おかえり - home -



「ところで、一つお尋ねしてもよろしいですか?」
「ああ。何だ?」


 執務室の壁際で紅茶の用意をしつつ、アイリスは書類に目を通しているゲアハルトに声を掛けた。
 話を終えた後、アイリスは執務室を後にしようとしたがゲアハルトに呼び止められたのだ。もうすぐ出来あがる書類を第二騎士団の兵士で回覧して欲しいとのことだった。ならば、自分が持ち帰った方が早いということでアイリスは執務室で完成を待つことになったのだ。しかし、ただ座って待っているだけというのも手持ち無沙汰であった為、こうして紅茶を淹れていた。
 温めた茶器に亜麻色の液体を注ぐ。ふわりと広がる紅茶の香りに目を細めつつ、「先ほどのホラーツ様のことなのですが」と切り出す。彼は一体何者だったのかがやはり気になってならないのだ。少なくともゲアハルトよりも上の身分であることは確かだが、それ以外はまるで予想がつかない。該当する人物はそれだけでも相当狭まっている為、他の誰か、噂話に詳しいというアベルが帰還した際にホラーツのことを聞けば分かるかもしれない。だが、そのようなことをせずとも先ほどまで言葉を交わしていたゲアハルト本人に聞いた方が余程早いというわけだ。


「一体どういう御方なんですか?司令官よりも身分が高い方とお見受けしましたが」
「……俺がホラーツ様と話していたことは伏せてくれるか?」
「え?あ、はい」
「絶対に誰にも口外しないでくれ。約束できるか?」
「分かりました、お約束します」


 触れるべき話題ではなかったかもしれない。
 今更ながらにそう思うも、口から出た言葉をなかったことには出来ない。アイリスは淹れ終えた紅茶をゲアハルトの執務机に置き、自分の分をテーブルに置く。そして椅子に腰掛けたところで、ゲアハルトは口を開いた。


「ベルンシュタインの国王陛下だ」


 カップに手を掛けて立ち上る湯気に紅茶の香りを感じていたが、ゲアハルトの口から出た予想を遙かに超えるそれにアイリスは目を見開いた。あまりの驚きに今まで感じていた紅茶の香りは一切分からなくなり、目を白黒とさせながらゲアハルトを見た。
 アイリスの驚きように苦笑を浮かべつつ、ゲアハルトは彼女が淹れた紅茶を口に運ぶ。いくら待てども、冗談だ、の一言が言われることはなく、彼の様子からもそれが冗談ではないということが伝わって来る。脳裏に浮かぶホラーツの朗らかな笑顔を浮かべるも、なかなかベルンシュタイン王国を統べる国王と結びつかない。そもそも、どうしてそのような相手と養父が親しい間柄だったのかが疑問だった。
 アイリスを引き取ったコンラッドは貴族層の人間だった。コンラッドは既に両親を亡くし、妻も子どももいなかった為、結果的に現在クレーデル家を継ぐ立場にいるのはアイリスということになっている。しかし、まだ年若く、また、養女であるということで本人も乗り気ではない為、保留ということになっていた。その間、家を管理しているのは長くクレーデル家に仕えている家令に全て任せてあるという状態だった。
 だが、少なくともアイリスが知っているクレーデル家という貴族は、決して国王と親しくなれるほどの地位ではない。どういうことなのだろうかと、今は亡き養父のことを思い浮かべていると、「陛下はあの通り、ご自身の身分に囚われずに奔放な御方だからな。俺にクレーデル殿を紹介して下さったのも陛下だ」とゲアハルトは懐かしむように目を細めながら言う。


「そうだったんですか。……でも、父も教えてくれればよかったのに。陛下のことも司令官のことも全部初耳です」
「それは……君に軍部に関わって欲しくはなかったからだろう」
「……そう、かもしれませんね」


 そういう意味では、養父の希望を裏切っていることになる。それを思うと、心苦しくもなるが、だからといって先ほど口にしたことを舌の音も乾かぬうちに翻すわけにはいかない。軍に入隊し、自分の力を役立てることでベルンシュタインを守ること、そして自分のような戦争孤児を増やさないということは自分自身で決めたことなのだ。
 自分で決めたことを思い返していると、不意に先ほどホラーツと話していたことを思い出す。そして、唐突にアイリスは両手で顔を覆って机に突っ伏した。


「アイリス、どうした?」
「ど、どうしよう……、陛下相手に、わたし、生意気なことを……!」


 奇行とも言える突然の行動にゲアハルトは椅子から腰を浮かす。しかし、すぐに先ほどの会話のことをアイリスが気にしているのだと気付き、椅子に腰を落ち着けた彼は気にすることはないと小さく噴き出す。
 しかし、気にするなと言われて気にせずにいられるほど、アイリスの肝は据わっていない。相手はこの国の主なのだ。そのような相手に自分の戦争に対する思いを伝えるなんて、相手に問われたとしてもなんて恐れ多いことを言ってしまったのだろうかとアイリスは頭を抱える。そんな彼女に相変わらず微苦笑を浮かべているゲアハルトは、「だが、間違ったことは一つも言っていなかっただろう」と優しい声音で言う。


「ホラーツ様もアイリスの率直な気持ちをお聞きになられたかったはずだ。だから、気にすることはない」
「……でも」
「それに出した言葉を今更なかったことには出来ない。今回のことを気にするなら、以後は発言に注意することだな」
「……司令官の仰る通りです」


 今更何だかんだと言ったところでどうすることも出来ないのだ。諦めろと言わんばかりに笑みを含んで言うゲアハルトにアイリスはこっそりと溜息を吐きながら、紅茶のカップに口に運ぶ。香りはすっかりと飛び、温度も少し冷めてしまっていた。少しばかり味気ないそれを飲みつつ、アイリスはホラーツのことを考えた。
 ベルンシュタインを統べる国王の名はレオナルド・H・ベルンシュタイン。ホラーツという名は彼のミドルネームだが、普段はイニシャルのみで表記されていた為、気付くことが出来なかったとアイリスは内心溜息を吐く。だが、仮にミドルネームがホラーツであるということを知っていたとしても、目の前にいる人物が国王であるとイコールで繋ぐことが出来たかと言えば決してそのようなことはなかっただろう。アイリスにしてみれば、国王とは雲の上の人物であり、こうして言葉を交わすことになるとは夢にも思っていなかったのだから。
 そしてふと、以前に一度、ベルンシュタイン王家のことが話題に上ったことを思い出す。いつだっただろうかと考え、それが初めてレックスやレオ、アベルの四人で夕食を食べた時のことだと思い出す。しかし、あまりにアベルが過激な発言をしていたことを思い出すと、今更ながらに肝が冷える思いだった。


「司令官、あの……」
「何だ?」


 聞いてもいいだろうか、とアイリスは迷う。先ほど、実際にホラーツと言葉を交わして受けた印象はとても聡明で国民思いの人物、というものだった。実際、ホラーツの治世はヒッツェルブルグとの戦争こそ続いているものの、それ以外は大きな問題もなく、寧ろ戦争中の国とは思えないほど、国内に活気を取り戻した国王であるとも言える。
 そう言えば、もうすぐ初夏のカーニバルの時期であるということを思い出しつつ、アイリスには疑問に思えてならないことがあった。アベルの言っていた、第一王子の話だ。本来ならば、ゲアハルトが率いている第二騎士団は代々次の国王と目される王子が率いる騎士団である。しかし、実際にはい第一王子が表舞台に立つことはなく、ゲアハルトが軍部の司令官と兼任して率いているというのが現状だ。
 アベルはそれを、第一王子が使い物にならない盆暗王子だからだと言っていた。その表現が適切であるかどうかはさておき、アイリスにはあのホラーツの息子がアベル曰く盆暗であるという風には思えなかったのだ。実際にホラーツと顔を合わせたとなれば尚更。だが、これを聞くことは、一兵士としての領分を越えているようにも思える。あまり首を突っ込まない方がいいかもしれない――アイリスはそう思い直し、代わりに「陛下のご体調が優れないと聞いたのですが」とリュプケ砦から帰還する前にレオが酷く気に掛けていたことを思い出し、それを口にした。


「ああ、一時的に崩されていたらしい。季節の変わり目だからな」
「それでは、今はもうお加減もよろしいんですよね?」
「そう聞いている」


 ゲアハルトの返事にアイリスはほっと安堵の息を吐く。後でレオに教えてあげようと決めると、書類に走らせていたペンが置かれる音が聞こえる。そして、彼はアイリスを呼ぶと出来あがったばかりの書類を彼女に差し出す。


「待たせて悪かった。カーニバルの警備と巡回の割り当て表だ、自分の持ち場と時間を確認しておくように伝えておいてくれ」
「分かりました」


 初夏の頃、ホラーツが国王になってから始まった催しで毎年国中から人がこのカーニバルに集まる。今まで大きい問題は起きたことはなかったが、ヒッツェルブルグ帝国と戦争中である為、油断することは出来ない。毎年、警備に当たっている騎士団の兵士らはあらゆる所に配置され、カーニバルの最中は二十四時間体勢で警備が行われている。
 太陽の日差しも強くなる頃であり、元より住民の多い王都が人でごった返すのだ。体調には気を付けなければとアイリスは自分も参加することとなるカーニバルの警備に思いを馳せつつ、差し出された書類を受け取る。


「今年のカーニバルは十日後に行われる予定だ。無論、帝国が兵を寄越して来た場合はその限りではないが」
「了解です。皆にも伝えておきます」
「ああ、頼む。……アイリス」


 ゲアハルトに向けて敬礼したアイリスは踵を返して部屋を後にしようとする。だが、数歩も行かぬうちに呼び止められ何か言い忘れていたことがあるのだろうかと振り向けば、至極心配げな瞳と視線が合う。


「カーニバルまで十日あると言ったが、その間の時間をどう使うかは君の自由だ。鍛錬に当てるでも休息に当てるでも好きにしてくれて構わない。だが、まずはしっかりと心身を休めてくれ。そうでないと、動かなければならない時に動けなくなるからな」
「……分かりました。司令官の仰る通りにします」


 要は無茶な鍛錬はするな、と彼は言いたいのだろう。アイリス自身、既に無茶な鍛錬を積む気はなかったのだが、こうして言い含められてしまうということはその点に関してあまり信用されていないようだった。
 肩を竦めて見せながらアイリスは答え、ドアノブに手を掛ける。そしてそれを回したところで、「アイリス」と名前を呼ばれた。何だろうかと振り向けば、目を細めて微かに優しく笑った彼が口を開く。


「おかえり」


 思いもしない言葉だった。
 アイリスは目を瞠り、そして同じように笑うと、その返事を口にする。おかえりと言ってもらえることも、ただいまと言えることも、それは生きて戻って来れたからだ。それと同時に、自分が生きて戻って来れたことへの安堵感と嬉しさ、この言葉を耳にすることも口にすることも出来なかった兵士の無念さと悲しみが綯い交ぜになった気持ちになる。
 それでも、こうしておかえりと何気ない一言ではあるけれど、自分が戻って来たことを受け入れてくれる言葉を掛けられることは、嬉しかった。此処が自分の居場所であり、帰る場所なのだということが実感する。アイリスは書類を胸にしっかりと抱き、扉の前で会釈をしてからゲアハルトの執務室を後にした。
 廊下に出たアイリスは気持ちを切り換えるように息を深く吐き出し、そして後でレオにも同じことを言おうと決めてから一歩を踏み出す。廊下を歩きながら手渡された書類に目を通すと、警備に当たる組み合わせと巡回経路が細かく指示されていた。
 カーニバルは三日間に及ぶベルンシュタインの初夏の一大イベントである。道には出店や大道芸人で溢れ、人々の笑顔で溢れる。アイリスも二度、養父に引き取られてからはカーニバルを楽しんだことがあった。その頃はあまり警備に当たっている軍人に注意を払ったことはなかったものの、あれだけの人が集まって問題が起きないように警備に当たるということは今になって思えばとても大変なことだったはずだ。
 自分も注意しなければと思い直していると、書類の中に自身の名前を見つけた。一日目はアベルと共に午前中から夕方にかけての巡回と警備、二日目はレックスとレオと共に大広場の午前中から夕方までの巡回と警備に当たっていた。三日目だけは夕方から夜までの短い時間を王城付近の巡回と警備とされ、相方はアベルだった。
 そのあまりの担当時間の短さにアイリスは首を傾げつつ、念の為に他の兵士の時間を調べてみれば、女性兵士の夜の担当時間は一様に短いものだった。また、必ず男性兵士と一緒になるように組み合わせてあるところを見ると、問題が起きないようにという配慮のようだった。王都ブリューゲルは勿論のことではあるものの、治安の良さは国内でも随一だった。それでも、カーニバル中は様々な人間がブリューゲルに出入りすることとなる。念には念をということだろうかと思いつつ、アイリスは書類を持ち直すと来る時とは打って変わって幾分も軽い足取りで軍令部を後にした。


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