カーニバル - stray cat -



「ああ、もう、ごめんね!わたしが悪かったから、暴れないで!」


 裏庭でアイリスを待ちわびていたらしい黒猫は彼女が姿を見せるなり、草むらから飛びかかって来た。声は控えめではあるものの、歯を剥き出しにしているあたり、随分と空腹だったらしい。改めてアイリスは謝りつつ、持ってきた小皿を地面に置いた。その途端、先ほどまでの暴れっぷりは嘘だったかのように小皿のポタージュに夢中になっている。
 アイリスは微苦笑を浮かべながら暫しそれを見つめ、それから籠を持って薬草が植えられている畑へと近付く。今日も今日とてエルンストの手伝いで栄養剤の調合をしなければならない。大量に用意されているものの、作っても作ってもすぐに底をついてしまうのだ。
 薬草を次々に採集し、それを籠に放り込んでいると足元では食事を終えたらしい猫が喉を鳴らしている。手を止めて自身を見上げる金色の瞳を見返し、暫し見つめ合う。その瞳は遊べと言わんばかりに輝いており、結局根負けしたのはアイリスの方だった。少しだけだからね、と言い置いてから手近な草むらから背の高い草を抜く。そして、彼女はしゃがみ込むとそれを猫の目の前で振ってみせた。


「ほらほら、こっちこっち」


 小刻みに草を揺らしつつ、猫の手が届きそうになったところで別の場所へと移動させる。すると、それに吊られてあっちへジャンプ、こっちへジャンプと猫は落ち着きなく跳ね回る。楽しそうに時に寝転がりつつ、アイリスが操る草を追いかける様は可愛らしく、また、すっかりと元気になったのだということが知れて安堵もした。
 表情を緩ませながら草を揺らし、寸でのところで引き戻せば、先ほどまで草が揺れていた場所に猫が飛び付く。動作はそれの繰り返しではあるものの、猫は少しも飽きる様子はなく、追いかけ回している。そろそろ、薬草の採集に戻らなければと思いつつ、「それじゃあ、」と口を開くと、まるで遮るように鳴き声を上げる。


「えー……まだやるの?ちょっとだけって言ったよね」


 しかし、尚も猫は食い下がるように鳴き続け、草ではなくアイリスの膝に手を置いて体を起こす。早くとばかりにじとりと彼女を見つめる金の瞳にアイリスは僅かに眉を寄せて「もしかして、ご飯が遅くなったのを怒ってるの?」と問い掛ける。すると、猫はそうだとばかりに鳴いてみせる。
 遅くなってしまったことは事実であり、そのことは申し訳なく思っている。かといって、この暑さの中、食事を予め用意しておいたとしても腐ってしまうことは明らかであり、そんなものを食べれば体調を崩してしまう。だから、申し訳ないとは思うけれど、これは仕方のないことなのだと言おうとして、不意に傍に同じようにしゃがみ込む人物に気付き、アイリスは素っ頓狂な声を上げた。


「うわっ……いきなり大声出すなよ!」
「な、何で!何で、レオが此処にいるの!?」


 すぐ傍にしゃがみ込んでいたのはレオだった。アイリスが突如上げた声に驚いたらしく、耳を押えて眉を寄せている。しかし、レオが来たことに全く気付いていなかった彼女はばくばくと激しい鼓動を繰り返す心臓を押えながら黒猫を抱え込んだ。いつから居たかも知れないレオに対しては無意味でしかないのだろうが、やはり隠さずにはいられない。
 猫を抱き込むアイリスに「別に誰かに言い付けたりしないから下ろしてやってよ」と苦笑を浮かべ、レオは彼女が放り出した草を手に取ると、それを揺らし始める。その動作からも少なくともアイリスが猫の相手をし始めた頃には既にいたらしい。どうして気付かなかったのだろうと、そのことを情けなく思いつつも、言われた通りに猫を離す。


「ほら、アイリスの代わりにオレが相手してるやるよ」


 そう言って目の前で草を振るうも、猫はぴくりとも反応を見せず、ふいと視線さえ逸らしてしまう。レオはぱちぱちと緑の瞳を瞬かせ、首を傾げる。そしてアイリスを見上げて、何でと言わんばかりに不思議そうな顔をした。その間も猫はレオに注意を向けることもなく、アイリスの足元から離れようとしない。レオが手を伸ばして舌を鳴らしても、顔を逸らして見ようとさえしなかった。


「何だよー、オレ、嫌われてんのかな」
「さあ……レオが何かしたんじゃないの?というか、どうしてレオが此処にいるの?」
「どうしてって、そこの窓からたまたま外を見たらアイリスがいたから出て来たんだよ。それで驚かしてやろうと思って気配とか足音消して近付いたら、アイリスが猫と急に話し出してさ」


 会話が成立してたから驚いた、とレオは面白がる。まさか見られるとは思いもしなかったアイリスは顔を赤くしながら、穴があったら入りたい衝動に駆られた。赤くなった顔を隠すように頭を抱える彼女にレオは「別に変だとか思ってないって」といつもの調子で言う。
 本当だろうかとちらりと顔を上げて彼を覗き見れば、いつもと変わらない様子で視線は猫へと向けられていた。そして、こいつどうしたの、という当然の疑問を口にする。


「昨日ここで見つけたの。怪我してたから、治してあげてご飯食べさせて、」
「会話してた、と」
「レオっ」
「ごめんごめん。でも、こいつ、首輪もしてないし野良なんじゃないの?」


 そう言いつつ、レオは猫に触れようと手を伸ばすも、それを拒否するようにひらりと避けてアイリスの後ろへと猫は回り込む。そんな様子に彼は眉を寄せると、「何でオレには触らせてくれないんだよ」と唇を尖らせる。アイリスはそんな様子に苦笑を浮かべつつ、後ろに回り込んでいる猫を抱き上げて膝に乗せて頭を撫でる。大人しくされるがままになっている猫にレオはむっと顔を顰めた。


「野良かもしれないし、首輪をしてないだけで飼い猫かも」
「ふーん、……そういや、怪我してたんだっけ?何でだろうな」
「それは分からないけど……。でもね、この子、ここに傷跡があるの」
「どこ?」


 黒い毛並みを掻き分けて見せると、そこには彼女が見つけた傷跡が残っていた。何か鋭利な刃物で斬られた跡であることは明白であり、それを見遣ったレオの表情は険しい。アイリスと同様に飼い主や心ない人物にやられたのではないかと考えたようだった。しかし、「誰かがやったのだと思うけど、もしかしたらこいつも戦争に巻き込まれたのかもな」と予想していなかった言葉がレオの口から飛び出した。


「傷の様子からしても、割と古いものだろ。こいつが小さい頃、どこか戦場になった場に住んでいたのかもしれない。そして、今はブリューゲルに住んでる、……とか、こういうことも考えられる。戦争で傷つくのって人だけじゃないから」


 街も土地も動物も自然も全てが傷つく。
 レオはそう言いつつ、アイリスが抱えている猫へと手を伸ばすも触れる直前で手を引っ込めた。そして困ったような笑みを浮かべながら、「まあ、こうだったらまだマシだなってオレが思うことを言ってるだけだけど」と付け足す。


「捨てられたとか、そういうことってあんまり考えたくないからさ。せっかく生まれて来たのに、捨てられるなんて、どうしたらいいか分からなくなる」
「……レオ」
「……ペットってさ、最初はそいつのことが必要だと思うから飼うだろ。まあ、飼うにしても色々と理由はあるだろうし、仕方なくだったりもするだろうけどさ。でも、色んな世話をして一緒に暮らすっていうのは、やっぱりそいつのことを必要だと思ってないと出来ないと思うんだ」


 寂しいから一緒にいて欲しいとか、可愛いから大事にしたいとか、どういう理由で必要とするかなんて人それぞれだけど――彼はそう言いながら、手持ち無沙汰な様子で先ほど振っていた草を拾い上げる。それを何とはなしに揺らしつつ、「でも、捨てるってことは、もう不必要になった、ってことだろ」と視線を伏せながら口にした。


「……全部がそうってわけじゃないとは思うけど、……そういうこともあるよね」
「理由は色々あると思う。飼ってられなくなったとか、引っ越さなきゃいけなくなった、とかさ。でも、本当に大事なら、自分たちの一部なら何が何でも連れて行くだろ。でも、そうしないってことはさ……どんな理由があろうとも、やっぱり不必要になったからなんだってオレは思う」
「……」
「……せっかく生まれて来たのに、必要とされていたのに。……けどさ、置いていかれた側からしてみれば、一番辛いのって、置いて行かれることよりも自分の存在が相手を害してしまうことだって思うんだ」


 自分がいた所為で相手をどんな形であれ、傷つけてしまうことほど辛いことはない。
 そう言って口を閉ざすレオに、アイリスは掛ける言葉が見つからなかった。この口振りからは、彼が自分のことを重ねて話しているようにも思え、迂闊なことは言えそうになかったのだ。
 けれど、いつまでも黙っているわけにはいかない。アイリスは意を決して口を開くも、それよりも先に「……オレがそうなんだ」とレオは口にした。


「今日、話したろ。オレの母親は病死したって」
「……うん」
「あれ……、オレの所為なんだ。オレが生まれたから、母さんは死んだ」
「え……」


 顔を伏せたままの為、レオの表情を伺い知ることは出来ない。けれど、絞り出すようなその声は先ほどまでの明るい様子は消え去り、とても苦しげだった。無理に話さなくていいと思うも、もしかしたら誰かに話すことで楽になりたいのかもしれないとも考えると、やはり掛ける言葉はなかった。
 アイリスはレオの話を聞き遂げることを決め、開きかけた口を閉ざすとゆっくりと膝の上で丸くなっている猫の背を撫で始めた。早いところ、エルンストの元に薬草を届けなければならないが、先ほど医務室を覗いていた時はまた不在だった。ならば、もう少しぐらい、時間はどうにでもなるはずだとして、レオの声に耳を傾ける。


「オレの父さんは……何というか、……言ってしまえば、家庭のある人なんだ。奥さんがいて、子どもがいて……そんな相手を、母さんは好きになって、それで生まれたのがオレ」
「……」
「それからはもう、父さんのところは家庭崩壊。そりゃあそうだよな、他所に女作って、しかも子どもまで出来たんだから本妻が怒り狂うのも無理はない話だとオレですら思うよ。元々、母さんは本妻から嫌がらせを受けてたらしいんだけど、そこからどんどんエスカレートして、……母さんは体を悪くして、病気で死んだ」


 どっちもどっちな話だけど、と付け足すレオの顔には自嘲するような笑みが浮かんでいた。彼が言うことは決して間違っていることではないのだろう。妻子がいる男性と関係を持ち、その結果が死ならば因果応報であるとも言える。だが、レオ自身があまりにもそのことを客観視していることが、そして、自分さえいなければこんなことにはならなかったという含みがアイリスにとっては問題だった。 


「……オレがいなかったら、父さんのところもあそこまで拗れることはなかったし、母さんだって死ぬこともなかったんだ」
「やめてよ、そんな風に言うの。わたしはレオに出会えて、本当によかったって思ってるんだよ。だから、いなかったらなんて言わないで」


 堪らず、アイリスは口を開いた。言って欲しくはないと思った言葉が彼の口から出たことに、思わず声が震え、目頭が熱くなる。そんな寂しいことは言わないで欲しかった。もし、レオが生まれていなかったら、出会うことがなければ、自分は今もこうして軍人として立っていられたかどうかすら怪しい。それほどまでに、アイリスにとってレオは大きな存在だった。
 アイリスはレオに手を伸ばし、彼の少し冷たい手に触れる。ぎゅうっとそれを痛いぐらいに握り締め、驚いた表情を浮かべるレオを目の端に涙を浮かべながら睨むように見つめる。こうして手を握っていなければ、いなくなってしまいそうに思ったのだ。


「わたしが初めて此処に来たとき、レオが声を掛けてくれて嬉しかったの。本当に嬉しかった。レオが優しいから、わたしはいつも甘えちゃうけど、今日までわたしがやって来れたのは、レオがずっとわたしのことを支えてくれてたからだよ。だから、」
「大丈夫。……そんなに慌てなくても、オレは何処かに行ったりしない」


 早口に捲し立てるアイリスの頭を空いている方の手で撫で、レオは苦笑を浮かべた。そしてその手で目の端の涙を拭い、「変な話、聞かせてごめんな」と眉根を下げて笑った。


「何か、昼間に母さんの話をしてから、色々思い出しちゃってさ。……ごめん」
「……ううん。話してくれて、ありがとう」
「つまんない話だから、忘れてくれていい。……オレはいなくなったりしないから、だからそんな顔するなよ。な?」


 ぐすりと鼻を鳴らすアイリスに苦笑を浮かべながら、レオはよしよしと彼女の頭を撫で回し、そして徐にポケットに手を突っ込んだ。取り出したのは赤い布で、一体それをどうするのだろうかと見ていると、アイリスの膝の上を陣取っている猫の首に巻き始めた。くるりと細い首を一周した赤い布は彼女が気にしていた猫の首の傷跡をしっかりと隠している。


「早朝巡回の時に染物屋の出店のおばちゃんがくれたんだ。でも、オレは使わないし、こいつが野良でも飼い猫でも、これで少しは見栄えがよくなるだろ」


 そう言いながら、猫に手を伸ばせば、今度はレオの手を拒むことはなく、されるがままに撫でられる。そんな様子にレオは「こいつ、物で釣られやがった」と可笑しそうに、いつもの笑みを浮かべる。先ほどまでの様子が嘘のようにも思えるが、そんなことはない。時折、レオが見え隠れさせていた常とは違う雰囲気の正体は、先ほど彼が口にしたことに関係しているのだということが伺える。だが、おいそれと触れていいことではなく、レオが忘れてくれていいと――寧ろ、忘れてくれとばかりの声音で言ったことを思えば、その件には触れぬ方がいいことは明白だった。
 アイリスは膝から猫を下ろし、その背を撫でながら、「そろそろ、夜の巡回じゃないの?」と声を掛ける。今頃、レックスが怒ってるかもしれないよ、と付け足せば、途端にレオはすくりと立ち上がる。どうやら、すっかりと巡回のことが抜けていたらしい。


「やばい、レックスに殺される」
「そこまではしないだろうけど……ほら、急いだ方がいいよ」
「そうする!それじゃあまた明日!おやすみ、アイリス」
「おやすみなさい」


 慌てて走り去るレオの背中を見送り、アイリスは眉根を下げた。
 出来ることなら、彼の力になりたいと思った。いつも優しく自分のことを支えてくれているのだ、その恩を返したかった。けれど、決して迂闊に触れていいことではなく、きっとレオ自身、触れられたくはないことなのだろう。それでも生まれのことをアイリスに明かしたのは、きっと一人では抱えきれないほど、本当は苦しく辛かったからだということは明らかだった。
 それでも、レオは助けを求めない。あと一歩、歩み寄ってくれたなら手を差し出せるのに、その一歩を決して踏み出そうとはしないのだ。しっかりと一線を引き、そこからは出ないように心掛けている。それがアイリスにとっては寂しく、歯痒くもあった。だが、話してくれたということは、もしかしたらその明確に引かれている線を超えることが出来るかもしれない――アイリスは自分自身に気合を入れるように、一つ頷き、しっかりとした視線を持って足元の籠を拾い上げた。まずは自分に出来ること、しなければならないことをきっちりしようと思ったのだ。


「わたしが頑張って、頼りになるって思われるぐらいになったら……きっと、レオは全部話してくれると思うの」


 どうかな、と足元の猫に問い掛ければ、肯定するように猫は一鳴きする。アイリスは笑みを漏らし、「それじゃあ、わたしは戻るね。随分時間も経ってるから、わたしもエルンストさんに叱られるかも」と肩を竦めながら猫の頭を一撫でした。そして、足早に宿舎へと戻り、彼女は医務室へと急いだ。



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