会戦 - secret mission -
空には青白い月が昇っている。馬を休ませる為にも一度休憩を取ることになり、小さな川の傍でアイリスらは足を止めた。レックスとレオは辺りを探って来ると言って足早に手分けして森の中へと踏み込んでいき、その間にアイリスとアベルは馬を連れて川辺に向かった。
木々の隙間から差し込む月明かりだけが光源であり、その光が届かない森の中はあまりにも暗い。レックスとアベルは大丈夫だろうかと思いながら水を飲んでいるアベルの隣に腰掛けた。
「気分悪いの?」
「……平気。苦手なのは馬車だけだから」
濡れた口を手の甲で拭き、アベルは深い溜息を吐く。平気だとは言っているものの、その横顔は酷く憂鬱なもので無理しているのではないかと心配になる。だが、本人があくまで平気と主張しているところを気遣うことはただのお節介にしかならない。少し様子を見た方がいいのだろうと決めると、アイリスは「そっか」とだけ返した。
森の中は静かで川のせせらぎの音しか聞こえない。月明かりを反射する水面はきらきらと煌めき、それはとても綺麗な光景だった。思えば、こうしてアベルと二人きりになることは久しぶりのことだった。カーニバルの最中に体調を崩してから顔を合わすことが減っていた。その間の鍛錬もずっと一人で続けていたのだ。そのため、色々と話したいことはあった。少しは上手くなったように思う攻撃魔法も見て欲しかった。けれど、とても静かなこの空気を壊すことは躊躇われ、言葉は浮かんで来ても喉の奥に引っ掛かったように声にはならなかった。
「……あんたは」
「……うん」
「覚悟は出来てるの?」
たった四人で帝国の要衝を落とすのだ。もしかしたら、警備に当たっている帝国軍の何倍もの人数の兵士らに取り囲まれるかもしれない。今までとは比べものにならないほど、成功率の低い任務だ。自分が死ぬかもしれない、仲間が死ぬかもしれない――アベルが口にした覚悟とは、そういうものだ。
彼の口にしたそれにアイリスは視線を伏せる。覚悟が出来ているかと言われれば、すぐには頷けない。迷いも恐怖もあるのだ。死ぬことは怖い、仲間を失うことも怖い。けれど、これから先の勝利の為に、この任務は必要なことなのだとゲアハルトは言った。そして彼は、たとえ成功率が低くとも、出来ないことを人に命じるような人物ではない。出来ると思ったからこそ、信じたからこそ命令したはずだ。その信頼に応えたいと思ったのだ。誰をも信じることのない人が信頼してくれたのだ、それを思うとこんなにも嬉しいことはない。
「……覚悟が出来てると言えば嘘になるよ。死ぬのは怖いし、みんなが死ぬのは嫌だからね。……でも、出来るって信じてくれた司令官のご期待には応えたいと思ってる」
「……」
「わたしは自分に出来ることがしたくて入隊したって言ったことがあったよね。だから……この任務がわたしに出来ることなら、成し遂げる為に一生懸命やるだけだよ。後の事は……正直に言うと、考えてないの」
自分が死ぬかもしれない、みんなが死ぬかもしれない、そんなことを考えたら足が竦んで動けなくなりそうだから。
それらは決して有り得なくはないことだ。最悪を想定する為にも、それらのことから目を背けるべきではないちうことも分かっている。けれど、それらを考えることはあまりにも怖かった。自分が死ぬことよりも、周りにいる仲間が死ぬことの方がもっとずっと、怖かったのだ。
目を背けている自覚はある。覚悟しておかなければいけないことも分かっている。ただ、それでも自分の周りの人々が死ぬという現実は見たくなかった。考えることさえ、嫌だったのだ。
少しは強くなった――そう口にしたことがあった。だが、こうして心構えすることさえ出来ない自分は、結局以前と何ら変わりないのではないかとアイリスは自嘲気味に笑った。強くなったと思っていただけで、本当は何も変わってはいないのではないか、と。
「……足が竦んでしまいそうでも、それでも覚悟はしておいて」
「……アベル」
「今までと今回はあまりにも違う。……なのに、あんたは分かってない」
いつになく強い意志を秘めた黒の瞳が向けられる。今までに向けられたことのないほどのその視線の力強さに、思わずアイリスは背筋を伸ばしながらその目の美しさに息を呑んだ。
青白い月光に照らされた黒髪は艶やかで、長い睫毛は頬に影を作る。それに縁取られた黒の瞳は真っ直ぐにアイリスを見つめ、そして僅かに柳眉が寄せられる。
「……あんたはいつも、死ぬ覚悟ばかりしてる」
「……そんなこと、」
「そんなことあるよ。……さっきだってそうだ、僕は何があっても生き残る覚悟はあるのか聞いたのに、あんたは死ぬことばかり言う」
その言葉に返す言葉が見つからなかった。ベルトラム山でも言われたことだったにも関わらず、死ぬかもしれないとそればかりを考えていた。
いつだって生き残る覚悟を持つように言われた。絶対生きて戻る為に、生き残る為に最後まで諦めない覚悟を持つようにと、そう言われた。それこそが覚悟だと。
けれど、今まで自分が考えていたのは正反対のことだった。一度言われたことだったのに、すっかりとそれを忘れてしまっていた――そのことをアイリスは情けなく思いながら、ごめんねと口にする。
「アベルの言う通りだね。……何があっても絶対生きて戻る覚悟を、しなくちゃいけないんだよね」
「そうだよ。……たとえ僕が死んでも、レックスやレオが死んでも……あんたは必ず生きて戻らなきゃいけない」
「や、やめてよ、縁起でもないこと言わないで」
「だけどあんたがしなきゃいけない覚悟はこういうことだ。僕らの中で誰かが死んだとしても、あんたは後ろを振り向かずに走り続けなきゃいけない」
嫌だ、喩え話でもそんな話は嫌だとアイリスは首を横に振り、顔を伏せた。けれど、アベルはそれを許さずに夏にも関わらずひんやりと冷たい手で彼女の頬を包み、有無を言わさず持ち上げる。再び重なる視線はまるで絡め取られるかのような力強さがあり、逸らすことが出来なかった。
「必ず生き残るって、僕と約束して」
「……アベル」
「あんたは生き残ることだけを考えるって……死ぬことなんてもう二度と考えないって、約束して」
その声は聞いたことがないほど、切実としたものだった。その勢いに呑まれるようにアイリスは小さく頷く。どうしてそこまでアベルが自分が生き残ることを望んでいるのだろうかとも思ったが、それを聞くことが出来る雰囲気ではなかった。
頷くアイリスを暫し探るように見つめ、そしてアベルは視線を伏せて肩から力を抜いた。頬に触れていた手は離れ、彼はどこか自嘲気味に笑いながら「約束だよ、アイリス」と小さく呟く。
「死ぬことを考えるなんて、あんたには似合わないよ。……そんなことを考えるのは、僕だけで十分だ」
「……何でアベルが考えるの?止めてよ、アベルだって生き残ることを考えてよ」
「違うよ、僕はこれで合ってる」
「合ってない!間違ってるよ、わたしにだけ約束させて、そんなのおかしいよ」
「おかしくない。……アイリスは分からなくていいよ」
こういう時だけ、彼は名前で呼ぶ。それがとてもずるいのだと、アイリスは唇を噛んだ。声音も口調も優しいけれど、絶対に引かないのだということが伝わって来る。だからこそ、余計にアベルがずるく思えた。
自分には生き残ることを望み、自分は死ぬことを覚悟している。それがどうしてなのかが分からず、また、決して教えようとはしない彼に眉を寄せていると、アベルは微苦笑を浮かべて「眉間に皺が寄ってる」と自身の眉間の辺りを指し示す。誰の所為だと余計に皺を刻み込めば、彼は目を細めて笑った。真剣に話しているのに、どうしてそのような普段は見せないような笑い方をするのかと、アイリスはそれが腹立たしくてならなかった。
「……そういうものなんだよ。いつか分かる」
「そういうもので済ませないでよ。それに、分かる時なんて来て欲しくない」
理由が分かる時は、彼が命を落とした時だ。そんな時は決して迎えたくはない。それを迎えなければ分からないのなら、分からないままでいた方がずっといい。そう思いながらも、どうしてこんなにも頑なに口にしないのかが不思議でならなかった。こうなると、自分は理由を知るまで諦めないとアベルなら分かっているはずだ。
口をへの字に曲げるアイリスを見つめ、アベルは「じゃあ、そう願ってて」と目を細めて笑う。まるで他人事のようなその言葉に顔を顰めると、彼女の表情とは正反対に彼は笑みを深める。
「……アベルはいつもそう」
「何が?」
「何も話してくれない……自分のことは、何も話してくれないじゃない」
けれど、それは決して彼だけが悪いわけではない。話したくはないことは誰にだってある、何も根掘り葉掘り聞こうと思っているわけではない。それでも、何も話してもらえないことは未だに信用されていないように思えて寂しかったのだ。もっと強くなれば、受け止められると思われれば、話してくれるかもしれない――そう確かに思っているし、信用されるような人間になりたいとも思っている。焦るつもりはなく、これから先、いつか話してくれればいいと思っていたのに、気付けば口を突いて言葉が出てしまっていた。
今更それをなかったことには出来ない。アイリスは気まずく思いながら顔を伏せるも、聞こえて来るだろうと予想していたアベルの辛辣な言葉が何も聞こえて来なかった。
「……アベル?」
「いいよ。話す」
「ちょ、ちょっと待って!別に無理強いしたいわけじゃないの」
「無理強いされて話すわけじゃないよ。……こういう機会もいつあるか分からないからね。アイリスが僕のこと、知りたいみたいだから教えてあげる」
そう言って悪戯っぽく笑うアベルにアイリスはうっと言葉を詰まらせる。話してくれることは嬉しく、知りたいと思っていることは事実だ。しかし、それを彼の口から言われるとどうにも気恥ずかしさを感じるものがある。悔しげに唇を噛んでいると、アベルは微苦笑を浮かべた。その表情が少し、寂しげに見えたアイリスは目を瞠るも、次の瞬間にはその笑みも消えていた。
月明かりを受けて煌めく川へと視線を向け、アベルは自分の過去を思い起こすように目を細める。その横顔はどこか冷たく、今更ながら触れるべきではなかったかもしれないと彼女は心の中で僅かに後悔した。
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