会戦 - secret mission -



「遅いよ、司令官。待ち草臥れたよ」
「そういうことは直立不動で立っていた時に言え」


 軍令部の執務室の扉を開けると、ソファには我が物顔で寝そべっているエルンストがいた。恐らくはこうなっているだろうと予想はしていたものの、実際に目にするとやはり溜息が出た。しかし、我が物顔でソファを占領しているエルンストもゲアハルトに続いて部屋に入室したヒルデガルトを見ると、不味いとばかりに顔を引き攣らせてすぐさま身体を起こした。だが、時既に遅し、ソファに寝そべっているところはしっかりと彼女に見られていた。


「エルンスト、お前は本当に行儀というものがなっていないな!」
「な、何で此処にバルシュミーデ団長が……いや、まあ何ていうか、俺も疲れていたというか……」
「疲れていようがいなかろうが、上官の執務室のソファを我が物顔で占領するというのは部下以前に人間として、」
「ヒルダ、今は構うな。何を言ってもこいつは学習しない」


 延々と続くかと思われたヒルデガルトの説教を打ち切ったのは意外にもゲアハルト自身だった。存分に彼女に説教されればいいと思ってはいるが、今はその時間が惜しい。「こいつには後日、改めて説教してやってくれ。地下の独房の使用許可を出しておく」とさらりと言い放つと、珍しくエルンストの顔色が変わった。
 普段は何でも好き勝手しているエルンストだが、彼にも苦手としているものはある。そのひとつが、ヒルデガルトだった。常識や規則といったものに厳格な性格の為、第一騎士団に共に所属していた頃から事あるごとにエルンストは彼女に説教されていた。出会った当初に比べれば、随分とエルンストの態度や行動も改善されてはいるものの、まだまだヒルデガルトの説教は終わりが見えない。これで少しは反省すればいい、と日頃から勝手に棚を漁られているゲアハルトにしてみれば、今のこの状況は面白いものだった。


「今は時間が惜しい。本題に移るぞ」
「それじゃあ、まずはさっきの会議でどういう話になったのかを教えてよ」
「そうだな。作戦は以前、話した通りだが、――」


 不自然なほどにヒルデガルトとの距離を開けてソファに座るエルンストに内心微苦笑を浮かべながら、ゲアハルトは先ほどの会議室でのことを口にする。所々、共に参加していたヒルデガルトが補足を挟みながら説明を終えると、先ほどまでとは打って変わって真面目な表情をしているエルンストが「おかしいね」と呟いた。


「ルヴェルチが大人しすぎる。いつもなら、あいつの派閥のアホ団長共と一緒になって喚くでしょ?」
「ああ。いつも通り、ベーデガーたちは噛みついて来たが、ルヴェルチは何も口を挟まなかった。私の席からはベーデガーたちがルヴェルチに視線を送っているのが見えていたが……あいつらの様子からすると、何の反応もなかったのだろう」
「……つまり、ルヴェルチにとってはあいつらはもう必要がないのかもしれないな」


 だが、ベーデガーらを手放すということは、軍部におけるルヴェルチの足掛かりを失うということでもある。他にルヴェルチに手を貸す者はゲアハルトが調べた限りではいない。だからこそ、先ほどのルヴェルチの態度が気に掛かるのだ。
 他に何らかの手段を手に入れた可能性も考えられる。特に最近、ルヴェルチは裏で何か動きまわっているのは明らかなのだ。それが何なのかまではまだ調べきれていないものの、急いだ方がいいことは確かだ。あと数時間後にはホラーツやゲアハルトを始めとする軍部の人間の大半は戦場に出ることになっている。ルヴェルチにとってはまたとない好機でしかない。


「ルヴェルチの見張りの人数を増やす」
「それならうちの私兵から出すよ。身分証明の偽造は俺がやるから判子だけ頂戴」
「分かった。……ヒルダ、そう顔を顰めるな」
「仕方のないことだとは分かっているし、下手に部下から人数を割くよりいいとは私も思っている。ただ、こういう話は好かないだけだ」
「真面目だねー、バルシュミーデ団長は」


 溜息混じりに言うエルンストにヒルデガルトは柳眉を寄せる。けれど、今はそれ以上、何も言わないということは彼女自身、これが今出来る最善のことだと思っているからだろう。


「それで、ゲアハルト。さっさと本題に移れ。ルヴェルチの件も大切だが、それだけではないだろ。お前の考えてる今度の作戦は、あれだけではないはずだ」


 真っ直ぐに向けられる視線にゲアハルトは何でもお見通しか、と肩を竦める。昔から彼女は鋭かった。勘がいいのだろうと思いつつ、ライゼガング平原一体の地図をテーブルに広げる。


「帝国軍は現在この辺りに布陣している。そして此方が布陣するのは此処だ」
「先ほども思ったが、随分とクラネルト川寄りに布陣するな。それとも先にこのヘルト砦を落とすのか?」
「いや、ヘルト砦は落とさない」
「なら……」
「……この戦闘はこちらが負ける。クラネルト川寄りに布陣しているのはすぐに撤退する為だ」


 ゲアハルトが口にした言葉にヒルデガルトは目を瞠った。信じられないとばかりに向けられる視線に彼は視線を伏せた。


「戦略的撤退ってやつだね。帝国軍本隊と真っ向勝負するなんてまだ無理なんだよ、バルシュミーデ団長」
「だが、それなら、」
「今回の戦闘はあくまでも帝国軍本隊の戦力を削る為の戦闘だ。勝利を目的とはしていない。あくまで最優先すべきは帝国軍の戦力削減と此方がより多く生き残ることだ」
「……陛下はこのことを……」
「既にお伝えして了承は得ている」


 全てを理解した上でホラーツは出撃命令を出した。元より負けることを前提に話を進めていれば、そのうち撤退するのだから、と心に隙が出来てしまう。だからこそ、それは知らされることはなく、あくまでも勝利する為に、国を守る為にと大義を掲げた。
 だからこそ、こうして事実を告げられたヒルデガルトは動揺している。元から勝つ気がないなどと、真面目な彼女にとっては耐え難いことだろう。けれど、これを話したのはどうしてもヒルデガルトの協力が必要だからだ。また、彼女の性格を思えば、こうして話しておかなければ、決して撤退など選ばないことが目に見えていたからだ。


「……このことを公表しないのは、気を引き締めさせる為か」
「そうだ」
「……私にこのことを話したのは……」
「君の協力が必要だからだ」
「……何の為に」
「これから先、帝国軍に勝つ為に」


 目先の勝利を手に入れさえすれば、相手に勝てるというわけではない。目先の勝利を捨ててでも、その先の勝利こそ、本当に得なければならないものだ。
 ならば、連戦連勝という誉れも喜んで捨てる。明るい青の瞳は決然とした覚悟を秘めていた。


「……分かった。お前の指示に従おう、ゲアハルト」


 ヒルデガルトは気を緩め、そして溜息混じりに口にした。そんな彼女にゲアハルトは礼を述べ、改めて視線をテーブル上の地図へと向けた。
 ベルンシュタインの本隊はクラネルト川中流域寄りに布陣する。そして、先ほどの会議で彼が説明した通りに二層三層の防御線を敷くことになっている。その先鋒はルヴェルチ派であるベーデガーとエメリヒが率いる第十、第十一騎士団、そして第四騎士団である。その後ろに交代要員として第一から第六騎士団が控えている。
 そこまでを改めて口にしたゲアハルトは、「だが、実際には第二と第三は別働隊として極秘任務に就いてもらう」と口にした。


「極秘任務?」
「ああ。別働隊として、帝国領に侵入し、破壊工作任務に就いてもらう」
「破壊工作って……何を……」
「それほど難しいことではない。単純にこれから先、帝国軍が攻めて来られる道を一本化させるだけだ」


 これまで、あらゆる場所から帝国軍は攻めて来た。川を越え、山を越えて来た。だが、それに対応するには常に国境に目を光らせていなければならず、騎士団もあらゆる場所にすぐに対応出来るように国内に点在させる必要があった。点在させることによって攻め込んで来てもすぐに近くの騎士団を派遣することは可能ではあるものの、より多くの兵力を必要として呼び寄せると、その度に穴が出来てしまう。
 今後、更に帝国軍とは国境での小競り合いではなく、今回のような大規模な戦端が開かれることになるだろう。それを思うと、このまま戦力を分散させるべきではないとゲアハルトは考えたのだ。
 その為にするべきことは、帝国軍が攻めて来る場所を一本化させるというものだった。帝国領は広い。その為、ありとあらゆる場所から攻めて来ることは可能だ。だが、行軍する為の道がなければ、いくら場所があったとしても辿り着くことは出来ない。その道を閉ざすことが、帝国領に侵入出来る今回の戦闘の目的の一つなのだ。


「なるほど……それなら、今後此方が重点的に守るべき場所も決められる、か……。だが、そんなに上手くいくものか?」
「恐らくは。仮に思惑通りに事が進まなくとも、帝国軍の動きを麻痺させることは可能だろう。元より負け戦だが、タダで負けてやる必要はない」
「それはそうだが……」
「ライゼガング平原には南北にクラネルト川の支流があることは知っているだろ。第三には下流域の工作に当たり、補給路を断ち、クラネルト川の支流に掛かる橋を全て落としてもらいたい。順路はこの通りに、間違えると主戦場を突っ切らなければ帰還出来ない。気を付けるように伝えろ」


 半ば無理矢理話をまとめ上げ、ゲアハルトは懐から取り出した地図を手渡す。それを一瞥したヒルデガルトは溜息を吐き、「お前は相変わらず強引だな」と言いながらもそれを仕舞い込む。


「これぐらい強引に事を進めなければ話が進まないからな」
「……それで、第二はどう動くんだ?」
「第二は上流域から侵入して同様に補給路とクラネルト川の支流の橋を全て落とす。一番の目的はこの橋だ」


 そう言ってゲアハルトが指し示した地図にはヒッツェルブルグ帝国の要衝であるゼクレス国の近隣だった。それは今回、帝国軍本隊
が布陣している場所よりも更に奥であり、地図で見る限り、簡単に辿りつける場所ではない。その上、橋を落とすのだからそれに誰も気付かないということはないだろう。仮に成功したとしても、無事に帰還出来る可能性は限りなく低い。まさに特攻とも言える出撃であり、ヒルデガルトは渋面を作った。


「この橋は無理だろう」
「いや、この橋は必ず落とさなければならない。……この橋はヒッツェルブルグ帝国に行くには必ず通らなければならない橋だ」
「……だが、ゼクレスに近過ぎる。こんなところまで行って橋を落として来いなんて、死にに行けと言っているのと同義だ」


 北に位置するヒッツェルブルグ帝国に至る橋を落とせれば、本隊が動くどころか命令を届けることさえ困難になる。そうなると、ベルンシュタインが優位に立つことが出来るが、失敗すれば橋に近付くことは今後更に難しくなるだろう。博打とも言えるこの作戦を実行するべきではないとヒルデガルトは口にした。百歩譲って下流域とその橋以外は落とすとしても、最奥のその橋だけは作戦から外すべきだと提案する。けれど、ゲアハルトの表情は微塵も変わらない。


「それに、橋を落としたら此方も帝都に攻め入ることは出来なくなる」
「リュプケ砦から攻め入ればいい。それに、あいつらにとってもあの橋は重要な橋だ、放っておいてもすぐに架け直すさ」


 仮に橋を架け直さずにリュプケ砦方面から攻めて来たとしても、帝都からリュプケ砦まで行軍するには日数と食糧が必要になる。それだけの余裕が今の帝国軍にあるとは思えず、あったとしても布陣や食糧の点から見てもベルンシュタインの方が余程有利だ。
 そして、橋を架け直すのであれば、その間はまともに兵を動かすことは出来ず、ベルンシュタインにとってそれだけ軍の立て直しと白の輝石捜索に時間を掛けることが出来る。これらのことを考えれば、多少無理をしてでも橋を落とす価値はあるのだ。


「だとしても、どの部隊に任せるつもりだ。選択を誤れば、」
「問題ない。任せる部隊はレックスの隊だ。必ず橋を陥落させる」
「……待て、レックスだと?あの部隊にはアイリスがいる!」
「そうだ。彼女もいる。そして、あの部隊が最も攻撃も防御も魔法もチームワークも全ての点で秀でている。……橋を落とすなら、あの部隊が最も成功率が高い」


 ゲアハルトも出来ることならアイリスを外したいとは思っている。彼女を喪うことがあれば、コンラッド・クレーデルの研究もそのまま手掛かりを掴むことなく、永遠に失われてしまう。だが、レックスが率いるアイリス、レオ、アベルの四人の遊撃部隊は彼女も加えてこそ、部隊として成立する。だからこそ、決して抜けさせるわけにはいかないのだ。


「だが、」
「君のそれはただの私情だ。これはあくまでも作戦行動、私情は切り捨てろ」


 酷なことを言っている自覚はあった。けれど、自身もまた、私情は切り捨てたのだ。心配だという気持ちは当然あった。これでアイリスを喪うことになれば、きっと自分は一生自分自身を責めるだろう。彼女の亡き養父にも顔向け出来ない。
 けれど、それでもあの橋には無理をしてでも落とす価値があるのだ。あの橋を落とせば、それだけ帝国軍の動きを止めることが出来る。それだけでなく、白の輝石の捜索に当てる時間も増える。たとえ帝国軍に勝とうとも、白の輝石が見つからない時点でベルンシュタインに未来はないのだ。


「……分かった。お前がそこまで言うのなら、この作戦に従おう。ただし、今後はこんな博打のような作戦は控えろ」
「善処しよう、バルシュミーデ団長」


 確約はしないとばかりの言葉にヒルデガルトは眉を寄せるも、そのまま立ち上がると足早に執務室を後にした。それを見送り、これまで珍しいほどに口を閉ざしていたエルンストが深い溜息を出した。口達者な彼が口を噤むほど、ヒルデガルトは苦手らしい。
 肩の力を抜くゲアハルトに「まあ、これで下流域は何とかなりそうなんじゃないの?」とエルンストは声を掛ける。彼は小さく頷きながらも表情は緩めず、地図を見つめていた。


「それで、ヘルト砦はどうするの?」
「あそこは様子見だ。今のところ、特に部隊が配置されているという知らせもない。捨てたのかもしれないが、かと言ってそれを拾ってやる義理もない」


 届けられる報告だけでは分からないことも多い。現地に行ってみなければ分からないことも多いということもあり、全てを机上で決めることは出来ない。けれど、口に出した通り、たとえ布陣予定の場所近くに空いている砦があろうとも、それが帝国の砦である限り、そう簡単に手を出す気はゲアハルトにはなかった。
 それには同意らしいエルンストも浅く頷き、「何か仕掛けられてたら堪らないからね」と言い添える。リュプケ砦の時のように抵抗している砦を落とすのであれば、話は別だ。けれど、今回はその限りではないからこそ、油断は出来ない。


「……それで、まだ話は全部終わってないよね?さっきまではあくまでもバルシュミーデ団長への話。俺にも何かあるからこそ、呼んだんでしょ?」


 ヒルデガルトが部屋を出たことをいいことに、エルンストはソファに寝そべる。その気の抜けように溜息を吐くも、彼の言う通り、エルンストに用があるからこそ彼を呼び出したのだ。地図を片付けながらゲアハルトはその用件を口にする。


「そろそろ退場願いたい者がいる」
「へー……誰のことだろう」
「ベーデガーとエメリヒ。どちらか片方だけでも構わない、邪魔だ」


 これからルヴェルチは軍部の留守の間に動き回ることだろう。それによって、何がどうなるかは分からない。だからこそ、打てる手は全て打っておきたいところであり、その為にも今回の戦闘は丁度よかった。
 邪魔だ、といつもと何ら変わらない声音で口にするゲアハルトに冷えた視線を向け、「なるほどなるほど、暗殺というわけか」とエルンストも常と変わらない声音で言う。


「人聞きが悪いな。乱戦になるだろう前線に果敢に出撃され、そして力及ばず事切れるんだ」
「言い方を繕っても駄目だよ。まあ、上手くやるからそこは任せておいて」
「……ああ。あと、あの薬の準備も忘れるなよ」
「分かってるよ。けど、司令官があんなの作れって言うなんて思わなかったな」


 エルンストはそう言いつつ、ゆっくりと身体を起こす。そして腕の筋を伸ばしながら微苦笑混じりに口にした。


「普段は法順守で捕虜にしてるのにさ」
「……あれ以上、捕虜は必要ない。国内に爆弾を抱え込むだけだ」
「まあ、それはそうだけど……だったら最初から捕虜になんて取らなければいいのに。変なところで司令官は手緩いよね。俺なら捕虜なんて取らずにその場で殺すよ。まあ、これは俺が言うことではないか」


 準備があるからもう行くよ。
 それだけ言うと、エルンストは足早に執務室を出て行った。一人残ったゲアハルトは深い溜息を吐き出し、深くソファに腰かける。今回の作戦についても、決して何とも思っていないわけではないのだ。出来ることなら、安全な策を取りたい。だが、それではどうすることも出来ないのだ。


「……だが、それも言い訳に過ぎないか」


 何を言ったところで、全ては言い訳にしか過ぎない。決して作戦を変更する気はないのだから、何を思ったところで意味はないのだ。自分に出来ることと言えば、出来るだけ被害が出ないように指示を出すことだけだ。それでも血が流れないということは決してなく、多くの血が流れるであろう戦場を思うと、さすがの彼の沈鬱な表情を浮かべた。










「遅かったですね、ルヴェルチ」
「申し訳ありません、キルスティ様」


 バイルシュミット城のある一室、会議を終えたその足で人知れず訪れたルヴェルチは辺りを見渡してからその部屋の扉を叩き、素早く室内に足を踏み入れた。部屋は然程広くはなく、小さなテーブルと椅子が二脚あるだけで、片方の椅子にはルヴェルチよりも若く見える整った顔立ちの女性が腰かけていた。
 咎めるような声にルヴェルチは頭を垂れ、そんな彼に対してキルスティと呼ばれた女性はふんと鼻を鳴らして顔を逸らした。


「三時間後にライゼガング平原に出撃となりました」
「そうですか」
「陛下にはお会いにならないのですか?」
「今更私の顔など、あの方は見たくはないでしょう」


 キルスティは顔を逸らしたまま事も無げに言い放つ。そんな彼女に対し、ルヴェルチは僅かに顔を顰めた。仮にもベルンシュタイン王国の正妃であり、ホラーツの妻である者が言う言葉ではない、と思ったのだ。夫婦仲が良くないことは城勤めの者なら知らない者はいないが、それでも彼女はこの国の正妃である事実は変わらない。夫であるホラーツが戦場に行くのだから、送り出すことが正妃であり、妻であるキルスティの役目というものであるとルヴェルチは考えているのだ。


「お見送りには必ず行かれますよう。これから動くに辺り、周りの心証は少しでも良いことに越したことはありません」
「今更心証ですって?そんなものを気にしてどうするというのです」
「シリル殿下の御即位の為です、お見送りを」


 彼女は何よりも実子であるシリルの即位を望んでいる。それは王位継承権を持っている人間がシリルだけでなく、もう一人存在しているからだ。そしてその者が実子ではなく、ホラーツの寵愛を受けていた第二妃の子であることがキルスティにとっては許し難いことだった。
 何とかしてシリルを次の王にしたい――その願いを成就させる為に、キルスティは即位に尽力するというルヴェルチの手を取った。それは今から数年前のことになる。そして彼女の願いは、あと僅かで成就しようというところまで来ているのだ。


「……分かったわ」
「ええ、よろしくお願い致します。私もシリル殿下の御為に尽力致します」
「当然よ。それが私と貴方の取引なのだから」
「勿論です。ですから、キルスティ様こそ、私との約束をお忘れにはなりますまい」
「白の輝石なんて石ころ、シリルが即位すればすぐにくれてやるわ」


 その言葉にルヴェルチは内心ほくそ笑む。彼女は何も理解していないのだ、と。白の輝石はシリルの即位などと比べられるものではない。けれど、キルスティはそれに気付くことなく、取引を持ち掛けた時にシリルの即位に尽力した暁には、と交換条件として述べた。彼女にとっては本当にただの石ころに過ぎないのだろう。
 しかし、ルヴェルチもどうして白の輝石をキルスティが所持しているのかは不思議でならなかった。それがベルンシュタインの国宝であるということを彼女が知らないはずがないのだ。けれど、それを彼女は所持し、交換条件として提示した。ルヴェルチがそれを探し求めていることを知っていてはったりを口にしている可能性も捨て切れない。だが、白の輝石の形状について、取引した際に尋ねた時に彼女はルヴェルチが遠い昔、一度だけ見たことのある石の特徴と同じことを口にしたのだ。
 どういう理由であれ、キルスティは白の輝石を所持している。そして、このことを知っているのは自分ただ一人だけであり、ゲアハルトでさえもまだこのことを知らずにいる。手に入れるには今しかない。その為に、シリルを次の王位に付けることなど、ルヴェルチにとっては然程難しいことではなかった。あと少し、あと少しで全ては上手くいく――ルヴェルチは浮かびそうになる笑みを噛み殺し、「それでは、私は戻ります。手筈を整えねばなりません」と深く頭を垂れる。
 そもそも取引を持ち掛けて来たのはキルスティからだった。ゲアハルトに失脚に追い込まれた時は自分の命運も尽きたかと思いもしたが、そんなことはなかったのだと頭を下げながらルヴェルチはほくそ笑む。全てはこれからなのだと、笑い出したい衝動に駆られながらもルヴェルチは足早に部屋を後にした。こんなに愉快な気持ちになったのは、数年ぶりのことだった。


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