カーニバル - stray cat -



「……此処は……」


 耳に届く小さな鳥の囀りでアイリスは目を覚ました。何度か瞬きを繰り返すうちに像を結んだ視界は見知らぬ白い天井を映し出す。此処は何処だろうかとぼんやりと考えながら辺りを見渡せば、白いカーテンで周りは囲まれていた。ゆっくりを身体を起こせば、鼻腔を突く薬品のにおいに気付く。
 そこで漸く、アイリスは此処が医務室であるということを思い出した。昨夜、エルンストと共に栄養剤を作り、冷めるのを待っている間に仮眠を取ろうと思って眠ったのだ。いつもと様子の違った彼に肩を貸し、頼まれるままに昨日の出来事を話した。その間にエルンストは眠ってしまっていたが、自分がこうしてベッドに寝かされているということは彼はその後起きたのだろう。
 起こしてくれればよかったのに――アイリスは気恥かしさに顔を赤くしながらベッドに潜り込みたくなった。しかし、今日は夕方のみ王城の警備に就くだけではあるものの、仕事がそれまで一切ないというわけではない。カーニバルで窃盗などを働いた者の報告書や取り返した金品の返却など、手が空いている者で当たらなければならない仕事はいくらでもある。
 とにかく、起きてエルンストに手間を掛けさせたことを謝らなければとアイリスはベッドから降りた。髪や服装を整えて控えめにベッドを間仕切るカーテンから顔を覗かせれば、エルンストはこちらに背を向けてソファに腰かけていた。


「……おはようございます、エルンストさん」
「あ、おはよう。まだ早いから寝ててもよかったのに」
「いえ……あの、お手数をお掛けしてしまってすみませんでした」


 そう言って頭を下げると、「いいよ、気にしないで。俺の方こそごめんね」と微苦笑の混じった声が聞こえた。頭を上げると、エルンストはソファから立ち上がり、備え付けの簡易キッチンへと近付いていた。そして、振り向かずにアイリスには座っているように告げると、「簡単なものしか用意できないけど、朝ご飯食べて行きなよ」と彼は口にした。


「でも、」
「いいから。それに食堂が開くのもまだ先だよ」


 エルンストは手早く朝食の準備を始めてしまった。それを断ることも気が引けたアイリスは礼を口にしてからソファへと座った。窓の外へと視線を向ければ、外はまだ薄暗く、太陽も昇っていない様子だった。それでも溜まっているであろう仕事のことを思えば、夕方までの時間などあっという間になくなってしまうだろう。
 そんなことを考えている間にも医務室には薬品のにおいではなく、美味しそうなにおいが広がる。白衣を羽織ったエルンストは手慣れた様子でフライパンを手にしていた。一体何を作っているのだろうかという興味があり、手伝おうかと思うものの、座っているように言われた手前、覗きに行くことは出来ない。丁度腹の虫も空腹を訴え始めたところであり、アイリスはエルンストが用意してくれる朝食を楽しみに待つことにした。


「……昨日は、ありがとう」
「え、……あ、いえ。わたしは大したことはしていませんから」
「そんなことはないよ。途中で寝ちゃったけど、アイリスちゃんが面白い話を聞かせてくれたから嫌な夢を見ずに眠れた」


 だから君には感謝してる。
 そう言うエルンストの口振りから、いつも魘されているということが伺える。そんな状態で身体の疲れはちゃんと取れているのだろうかと心配になるも、自分に話してもいいと思った時に聞かせて欲しいと昨夜自分で言った手前、尋ねることは出来なかった。代わりに、アイリスは「それじゃあ、いつでも呼んでください」と不甲斐なさを感じながら向けられる白衣を羽織った背に声を掛けると、微かに笑った気配がした。


「大したものじゃなくて悪いんだけど」


 そう言いつつ、エルンストが皿をアイリスの前に置いた。焼き立てのトーストとスクランブルエッグにベーコンに、小皿に入れられたサラダとスープが付く。最後に湯気立つ珈琲が置かれると、朝食の出来上がりだった。大したものではないとエルンストは言うも、アイリスにとっては十分すぎるものである。
 ぱっと顔を輝かせる彼女にエルンストは笑みを漏らしつつ、自身の分の珈琲に口を付ける。アイリスの前には朝食が用意されているものの、肝心の本人の分がない。食べないのかと首を傾げると、「俺はもう食べたんだ」と彼は笑った。


「アイリスちゃんが起きるのを待っててもよかったんだけど、いつ起きるか分からなかったからね」
「う……すみません」
「いや、元はと言えば俺が先に寝たからアイリスちゃんも動けなかったんだ。悪いね、肩とか凝ってない?」
「あ、はい。それは平気です」


 今更ながらに頬が赤くなる。昨夜はその体勢以上にエルンストの様子が気になってはいたものの、今になって冷静に考えてみるととんでもない体勢だったように思う。誰かが医務室に訪れていたのなら、確実に勘違いされていただろう。
 アイリスは頬の熱を掻き消すように珈琲に口を付け、そして「いただきます」と告げてからエルンストお手製の朝食を食べ始める。見た目も然ることながら、味付けも完璧だった。料理が上手いとは思いもしなかったアイリスは一口食べるなり、驚きに目を瞠った。


「美味しいです!」
「そう、口に合ってよかったよ」
「エルンストさんって料理がお上手なんですね」
「別にそれほど得意ってわけじゃない。料理なんて薬品の化合と大して変わらないからね」


 エルンストらしい言葉ではあるものの、アイリスは苦笑を浮かべた。それでも、こうして用意してくれた朝食は美味しく、本人はそれほど得意ではないとは言っているが、十分得意だと名乗っていいものだと彼女には感じられた。
 そうして半分ほど平らげたところで、不意に視線は昨夜作っていた栄養剤の寸胴があった場所へと向けられる。寝る間際までは確かにあったそれは、今その場にはない。思わず「あ!」と声を漏らしたアイリスに、エルンストはどうしたのかと視線を向けた。


「あの、栄養剤は……」
「それならもう持って行ったよ。俺が起きた頃には完成してたから鍋ごと運んで後は自分たちでやるように言っておいた」


 そしたら、綺麗に鍋まで洗って返って来たから手間が省けて助かったよ。
 これからは配布も向こうに任せようかなと言わんばかりの様子のエルンストにアイリスは微苦笑を浮かべる。起こしてくれたら手伝ったのにとも思うが、済んでしまったことを蒸し返しても仕方ない。仮眠のつもりだったにも関わらず、何かしら物音はしていたはずなのに一向に起きることが出来ず、手伝えなかったのは自分の不手際でしかない。
 何より、エルンストも決して意地悪でアイリスを起こさなかったわけではない。寝かしておいてあげようという気遣いからのものであるということは明らかであり、どうして起こしてくれなかったのかと口にするのも見当違いだ。


「昨日は寝かせてくれてありがとうございました。ただ、次からお手伝いしたいので起こしてくださいね、エルンストさん」


 珈琲のカップに付けていた口を離して言うと、エルンストは暫し目を瞬かせ、それから苦笑いを浮かべながら頷く。「そういう言い方が君らしいね」と言う彼にアイリスは軽く首を傾げた。何かしらの特徴的な言い回しをしたつもりはないのだが、エルンストにとってはそうらしい。
 具体的に聞こうにも、聞いたところで彼の様子を見ると教えてくれる気配はない。悪く言われてもいない為、わざわざ根掘り葉掘り追及することもないだろうとアイリスは思いつつ、珈琲を飲んでいると「まあ、次があればね」とエルンストは僅かに眉を下げて笑った。


「……エルンストさん?」
「何でもないよ。ほら、冷めちゃう前に食べた方がいいよ」


 彼らしくない微笑に思わず声を掛けてしまう。しかし、次の瞬間にはいつもの軽薄な笑みをその顔に湛え、エルンストはアイリスに食事を勧めた。自身は書類へと目を通し始め、それきり口を開く気配はなかった。
 言われるがままにアイリスはそのまま食事を続け、出された朝食をぺろりと完食した頃には外は明るくなっていた。廊下からも賑やかな声が聞こえ始め、どうやら食堂が開いたらしい。仕事をするにしても、まだ時間が早すぎる。部屋に戻って少しのんびりしようかと思いつつ、テーブルの食器を片づけるべく立ち上がると、書類に視線を投じていたエルンストの視線も上がる。


「いいよ、そのままで」
「いえ、これぐらいは」


 さすがに食べっぱなしということは気が引ける。アイリスは水場へと近づき、食器を洗い始めた。暫くの間は背中に視線を感じていたものの、程なくして書類へと視線を戻したらしい。
 聞こえて来るのは水の音と食器同士が小さくぶつかる音、そして廊下から聞こえる賑やかな声と窓の外の鳥たちの囀りだ。昨日までの日々とあまりに掛け離れた現状につい驚きを感じてしまう。それも、この部屋にはエルンストもいるのだ。彼の手料理を食べることになるとは思わなかったし、きっかけはともあれ、昨夜は添い寝までしてしまった。今更ながらに照れのようなものを感じつつ、アイリスは無心になるべく然して汚れていない食器を丹念に洗い続けた。


「ご馳走様でした、エルンストさん。美味しかったです」
「お粗末さまでした。気に入ってもらえたなら何よりだよ」


 食器を洗い終え、気持ちも静まったところでアイリスは部屋に戻る旨を告げた。すると、エルンストは書類をテーブルに置いて彼女を送り出すべく、扉の近くまでやって来た。
 扉を開けると、よりいっそう耳に食堂からの賑やかな声が聞こえて来る。そこでアイリスは昨日、アベルが体調を崩して寝こんでいたのだということを思い出す。彼の性格を思えば、決してエルンストに頼ろうとはしないだろう。しかし、やはり一度診てもらっておいた方がいいと思い、アイリスはそのことをエルンストに伝えた。


「あの生意気なアベルが……、そっか、折りを見て様子を見て来るよ」
「お願いします。それではわたしはこれで、ありがとうございました」


 アイリスは軽く頭を下げて廊下に出ると、エルンストは軽く手を振って彼女を見送った。一先ずは部屋に戻ろうと見送られるままに寮への階段へと歩を進める。そして階段へと続く廊下の曲がり角を曲がったところで、影から腕を引っ張り込まれた。一体何者なのかと僅かに眉を寄せながら顔を上げれば、そこにいたのは予想外の人物だった。


「エマ!」
「見たわよ、アイリス!」
「え?……見たって……」


 曲がり角からアイリスの腕を引っ張り込んだのは寮の同室であり、年も比較的近いエマだった。興味深々とばかりに瞳を輝かせるエマにアイリスはたじろぎながら後退するも、腕は解放されないままである。一体何がどうしたというのだろうかと思っていると、「とにかく、部屋に戻るわよ」とエマは半ば引き摺るようにしてアイリスを宛がわれている寮の部屋へと連れて行った。
 部屋は丁度朝食時ということもあってアイリスとエマの他には誰もいなかった。部屋に着いて漸く解放されたアイリスは一先ず自身のベッドへと腰かけると、その向かい側のベッドにエマが腰かける。


「それで、何なの?エマ」
「何なのって、こっちが聞きたいわ!まさかアイリスが朝帰りするなんて!」
「あ、朝帰り!?」
「それも相手はあの女嫌いで有名なシュレーガー先生じゃない。何がどうしてそうなったのか、きっちり教えてもらうわよ!」


 すっかりと興奮して前のめりになるエマにアイリスは引き攣った笑みを浮かべつつ後ずさる。朝帰りであるという認識はアイリスにはなかったものの、改めて考えてみればそう言われても致し方ない点は多い。何も告げずに朝まで帰らず、エルンストが自分の城であると主張している医務室から彼に見送られて出て来たのだ。この場面を見たエマが朝帰りだと口にしても何らおかしなことではない。
 アイリスは何て説明するべきだろうかと頬を掻いていると、「アイリスは好みのタイプがああいう人だったなんてね」とエマは興味深そうに呟く。彼女の中では既にアイリスとエルンストが付き合っているということになっているらしい。これは早く誤解を解かなければと「最初に言わせてもらうけど、わたしとエルンストさんは付き合ってないからね」と早口に言えば、エマは目を瞬かせた。


「え、付き合ってないの?嘘!」
「嘘じゃないよ、そういう事実は一切ない。わたしとエルンストさんは、元上官と元部下でしかないよ」
「……元上官と元部下って、それなのに会ってるの?というか、前から気になってたけどアイリスって先生のこと名前で呼んでるのよね」
「それはまあ……何となく」


 軍医であるエルンストのことはエマが呼んでいたようにシュレーガー先生と呼ぶ者も多い。無論、アイリスだけでなくレックスやレオ、アベルがそうであるように名前で呼んでいる者も少なからずいる。が、あくまでも少数派でしかない。それは偏にエルンスト自身が彼ら以外に対しては素っ気ない対応を繰り返している為である。
 エルンストは何かとアイリスの世話を焼いている。それは彼女の記憶にはないものの、彼とは入隊試験の時に顔を合わせているからだと思っている。後はやはり、僅かな期間ではあったものの、アイリスがエルンストが指揮を執っている後方支援に配属されていたからだろう。しかし、それだけではエマは納得しないらしい。 


「先生って女嫌いで有名でしょ?それなのにアイリスとは親しくしているみたいだから前から気になってたの」
「前からって……。親しくって言っても、普通だと思うけど」
「十分親しいわよ、女嫌いで男に対して以上に女には素っ気ないんだもの」


 そう言ってエマは眉を寄せる。その様子にアイリスは首を傾げつつ、エルンストと親しくなりたいのだろうかと考える。感じた疑問をそのまま彼女にぶつけるとエマは一瞬きょとんとし、それから呆れたように溜息を吐く。


「当たり前でしょ!先生は顔立ちだって整っていて、軍医としても軍人としても腕が良い上に名門貴族の出自!こんなに三拍子揃ってる人なんていないもの!まあでも、天は二物も三物も与えないって本当ね、性格はかなりの難ありだもの」


 性格についてはアイリスも思わず同意してしまった。エルンストが女嫌いであるということは嘘だと本人から聞いているものの、噂を訂正しようとはせず、また、そのように感じられる振る舞いを分かっている上で行っているのだから決して性格が良いとは言えない。けれど、難ありではあるが、優しいところもあり、脆いところもあるのだということをアイリスは知っている。
 だが、それは口にはしなかった。言ってしまえば、エマに根掘り葉掘り聞かれることは目に見えて明らかである。今はとにかく誤解を解くことを優先しなければならないのだ。


「でも、そういう人に限って恋人にはすっごく優しかったり甘かったりするものね。そこのところはどうなの?アイリス」
「だから、わたしとエルンストさんはそういう関係じゃないんだってば」
「えー……」
「えー、じゃないの!」
「じゃあ、今はそういう関係じゃないとしても今後は?今後そういう関係になりたいとか、そういうのは?」
「今後って……わたしは、別に……」


 エマはどうやらこういった恋愛話が好きらしい。拙い相手に見つかったと今更ながらにアイリスは頭を抱えたくなった。こんなことなるとは思いもしなかった。どうしてもっと早くに目を覚まさなかったのかと、昨夜の自分を呪いたい気持ちでいっぱいになる。
 こういった話はアイリス自身、慣れないものだった。孤児院にいた頃なら未だしも、養父に引き取られてブリューゲルで生活するようになってからは周りに同年代の異性は居らず、友人と呼べる存在も居らず、恋なんて考えたこともなかったのだ。そのためか、自分がこうした恋愛にまつわる話をしているのだと思うと、つい照れて顔が熱くなってしまう。しかし、そんな彼女の事情を知らないエマからしてみれば、蒸気した頬は興奮の燃料にしかならない。


「アイリス、顔真っ赤よ。やっぱり先生みたいな人が好きなのね、意外だけど」
「ちょ、エマ!わたしはそんな、」
「いいからいいから。私はてっきりレックスさんとかレオさんみたいな人だと思ってたのに。年上で明るくて面倒見がいい感じの人!ほら、仲良いでしょ?」
「仲は良いけど……」
「あ、でもアベルとも仲が良いのよね。うーん、けど、アベルって性格が……あ、もしかして、アイリスって意外と性格に難がある人が好きなの?」


 それはそれでどういう好みだ、と突っ込みたくなる気持ちを抑えながらアイリスは溜息を吐いた。何を言ってもエマの耳には都合が良いようにしか届かないらしい。本当にどうすればいいのだろうかと溜息を吐きながらそのままベッドに寝転がると、「もう、ちゃんと聞いて!」とエマが拗ねる。寧ろ、ちゃんと聞いてと言いたいのはわたしの方だとアイリスは溜息を吐きながら寝返りを打ってエマに視線を向ける。


「何度も言うけど、わたしは」
「先生とは付き合ってないんでしょ?分かったってば、それは信じる、信じるわ。でも、これから先、どうなるかなんて分からないじゃない」
「……どうにもならないよ」
「分からないんだってば。それで、アイリス自身は先生のことどう思ってるの?」
「どうって言われても……」


 好きか嫌いかで言えば、もちろん好きだ。最初は苦手に感じていたものの、話しているうちに苦手意識はいつの間にか消えていた。毒舌できついことを言われることも多々あるものの、普段はごく普通で優しくしてもらっているとも思う。しかし、今までは特にエマが言うような目でエルンストを見ていなかったこともあり、何とも言えない。
 煮え切らないアイリスの態度にエマは眉を寄せ「ほら、かっこいいとか優しいとか頼りになるとか、色々あるでしょ?」と彼女は言う。しかし、それらを口にすればどうなるかは明らかであり、アイリスは何とか誤魔化そうとするものの、エマの追及は続く。


「まさか先生相手に何とも思わないなんてことはないんでしょ?あの顔よ?」
「顔って言われても……まあ、確かに綺麗な顔立ちだとは思うけど。あ、でも」
「でも?」
「寝てるところは結構、可愛いかも」


 アイリスの肩に頭を預けて眠っていた時のエルンストを思い出す。可愛いかもしれないとその時は思ったが、これまでのエルンストの言動を思い返せば、寝顔は比べものにならないほど可愛らしいものだった。そのことにアイリス自身、納得するように何度か頷いていると、呆気に取られて固まっていたエマはにんまりとした笑みを浮かべていた。


「ねえ、知ってる?アイリス」
「何を?」
「男の人を可愛いと思うのって、好きの始まりなんだって」
「え、っ」
「それじゃあ私はこれから任務だから!また色々聞かせてよね」


 最後に大きな爆弾を落とし、エマは颯爽と部屋を後にした。一人残されたアイリスは閉まる扉を見つめながら唖然とするしかなかった。彼女が口にした言葉を頭の中で反芻した途端に、頬がこれ以上ないほどに熱くなる。
 アイリスは枕に顔を押し付け、それはない、そんなことはないと自分に言い聞かせるも、なかなか頬の熱は冷めやらない。アイリスはそのままぎゅっと枕を抱き締めながら溜息を吐く。忘れてしまおうと目を閉じるも、瞼の裏には先ほど可愛らしいと思ったエルンストの寝顔が浮かぶ。
 途端にアイリスは目を開き、慌てて頭を振った。そして自分自身を落ち着かせるように深呼吸を繰り返す。頬の熱は冷めるどころか増すばかりであり、エマの言葉も少しも頭から消えてはくれない。熱を持つ頬に手を遣り、アイリスは大きな溜息を吐く。任務自体は夕方からだが、それまでにもしなければならないことは多くある。しかし、この頬の熱が引かない限りはたとえ一歩であったとしても、部屋を出られそうにはなかった。
 


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