カーニバル - stray cat -



「ところで、エルンストさんが言っていた役得って何のことだったんですか?」


 花火が終わっても、街は相変わらず賑わっていた。カーニバルの終わりを惜しむように最後まで楽しもうとする人々の声を遠くに聞きながら、アイリスはゲアハルトと並んで宿舎へと続く小道を歩いていた。
 ゲアハルトの執務室での花火観賞を終え、アイリスは宿舎に戻ろうとしたのだが彼が送ると口にしたのだ。一人でも平気だと彼女も最初は固辞していたものの、夜に一人で歩かせるわけにはいかないと結局は押し切られる形でこうして宿舎へと二人並んで歩いているのだ。
 アイリスは先ほど、エルンストが手が足りずに呼び出された時のことを不意に思い出し、彼が言っていたのはどういう意味だったのだろうかと疑問に思った。そのため、先のことを口にしたのだが、その途端にゲアハルトはぴしりと音を立てて固まってしまった。


「司令官?どうかされましたか?」
「……いや、何でもない。あいつの言ったことは……気にしなくていい」
「そうなんですか?」
「ああ。何というか……あいつは花火を見ながら酒が飲みたかっただけだ。あいつは怪我人や病人が出たら呼び戻されるが、俺は帝国が攻めて来ない限りは急に呼び出されるということもないから、そういう意味で言ったんだろう」


 いつになく饒舌なゲアハルトに微かに首を傾げるも、エルンストが酒好きであるということは先ほどの様子からも明らかであり、彼の言うことは尤もに思えた。「エルンストさん、お酒好きなんですね」と言うと、ゲアハルトは小さく息を吐き出しながらもげんなりとした様子で柳眉を寄せる。


「あいつは飲み過ぎだ。いつもいつも好き勝手に飲み散らかして……」
「よく一緒に飲まれるんですよね。どちらがお酒、強いんですか?」
「……あいつ、だな。多分。昔一度飲み比べたことがあるが、朝まで飲んでもけろりとしていた」
「朝まで……」


 いつから飲み始めたかは知れないが、それでも朝まで飲んだということはかなりの時間、飲んでいたのだということが分かる。いくら何でもそれは飲む過ぎだろうとアイリスが乾いた笑みを浮かべていると、「若い頃の話だ」とゲアハルトは微苦笑を浮かべる。


「若いって言っても、司令官は今も十分お若いでしょう」
「アイリスと比べたらそうでもない。二十四だからな」
「十分お若いですよ!それに、わたしと比べたって仕方ないです。わたしなんて司令官と比べたらただの小娘ですから」
「それは意気込んで言うことではないと思うが」


 ゲアハルトは可笑しそうに笑いつつ、ぽんぽんとアイリスの頭を軽く叩く。されるがままになりながらも、彼女は照れ臭さを感じる。自分でつい先ほど、小娘だということは口にしたものの、こうして実際に子ども扱いされるとどうにもむず痒さがある。けれど、それを感じると同時に心地よさもあり、何とも言えない感情が心に広がった。
 ちらりと覗くように視線を上げると、口元まできっちりとマスクで隠したゲアハルトと視線が重なる。そして少しだけ明るい青の瞳を細めて笑う彼に曖昧に笑い返し、アイリスはすぐに視線を伏せた。ゲアハルトの纏う空気がいつもよりも柔らかく、どうしたらいいのかが分からなくなってしまう。
 これは全て酒のせいだと自分に言い聞かせ、アイリスは自分を落ち着かせるようにゆっくりと呼吸を繰り返した。そうして、もう一度視線を持ち上げ、今は前を向いている彼の横顔を見た。花火を見ている時、マスクは下げられていた。月明かりと花火に照らし出されたあの横顔はとても綺麗で、自分以外の誰かもこの横顔を見たことがあるのだろうかと、そんなことさえ考えてしまった。


「アイリス?」
「あ、いえ……。えっと、お酒がお好きなのは構わないのですが、量は気を付けた方がいいのになーと思って」
「ああ、そうだな。エルンストには今度、アイリスからも言ってやってくれ。あいつは軍医なんだから加減を知るべきだ」


 いつもいつも、勝手に俺の酒を飲みまくっていて困っている。
 そう言ってゲアハルトは額に手を遣り、溜息を吐く。どうやら、棚を漁って酒を見つけ出してエルンストが飲み始める、ということは今に始まったことではないらしい。ならば、ゲアハルトも隠し場所を変えればいいのにと彼女は考えるも、エルンストならばたとえ隠し場所を変えたとしても容易に見つけてしまいそうだとも思った。


「そう言えば、エルンストさんって軍医になる前は第一所属だったんですね」
「そうだが、あいつから聞いたのか?」
「はい、教えて頂きました。司令官とヒルダさんと同期で、自分は特例で入隊したって」
「そうか。あいつはあまり人に自分のことを話さないから驚いた」


 そう言いながらも、ゲアハルトの顔はどこか嬉しげでもあった。入隊した頃から知り合いだと考えれば、ゲアハルトとエルンストの付き合いは六年にも及ぶものだ。二人が親しいことを知っているアイリスからしてみれば、ゲアハルトはエルンストのことを文句を言いながらも弟のように思っている風に見えていた。
 それを口にすれば、きっと彼は否定するだろう。アイリスはこっそりと笑みを浮かべ、そして少しだけ視線を下げた。
 エルンストはアイリスに自分のことを話してくれるようになった。そのことを彼女はとても嬉しく思っている。けれど、今こうして隣に歩いているゲアハルトは、自分のことは決して話してはくれない。当たり障りないことは話してくれても、エルンストのようには話してくれないのだ。それが少し、寂しく思えたのだ。


「どうかしたのか?」
「いえ、今日でカーニバルが終わるのだと思うと、少し寂しくて」


 アイリスの様子に気付いたゲアハルトが声を掛けるも、彼女は軽く首を横に振って何でもないとばかりに言う。彼はそうか、と一つ頷き、それ以上は何も言わなかった。
 考えていた本当のことを見透かされずに済んだアイリスは安堵した。もし気付かれていたらと思うと、途端に恥ずかしくなる。彼のことを知りたいと思ったのは本当だが、それは自分には過ぎた願いだと思ったのだ。相手はベルンシュタインの国軍を指揮する司令官であり、自分は一介の軍人に過ぎない。縁があってこうして並んで歩くような間柄にこそなったものの、本来ながら口を利くことも憚られる相手だ。
 それでも、時折浮かべる悲しげな表情や切なげな横顔が忘れられないのだ。出会って間もない頃は、それこそなんて冷酷な人間なのだろうと思っていたことを思えば、今では正反対な思いを抱いている自分の思わず苦笑してしまう。ただ、冷酷な一面もまた、彼を形作る一面であるとは思っている。だからこそ、時折ゲアハルトという人間のことが分からなくなってしまってもいた。


「……司令官」
「何だ」
「もう、この辺りで平気です」


 聞いたら答えてくれるだろうかと思い、言葉が口を突いて出かかった。けれど、それを何とか飲み下してアイリスは足を止めた。宿舎の門までそれほど距離もない。此処まで送ってくれただけでも十分であり、彼女はゲアハルトの「送って下さってありがとうございました」と頭を下げた。


「いや、構わない。もう疲れただろうから、部屋でゆっくり休むといい」
「そうします。司令官も、……いえ、まだお忙しいですよね。でも、たまには早めにお休みになってください」
「ああ、そうする」


 ゲアハルトはそう言って目を細めて笑う。その空気はやはり柔らかく、それに包まれているとついふわふわとした心地よさに沈んでしまいそうになる。まるで酔っているみたいだと思いつつも、酒は一切口にしていない。ならば、隣でゲアハルトが口にしていた酒のにおいに酔ってしまったのだろうかとも考えるが、においだけで酔ってしまったなどとは考えたくなかった。
 アイリスは努めてゆっくりとした呼吸を繰り返して落ち着きを取り戻し、「それでは、おやすみなさい」とゲアハルトに挨拶する。


「おやすみ、アイリス。いい夢を」


 それだけを言うと、ゲアハルトはゆっくりとした足取りで小道を戻り始めた。その背を暫し見送り、アイリスも踵を返して宿舎へと向かって歩きだした。
 心は一度落ち着けたにも関わらず、ふわりふわりと浮ついてしまう。去り際に鼻腔をくすぐった、彼の酒のにおいのせいか、それとも身体の芯を震わせた花火の音のせいか――そういったことを考えながら歩く彼女の足取りはどこまでも軽い。玄関に足を踏み入れると、宿舎の暖かな明かりと互いを労う賑やかな声に迎えられ、今日はいい夢が見られそうだと彼女は自室へと向かっていった。


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