おかえり - home -



「……はあ」


 本日、十数度目の溜息を吐き出し、アイリスはその場にしゃがみ込む。
 普段使用している鍛錬場とは別の攻撃魔法用の広い鍛錬場に来ていたアイリスは自分の周囲に十分な広さの防御魔法を展開し、そこで攻撃魔法の練習をしていた。しかし、練習とは裏腹に成功した回数は極めて少なく、さすがにこれには溜息しか出なかった。
 こんなことになるなら、もっとちゃんと攻撃魔法も習っておくべきだったと今更ながら後悔してしまう。どうしたらもっと上手く扱えるようになるのだろうかと文献にも当たってみたが、それでも成果が出ないのだ。誰かに師事するべきだろうかと杖を手に溜息混じりに考える。心当たりがあるとすれば、エルンストやアベルだ。しかし、エルンストは暇そうに見えてもあれで忙しく、捕まらない時は全くといって良いほど捕まらない。一方のアベルはと言うと、彼はそういった人に教えるということを引き受けるような性格でもない。
 しかし、可能性があるとすればアベルだろう。エルンストも頼めば引き受けてくれるかもしれないが、後方支援へ戻らないかという誘いを断った手前、こういったことを頼むのは気が引けたのだ。アベルはいつ帰って来るのだろうか、アイリスはぼんやりと考えつつ、もう少し練習しようと立ち上がったところで、自分の名前を呼ぶ声に振り向く。


「もう!鍛錬してるって言うから、あっちの剣術の方かと思ってたのに」
「ごめんね、今日はこっちだったの。それで、どうかしたの?」


 駆け寄って彼女を呼んでいたのは同室の女性兵士のエマだった。何かったのだろうかと一瞬不安が過るも、エマの様子を見ているとどうやら帝国軍に動きがあった、などとのことではないらしい。余程急いで来たらしく、肩で乱れた呼吸を繰り返す彼女が落ち着くのを待っていると、「帰って来たのよ!」とエマは額に浮いた汗を拭いながら明るい声音で言う。


「レックスとアベルが戻って来たって、知らせよ。ついさっき!」


 ずっと心配してたんだから、早く迎えに行きなさいよとエマに急かされ、アイリスは知らせてくれた礼を言うとすぐに駆け出した。二人はただの護送だから心配ないとは言っていたが、それでもやはり、ずっと心配だったのだ。護送しているベルンシュタインの兵士よりも捕虜とした帝国軍の兵士の人数の方が遙かに多く、仮に襲い掛かられたとしたら一溜まりもないのだ。いくら武装解除させているといっても、決して油断は出来ない。いくらレックスやアベルの腕が立っても、どうしても心配で不安で堪らない日が続いていた。
 駆け出したアイリスは、軍令部へと向かう。ゲアハルトへの報告の為に二人は軍令部にいるはずだと予想したのだ。しかし、さすがに報告をしているだろう場所に駆け込むわけにもいかない。軍令部の近くで待っているべきだろうかと走る速度を緩め始めたところで、見知った赤髪が視界に映り込んだ。


「レックス!」


 丁度、今から軍令部に向かうところだったらしい。後ろから呼び止めれば、レックスと共に歩いていたアベルも足を止めて振り向く。そしてレックスはアイリスの顔を見ると、表情を明るくし、アベルは少し驚いたような表情を浮かべていた。
 二人の元に辿り着いたアイリスは乱れた呼吸を整えていると、「鍛錬でもしてたのか?」といつもと変わらない声でレックスに尋ねられる。聞きたいことはたくさんあったが、その前にまずは答えなければとアイリスは肩で息を繰り返しながら頷く。そんな彼女の様子にアベルは微苦笑を浮かべながら、「別にそんなに急いで来ることもなかったんじゃないの?」といつもと変わらない、少し意地悪なことを言う。


「だって……!」
「ただの護送なのに、それをどう悪く考えたらそこまで悪い予想になるんだか……」
「それだけ心配してくれてたってことだろ。アベルも、あんまりそういう言い方するなよ」


 アベルの言い様にレックスは呆れたように溜息を吐きつつ窘める。彼らの様子は別れた時と何ら変わっていなかった。そのことに改めて二人が無事に戻って来たのだということが感じられ、アイリスは胸がいっぱいになる思いだった。安堵感に思わず目頭が熱くなるも、アイリスは気付かれないように汗を拭う振りをして目の端に浮かんだ涙を拭う。
 すると、レックスに窘められて眉を寄せていたアベルは「それで、何で杖なんて持ってるの?」とアイリスの手に握られている杖を一瞥し、首を傾げる。彼の中では、どうやらアイリスの鍛錬は剣術として認識されていたらしい。しかし、今まで鍛錬というと、剣術ばかりしていたということもあった為、アベルの疑問は決して不思議なことではない。それほどまでに、アイリス自身が攻撃魔法を遠ざけていたということに他ならないのだ。


「えっと、……その、攻撃魔法の練習をしてて」
「……あんたが?」
「……うん」


 頷くアイリスを見遣るアベルの目は驚きに満ちたものだった。一体どういう心境の変化だと言わんばかりに不思議がる彼の視線から逃げるようにアイリスは瞳を伏せる。どうして彼女が攻撃魔法の鍛錬をするようになったのかを全て知っているレックスは微かに眉を寄せ、そして気持ちを切り換えるように一つ息を吐き出し、どうしてなのかと追及しそうなアベルの名前を呼ぶ。


「アイリスに攻撃魔法を教えてやってくれないか」


 レックスの言葉は、アイリスにとってもアベルにとっても予想外のものだった。どうして彼が頼んでくれるのかと彼女は目を瞠るも、レックスが背を押してくれているのだと思えば、この機会を逃すわけにはいかない。アイリスはがばりとアベルに対して頭を下げ、「わたしに攻撃魔法を教えて欲しいの」と頼み込む。
 全くといっていいほど展開が飲み込めていないアベルは珍しく驚き、困惑した表情を浮かべながらアイリスとレックスを交互に見遣り、「二人して頼むなんて、一体どういうつもり?」と何か裏でもあるのではないかと勘繰っている様子だった。しかし、いつまで待ってもアイリスは頭を上げず、レックスも何も発さないところを見て、本気で頼み込んでいるのだと判断したらしいアベルは盛大な溜息を吐く。


「教えてくれって頼む前に、まずはどうしてそういう話になったのかを僕に説明するべきじゃないの?」


 アベルの言うことは尤もであり、アイリスが攻撃魔法を教わりたい理由やその経緯を話すべきことである。しかし、その時のことを思い出すには未だ痛みを伴う行為でもある。かと言って、何も話さずに教えを乞うことはあまりにも勝手過ぎる。口添えしてくれているレックスも、このことだけはアイリスが自分自身で話すべきであると考えているらしく、ただ黙って彼女を見守っていた。
 そして、話さなければと意思を固めて口を開いた直後、「待って」とアベルが先に口を開いた。出鼻を挫かれる形となったアイリスは戸惑いの表情を浮かべながらアベルを見つめる。


「長くなりそうだから、先に司令官に報告を済ませて来るよ」
「あ、うん……」
「……まあ、あんたのことだから生半可な気持ちではないだろうし、何かあったから攻撃魔法を練習しようって思ったんだってことぐらいは僕にも分かるよ」


 踵を返したところで、アベルは足を止めて口を開いた。思いもしなかった言葉を掛けられたアイリスは目を瞠りながら、自分に背を向けているアベルを見る。


「あんたの話は明日の朝にでも聞いてあげる。……それに納得出来たら、その続きに練習を見てあげてもいい」


 でも、今日はだめだよ。僕も疲れてるから。
 そう言ってアベルは足早に軍令部に向かって歩き出してしまう。どうやら、一先ずは前向きに鍛錬のことを考えてくれる気になったらしい。そのことにアイリスは目を瞠っていると、事の次第を見守っていたレックスは「よかったな」と笑みを浮かべて彼女の頭を軽く撫でると、アベルを追いかけて歩き出した。
 お礼を言わなければ、と我に返ったアイリスは慌てて二人を呼び止める。足を止めたアベルはまだ何かあるのかと言わんばかりの顔で、レックスはどうしたのかと首を傾げている。そんなそれぞれの表情を見ていると、彼らが本当に帰って来たのだということが実感できる。


「二人とも、ありがとう!それから、おかえりなさい!」


 礼と一緒に伝えたかった言葉も口にする。立ち止まっていたレックスは「ただいま!」と明るい声音でアイリスへと手を振って答えるも、アベルはなかなか反応を返そうとしなかった。聞こえていないわけではないのだろうが、そういうところも彼らしいと彼女が微苦笑を浮かべていると、注意するレックスの声が微かに聞こえて来る。そして、ただいまという言葉こそなかったが、控えめに、そしてどこか照れた様子でアベルはアイリスへと手を振った。
 軍令部へと向かう二人を見送り、アイリスは気持ちを切り換えて攻撃魔法の鍛錬に打ち込むべく、鍛錬場へと踵を返した。明日の話次第では、アベルから攻撃魔法の手解きを受けることが出来るかもしれない。しかし、それは絶対ではないのだから、今からでも時間が許す限りは人任せにせず、努力を怠るべきではない。心を重くしていた心配もなくなり、幾分も軽い足取りでアイリスは鍛錬場へと向かった。


「それじゃあ、帰還を祝して乾杯!」


 時は過ぎ、夕刻。兵士らで賑わう食堂の片隅にはアイリスら第二騎士団の四人が顔を合わせていた。こうして四人揃って食事を取ることも久しぶりのことであり、全員が生きて帰還出来たからこそのことである。またこうして皆で食事を取れて良かった、と口には出さず、心の中で思いながらアイリスは乾杯と楽しげに言う。
 他のテーブルでも似たようなことが行われ、誰もが互いの無事を喜び合っている。勿論、そればかりではなく、戻って来れなかった仲間のことも決して忘れてはいない。時折、沈んだ空気が流れることもあり、そういったところを見ていると、決して少なくない命が失われたのだということが伝わって来る。
 しかし、悲しみばかりに囚われているわけにはいかない。喪った仲間の為にも前を向いて生きなければならないのだ。それでも、出来ることならもうあのような思いはしたくないとも思う。だからこそ、次の戦いに備えて、少しでも強くなる為に自分に出来ることを惜しんではならないとも考えていた。


「そういや、レックスとアベルはカーニバルの当番は確認したのか?」
「ああ、司令官に報告に行った時に聞いた」
「こんな状態で毎年毎年、よくカーニバルなんてやるよね」
「馬鹿だなー、こういうときだからこそのカーニバルだろ?」


 楽しい祭の一つや二つやらないとやってられない。
 そう言ってレオはアベルに対して溜息を吐きつける。馬鹿だと言われたアベルはむっと眉を寄せ、「警備なんて面倒なだけじゃないか」と文句を口にした。彼の言い分としては、そういうことをしている暇があるなら休息に充てたいということらしい。アベルの言い分も分からないではないが、アイリス自身は、息抜きとしてはカーニバルは丁度いいのではないかと思う。常に緊張状態にあるということは精神的にも肉体的にも疲労があり、それは兵士だけでなく国民全体にも言えることだ。だからこそ、カーニバルのような一時でも戦争中であるということを忘れられるような催しがあってもいいと考えている。
 勿論、その間に帝国に攻め込まれたら元も子もない。カーニバルが開かれる王都ブリューゲルも人で溢れることもあり、事件が起こらないように目を光らせなければならない警備に当たる兵士らは気が抜けない。それでも、カーニバルを開催出来る程度には、まだベルンシュタインには余裕があるということでもあり、そのことは国民にも安心感を与えられる。警備に当たる兵士にとっては大変な三日間になることは間違いないだろうが、それでも戦場に行くわけではないのだ。必ずしも殺し合いをするわけではないのだと考えれば、いつもよりもずっといい任務に思えて来る。


「おっ、言ったな?面倒って言ったな?」
「だったら何」
「オレと当番代わってくれないか?というか、代われ」


 急に何だっていうんだとアベルは胡散臭そうにレオを見遣る。そして、何やら合点がいったらしく、アベルはレオに揶揄するような視線を向けて「嫌だね」と言い放った。嫌だと言われるとは思いもしなかったらしいレオは面食らった顔をした後に柳眉を寄せ、「オレは二日目の広場だけなんだって。お前、確か二日間あるだろ?」といかに自分と代われば楽であるかを説明する。
 何をそこまで必死になっているのかとレックスは呆れた様子で食事を口に運ぶ。その隣でアイリスも微苦笑を浮かべながら食事を続けていると、「物事には相性ってものがあるんだってこと、知らないの?」と呆れた口振りのアベルの声が聞こえて来る。それに対して、レオは食い下がるもアベルは取り着く島もなく、聞く耳を持たない。


「アーベールー」
「嫌だったら嫌だ。あんたの尊敬する司令官が決めた割り当てなんだから、従順に従うべきだよ」
「……ケチだな、お前。すっげーケチ」
「ケチだったら何だって言うのさ。ねえ、アイリス」
「え、そこでわたしに振るの?」


 すっかりとレックスと二人で傍観を決め込んでいたというのに、ここで話を振られるとは思いもしなかった。アイリスは巻き込まないでよ、と眉根を下げていると、「アイリスだってこんなケチと二日間も一緒って嫌だろ?」とレオに答えにくい話を振られる。何て答えるべきだろうかとレックスに助けを求めるも、彼は我関せずとばかりに食事に集中している。裏切り者、とアイリスは物言いたげにレックスを軽く睨み、そしてアベルへと視線を向ける。すると、彼はいやに機嫌のいい笑みを浮かべる。


「分かってるよね?」


 清々しいまでの笑みにアイリスはがくりと肩を落とす。彼の笑みは暗に語っている、答え次第では攻撃魔法の鍛錬は付けないよ、と。そもそもどうしてこんな話になってしまったのだろうかと思いつつ、アイリスはレオをちらりと見遣る。


「レオ、担当は司令官が決めたんだからちゃんと守らなきゃ」
「だってさ。結局、駄々捏ねてるのはあんただけなんだよ、年上なのに恥ずかしいと思わないの?」
「こういう時だけ年上扱いかよ!あー……アイリスなら分かってくれると思ったのに……」


 レオはそう言うとがっくりと項垂れる。そういう様子を見ていると、少しばかり可哀想にも思えてしまう。しかし、先日の菓子屋での話のことを思えば、仮に二人で担当だったとしたらどうしていいか分からなくなってしまう。やっぱりこれが一番だと思い直し、食事を再開しようとすると、「ご馳走様ー」という暢気な声が隣から聞こえて来た。


「……もう、レックスも止めてくれたらよかったのに」
「関わったら飛び火するのは目に見えてるからな」
「だからって……」
「時には見捨てることも重要な選択だ」


 尤もらしいことを言って難を逃れたレックスにアイリスは唇を尖らせる。拗ねた表情を浮かべる彼女を見遣り、レックスが苦笑を浮かべていると、「あーあ、あんたのせいでスープが冷めちゃったじゃないか」という不機嫌なアベルの声が聞こえて来た。それに応戦するように、自分のスープだって冷めている、お前のせいだとレオは言い返す。このままでは第二戦の火蓋が落とされることは明らかであり、レックスとアイリスは顔を合わせて溜息を吐く。
 そして、二人がお互いに睨み合っているところを横目にレックスはそっと席を立つ。何処に行くのかと視線で問えば、こっそりと彼は手招きする。アベルもレオも互いにことしか頭にないらしく、アイリスはこっそりとレックスの後に続いて立ち上がった。食堂が賑やかだったこともあり、抜け出すことは難しいことではなかった。


「何処に行くの?」
「お菓子屋。夕飯だけじゃ足りないからな」


 宿舎の出入り口へと向かうレックスの後に続きながら尋ねれば、予想外と言えば予想外の、予想通りと言えば予想通りの返事が返って来た。微苦笑を浮かべている彼は肩越しにアイリスを振り向く、「まあ、二人もお菓子を口に突っ込んだらさすがに黙るだろ」と笑い混じりに言う。しかし、本当にやりそうであるとも思え、それを想像した彼女はつい噴き出してしまう。
 外に出ると、既に空は暗く、星が瞬いていた。月明かりに照らされた下町へと続く道は賑やかで美味しそうな料理のにおいがしてくる。温かな明かりも楽しげな声も、それが目に見えて耳に聞こえるのは平和だからこそだ。ずっとこのままだったらいいのに――アイリスはそう思いつつ、「アイリスは何が食べたい?」と問い掛ける少し楽しげな様子のレックスへの答えを考え始めた。

 

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