カーニバル - stray cat -



「すみません、助かりました」
「あ、ありがとう……お姉ちゃん」
「いいえ。もうお母さんの手を離しちゃだめだよ」


 空はオレンジ色に染まり、夕焼け空になっていた。休憩を終えたアイリスはアベルと合流し、今は手分けをしながら対処に当たっている。アイリスは迷子の子どもの母親を探し、アベルは喧嘩をし始めた出店の店主と客の仲裁をしていた。
 無事に子どもを母親の元に送り届けることが出来たアイリスは母親と手を繋ぎながら何度も振り向き、手を振っている子どもに手を振り返していた。ちゃんと親元に返せたことに安堵すると同時に、ちくりと胸の奥が痛んだ。夕焼けの中、親と手を繋いで帰る子ども――それは子どもの頃に抱いたことのある羨望を思い起こさせる。自分は決して得られなかった、当たり前とも言えるそれを目の前にして、幼い頃に自分が抱いていた感情を思い出したのだ。
 けれど、それを打ち消すようにアイリスは頭を振る。羨ましがったところでどうやったって得ることは出来ないのだ。ならば、それはただの無い物ねだりでしかない。夕焼けはどういうわけか、人を感傷的にさせる――アイリスはいつの間にか肩に入っていた力を緩め、気を取り直してアベルが仲裁をしている出店へと戻る為に踵を返す。
 そろそろ交代の時間であり、彼の仲裁が終わればこのまま宿舎へと戻ることにしようと決めて歩を進めていると、人混みの中にアベルの姿を見つけた。後ろ姿ではあるものの、数か月を共に過ごしているのだから見間違えようがない。自分のことを探しているのだろうかとアイリスは慌てて駆け出し、人混みの隙間をすり抜けながら「アベル!」とその背に呼び掛ける。ぴくりと肩を震わせ、ゆっくりとその背は振り向く。しかし、それと同時にアイリスの腕を背後から掴む者がいた。


「誰っ!?」
「誰って、僕だよ」
「……え?」


 背後から腕を掴んでいたのは、アイリスが名前を呼んだアベル自身だった。ならば、自分が追いかけようとしていた相手は誰だったのだろうかと思いつつ、視線を前方へと向けるもそこには既にその人物の姿はなかった。そして、視線を腕を掴んでいる相手に戻せば、不審そうな表情を浮かべているアベルがいる。詰まる所、人違いをしていたのだと気付き、アイリスは勘違いした相手に追いつかなくて済んだことにほっとするも、本人にその場を見られていたことを恥じた。


「何、人違いでもしたの?」
「……その通りです。後ろ姿がそっくりで……」
「後ろ姿がそっくりって……僕みたいな人、いくらでもいるでしょ」


 髪だって普通の黒だし、これぐらいの背恰好も珍しくない。
 そう言ってアベルは呆れた様子で溜息を吐きつつ、掴んでいたアイリスの腕を離す。そして、「とりあえず、宿舎に帰ろうよ」と言いつつ歩き出してしまう。アイリスも慌ててその隣に並びつつ、先ほど見た人物の姿を思い出す。彼はいくらでも自分に似た人はいると言うも、彼女には先ほどの人物がアベルに思えてならなかったのだ。何より、アベルと名前を呼んだ時に、反応していたのだ。それを言うと、彼は暫し思案するも、「あんな大声で呼ばれれば誰だって反応すると思うけど」と溜息混じりに一蹴する。


「兎に角、僕は今あんたの隣にいるんだ。あんたが人間違いをしたのは間違いないし、何を言っても言い訳でしかないよ」
「うっ……」
「それより、お腹が空いたんだ。早く宿舎に戻ろうよ」


 それがいい、とばかりにアベルが歩を進めた矢先、「待てっ!」と尋常ではない様子の声が前方から聞こえて来る。咄嗟に二人が足を止めると、前方からは乱暴に人混みを掻き分けながら走って来る男とそれを追いかけるレックスとレオの姿があった。男の手にはバッグがあり、その様子からひったくりを働いたことは明らかだった。
 捕縛しなければとアイリスは咄嗟に杖を構えるも、隣にいたアベルがそれを取り上げてしまう。何をするのかと焦りを交えた声で問い詰めれば、彼は呆れた様子で溜息を吐く。


「練習だよ、練習。攻撃魔法のね」
「でも、もし暴発したら……!」
「何の為にずっと鍛錬してきたの。いざって時の為じゃないの?」


 暴発なんて恐れてたらいつまで経っても使いこなせないよ。
 ぴしゃりと言い放つその言葉にアイリスは何も言い返すことが出来なかった。暴発することを恐れていれば、何もすることは出来ない。攻撃魔法でなくとも、防御魔法や回復魔法でさえ、使い方を誤れば暴発することはあるのだ。アイリスは意を決すると、此方へと向かって来る男へと向き直る。


「いざって時は僕が、」
「ううん、……わたしが何とかするよ。いつまでもアベルに甘えてるわけにはいかないから」
「ふーん……、なら、その言葉を忘れないでよ」


 そう言いつつ、アベルは脇へと避ける。アイリスは自身を落ち着かせるように息を吐き出し、そして「退け!」と怒鳴り散らす男の前に立ちはだかった。せっかくのカーニバルをこのような犯罪で台無しにさせるわけにはいかない。自身へと向かって走り続ける男の足は緩まず、そのままアイリスを突き飛ばして逃げるつもりなのは明らかだった。
 掌に魔力を集中させ、彼女はその場に踏み止まる為に足に力を入れる。掌からは微かな音を立てながら発生する雷を、人一人が気絶する程度に調節しながら前方へと手を突き出した。後は相手の身体に触れるだけでいい――それでも、怒りと焦りの形相で自身に向かって来る男、というものはやはり怖くもあり、アイリスは僅かにたじろぐ、が。


「ひ、っ―――」


 アイリスが半歩身体を退くよりも先に男が短い悲鳴を上げ、そのまま後ろ向きに倒れる方が早かった。白目を剥いて倒れる男に一瞬唖然とするも、彼女は慌てて男の傍に膝を付く。気絶させる程度にしたつもりだったが、こうもあっさりと倒れられたとなると、やはり心配にもなる。
 脇に避けていたアベルも彼女の傍に膝を付き、男の様子を見ながら「これ、多分明日まで目を覚まさないんじゃない?」と呆れた風に言う。つまり、威力は調節していたが、寸前のところで向かって来る男に恐怖を覚えた為に調節していた威力が増してしまったらしい。


「あーあ……完全に伸びてるな……」
「ご、ごめんなさい!」


 追いついて来たレックスとレオも白目を剥いている男を見遣り、苦笑いを浮かべる。レックスは男が持っていたバッグを回収し、レオは男の服を探りつつ二人して気にすることはないと笑った。


「こういう奴はどうせならカーニバルが終わるまで眠っててもらう方がいいからな」
「そうそう。……あ、こいつ、誰かのサイフも盗んでる。ったく、何て奴だよ」


 溜息混じりにレオは言いつつ、男の服装を検めていく。すると、次から次へとサイフが押収され、最終的にはレックスが男の身柄を縄で拘束した。その手際は慣れたもので、何人ものひったくり犯を捕まえているということは明らかだった。
 レックスとレオはそこで漸く改めてアイリスとアベルに向き直り、「協力、ありがとうな」とレックスは手を伸ばして彼女の頭をぐりぐりと撫で回す。そんな彼の横でレオは眦を吊り上げ、「っつか、何で男のお前が横で見てるだけなんだよ」と顔を顰めている。


「別にいいでしょ。せっかく攻撃魔法を教えてもいざって時に使えなければ意味がないんだから」
「そうだろうけど……、今日はカーニバルだぞ」
「だから何。寧ろ、カーニバルの時に出るような軽微な犯罪者を捕まえる方が敵軍相手にするよりも安全でしょ」


 よくて手ぶら、悪くてナイフ程度のものなんだから、と溜息混じりに言うアベルにレオは言い返そうとするも、「まあ、それぐらいにしとけって」とレックスが間に入る。そして自身が持っていた縄をレオに掴ませると、詰所に連れて行くようにとその背を押す。納得していない様子だったが、早いところ、詰所に連行しなければならないことも分かっているらしく、レオは文句を言いつつも男を半ば引き摺るようにして歩き出した。
 しかしながら、途中で足を止めたレオは振り返ると、「さっき美味しいお菓子屋見つけたんだ、後で買って来るから一緒に食べような!」とアイリスに向けて手を振る。忙しい中でも出店を見ている辺りが彼らしく、アイリスはくすりと笑いながら手を振り返した。そんなレオに、「夜間に開いてる店なんて酒屋だけだろ」と苦笑しつつ、二人に向き直る。


「お前らももう交代の時間だろ?お疲れさん」
「あ、うん。レックスとレオはこれからなの?」
「そうそう、夜間は酔っ払いとの格闘だ。おチビの二人はさっさと宿舎に帰って明日に備えて寝とけよ」
「誰がチビだよ、僕は今が成長期だ」


 むっと眉を寄せるアベルにレックスは笑いを噛み殺しつつ、二人の肩を叩くと軽く手を振って歩き出した。その背を見送っていると、「ほら、早く行くよ」と不機嫌な様子のまま、先に彼は歩き出してしまう。アイリスはすぐに駆け寄るも、自分とそれほど変わらない身長をアベルが気にしていたのだということが少しばかり意外だった。彼にも可愛いところがあるじゃないか、と思っていると、どうやらアイリスが考えていたことが伝わってしまったらしく、アベルは柳眉を寄せながら失礼なことを考えるなとへそを曲げてしまった。
 宥め賺して漸くアベルの機嫌が元に戻った頃には既に宿舎の近くまで戻って来ていた。アイリスはそのことにこっそりと溜息を吐きつつ、帰ったらどうするのかと問い掛けた。


「寝るよ、もちろん」
「ちゃんとご飯も食べなきゃだめだよ」
「分かってるよ。でも先に寝なきゃもう無理」
「もう……」
「そういうあんたはどうするの」
「エルンストさんにお手伝いを頼まれてるの。栄養剤とか眠気を飛ばす薬だとか、とにかく量を作らなきゃいけないのに手が足りないんだって」


 アイリスがそう答えると、アベルは「面倒なら面倒って言ったらいいのに」と仕事を引き受けたことに呆れた様子だった。そうは言われても、エルンストも何やら忙しい様子であり、時間があって手伝えることなら手伝った方がいいと彼女は考えたのだ。それを口にすれば、アベルは呆れた表情のまま彼女を見遣る。


「別にだめとは言ってないでしょ。ただ、自分の体力を過信するのはどうかってこと」
「平気だよ、これぐらい」
「そんなこと言って、3日目にはぐったりしてるなんて止めてよね」
「大丈夫だよ!」
「ならいいけど。……それじゃあ、僕は部屋に戻るから」


 そうこうしているうちに宿舎に到着し、アベルは疲れ切った様子で男子寮へと向かう。その背を見送りながらアイリスは肩を竦め、その足で医務室へと向かった。ノックを繰り返しても返事はなく、アイリスはそっと扉を開けて中を覗き込む。いつもならいるはずのエルンストの姿はなく、代わりにテーブルにはアイリスへの置手紙があった。
 置手紙の内容は、宿舎の裏にある畑から薬草を調達して欲しいというものだった。いくつかの種類が書かれているが、どれも自分で判断できる程度の有名な薬草であったことに安堵しつつ、アイリスは置手紙と共に用意されていた用具を手に宿舎の裏へと向かった。
 外は既に薄暗くなり始めている。急いで薬草を調達しなければ暗くなって手元が見えなくなってしまう。急がなければ、とアイリスは手袋を嵌め、籠を手に畑へと入った。薬草である花や葉を選びながら採集していくうちにあっという間に空は暗くなり、一番星が瞬いている。それでもまだ籠を満たす量には及ばず、アイリスは月明かりと宿舎から漏れ出す光を頼りに薬草を採集し続けた。


「これぐらい、かな……」


 籠が漸く満たされる頃には身体も疲労を訴え、腹の虫も空腹を訴えている。一度、医務室に籠を置いて先にシャワーと食事にしようと決め、手袋を外していると、不意に草むらが音を立てて揺れた。何かいるのだろうかとアイリスは肩をびくりと震わせつつ、ゆっくりと足音を殺して揺れている草むらへと近付く。
 いるとしても猫や犬の類だろうと考えていると、予想通り、草むらの中にいたのは金色の目をした黒猫だった。小さく痩せた体躯で首輪もしていない。よく見てみれば、怪我を負っているようでそこから動けない様子だった。咄嗟にアイリスは手を伸ばすも、威嚇するように猫は牙を剥く。


「大丈夫、ちょっと怪我を見せて欲しいだけだから」


 危害を加えるつもりはないのだということを伝えながら、アイリスは改めて手を伸ばす。それでも尚、猫は威嚇を繰り返すが、余程元気がないらしく、抵抗らしい抵抗さえしない。あっさりと彼女の腕の中に収まった猫は落ち着かない様子で辺りを何とか腕から逃れようとするものの、すぐにぐったりとしてしまう。
 アイリスは急いで宿舎の窓から漏れている光の下に移動し、改めて猫の様子を注意深く見る。怪我だけでなく、あまり餌も食べていないのか、触れた身体は細く骨ばっていた。とりあえずまずは怪我を治さなければ、とアイリスは杖を取り出し、猫を芝生の上に寝かせると頭を撫でてやりながら回復魔法を使用する。
 淡い光に包まれた猫は驚いた様子で逃げ出そうとするも、アイリスは何とかそれを押し留めて回復魔法により傷を癒していく。数瞬の後、猫が負っていた傷はきちん癒え、それを確認した彼女はほっと息を吐く。


「怪我は治したけど、だからって無茶なことはしちゃだめだよ」


 通じないとは分かりつつも、つい注意してしまう。猫はそんな言葉を聞いているのかいないのか、不思議そうに自身の身体を見るばかりだった。そんな様子の微苦笑を浮かべ、アイリスは手を伸ばしてやせ細った黒い体躯を撫でる。今度は威嚇されず、そのことに彼女は笑みを滲ませる。


「後で何かご飯持って来てあげる。ちょっと痩せすぎだからね、君は」


 一先ず、先に薬草を届けてしまわなければとアイリスが立ち上がると、猫は小さく鳴き声を上げた。それはまるで礼を言っているようでもあり、彼女は目を細めて笑うと屈んで猫を一撫でしてから籠を持って医務室へと急いだ。医務室は相変わらず、エルンストは不在のままであり、アイリスは籠をテーブルに置き、傍にあったメモに薬草を採集して来たこととまた後で訪れるという旨を書き残し、まずは自分の用を済ませるべく自室へと急いだ。
 動物に触れるのは久しぶりのことであり、つい嬉しくなってしまう。牛乳はすぐに用意できるが、何か餌になるものを用意しなければ――そんなことを考えつつ、アイリスは疲れを感じさせない足取りで階段を駆け上がった。


120907


inserted by FC2 system