会戦 - secret mission -



「僕が入隊した理由は、恩返しの為なんだ」


 ぽつり、とアベルは呟いた。ともすれば、聞き逃してしまいそうなほどの小さな声も静まり返った森の中ではちゃんとアイリスの耳に届いた。きらきらと月明かりに照らされる川の水面に視線を投じ、彼は膝を抱えていた。初めて聞いたアベルの入隊理由は彼女が予想していたものとは異なり、少々意外なものだった。


「恩返し?」
「そう、恩返し。……僕を助けてくれた人への、恩返し」


 視線を伏せるアベルの横顔を見つめながら、一体何があったのだろうかとアイリスは考える。
 アベルはアイリスよりも一年早く入隊している、エルンストと同様の特例での入隊だ。そして彼を推薦した人物はルヴェルチであるということをメルケルから教えられていた彼女は僅かに眉を寄せた。つまり、アベルの恩返しの相手はルヴェルチなのだろう、と。あまりいい話を聞かない相手であることを思えば、やはり彼は何かさせられているのではないかと思えて来る。
 けれど、今はアベルの話を聞く時だ。色々思うところはあるものの、アイリスが口を開くことはなく、ただ彼の声に耳を傾ける。


「……僕は子どもの頃、親に売られたんだ」
「……え?」
「人買いに売られた元奴隷だ」


 打ち明けられたその事実に、アイリスは言葉を失った。目を瞠り、信じられないとばかりにアベルを見つめる。けれど、彼は引っ掛かったとしてやったりという表情をすることもなく、冗談だよとも言わない。川へと向け続ける冷めた横顔を見ていると、それが事実であるのだということが暗に伝わって来た。
 アイリスには親がいない。その代わりに孤児院の大人たちによって育てられ、養父に引き取られた。だが、彼らは実の親ではない。どういう人物であるかも名前すらも彼女は知らない。そんな自分でも、自分を育ててくれていた誰かに売られたとしたら、ショックどころの話ではない。けれど、アベルは顔も名前も知っている、自分を育ててくれた親自身に売られたのだと言う。彼がその時一体どのような気持ちだったのかと考えると、胸が痛んで言葉にならなかった。


「……あんたが気にすることはないよ」
「けど……」
「そういう親もいるってことだよ。……僕が売られたのは、僕の家は貧しかったから。食い口を減らす為だったんだ」


 事も無げにアベルは言う。少しも気にしていないと言わんばかりの口ぶりにアイリスは顔を歪めた。それは決して気にしていないからこそのものではないはずだ。辛くて悲しくて、そしてそれがあまりにも心を苛むから、諦めてしまったのだ。そうしなければ、とてもではないが塞ぎ込んだまま、顔を上げることが出来なかったのだろう。
 親がいたとしても、必ずしも幸せであるとは限らないということはアイリスも知っていた。少なくとも、自分自身に実の親はいないけれど、今までの人生がずっと不幸続きだったというわけではない。それを思うと、自分はどれだけ恵まれていたのかが思い知らされるようだった。


「売られた先で僕は……そうだね、飼われているといった方が適切な、そういう生活をしてた」
「飼われている……」
「そう、飼育。言ってしまえば、金持ち貴族の道楽の為に飼われている生きた人形だよ」
「……っ」


 今度こそ、何も言うことが出来なくなった。アベルが口にしたその言葉を、彼を前にして頭が理解することを拒否した。人買いに売られたという時点で恩人に助けられるまでの間は悲惨な生活をしていたのだろうという予想はしていた。けれど、彼が口にしたそれはアイリスの予想を遙かに超えるものだった。
 本来、ベルンシュタインに奴隷制はなく、奴隷は国内には存在していないことになっている。しかし、実際には戦争中ということもあり、人買いが戦争孤児を奴隷として売買しているという話は決して珍しい話ではない。勿論、発見され次第、人買いは逮捕され、商品にされていた子どもは保護される。だが、既に売られた後であれば、見つけ出すことは難しい。なぜなら、子どもを買った富裕層の者たちが罰から逃れる為に全力で隠すからだ。つまり、アベルもそうして何らかのきっかけで保護されるまでは貴族の邸の奥深くに隠されていたのだということが伺える。
 言葉を失い、口元を隠すようにして目を瞠る彼女にアベルは微苦笑を浮かべる。大したことないよ、とばかりに笑う彼にアイリスは首を横に何度も振った。大したことがなかったはずがない。アベルの口振りから、どういう目に遭わされていたのかは想像に難くなかった。


「何であんたがそういう顔するの」
「……だって、……そんな、アベルが……嘘だって言ってよ、お願い」


 そんな目に遭わされていたということを信じたくなかった。告げられた彼の過去があまりに陰惨で、それにも関わらず何でもないことのように笑うアベルを見ていることが、アイリスにはあまりにも辛かった。そうやって何でもないと全てのことを諦めて笑ってしまうぐらい、それとは正反対に傷つけられて苦しまされ、辛い日々があったはずだ。それを思うと、余計に嘘であって欲しいという思いが強くなる。
 こんなことを、嘘でも言うような人ではないことは分かっていた。けれど、それでも嘘であって欲しいと願わずにはいられない。そんな彼女を見つめ、アベルは「嘘じゃないよ」と殊更優しい声音で言う。


「ほら、……汚いでしょ。こんな痕が体中にあるんだ」


 アベルは嘘ではないということを示すように、衣服を捲り上げた。晒された脇腹から背中に掛けて、皮膚が引き攣ったような古い傷跡がいくつもその身体に刻みつけられていた。それを見ていることが出来ず、アイリスは視線を逸らして顔を歪めた。
 それでも、彼の様子は変わらない。気にしていない、大したことはないという雰囲気にアイリスは目頭が熱くなった。気付けば、熱い涙が頬を一筋滑り落ちていく。


「……何で泣くの」
「……知りたいって言ったのはわたしなのに、ちゃんと受け止められない自分が情けないの」
「いいよ、そんなこと」


 アベルは苦笑混じりに言いつつ、アイリスの頬を伝う涙を拭う。その指先があまりに優しく頬を撫でるから、余計に涙が止まらない。されるがままになりながら、彼女は思った。自分が情けなくて仕方ないのと同じぐらい、アベルが少しも辛そうにしないことが、悲しい、と。


「……アベル」
「なに?」


 ぐすりと鼻を鳴らしながら名前を呼ぶと、優しい声がした。初めて会った頃は、もっと人を小馬鹿にしたような態度ばかりだったが、今はそのような態度を取ることもなくなった。こうして、優しい声で話してくれるようにもなった。それがとても嬉しく、生い立ちを聞いた今は、切なくもなった。


「アベルの傷跡、汚くなんてないよ」
「……いいよ、気を遣わなくて」
「ううん、本当に気なんて遣ってない、……汚くなんてないよ、アベル」


 だから、そんな風に自分で自分を蔑むような言い方をしないで――頬を撫でる低い体温の手に触れ、アイリスはきゅっと眉を寄せた。どれだけ我慢しようと思っても、涙が止まる気配はなかった。
 もしかしたら、自分もアベルと同じような目に遭っていたかもしれない。戦火に焼かれた街でたった一人生き残った自分を拾ってくれた人が仮に人買いだったとしたら、心ない人間だったなら、アベルのように富裕層の人間の元に売られていた可能性だってあるのだ。それを思うと怖さはある。けれど、もしかしたらそこで彼に出会えていたかもしれないとも思った。


「……わたしもアベルみたいに売られていたら、アベルの傷を治してあげられたのに」
「……馬鹿だね、あんたは。何もそんな風に考える必要なんてないのに。あんたは何でもすぐに深く考え過ぎだよ、いいんだよ、僕のことまで背負い込もうとしなくて」


 それに女の子は僕よりもっと酷い目に遭わされるんだよ、とアベルは溜息混じりに言いながら、彼女の目の端に滲む涙を拭う。拭っても拭っても止まらない涙に彼は困ったように笑う。けれど、涙で視界が滲むアイリスはその笑みをはっきりと目にすることが出来ない。


「過ぎたことを気にしたって仕方ないんだよ。過去は変えられない」
「……だけど……」
「それに、今はもう辛くない。僕は此処にいるんだから」


 奴隷として扱われていた彼は救い出され、その恩に報いる為に国軍に入隊した。以前よりも格段に生活環境も扱いもよくなっているということは明らかだ。けれど、死ぬかもしれない場所に立たされているという点を考えれば、決して良いことばかりではない。それを思うと、アイリスはルヴェルチに対して文句を言いたい衝動に駆られた。これでは、ただ恩を振り翳して言うことを聞かせているだけではないか、と。
 けれど、先ほどよりもはっきりとした視界に映り込む当事者であるアベルの顔を見ると、その表情はいつになく柔らかいものであり、こうした顔が出来るぐらいには、入隊してからの彼は余程気楽に生きることが出来ているのだということが伺える。それを思うと、ルヴェルチのことは好きにはなれないものの、恨むことは出来そうになかった。


「あんたが話を聞いてくれて、傍にいてくれて……僕の為に泣いてくれた。それだけで僕はもう、十分だよ」


 ありがとう、アイリス。
 アベルは少しだけ泣きそうな、そんな笑みを浮かべた。相変わらず温度の低い、ほんの少し冷たい手がアイリスの手に触れ、指先が絡む。遠慮がちなそれをじれったく思い、彼女は少し痛いぐらいに薄い骨ばったアベルの手を握った。
 ちゃんと握っていないと、いなくなってしまいそうな気がしたのだ。この手をすり抜けて、手の届かないところに行ってしまいそうな気がした。けれど、それを口にしてしまえば現実になってしまうのではないかと思うと、何も言うことは出来ず、アイリスはただ、新たに浮かんだ涙を唇を噛み締めて耐えながら彼の少し冷たい手を握り続けていた。




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