それは俺にも分からない。ただ、俺がこの部屋に着いた頃には既に殺されていたんだ。背中を何度もナイフで突き刺された形式があった、執拗な程にね」
「……帝国軍の誰か、でしょうか」
「可能性としては有り得るけど、どうだろう。仮に帝国軍の人間だとしても、相当階級が上の人だろうとは思うけどね」


 廊下のあの遺体を見れば分かる、とエルンストは口にした。廊下で殺されていた兵士らは誰一人として剣を手にしていなかった。つまり、剣を向けられない相手にあのように殺されたのだということが推察出来る、と。勿論、剣を抜く暇をなく、殺されたということも考えられる為、エルンストはあくまでも喩え話だけど、と付け足した。
 だが、それを口にする彼の目はどこか確信に満ちたものだった。口に出さないだけで、エルンストは何か知っている――アイリスは直感的にそう感じた。しかし、それを問い質そうという気はなかった。確かに気にはなっているが、自身はあくまでもただの一兵士に過ぎないという自覚があった。興味だけで知らずともいいことまで知れば、泥沼に落ちることにも繋がる。アイリスは、洞窟でレックスと話したときのことを思い出していた。彼は言った、思っている以上に、ベルンシュタイの闇は深いのだ、と。余計なことには首を突っ込まない方がいい、アイリスは自身によく言い聞かせながらそれ以上の問い掛けは口にしなかった。


「ああ、そうそう。アイリスちゃんに手伝って欲しいことなんだけど」


 思い出したように当初の目的に立ち返り、エルンストは部屋の執務机の上に重ねられている何冊もの本や書類を指し、「これをあの箱に入れていって欲しいんだ。順番なんてどうでもいいから兎に角入れて欲しい」とだけ言うと、彼は本棚を物色し始めた。アイリスは言われた通りに箱に本や書類を詰め込む為に箱を移動させ、そこに次々と詰め込み始める。だが、アイリスが詰め込めば詰め込むだけ、机には次から次へとエルンストによってこれもこれも、と本や書類が追加されていく。
 一目見ただけでもその箱はかなり重たいということが伝わって来る詰め具合にアイリスは一体これは誰が運ぶのだろうかと不安を覚える。この箱を砦の入口まで運ぶように言われても、さすがにアイリスの膂力では持ち上げることも出来ないだろう。そんな不安を覚えていると、「そう言えば、バルシュミーデ団長はもう出立したの?」とエルンストは本をぱらぱらと捲りながら口を開いた。


「出立されましたよ。エルンストさんがテントに戻って来るすぐ前に出て行ったのですが、会いませんでしたか?」
「うん、会わなかったなー。……まあ、会わないように気を付けてたんだけど」
「エルンストさんも苦手でしたっけ」
「俺も、……ああ、レオもか。そうだよ、俺みたいにちゃらんぽらんしてる人間との相性なんて最悪以外の何物でもないよ。それに砦に突入したことがバレちゃって怒られたの何の」


 その時のことを思い出したらしく、エルンストは身震いする。そんな珍しい様子に思わず小さく噴き出すと、エルンストは「俺だって怖いものぐらいあるんだよ」と肩を竦めながらアイリスに本を手渡した。それを受け取り、箱の中に詰めていると、「白旗の件がなければ許してくれなかったかも」と彼は溜息混じりに言う。やはり、降参するように説得したのはエルンストだったらしい。


「あの、一つ疑問に思ったことがあるんですけど……」
「何々?答えられる範囲なら答えてあげるよ」
「ありがとうございます。えっと、わたしとレックスが戻って来たら前線に展開してた帝国兵が引いていたんです。あれはどうしてだったんですか?」


 森から戻って来たときには戦場に残っている帝国軍の兵士は強化兵のみだった。それがどうしてなのかと疑問に思っていたのだが、この程度のことならば問題はないだろうとアイリスはエルンストに尋ねた。相変わらず本棚を物色しながらエルンストは「ああ、それは」と口を開く。


「色々と交渉した結果だよ。もっと早く話をまとめたかったんだけど、俺が指揮官を殺したんじゃないかって最初疑われてて誤解を解くのに時間が掛かってね」
「確かに、こんな状況だと疑われますよね。よく無事でしたね、エルンストさん」
「本当にね。よく殺されなかったと自分でも思ってるよ。だけど誤解が解けて交渉が始まってからも長くてね。あっちは指揮官が殺されてるわけだから烏合の衆になってて話がまとまらないの何のって。結局は捕虜とした後のこととか収容施設のこととかそういう話がまとまって、結局白旗揚げさせられたのが昨日の午前中だったんだ」
「そうだったんですね。そう言えば、収容施設って何処にあるんですか?」


 今日になって頻繁に聞く言葉ではあるものの、アイリスは実際に収容施設を目にしたことはない。あれだけの人数の捕虜が収容されるのだから、きっととても大きな施設であるということは想像が付くものの、そういったものがあるという話は今まで耳にしたことがなかった。エルンストは本をアイリスに差し出しながら、暫し言葉を濁した。聞いてはならなかったことだったのだろうかと思い、言い難いのなら答えなくていいと付け足すも、「いや、そうでもないんだけど」とエルンストは言葉を濁す。


「……ローエの近くにあるんだ」
「あ……」


 その一言で、合点がいった。エルンストが言い難そうにした理由も、そもそもローエが帝国軍に攻撃された理由も、そしてレックスの故郷でもあったクナップが同様に攻撃された理由も。ローエやクナップが攻撃された理由は街の近くにあるという捕虜の収容施設を狙ってのことだったのだろう。だが、合点はいっても街の近くにそういった施設があるという話は聞いたことがなかった。勿論、孤児院にいた頃の自身は幼かったこともあり、そういった話を大人が耳に入れないように配慮していた可能性もある。
 否、配慮されていたのだろう。戦争孤児からしてみれば、街や家族を奪われる捕虜の収容施設など、原因であり憎むべき場所でしかない。要らぬ情報を与えて、収容施設を襲うおうなどという考えを生まない為に伏せられている事実だったのだろうとアイリスは考えた。


「……収容施設が、原因なんですね」
「恐らくね。あくまでも俺の予想だけど。……でも、」


 エルンストが何かを言い掛けた時、不意に廊下から短い悲鳴が響いた。どうやら誰かが来たらしく、気付くと開け放たれた窓からは馬の嘶きや様々な声が聞こえていた。どうやら国境連隊や馬車が到着し始めているらしい。エルンストは窓から外を一瞥しつつ、「廊下にいる人に気を付けてこっちまで来るように言ってくれる?多分俺が呼んだ人たちだから」と言われ、アイリスは血塗れの廊下を見ることに憂鬱な気分になりつつも扉を開けた。すると、案の定、そこには国境連隊の兵士らしい男が数人、階段の辺りで立ち往生していた。血溜まりの中を歩かなければならないことに躊躇しているのだろう。
 アイリスは滑りやすいから注意するように声を張り上げつつ、心配げな様子で見守っていた。恐らく、アイリスが本や書類を詰めた箱を運ぶ為に予めエルンストが兵士に何人か来させるように伝えておいたのだろう。顔を見合わせながら恐る恐るといった様子で足を踏みしめる彼らを見守りながら、アイリスはちらりと視線を机の中を物色しているエルンストへと向けた。彼は何を言いかけたのだろうかと思うも、きっと問い掛けたところで答えてはくれないのだろうと思っていた。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、「アイリスちゃん、どんどん詰めて。あと中身が見えないように蓋しっかりしておいてね」と呼び戻される。机の上を見るといつの間にか山が形成され、慌てて駆け寄って箱へと詰め始めると、廊下からは鈍い音と叫び声が聞こえて来た。どうやら誰かが転んだらしい。エルンストは気を付けるように言われたところじゃないかと呆れた様子で助けに行くでもなく、引き出しを次々と物色していた。


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