会戦 - secret mission -



 昼を過ぎ、燦々と照りつける太陽と上がる一方の気温に誰もが顔を顰めていると唐突に鼓膜を震わせる爆発音が轟いた。もくもくと上がる黒煙の方向に視線をやり、ゲアハルトは傍にいた兵士から手渡された双眼鏡を用いて様子を探る。午前中のうちにエルンストに出させた指示通り、ヘルト砦は爆破されていた。
 次から次へと仕掛けられた爆薬が爆発し、それによってヘルト砦は見るも無残な形に崩れていく。暫くその光景を眺めていたゲアハルトは双眼鏡を兵士に返したところで、「派手にやってるねー」と笑みを含んだ声が聞こえて来た。


「バルシュミーデ団長も爆薬使いすぎだって溜息吐いてたよ」
「俺に言うな。爆破は命じたが、爆薬の分量までは関知していない」


 溜息混じりに言いつつ、周りの兵士らが敬礼で見送る中、ゲアハルトは陣の奥に足を踏み入れ、エルンストもそれに続いた。陣の奥は兵士の姿もなく、椅子が数脚と地図などの資料が置かれたテーブルと簡易ベッドがあるだけだった。エルンストは椅子に腰かけると、広げられている地図を覗き込む。そして、傍にあったペンを手に取ると、描き込まれているヘルト砦に大きくバツを付けた。
 ゲアハルトは被っていたフードを脱ぎ、口元を覆っているマスクをずらしながら向かい側に腰掛け、傍にあった水差しを傾けてコップに水を注ぐ。さすがの彼も夏の暑さには勝てない。そのためか、今朝からあまり機嫌はよくなかった。


「さっきルヴェルチに付けてる奴から連絡があった」
「動いたのか?」
「いや、特におかしい動きはないって。……でも、やっぱりあまり長くは空けない方がいいとは思う」


 ゲアハルトやホラーツ、騎士団団長が現在挙って王都ブリューゲルを空けている状況だ。それはルヴェルチにとっては動きやすくなり、何らかの行動を起こされたとなれば、ゲアハルトらは後手に回ることになる。ルヴェルチを抑える為にも出来るだけ早くブリューゲルに帰還するべきであるとは彼自身、よくよく理解していることではある。
 しかし、司令官であるゲアハルトが席を外すわけにもいかず、ホラーツも本隊を動かしている手前、ブリューゲルに留まっているわけにもいかない。国王の名代として王子が出てくるのなら話は別だが、第一王子であるシリルにはそのような期待は出来なかった。ならば、第二王子をとなるところだが、表に出すには後ろ盾がなく、ホラーツ自身があまり表に出したがらないところもあった。そのため、今もホラーツが前線に出るという状況になっているのだが、本人がいくら現役を主張していてもゲアハルトの目からすればそろそろ限界であるとも感じていた。
 それは他の団長や政務官など、多くの者が感じていることだ。そろそろ次代の王を決めなければならない――それが今現在、ベルンシュタインが抱えている大きな問題でもあった。それに関して、ルヴェルチが正妃キルスティと第一王子シリスに接近しているからこそ、ルヴェルチの行動にいつも以上に注意を払わなければならなくなったのだ。


「キルスティ様とシリル殿下の動きは?」
「特に目立ったものはないみたいだけど……さすがにそっちは探り難いかな。近衛兵団とは指揮系統が違うからね、他所者が入ればすぐに知れてしまう」
「……帰還するまでルヴェルチが大人しくしていてくれればいいが」


 ゲアハルトの予想では、帝国軍本隊と交戦状態に入るのは明日の昼以降である。既に放たれているであろう帝国軍の斥侯はベルンシュタインの布陣についての情報を持ち帰っていることだろう。そこから帝国軍本隊が動いたとして、どれだけ行軍を急がせたとしても明日の朝以降にしか到着出来ない距離だ。それから兵を休め、体勢を整えてから帝国軍が動き出すとすれば、明日の昼以降に動きを見せるだろうとゲアハルトは踏んでいる。だからと言って、決して油断は出来ない。ライゼガング平原は帝国領であり、敵地での戦いになるのだ。地の利は帝国軍にある為、すぐに動けるようにしておかなければならない。
 明日の昼以降は交戦状態となるも、ベルンシュタインが優勢であれ、劣勢であれ、結果に関わらず撤退することは既に決定している。今回の本隊の作戦行動はあくまでもゼクレス国近郊の帝都に続く橋の爆破工作に向かっているアイリスらが爆破工作をより確実に遂行させる為のものであり、帝国軍本隊を逆方向のクラネルト川中流域に引き付けることを最大の目的とした布陣なのだ。


「まあ、黙って大人しくしてるとは思えないけどね」
「……ああ。此方も状況が落ち着けば、陛下にご帰還願えるが……始まってみなければ分からないからな」
「それで、明日以降は交戦状態になるわけだけど、どうするの?」
「レックスたちは今日の夜中には橋の近くに到着する予定だ。そこから作戦行動に移り、明日の夜明けにはリュプケ砦方面に撤退する手筈になっている。恐らく、帝国軍は本隊を呼び戻しに掛かるだろう。だが、そこで撤退されては困る」
「つまり、最初はこっちから打って出る、と」
「そういうことだ。帝国軍を発見次第、即時出撃。わざわざ此方が体勢を整えているのを待ってやる義理はないからな」


 今回の本隊の作戦行動は公には伏せているが、帝国軍の兵力を大幅に削ることを目的としたものだ。ホラーツやヒルデガルドらには別働隊として動いている部隊を援護する為、兵を引き付けるという表向きの説明をしているが、本当の狙いはそこではない。秘密裏にエルンストが調合した毒薬を捨てていく食料に混入し、それを回収するであろう帝国軍に大打撃を与えることこそが狙いだ。
 倫理上、本来ならば許されない手段である為、このことを知っているのはゲアハルトの他にはエルンストのみだ。エルンストは「それもそうだけどね。とりあえず、撤退する時はこっちには早めに連絡してよね」と欠伸を噛み殺しながら言う。


「色々と仕込まなきゃいけないんだからさ、こっちは」
「ああ、分かってる」
「どうだか。……ところで、レックスたちがあの橋の爆破に向かってることは陛下には話したの?」
「……いや」


 ゲアハルトは言葉を濁した。誰が言っているのかを尋ねられたが、伏せたことを思い出す。誰に行かせたのかを言えば、ホラーツは顔を顰めて何故行かせたのかと詰問することだろう。それを思うと、逃げたのは他ならぬ自分自身であるとゲアハルトは視線を伏せた。


「そりゃそうか。陛下が気に掛けてる子をあんな場所に行かせたとなれば、さすがに司令官でも怒られるよね。でも、俺はその采配は間違っていないと思うよ。俺もあの部隊が一番確実だと思う」
「……そうか」


 気にするなと言わんばかりに言うエルンストの言葉に幾分か肩に入っていた力を抜き、ゲアハルトは溜息を吐いた。そしてコップに注いだ水を煽ったところで、「……だけどさ」と改めた口振りでエルンストが口を開いた。


「今は手元に置いておいた方がいいアイリスちゃんを行かせたのはどうして?」


 アイリスは白の輝石を専任で研究していたコンラッドの養女であり、残された唯一の手掛かりでもある。そんな彼女を死と隣り合わせな場所に向かわせたのはどうしてなのか――そのことがエルンストには気がかりだった。向かわせることに賛成した手前、今更であるとも思ったが、丁度いい機会だとばかりに尋ねてみたのだ。
 エルンストの言うことは尤もであるとゲアハルトも考えていた。誰から狙われるかも知れない今、アイリスを死地に行かせることは手掛かりを失う可能性を高めるだけだ。けれど、あの部隊は彼女も含めてこその戦力でもある。だからこそ、ゲアハルトは向かわせることを決めたわけだが、理由はそれだけではない。


「手元に置いておくよりも安全だからな」
「そうかな……」
「ああ。少なくとも、クレーデル殿のことは帝国軍も調べてアイリスという養女がいるということは既に知っているだろう。ならば、彼女のことは殺さずに必ず生かして捕縛するはずだ」
「まあ、そうだろうね」


 彼女を手に掛けるということはつまり、帝国軍も手掛かりを失うということだ。それは帝国軍にとっても痛手であり、必ず避けることだろう。つまり、極論ではあるが、前線に出ようと死地に向かおうと、アイリスだけは死なないということだ。ゲアハルトはそれを信じてアイリスを送り込んだ。つまるところ、捕縛さえされなければ、彼女の命は保障されたも同然だ。あまりにも危険極まりない判断にエルンストは呆れて何も言えないとばかりに溜息を吐く。


「確かに筋は通るけど……極論過ぎるね」
「そんなことは俺も分かってる。……だが、味方も全て信じられるわけではないからな、この場に連れて来るよりも部隊で動かしている方が安心だ」
「だけど、あの部隊にはアベルもいる」


 アベルを推挙したのは他ならぬルヴェルチだ。それを思えば、部隊で動かすにしても不安要素がないわけではなく、内側にあるだけ不安要素は大きい。かと言って、アベルを外して戦力は半減するに等しい。
 それはゲアハルトも考えていたことらしく、渋面を作っていると「失礼致します。ゲアハルト司令官、よろしいでしょうか」という声が聞こえて来た。コップを置き、慌ててマスクをフードを被る彼を横目に苦笑を浮かべたエルンストは「俺が行くよ」とゲアハルトを手で制し、入口の方に歩み寄った。
 陣の外で二言三言、言葉を交わしたらしいエルンストはすぐに戻って来た。そして、いつもと何ら変わらない姿に戻っていたゲアハルトに小さく噴き出しながら、「ヘルト砦の報告だった」と告げる。


「やっぱり中には帝国兵が潜んでたってさ。砦を爆破し始めると、すぐに飛び出して来たって」
「そうか。それで、その兵はどうした?」
「捕縛して連れて帰って来てる。まあ、撤退する時に置き去りにすればいいんじゃない?」


 その言葉に頷いたところで、「ゲアハルト司令官、よろしいでしょうか」と声が掛けられる。間髪入れずに舞い込む報告に溜息を吐きながら入るように促すと、一礼の後に姿を現せたのは先日、第二騎士団所属であり別働隊としてクラネルト川上流域の補給路を断ち、橋を陥落させに向かった小隊の隊長だった。
 疲労の色の濃い顔をしていたものの、「任務完了の報告です」としっかりとした表情で口にし、敬礼する。ゲアハルトは敬礼を返し、苦労を労うと兵士を呼び寄せてテーブルの上の地図を指差す。


「何処を陥落させて来たのか教えてくれるか」
「はい。私の部隊が担当したのは――」


 兵士が差す場所をペンを持ったエルンストが次々とバツ印を付けていく。その数は七か所にも及んだ。報告を終えた兵士にゆっくりと後方で身体を休めるようにと声を掛け、疲れ切っている後ろ姿を見送った。彼の担当区域はクラネルト川上流域の中でもベルンシュタイン側の地域であり、この報告を皮切りに次々と報告が入り始めることは予想に難くない。
 一先ずは順調であることを確認でき、自分で立てた作戦ながらゲアハルトはほっと溜息を吐いた。この調子でアイリスらも上手く遂行出来ればいいのだが、と考えつつ、今はどの辺りにいるのだろうかとバツ印が増え始めた地図に視線を落とした。











「はあ!?ヘルト砦が爆破されたあ!?」


 告げられた報告に思わず立ち上が、声を張り上げた少年は信じられないとばかりに黒曜石の瞳を見開く。報告を告げた兵士はその様子に頬を引き攣らせながらも、直立不動を貫き、「そのように報告が上がって来ました」と震える声で言い添える。
 窓から差し込む陽光は橙色に染まり、太陽は西の地平に沈もうとしている。今になってその報告が上がって来たということは、遅くとも昼にはヘルト砦は爆破されたということだろう。憤る少年の横に腰掛けているカサンドラは然程驚いた様子もなく、予想が的中したかと内心溜息を吐いていた。


「何で!どうして!老いぼれを連れてるんだよ?無人の砦があったら、そこを使うべきなのに!」
「そ、そう言われましても……」
「報告は以上で終わり?それならもう下がって結構よ」
「は、はい。それでは、失礼致します」


 手を振るカサンドラに慌てて頭を下げ、兵士は逃げるように部屋を後にした。このまま兵士が残っていれば、癇癪を起した少年が腹いせにナイフを取り出して切り刻んでいたに違いない。そのような展開になったところでカサンドラは特に何も思わないが、だからと言って、今以上に恐れられて報告が遅れることは避けたい――ただそれだけのことだった。
 少年は苛立ちを隠そうともせず、がりっと爪を噛む。それを横目にカサンドラは溜息を吐くと、「行儀が悪いわ」と軽く窘めた。


「だって、カーサ……!」
「仕方ないでしょう、失敗したのだから。元々、成功率はそれほど高くはないと言っておいたでしょう?」
「そうだけど……っ」
「ゲアハルト司令官にこの手のことは通用しないわ。あの人は用心深いもの。……そういうところは相変わらず、というのが知れて丁度良かったけれど」


 そう言いつつ、カサンドラは手繰り寄せたペンでヘルト砦にバツ印を書き込む。しかし、少年の苛立ちは収まる気配は一向になく、爪を噛み、地団太を踏み、ソファのクッションを抱き込むと何処からともなく取り出したナイフをそこに突き立てる。何度も何度もクッションにナイフを突き立て、斬り裂かれたそれからは羽毛が飛び出す。


「ヴィルヘルム様の兵なのにさあ……怒られちゃうよ!」
「それを言うならメルヴィス皇帝陛下の兵でしょう。ヴィルヘルム殿下はまだ御即位なさっていないもの」
「だけど、もう実権は移ったも同然じゃないか!あああああぁ……」


 ぽろりとナイフは手から零れ落ち、少年はぐしゃぐしゃに斬り裂いたクッションを抱き締める。そんな彼の様子にカサンドラは溜息を吐きながら、「その程度でお叱りになるほど、ヴィルヘルム殿下は狭量ではいらっしゃらないでしょう」と声を掛けた。何より、仮に叱責を受けるとしても、今回の戦闘における指揮官であるカサンドラが受けるはずだ。何も心配することはないだろうと思う反面、リュプケ砦で彼が殺害したアトロや先ほど苛立ちをぶつけていた兵も等しく、少年曰くヴィルヘルムの兵に当てはまる。それはどうなのかとカサンドラだけでなく、壁際にいるアウレールは考えていた。
 元より感情の起伏が激しい少年ではあるものの、こうして数日に一度癇癪を起されるのはやはりどうにかならないものかとカサンドラはこっそりと溜息を吐きながら、床に落ちているナイフを拾い上げる。それをテーブルの上に置き、ぼろぼろのクッションを少年の腕から取り上げて、別のものを抱き締めさせる。癖のない黒い髪に指を通しながら、「大丈夫よ、この程度のことでヴィルヘルム殿下がお怒りにはならないわ」と努めて優しい声で囁く。


「……本当?」
「勿論。殿下は懐の広い方だということは、貴方が一番よく知っていることじゃない」
「……」
「貴方たち兄弟を助け、育て、今もお傍に置いているのはその証拠。違う?」
「……違わない」
「貴方のヴィルヘルム殿下の役に立ちたいという気持ちは殿下も私たちもよくよく分かっているもの。一度の失敗が何だっていうの、これから挽回すればそれでいいだけよ。そうでしょう?」


 じわりと目の端に浮かんでいる涙をそっと拭ってやりながら、左の頬に刻まれた鴉の刺青に触れる。


「大丈夫。今度は貴方の得意な殺しの任務だもの。きっと上手くいくわ。それに、今回の戦闘は勝ったも同然だもの」


 そう言うと、彼はこくりと何度も頷いた。癇癪も漸く落ち着き、カサンドラはほっと息を吐きながら暫くの間、緩く頭を撫で続けた。それと同時に考えることは、明日以降の動きについてだ。遅くとも昼以降に交戦状態に入ると予想しているものの、体勢が整うまで待つほどゲアハルトは甘い男ではない。恐らく、帝国軍本隊を確認次第、打って出て来るだろう。
 しかし、常ならば短期戦を狙う帝国軍ではあるものの、今回ばかりは長期戦狙いである。出来るだけ、クラネルト川流域からベルンシュタイン本隊を引き付けたいところだ。それに乗って来るかはカサンドラも予想し難いが、結局のところは、それも然程関係のないことだ。ベルンシュタインで動いているルヴェルチの為に出来るだけホラーツとゲアハルト、そしてその他の騎士団団長をライゼガング平原に引き付けておくことが目的なのだ。そして何より、帝国軍の勝利はカサンドラにとっては既に手にしたようなものですらあった。


「あとはルヴェルチ卿の為に出来るだけ時間を稼ぐだけ。……そうね、早ければ明後日の朝には決着が付くわ」


 カサンドラは黒髪を撫でてやりながら、愉しげに囁く。少年はその言葉にぐすりと鼻を鳴らしながらクッションに押し付けていた顔を上げ、「そんなに早いの?」と呟く。


「ええ。時間を稼ぐといっても、何事にも程度というものがあるもの。稼ぎ過ぎても駄目なのよ。貴方に働いてもらうのはその後。貴方の働きに私だけでなく、ヴィルヘルム殿下もご期待なさっているわ」
「ヴィルヘルム様も?頑張るよ、カーサ!ボクに出来ることなら何でもする!」


 先ほどまでとは一転して表情を明るく綻ばせる。そんな少年にカサンドラは優しい笑みを向け、「期待しているわ」と囁くとテーブルのナイフを手に取り、鋭利に輝くそれを少年に差し出した。受け取ったそれをうっとりと見つめ、少年は黒曜石の瞳に歪んだ光を宿し、爛々と輝かせた。


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