おかえり - home -



「アイリス、何処か行くの?」
「うん、ちょっと司令官のところに報告書を」
「いいなあ、アイリス。第二所属だからゲアハルト司令官と直接お話出来るんだもんね」


 口々に羨ましいと口にする同年代の女性兵士らに苦笑を浮かべつつ、アイリスは手を振って宛がわれている部屋を後にした。
 ベルトラム山から王都ブリューゲルに帰還してから3日が経っていた。即時帰還の命令ではあったものの、まずは身体を十分に休めるようにということで休暇が与えられた。休暇を与えるのであれば、即時帰還の命令など出さなくても良かったのではないかと疑問にも感じたが、アイリス自身、疲労困憊ということもあって久しぶりにベッドで横になると泥のような眠りに落ちた。
 あまりに眠り続けた為、心配した同室の者らに起こされて漸く食事を取って、そこでやっと報告書に手を付けたのだ。本来ならば真っ先に提出するべきものではあるものの、先行して王都に戻っていたヒルデガルトが大体の報告は済ませているらしい。アイリスに求められたものは主に強化兵との戦闘などのことで、その時のことを思い出すと筆が止まりがちになり、報告書の完成にはつい時間を要してしまった。
 報告書を片手にゲアハルトが詰めている軍令部へと向かいつつ、アイリスは空を見上げた。青々とした空にぽっかりと白い雲が浮いている。日差しは彼女が軍人として生活し始めた頃よりも強くなり、風が初夏を運んで来ていた。もうすぐ夏が来ると思いつつ、アイリスは視線を戻して足を進めた。
 共に帰還したレオは大怪我を負っていたにも関わらず、動き回っていたこともあって今は静養中だった。やはり仕事を任せるべきではなかったとその知らせを聞いたときは後悔したが、見舞いに行くと本人は至って元気な様子で「オレがやりたいって言ったんだから気にするな」と笑っていた。また、捕虜に取ったリュプケ砦の帝国兵らを護送しているレックスとアベルはまだ帰還していなかった。しかし、先日顔を合わせたエルンストが言うにはこの数日の内に帰還するはずだということで、アイリスは一先ず安心していた。


「お疲れ。報告書?」
「お疲れ様です。報告書の提出です、司令官はご在室でしたか?」
「さっき俺が出した時はいたよ」


 軍令部に足を踏み入れた時、奥から出て来た兵士に声を掛けられる。顔を見ると、同じ第二騎士団所属の兵士でどうやら彼もゲアハルトに報告書を提出しに来ていたらしい。疲れも取れたらしくにこやかな雰囲気で彼はアイリスに手を振ると軍令部を出て行く。アイリスは会釈して見送ると、何度か行ったことのあるゲアハルトの執務室へと向かった。
 扉の前で足を止め、一度深呼吸をする。何度来てもこの部屋には緊張してしまうのだ。アイリスは自身を落ち着かせると、軽く握った拳で扉をノックした。次いで聞こえるゲアハルトの誰何の声に「第二所属のアイリス・ブロムベルグです。報告書をお持ちしました」と伝える。すると、すぐに入室の許可が出た。


「失礼致します。……あ、」
「ん?ああ、私のことなら気にしなくて構わない」


 入室の許可を得て扉を開けるとそこにはゲアハルトがいた。が、部屋には彼だけでなく他の人物もいた。どうやら来客中だったらしく、咄嗟に出直そうとするアイリスだが、そんな彼女を引き止めたのはゲアハルトの向かい側の椅子に腰かけている初老の男性だった。
 にこやかな微笑を浮かべている男性に会釈し、アイリスはゲアハルトに足早に近づくと報告書を手渡した。用は済ませたのだから早急に部屋を出るべきだろうと「それでは、わたしはこれで」と頭を下げるも「待て」とゲアハルトに引き止められる。来客中ではないのかとアイリスは困惑を露にするも、彼は気にすることなく自身の隣の席を彼女に勧める。


「ですが……」
「いいから座れ。ホラーツ様、此方は、」
「彼女のことなら存じている。コンラッドのご息女だろう、確かアイリス嬢、だったかな」
「はい、ですがわたしは父の養女で……その、」
「養女だろうが何だろうがお嬢さんはコンラッドの娘に変わりはない。コンラッドは君を実の娘のように可愛がっていたではないか」


 懐かしむように目を細めながらホラーツと呼ばれた男は笑う。どうして彼はそこまで知っているのだろうかとアイリスは眉を下げながらちらりと隣に座っていてるゲアハルトを見上げる。すると、「ホラーツ様はクレーデル殿の古いご友人だ」と口にした。


「し、失礼致しました。父のご友人とは知らず……」
「コンラッドの葬儀にも参列したが……君は泣きじゃくっていたから私のことも覚えていないだろう」
「申し訳御座いません」


 アイリスは済まなそうに頭を下げた。ゲアハルトはホラーツを養父の古い友人だと教えてくれたが、ホラーツ自身は少なくともゲアハルトよりも高い身分の人間なのだということが彼の様子から察することが出来る。ゲアハルトはベルンシュタインの国軍を仕切る司令官だ。そんな彼よりも身分が高いとなると、そう多くはない。
 養父が何故そのような人物と懇意にしていたのかは知れないが、アイリスはすっかりと恐縮していた。そんな彼女に好々爺然とした様子でホラーツはアイリスを見つめる。


「そこまで私に恐縮することはない。私はコンラッドと親友だった、どうせなら私のことを父と呼んでくれてもいいのだが」
「いえ、あの、……そのようなことはさすがに……」
「……ホラーツ様、あまりアイリスをからかわないでやって下さい。彼女は真面目な性格ですから貴方の冗談を真に受けてしまいます」
「何を言うか、ゲアハルト。私は至極本気だぞ。何ならお前も私のことを父と呼べばいいではないか」
「謹んで辞退させて頂きます」


 返事に窮するアイリスに助け舟を出したゲアハルトに話題は飛び火する。しかし、ホラーツという男の扱いには慣れているらしく、ゲアハルトは一拍すら間を置かずにばっさりと切り捨てる。ホラーツはその取り付く島もない言い草に快活な笑い声を上げる。そんな様子にゲアハルトもまた口元を緩めていた。
 二人のそのやりとりを見ていると、彼らもまた深い友好関係にあるのだということが伝わって来る。珍しく笑みを浮かべているゲアハルトの横顔を一瞥し、彼とホラーツの関係はどういったものなのか、そもそもホラーツは一体何者なのかがアイリスは気になった。


「それにしても、コンラッドの娘が軍に入隊していたとは……クレーデルの姓はどうして名乗らなかった?」
「わたしが軍に入隊しようと思った理由は自分の力を役立てたいと思ったからです。あと、……自分と同じ、戦争孤児を出したくなかったからです」


 産まれてすぐの頃、アイリスは孤児院の院長に拾われた。名前もなく、家族もいなかった彼女に名前を付けたのは孤児院の院長だ。アイリス・ブロムベルグという名はある種、入隊した理由を決して忘れない為の彼女の戒めでもある。
 そのことを伝えると、ホラーツは悲しげな表情を浮かべた。そして何度も何度も頷き、深い嘆息を吐き出す。


「……ホラーツ様?」
「いや、……何でもない、歳を取ると何でも深く心に感じるようになるのだよ」


 そういうものなのだろうかとアイリスが頷くと、「現在も継続してクレーデル殿の息女であるということは伏せています」と付け足すようにゲアハルトは言った。思えば、コンラッド・クレーデルの養女であるということは一切伏せるようにと初めてゲアハルトで顔を合わせたときに告げられたことを思い出す。要らぬやっかみや妬みを持たれない為にも伏せておいた方がいうことだった。そのことを今まで忘れていたものの、ゲアハルトの口振りからすると今度も気を付けておいた方がいいことのようであり、アイリスは今一度自分自身に言い聞かせた。
 その方がいい、とホラーツは深く頷くとそれきり片手で目元を覆っていた。どうしたのだろうかと不安になるも、どうやら何か考えているらしく、時折口を開いては物言いたげにしていた。それを暫し繰り返し、彼は唐突に口を開いた。


「戦争は嫌いかね?」


 思いもしない言葉だった。アイリスは目を瞠るも、すぐに表情を引き締める。
 戦争は嫌いか、それは問われるまでもないことだった。しかし、実際に戦争に身を投じて気付いたこともあった。


「……戦争は嫌いです。だけど、怖いから嫌いだからと言って逃げていても戦争がなくなることはありません」


 戦争は嫌いだ。怖いとも思う。実際に戦場に立って逃げ出したいと思ったこともあった。けれど、それで何が変わるというか。何も変わらないのだ。行動しなければ何も変わらない。怖いと、戦争は嫌だと叫んでいるだけで何かが変わるほど、この世界は優しくない。


「仲間を、家族を失う痛みも、人の命を奪う痛みも、どちらもわたしは経験しました。……だからこそ、早く戦争を終わらせたいと、そう強く思っています」


 黙ってアイリスの話を聞いていたホラーツは深く頷く。そして、「嫌だと嫌だと逃げてばかりいても、戦争がなくなるわけではないな……全く以てその通りだ」とホラーツは悲しげに笑う。
 彼もまた、ヒッツェルブル帝国との間に起きている戦争に関わって来たのだろう。ホラーツはどこか眩しそうに目を細めてアイリスを見つめ、そしてゆっくりと立ち上がった。


「そろそろ時間だ。お暇するとしよう」
「お送り致します」
「構わん。少し考え事がしたいからな。何か困ったことがあれば、いつでも頼って欲しい、アイリス嬢。ゲアハルト、ちょっと此方に来なさい」


 柔和な笑みを浮かべてアイリスに会釈し、そのままホラーツは扉に向かって背筋を伸ばして歩く。その背を見送りながら、アイリスは先ほど向けられた笑みに既視感のようなものを感じていた。誰かに似ている、そのように感じていると、「ゲアハルト、此方に」とホラーツがゲアハルトを呼ぶ。
 呼ばれたゲアハルトはすぐに彼に近づき、二言三言言葉を交わす。声は潜められていた為、何を話していたのかはアイリスには聞こえなかったが、ホラーツは話し終えるとゆったりとした足取りで部屋を出て行った。
 扉が閉まり、そこで漸くアイリスは緊張を解く。何者だったのだろうかと思いつつ、戻って来るゲアハルトの顔を見ると彼の表情はどこか強張り、そして薄い蒼の瞳には罪悪感のようなものを感じているのか、微かに揺れていた。今までこのような顔をしている彼をアイリスは見たことがなく、一体ホラーツに何を言われたのだろうかと心配になった。


「司令官?どうされたんですか?」
「……いや、何でもない。それより、報告を聞かせてくれ」


 力無く椅子に座り、ゲアハルトは執務机の上の彼女が提出したばかりの報告書を手にする。アイリスは変わらず心配げな表情のまま執務机の前に立ち、ゲアハルトが離脱してからのリュプケ砦攻略戦での状況の報告を始めた。


120810



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