おかえり - home -



 夜も更け、軍令部は静まり返っていた。夜間、何事かが起きたときの為に常に人員は配置され、ある種の緊張感こそあるものの昼間ほどの物音はない。
 執務室で次々と寄せられる報告書を一読し、部隊の損害や再編成などを行っていたゲアハルトは扉の向こうに感じた人の気配に書類に落としていた視線を上げる。すると、まるで見計らったかのように扉は開き、エルンストが相変わらずの笑みを浮かべながら入室して来た。せめてノックぐらいしたらどうだ、とゲアハルトは溜息を吐きながら目を通していた報告書を脇に寄せる。


「だってどうせ俺が来たって分かってたでしょ?」
「だとしても、だ。もし他に誰かいたらどうする」
「司令官以外に誰もいないって分かってたからこそだよ」


 減らず口を叩きながらエルンストはゲアハルトに彼が手にしていた書類を差し出す。そして自身はテーブルへと腰かけ、「リュプケ砦でのことの諸々の報告書。これだけやってまだ半分程度だよ、あーあ、俺も休暇が欲しいなー」とこれ見よがしにエルンストは疲れているのだということを訴える。実際、リュプケ砦から帰還してからも彼は殆どの時間を休息ではなく持ち帰ったアトロの私物の調査や強化兵の解剖などの事後処理に充てている。骨を鳴らしながら首を回すエルンストにゲアハルトは「酒でも奢る」と答えながら早速書類に目を通し始める。


「じゃあ今飲んでもいい?俺、司令官がそこの棚に隠してるお酒のこと知ってるんだけど」
「……好きにしろ」


 何で知っているんだ、とゲアハルトは溜息を吐きながらも休みなく彼を働かせているという自覚はある為か、それ以上は何も言わなかった。嬉々としてエルンストは棚へと近づき、扉を開けて腕を突っ込む。そして取り出したボトルのラベルを一瞥し、「なかなかいいのを隠してるじゃない」と笑みを深める。
 ボトルと同じく隠されていたグラスを手にテーブルに戻り、コルクを抜くと芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。エルンストは遠慮なくグラスにそれを注ぎ込み、グラスに口を付けた。「やっぱり仕事終わりの酒は格別だ」と常套句のようなそれを口にすると、うんざりとした様子のゲアハルトに「まだ半分だと言っていたところだろ」と非難がましい視線を向けられる。


「一区切り付いたからこそ、こうして書類にまとめて来たんだよ」
「……もういい。報告を聞かせてくれ」


 ああ言えばこう言う、という諺を体現するかのようなエルンストにゲアハルトは彼との付き合いは長いものの、頭痛のする思いだった。しかし、呆れられていると知りつつも態度を改めないエルンストはグラスの中で赤い液体を揺らしながら、「それじゃあまずはアトロって人の話からにしようか」と口を開く。
 アトロの存在を彼が知ったのは、アイリスがベルトラム山で捕縛した帝国軍の指揮官から得た情報からだ。帝国が所有している黒の輝石についてを尋問した際に、リュプケ砦の指揮官が以前、黒の輝石の研究に携わっていたということを白状したのだ。その為に、エルンストはアトロを捕縛する為に特務と称してアイリスとレックスの手を借りてリュプケ砦へと突入した。


「でも、俺がアトロのところに行き着いた頃には既に何者かに殺されていた」
「……殺されていたのか?」
「しかもアトロの部屋までにいたらしい護衛兵もみんな殺されてた。護衛兵の遺体は酷いもので、何かに噛み千切られたって感じだったね、ぐちゃぐちゃな傷口を見る限りは。もしくは凄まじい力で引き千切られたか……」
「強化兵の仕業ではないのか?」
「それは恐らくはないと思っていい、強化兵が捕食したのでなければ」
「……つまり、遺体には欠損箇所が多かった、と」


 そういうこと、とエルンストは頷き、酸素に触れた血液に似た色のそれを飲み干す。


「廊下に転がっていた手足を組み合わせてやっと三人分の人間の身体が構成出来るぐらいに、肉が欠損していた。剣の本数から漸く人数が知れたよ。護衛として配置されていた人数は十二名」
「九名分の遺体は消えていたのか」
「それぐらいの人数の血液が流れた形跡もあるから、ほぼ間違いない。……でも、誰がどうやったのかまでは分からない。それこそ獣でも連れて歩かないとあんな状況にはならないだろうね」


 仮にエルンストの言うように、帝国軍の兵士らがリュプケ砦内で殺されたのだとして、犯人は一体誰なのかが問題となる。順当に考えれば、帝国軍の者が兵士らを何らかの方法で手に掛けたということになるが、つまりそれは相討ちでもある。現場は相当量の血液が流れている。仮に人の身でそれを行ったとして、一滴の返り血も浴びずに成し遂げることは不可能であり、兵士らもまた抵抗したはずである。その際の悲鳴や物音に誰も気付かずに駆けつけなかったこともおかしい。
 しかし、現実にはそれが起きている。現場を目にしていないゲアハルトだが、提出されているリュプケ砦の見取り図に視線を落とし、その光景を頭の中に思い描く。廊下は血の海、壁や天井にも血が飛散している。そこに転がる無数の引き千切られたかのような傷口を持つバラバラにされ、いくつもの部位が欠損している遺体。廊下に響いたであろう悲鳴と、その者に対して行ったはずの抵抗に一切気付かれることがなかった。そこから可能性として導き出せる答えは少ない。視線を上げたゲアハルトはグラスにワインを注ぐエルンストを見つつ、口を開く。


「……鴉の仕業か?」
「可能性としては大きいと思ってる。ただし、鴉の内の誰が来ていたかまでは分からないけど」


 帝国の裏で暗躍する特殊部隊、それが鴉だ。ごく少数の集団であり、主に暗殺や諜報活動などを行っていることとそれに属している何名かのある程度の情報しかゲアハルトらも手にしてはいない。しかし、アトロを殺害し、廊下にいた護衛兵を手に掛けて誰の目にも付かずに逃亡したという点を考えれば、帝国軍の中では鴉の人間が実行した可能性が高かった。
 冷え切った目でグラスの中で揺れる液体を見つめ、エルンストは「廊下の兵士を殺したのが仮に獣だとしたら、余計に鴉の奴らだとしか思えないけどね」と吐き捨てるように言う。


「……まあ、召喚魔法は対価が大き過ぎる為に禁忌とされているからな。そういうものに手を出すのは鴉の人間ぐらいだろう」


 日頃から獣を引き連れて歩いていれば、誰かしらが目にしているはずである。しかし、リュプケ砦に詰めていた兵士の証言からはそのような報告は未だ上がって来ていない。無論、収容施設からの報告には時間が掛かる為、もしかしたら数日後には獣を連れた人間を見たという情報も上がって来るかもしれないが、常識的に考えればそんな兵士はいるはずもない。いたとしても、やはりどちらにしろ、鴉に属した者である可能性が高い。
 だが、ゲアハルトやエルンストが入手している鴉についての情報の中に召喚魔法を使用する者や獣を連れている者はいない。尻尾を掴ませていない者なのか新参者なのかは知れないが、今後は召喚魔法を使用する者がいると考えた方がいいだろうとゲアハルトは息を吐く。
 召喚魔法は異界から獣などを召喚することが出来るが、その対価として自身の命を差し出さなければならない。その為、長く禁忌とされてきた魔法である。ベルンシュタインでも厳しく禁じられた魔法であり、ゲアハルトやエルンストもこれまでに召喚魔法を会得している人間と会ったことはなかった。


「それで、アトロという男の方はどうなんだ?」
「彼の遺体は原形を留めているという点では綺麗なものだったよ。死因は額にナイフを一突き、これが致命傷。その後、恐らく倒れた彼の背にナイフを何度も突き立てている。お陰で背中はぐちゃぐちゃだよ」
「……なるほど、確かに原型は留めているか。殺された理由は口封じだろうな」
「ほぼ間違いなくね。ただ、口封じにきっちりアトロを殺した割に部屋を物色した形跡もなかった。何か手掛かりが残ってるかもしれないから怪しい物は押収し来た」


 でも、量が多いし、まずは強化兵の解剖もしちゃわないといけなくてまだ殆ど手付かずだけど、とエルンストは肩を竦める。強化兵の解剖も押収したアトロの私物の検証も急がなければならない。しかし、強化兵の遺体が腐乱する前に解剖を終えなければならないことからもアトロの私物の検証は後回しにせざるを得ない。事は内密に進めていることからも気安く人員を回すわけにもいかない。こればかりはどうしようもないか、とゲアハルトは溜息を吐く。


「手掛かりはありそうか?」
「どうだろう、何もないかもしれないし、もしかしたらあるかもしれない。ないと分かり切っているからそのまま放置されたのかもしれないし、あったとしても何かしらの暗号文だろうからすぐには気付けないかもしれない」
「そうか。だが、なるべく急ぎで頼む」


 そう言うと、エルンストは「本当に人使いが荒いんだから」と盛大な溜息を吐く。しかし、特に文句を言わない辺り、早々他人に頼めることではないということは重々承知しているらしい。ゲアハルトは椅子から立ち上がると棚へと近付き、ワインを隠していた扉を開く。その奥から自分の分のグラスを取り出すと、中身がすっかりと元の半分以下になったボトルは溜息を吐きつつ、自身のグラスへとそれを注いだ。そしてそれに口を付けつつ、「それで、次は強化兵についてか」と報告を促した。


「強化兵だけど、あれは恐らく試験投入だね」
「試験投入?」
「そう。理性が飛んで死を恐れず、筋力は増強され魔法耐性を持つ、そんな兵士を大量に投入出来たらあの戦況はひっくり返すことが出来た。帝国軍はどうしてそれをしなかったのか……、いや、出来なかったんだろうね。強化兵を造り出した薬品には欠点があった。これはアイリスちゃんが気付いたらしいけど、最初に攻撃を仕掛けた相手を殺すまで追いかけて来る特徴があったらしい」


 でも、こんな特徴って要らないよね。
 エルンストはグラスをテーブルに置き、残り少なくなったボトルを手に取って中身を確認する。「そんな特徴よりも周りの敵を全て蹴散らす方がずっといい」という彼にゲアハルトは頷く。アイリスが見つけたというその特徴は、使い物にならない致命的な欠陥だ。実際にその特徴に気付いたからこそ、それを逆手に取って反撃できたのだ。また、強化兵が戦場に投入されてからの帝国軍の動きからもそれが織り込み済みの作戦ではなかったということが伺える。そして、それらのことに加えて強化兵が四体のみだったことからも試験投入であるという可能性は高かった。


「解剖結果としては、人体を強化したというよりも最早作り変えたと言った方が正しいぐらいだね」
「作り変えた?」
「筋肉量も骨の太さも常人を遙かに上回ってる。これまでいくつか帝国の強化兵を解剖したことがあるけど、比べものにならない強化だよ」


 何の薬品を使えばああなるのか、とエルンストはうんざりと吐き捨てるように言うと、ボトルに口を付けて一気に煽った。そして空になったボトルをテーブルの置くや否や、「飲み過ぎだ」とゲアハルトは眉を寄せて彼の頭を叩く。すると、エルンストはむっと柳眉を寄せると「少しは俺を労おうって気持ちが司令官にはないの?」と拗ねたように言う。
 その気持ちがゲアハルトにないわけではないのだが、こうも真っ向から労いを求められると労いたくなくなってしまう。何より、労えとは口先ばかりで本心からエルンストが求めているわけではないということは付き合いの長さからも伺うことが出来る。エルンストは大袈裟な程に溜息を吐くと、どうせまだ隠してるんでしょ、と棚へと近付く。


「とりあえず、強化兵については俺の見解だと強化薬の効果が飛躍的に向上し過ぎてる」
「……向上し過ぎてる、か」
「もしかしたら、黒の輝石を使って造ったのかもしれない」


 棚からボトルを発見したエルンストはラベルを一瞥し、「さすが司令官、良いもの持ってるねー」と笑う。どうしてこうも見つけるのが上手いのかとゲアハルトは隠し場所を変えるべきかと溜息を吐きながらグラスを煽った。
 エルンストは黒の輝石を用いて帝国は強化薬を造ったのかもしれないと口にした。だが、ゲアハルトが知る限りでは、黒の輝石にそのような力がるようには思えない。グラスをテーブルに置きつつ、青い瞳は沈鬱な様を呈す。そんな彼の様子を一瞥したエルンストはボトルからコルクを抜き、空になったゲアハルトのグラスにワインを注ぎながら「あくまでも俺の見解だよ」と先の言葉に付け足す。


「……あれは存在するだけで周りを不幸にする石だ」
「まあ、それは司令官がいつも言ってるけどね。確かにそれは間違ってはないと思う。ただ、あっちは手元に輝石があって研究を進めてる。アトロは研究から外され、左遷されてリュプケ砦にいた。でもそれは、決して研究が頓挫したわけじゃない」
「軍のより上層に研究が移った、ということか」
「そう、鴉にね。そして、恐らく鴉の誰かが造った強化薬の実験の為に丁度戦端が開いていたリュプケ砦にそれが持ち込まれた」


 こういうことだと思うよ、とエルンストは椅子に腰かけながら軽い口調で言う。しかし、事態は深刻だ。ゲアハルトは眉を寄せ、「こちらも早く見つけ出さなければならないな」と呟く。
 帝国が所有する黒の輝石に対してベルンシュタインにも対となる石が存在する。だが、白の輝石と呼ばれるその石は十年ほど前から行方知れずとなっていた。厳重に保管されていたにも関わらず、ある日突然姿を消したのだ。しかし、国宝とも言えるそれを失ったなどとはとてもではないが、公に出来ることではない。だからこそ、今も表向きには存在するとして秘密裏に捜索が続いている。とは言っても、失われてから十年以上経過し、手掛かりは皆無といっていい程で捜索は難航していた。
 しかし、だからといって諦めるわけにはいかない。帝国が黒の輝石を使用しているのならば、その対処法を探る為にも失われた白の輝石を見つけ出さなければならない。だが、有効な手段が見つからない。ゲアハルトは苛立たしげに拳を握り締める。


「……あいつらがあれを使いこなす前に止めなければならないのに」
「分かってる。それまでに見つけてみせるよ、他に動いてる奴より先にね」


 白の輝石を探しているのは何も彼ら二人だけではない。嫉妬や妬みが渦巻く王城では、王をも超える権力を得る為にそれを求めている人間は少なくはない。表面的にはどれだけ穏やかな国柄であろうとも、一度中に踏み入れば決して一枚岩ではない。
 エルンストはグラスに口を付けつつ、「コンラッドさんが生きていたら、話はまた違ったんだろうけどね」とぼそりと呟く。コンラッド・クレーデル――アイリスを養女とした彼は白の輝石の研究に携わっていた。しかし、半年前に彼は戦死し、彼が研究を記した書物は一冊として見つからなかった。何度、彼の邸を検めても押収した私物を調べても何一つとして見つからなかったのだ。
 もしそれが見つかったのなら、白の輝石そのものが見つからなかったとしても、黒の輝石の対処法のヒントが得られるかもしれない。だが、そう易々と事は進まない。ほぼ手詰まりという状況にゲアハルトは深い溜息を吐く。急がなければならないのも関わらず、何の取っ掛かりもないのだ。


「……いざとなったら」
「……」
「アイリスちゃんに聞いてみるのも手、かもね」
「……だが、」
「巻き込みたくないのは分かるけど、コンラッドさんに一番近しいのはあの子だけだ。何も知らないのかもしれない、もしくは知らず知らずのうちに何かしらのものを託されているかもしれない」


 コンラッドが戦死した当時もアイリスは他の者から聴取を何度も受けている。養父の書斎に仕掛けはないか、研究していたことについて何か知らないか、と。だが、彼女は知らないと首を横に振るばかりだったという。何度聴いても一切答えどころか反応すら変わらない。帝国兵相手に尋問を繰り返して来た者らが何度繰り返しても同じ答えしか引き出せないのならば、彼女は何も知らないのだと判断せざるを得なかった。その報告を聞いたゲアハルト自身、アイリスを引き取ってそれほど長い年月が過ぎているわけでもなかったことから、それも仕方ないだろうと思っていたのだ。そして今もそうであるとも思っている。
 養父を失ったことを思い出させるようなことはしたくはない、と彼は思うのだが、残るヒントはアイリスだけであるということもまた事実だ。
 エルンストは肩を竦め、「まあ、俺だってあの子が何か知ってるなら苦労しないよ。あのコンラッドさんが迂闊に誰かに輝石の話をするとも思えないし」と新たにグラスにワインを注ぎつつ言う。アイリスから聞き出したいのか、聞き出すつもりがないのかは知れないが、今のところはその手段を取るつもりはないらしい。


「とりあえず、何かあったときの為にもアイリスちゃんからは目を離さない方がいいかな」
「……そうだな」


 どこまで情報が漏れているかは知れない。万が一にもアイリスがコンラッド・クレーデルの養女であるということが知れれば、白の輝石を手に入れようとしている者は彼女の身柄を捕えようとするだろう。とは言っても、アイリスは軍人としての鍛錬を積んでいる為、そう易々と連れ去られるようなことはないだろうがそれでも気に掛けている方が余程いい。
 それとなくレックスらにもアイリスから目を離さないように伝えておくべきだろうかと考えたところで、「あ、空になったか」と間の抜けた声が聞こえ、ゲアハルトは拳を握るとそれで容赦なくエルンストの頭に振り下ろした。



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