おかえり - home -



「それじゃあ、よろしくお願いします」


 店主にそう声を掛け、アイリスは杖を取り扱っている店を後にした。ベルトラム山に出兵する直前、ヒルデガルトに稽古を付けて貰った際に、予備の杖を用意しておいた方がいいと言われていたのだ。帰還して漸く落ち着いて時間が出来たということもあり、養父に連れられて何度か訪れたことのある店に軍令部を出てから足を運んだのだ。
 杖の完成までには時間が必要となる。特に急ぎというわけではないものの、いつ帝国軍と交戦状態に入るかは分からない状況でもあった。そういったことに加えて、顔馴染みでもあった為、なるべく早く完成させてくれることとなった。急がせてしまって申し訳なくも思うが、助かることに違いはない。
 宿舎に戻る道を歩きつつ、ふと気になったのは養父と暮らしていたクレーデル家の屋敷だ。アイリスには後見人がいないということもあり、クレーデル家の一切のことは家令に任せてはあるが、入隊してからというもの一度も様子を見に行っていない。近々一度ぐらい、顔を見せに行くべきだろうかと思っていると、甘い香りにつられるようにアイリスは足を止めた。


「あ、此処って……」


 入隊して間もない頃、レオに連れて来てもらった菓子屋だった。どうせなら、お見舞いに何か買って行こうと決めて中に入ると、甘くておいしそうな菓子が並んでいる。どうやら、出来立てのものもあるらしく、どれを買おうかとつい悩んでしまう。
 一先ず、レオの好きな菓子は買おうと決めて選んでいると、「あれ、あんた」と背後から声を掛けられる。誰だろうかと振り向けば、エプロンを付けた恰幅のいい女性が興味深そうにアイリスを見つめている。


「前にレオと店に来たことがあるだろう?」
「あ、はい。こんにちは」
「ああ、こんにちは。今日はレオと一緒じゃないのかい?」


 どうやら、この店の店主らしい。人のいい笑みを浮かべながら彼女は首を傾げる。アイリスはつい先日までベルトラム山に出兵していたことと今は怪我の療養中で宿舎で休んでいるということを伝えた。すると、途端に店主は心配げな表情になる。アイリスは慌てて、怪我は決して酷いものではなく、今は大事を取って身体を休めているだけだということを説明した。


「何だ、そうだったのかい。でも、レオが怪我をするなんて珍しいね。……それほど大変な戦いだったのかい?」
「……そうですね」


 アイリスは曖昧に笑った。大変だったということに変わりはない。けれど、大変ではない戦いなど、存在しないのだとも心の中で思っていた。戦場に出れば、それがどのような規模であったとしても同じだけの痛みも苦しみも辛さも感じる。どれだけ優勢に事が進んでいたとしても、決して楽なことなんて何一つとしてないのだ。命を奪い合っているという点で、戦争には大小なんてものはない。
 言葉を濁す彼女に店主は慌てた様子で、「そうだ、これもレオに持って行ってやっておくれよ」とアイリスの手に次々と菓子を持たせる。そして、申し訳なさそうに眉を下げて、彼女は自身の作った菓子を手に視線を伏せる。


「……すまないね。あんたみたいな若い子を戦争なんて行かせっちまって」
「え、……」
「あたしなんて軍に入隊する勇気がなかった。あんたみたいな子やレオみたいな子がこぞって国の為にって頑張ってるのにさ」


 それなのに、あたしはただ毎日、お菓子を焼いてるだけだよ。
 自虐に彩られたその言葉に、アイリスはすぐには何も言うことが出来なかった。しかし、すぐに笑みを浮かべて首を横に振る。


「そのお菓子が食べたくて、戻って来ようって思えるんですよ」


 何気ないことが、本当に何気ないことが、戦場では恋しくなる。例えば、温かいスープだとか、甘いお菓子だとか、宿舎のベッドだとか、そんな些細なものが恋しくて、それをもう一度手にしたくて、頑張れるのだとアイリスは思う。そういったものが、戦場という非日常の空間から自分自身を日常へと引き戻してくれるのだ。
 もし、そういったものが何もなかったとしたら、きっと心は折れている。戦場は決して優しい場所ではなく、それとは正反対の場所だ。苦しくて辛くて痛くて、心が軋んで悲鳴を上げる場所だ。そんな地に立ち続けるには、生きて必ず戻りたいという場所がなければ立っていられない。守りたいと心底から思える居場所がなければ、踏ん張り続けることも出来ない。
 きっとレオもそうだろうとアイリスは思う。きっとベルトラム山で、リュプケ砦で戦っている時にも、心のどこかで思っていたはずだ。この戦いが終わって、王都に戻ったら、きっとこのお菓子を食べよう、と。


「レオだって、きっとそうです。だから、彼がお店に来たらおかえりって言ってあげてください」


 アイリスの言葉に店主は目を瞠った。そしてすぐに眉を下げながらも笑みを浮かべ、少しだけ眩しそうに彼女を見た。店主は目の端に浮かんだ涙を隠すようにアイリスに背を向けると、「さすがレオが選んだ子だけあっていい子じゃないか。あたしも安心だよ」と笑みの混じった声で言う。思いもしない言葉に一瞬思考が停止するも、理解が及ぶとアイリスは頬を赤くして慌てて、自分とレオはそういう関係ではないと否定する。


「何だい、違うのかい?レオの好きなお菓子ばかり選んでるからてっきりそうだと」
「違います!お見舞いに行こうと思ってたから選んでただけで……!」
「ああ、そうだった。寝こんでるんだってね、それじゃあ今日は好きなだけ持って行っておくれ。自分の好きなお菓子を選ぶのも忘れるんじゃないよ」
「でも……」


 さすがにそれは悪い、とアイリスは代金を払うと主張するも、店主は一切聞く耳を持たずに彼女の手にあった袋に次から次へと菓子を放り込んでいく。これでは商売が成り立たないのではないかと思うも、店主はにこやかな笑みを浮かべて「そんなことはあんたが気にすることじゃないよ」と菓子を詰め込んだ袋をアイリスに持たせる。
 手渡されたそれを押し返すわけにもいかず、アイリスは受けるも申し訳なさそうな顔をする。そんな彼女に店主は「レオが元気になって、そしたらまた来ておくれよ。それだけで十分だよ」と声を掛けられる。


「……分かりました。お菓子、ありがとうございます。レオも喜ぶと思います」
「そうだろうね。あの子はうちのお菓子を気に入ってくれているから。……本当に、あんたみたいな優しい子がレオの傍にいてくれたら、あたしも安心なんだけどね」


 微苦笑を浮かべて言う店主にアイリスは小首を傾げる。レオに何かあったのだろうかと考えていると、「あの子は小さい頃に親を亡くしてるからね」と店主は教えてくれた。思いもしない言葉に、アイリスは目を瞠った。そんな話は聞いたことがなかったし、レオも一言もそんなことを言わなかった。
 思えば、レオは自分のことを多くは話してくれない。いつも話をしていても、自分のことはあまり言わないのだ。好きなもの、嫌いなもの、趣味など、そういった当たり障りないことは知っているものの、それ以外のことは何も知らないと言ってもいいほどだった。だが、レオがいない場所で彼のことを根掘り葉掘りと尋ねることは出来ない。聞かれたくないこと、言いたくないことがあるからこそ、彼は口を閉ざしているはずなのだから。


「……そうだったんですね」
「詳しくは聞かないのかい?」
「レオがいないところで他の人から聞き出すなんてずるいですから。言いたくないことかもしれませんし、そういうことはちゃんと本人の口から聞かないと」


 アイリスがそう答えると、店主は笑みを浮かべて何度も頷く。そして、「やっぱり、あたしはあんたにレオとくっ付いて欲しいと思うけどね」とからかうように付け足す。そういう関係ではないと先ほどから言っているのに、とアイリスは顔を赤くしつつ眉を下げる。
 レオのことは決して嫌いではなく、寧ろ好きの部類に入るものの、今までそういった目で見たことはなかったのだ。他者からそのように言われると、どうしても意識してしまうところはある。これから見舞いに行こうと思っていたところなのに、どんな顔をして会えばいいのだろかとも思いつつ、アイリスは店主に見送られて店を後にした。
 こういう時に限って、流れる時間はとても早く感じる。あっという間に宿舎に到着し、アイリスはどうしようかと悩みながら男子寮へと続く階段の傍にいた。レオに渡して欲しいと菓子の袋を預けてもいい、寧ろ、見舞いに行く約束をしていないのだからこのまま部屋に戻るということも考えた。だが、やはり様子を見ておきたいという気持ちは強く、会わないという選択肢を選ぶことがアイリスにはどうしても出来なかった。そのまま階段の傍で悶々と悩んでいると、「何してるんだ?」と今一番聞きたくなかった声が鼓膜を震わせた。


「レ、レオ!?」
「驚きすぎだろ。どうしたんだ?こんなところで」


 誰かに用事なら取り次ぐけど、とレオは苦笑を浮かべる。そういうわけではないとアイリスは慌てて首を横に振るも、何と言っていいか分からず、言葉を濁す。気まずそうにしている彼女にレオは首を傾げるも、「アイリスはもう昼飯食ったの?」と話題を変える。その言葉に首を横に振れば、レオは明るい笑みを浮かべて一緒に行こうと言う。


「寝てたら腹減ってさ。まだなら一緒に食おうぜ」
「あ、うん。そうする」
「そうしろそうしろ。それで、どこか行ってたのか?」


 食堂へと向かって歩き出しつつ、レオはアイリスが抱えている袋を指差した。一瞬どきり、と心臓が大きく跳ねるも、アイリスは努めてゆっくりと呼吸を繰り返しながら、「レオにお見舞い。お菓子買って来たの」とその袋を差し出す。すると、目に見えてレオの表情は嬉しげなものに変わり、袋を受け取ると開けてもいいかと目を輝かせて言う。
 この様子なら、もう体調を心配することもないだろう。アイリスはこっそりと安堵の息を吐きながら、「開けていいよ」と微苦笑を浮かべる。袋の中身を覗き込んだレオは自分の好きな菓子ばかりであることに機嫌を良くしたらしく、昼食などそっちのけで今すぐにでも食べ始めてしまいそうな様子だった。


「お店の人がレオにってくれたの。今度行ったらお礼言わないとだめだよ」
「あ、おばちゃんからなの?そっか。まだ休暇残ってるし、明日にでも顔出して来るよ」
「その方がいいよ。レオのこと、心配してたから。顔を出したらきっと喜ぶよ」


 そう言うと、レオは嬉しそうに笑った。それから袋を片手に、空いた方の手でアイリスの頭をぽんと優しく撫でる。先ほどの店主との話もあり、いつもなら気にしないそれも今回ばかりはぴしりと音を立てて身体が緊張に固まってしまう。一体どうしたというのかと思考は混乱するも、努めて平静を装ってアイリスは「どうしたの?」と引き攣り気味の声で問い掛ける。
 しかし、レオはそんな彼女の変化には気付かずに目元を緩めて嬉しそうな笑みを深める。「貰って来てくれたってことは、店に行ってくれたってことだろ?ありがとな」とアイリスの頭を優しく撫でる。暫しの間、アイリスはされるがままになっていたものの、頭の中では菓子屋の店主の話が繰り返されている。気恥ずかしさに耐えられなくなった彼女は慌てた様子で、「た、大したことじゃないよ。わたしもついでで通りかかっただけだから。それより早くご飯行こうよ」と早口に捲し立てる。
 そんな彼女の珍しい様子にレオはきょとんと目を瞬かせるも、余程アイリスが空腹であると勘違いしたらしく、「そんなに急がなくても昼飯はなくらないよ」と微苦笑を浮かべる。決してそこまで食い意地を張っての発言ではないのだが、根掘り葉掘り聞かれるぐらいなら、勘違いされていた方が余程いいと結論付け、アイリスは早く行こうよと食堂へと向かって歩き出した。


「あ、そうだ」


 食堂に行くと、昼食の頃合いを過ぎていたこともあってそれほど混み合っていなかった。昼食が用意された盆を受け取って空いている席につき、一口二口と食事に手を付けたところでアイリスはあることを思い出した。どうした、と首を傾げるレオに彼女はゲアハルトから預かっていた書類を手渡す。


「予定通りなら十日後にカーニバルがあるんだって。その時の警備の当番と巡回経路とか、確認しておくようにって司令官が」
「そういや、もうそんな時期か。それで、オレは……っと」


 アイリスよりも早く入隊していたレオにとってカーニバルの警備は初めてのことではない。慣れた様子で当番の割り当てを確認し、経路に目を通している様子を眺めていると、「おっ、二日目は一緒だな」と彼は嬉しそうに言う。その笑みから視線を逸らしつつ、アイリスは「レックスも一緒だけどね」と照れを隠すように唇を尖らせて付け足すと、レックスの名前は見落としていたらしいレオはげんなりとした様子で肩を落とした。
 

「レックスもいるのかよー……」
「いちゃ駄目なの?」
「そうじゃないけどさ……、というか、何でアベルは二日もアイリスと当たってるんだよ。そもそもアベルはアイリスと組む回数が多過ぎでずるい」
「……相性の問題だと思うけど」


 こればかりはどうしようもない。不貞腐れたような顔をするレオにアイリスは苦笑を浮かべるしかない。しかし、あまりにもこうして先ほどの店主との話に引っ掛かることを口にされると、つい思考がそちらの方向に行ってしまう。慌てて思考を頭の外に追い出すように首を振っていると、書類から視線を彼女へと向けていたレオが不思議そうな顔をしていることに気付く。


「何してんの?」
「え、っと……、それより、ご飯食べなよ。冷めちゃうよ!」


 ほら、と早く食べるようにと急かせば、レオは苦笑を浮かべながら「変な奴」と口を開く。そう言われても仕方がないほど挙動不審であるという自覚もある為、アイリスは柳眉を寄せるも文句は言わず、一体誰のせいだと思っているのかと心の中で叫んでいた。


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