会戦 - secret mission -



 じとりと汗ばむ燦々と輝く太陽も西に沈み、空は満天の星空で輝いていた。暑さは多少はましになったものの、暑いものは暑い。エルンストは暑さに眉を寄せながら他に誰もいない救護用のテントでテーブルに突っ伏した。このまま眠ってしまおうかとも考えたが、ベーデガーが来ることになっているのだから眠るわけにはいかない。呼び出したのは他ならぬ自分自身ではあるが、面倒だと彼は溜息を吐く。
 せめて夏が過ぎて秋になればいいのに――額に浮かぶ汗を拭いながらそんなことを考える。そしてふと思い出したのは、アイリスと交わした約束だ。カーニバルの最終日にバイルシュミット城の庭園で、秋になったら庭園に咲き誇る花を見に来ようと話したのだ。改めて思えば、自分がそのような誘いを口にするとは自分自身でさえも驚きだった。今更ながら、酷くらしくないことをしたと思えてならない。


「……今頃どうしてるのかな」


 ゲアハルトが立てた計画通りに事が進んでいるのなら、今頃は橋の近くにいるはずだ。そこまでは森の中を進むため、特に障害なく進むことが出来るはずだ。しかし、標的である橋まで森は続いていない。途中からは森を出て橋に向かわなければならないのだ。つまり、彼らに身を隠す術はない。
 橋は帝国にとって要衝でもある。警備兵も配置されていることだろう。たとえその警備兵を退けることが出来たとしても、すぐにゼクレス国から応援が駆けつけて来ることは予想に難くない。橋を爆破する為にはそれを耐え凌ぎ、爆薬と魔法石を設置しなければならないのだ。今更ながら、大丈夫だろうかと不安が鎌首を擡げる。平気だろうと思う反面、任務に絶対は有り得ない。何が起こるか知れないものが任務だ。それは最前線に立っていたエルンスト自身が身に沁みて理解していることだ。
 アイリスは生きて帰って来るのだろうかと、そんな考えさえ脳裏を過る。レックスやレオ、アベルのことを考えれば、何としてでも彼女だけは生きて帰そうとするだろう。だが、アイリスはその気持ちに応えて逃げ帰って来るだろうか、彼らを置き去りにして。そこまで考え、エルンストは身体を起こして額に手を遣った。


「こんなところで考えたところで、……俺に出来ることなんて何もないだろ」


 遠く離れた場所にいるのだ。出来ることがあるとすれば、作戦の成功と無事に帰還することを祈ることだけだ。けれど、作戦内容のことを考えれば、無事に帰還することは難しいだろう。少なくとも、無傷での帰還は望めない。それでも、最も確実に遂行する部隊はどこかを考えれば、やはりあの部隊なのだ。
 それでも、頭では理解していても感情も同様に理解するとは限らない。今までこのようなことはなかったエルンストは自分自身の身に起きるとは思っていなかったため、驚いていた。まさか自分もこのような考えに陥るとは、想像していなかったのだ。そこまで考えて漸く、自分は賛成したことに少なからず後悔しているのだということに気付いた。
 今更そのことに気付いたところでどうしようもないではないかと、エルンストは自嘲気味に笑った。アイリスは既に橋の近くにいるのだ。呼び戻すことなど出来るはずもなく、また、それは許されないことでもある。何より、彼女は危険であることを承知の上で向かっている。その気持ちを自分勝手な感情で踏み躙ることなど、許されるはずもないのだ。そこまで考えたところで、不意にテントを仕切る幕の向こうに人の気配を感じ、エルンストは思考を中断するとそちらへと視線を向けた。


「ベーデガー団長、入ってもらって構いませんよ」


 さっと表情を変え、エルンストは椅子から立ち上がり、幕の向こうに感じた気配の主に声を掛けた。程なくして幕の向こうから姿を現したベーデガーは緊張した面持ちでテントの中を見渡した。人払いは先に言っていた通りに既に済まされ、そこにはエルンストの姿しかなかった。
 エルンストはベーデガーに椅子を勧め、自身はテントの隅に積まれている木箱へと近付いた。そこからワインのボトルとグラスを取り出し、それを手にテーブルへと戻る。


「どうぞ」
「あ、ありがとうございます。……それで、本題の」
「まあ、そんなに急いで本題に移らなくてもいいでしょう。急いては事を仕損じるとも言いますから」
「……ですが、私は翌朝、出撃ですので……」


 出来れば手短に済ませて貰いたいのだとベーデガーはちらちらとエルンストの顔色を伺いながら言う。そんな彼に対して、エルンストは薄く笑みを浮かべながら、「平気ですよ」と言って手渡したグラスのワインを注いだ。芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、僅かにベーデガーの表情が緩む。


「第十の翌朝の出撃は第十一に変更になりましたから」
「そのような知らせは聞いていませんが……」
「ついさっき決まったことですよ。司令官に掛け合って来ました。こんなところで貴方に死なれては俺も困りますから」


 元より、出撃したくはないという気持ちが強かったベーデガーは目を見開き、信じられないと言わんばかりの表情になる。しかし、すぐに喜色の表情に変わり、エルンストに対して頭を深く下げる。その様を見ていると、どれほど出撃したくなかったのかが伝わって来る。しかし、エルンストにしてみれば、騎士団を率いる団長として、それはどうなのかと思わずにはいられない。
 無論、第十の出撃に関しての変更はない。ゲアハルトに掛け合って変更したという事実はなく、それはエルンストが口にした嘘に過ぎないのだ。だが、ベーデガーは彼が口にした嘘には気付いていない。昼間に交わした会話によって多少なりとも、エルンストに対して信を置いているのだろう。
 けれど、エルンストにしてみれば、目の前で媚び諂うベーデガーの姿には嫌悪感しかなかった。こんなにも簡単に信じられては、居心地が悪い。あまりにも簡単に信じ過ぎてはいないか――笑みを湛えたその裏でエルンストは注意深くベーデガーを観察する。


「恐らく、翌朝になれば知らせがいきますよ。司令官は貴方のことを嫌っているから、ギリギリに伝えて来るでしょうね」
「ふん、意地の悪い……あんな何処の馬の骨とも知れない男が国軍司令官とは、ベルンシュタインも終わったも同然」


 国民もあんな男を英雄だと言うのだから、頭がおかしいのではないか。
 ベーデガーは鼻息を荒くしながら捲し立てる。ゲアハルトも彼を嫌っているが、彼も同様にゲアハルトのことを嫌っているらしい。そんな様子にエルンストは曖昧な笑みを浮かべる。しかし、ベーデガーが言っていることも強ち間違ってはいないとも思ったのだ。
 ゲアハルトは常日頃から顔を隠し、フルネームも隠している。素顔も名前も、知っている者はほぼいないと言っても過言ではないだろう。その一切を隠しながらも、ホラーツの信頼もあって国軍司令官に就任しているのだからベーデガーのようにゲアハルトのことをよく思っていない人間も少なくない。それでも彼は結果を出し続けているからこそ、今もなお、司令官の地位にいるのだ。
 彼の地位を守っているのは、ゲアハルトが出した結果とホラーツの信頼、そして兵士の信頼だ。その中でも最も大きいものこそが国王であるホラーツの信頼であり、それに依るところが大きい。だからこそ、エルンストはホラーツの身に何か起きた時が恐ろしくもあった。ゲアハルトの地位を守るものは、たった一人の人間に依るのだ。それが失われた時、今と同じようにしていられるのかはエルンストにも分からなかった。


「そういう鬱憤も俺でよければ伺いますよ」


 微苦笑を浮かべつつ、エルンストはグラスを掲げる。つられるようにそれを手にしたベーデガーは軽く掲げるも、すぐには口に付けようとはしない。向けられる視線は疑念の籠ったもので、エルンストは内心舌打ちしつつも笑んでみせ、グラスに口を付ける。今になって毒が仕組まれているのではないかと疑う辺り、ベーデガーもただの馬鹿ではないらしい、とエルンストは考えながらワインを嚥下する。
 一口二口とそれを繰り返し、グラスを置いて平然と笑って見せれば、ベーデガーも少しは抱いた疑念を晴らしたらしい。毒殺されるのではないかと考える辺り、彼の勘は悪くはない。今までの態度を見ていると、愚鈍であるという判断しか下せない相手ではあるものの、ルヴェルチも一応は相手を選んでいたのだということが伺える。
 しかし、詰めは甘い。エルンストも飲んだことで安心したらしいベーデガーはグラスに口を付け、注がれているワインの味を楽しむ。「さすが、選ばれるワインも高級なものですね」と舌鼓を打ち、二口三口とそれを味わう。その様をエルンストはそうでしょうと機嫌よく頷きながら見つめつつ、白衣のポケットに手を突っ込む。


「ところで、ベーデガー団長」
「はい、何でしょう」


 椅子から立ち上がり、エルンストはベーデガーへと近付く。そして、彼が手にしているグラスを取り上げると、ベーデガーの手の届かないところに遠ざけてしまった。何をするのだとばかりに不思議そうな顔をするも、突然ぐらりとベーデガーの身体が傾ぐ。それを受け止め、エルンストはポケットから取り出した革製の手袋を嵌めると、躊躇することなく彼の鼻と口を塞いだ。途端にベーデガーは抵抗するも、エルンストの腕を掴むその手には多少の力しか入っていない。


「ベーデガー団長、俺は貴方に嘘を吐いた。けれど、俺が言ったことの殆どは本当のことでしたよ」


 囁くようにエルンストは口にした。まるで冥土の土産だと言わんばかりに穏やかな表情を浮かべながら、子どもに聞かせるようにゆっくりと語りかける。


「俺が貴方に吐いた嘘は第十の出撃命令についてのことだけ。俺は司令官に掛け合ったりしていません。……それ以外のことは、全部本当です。とは言っても、……昔の俺が考えていたこと、ですが」
「……う、ぐ……っ」
「ベーデガー団長、俺はね、兄さんが憎かったんです。少し早く生まれただけで全てを与えられていたあの人が憎かった」
「う、……っ」
「俺は兄さんが持っていたもの全てが欲しかったんだ」


 痺れてまともに動かせないはずの手が力強くエルンストの腕を掴む。そのあまりの力に僅かに顔を歪めるも、エルンストは手を緩めることはなく、ベーデガーの鼻と口を塞ぎ続ける。まともに呼吸が出来ていない彼の顔は赤く染まり、恨みの籠った血走った目が向けられる。
 掴まれている腕に痛みが走る。どうにかして鼻と口を塞いでいる手を外そうと、腕を掴んでいない方の手で懸命にエルンストの手を掴み、引っ掻く。それでも、彼の手が口や鼻から離れることはなく、寧ろ力を入れて抑え付けられる。生にしがみ付こうと必死なベーデガーは足掻き、その度にテーブルが揺れて僅かにワインが零れ、テーブルを濡らす。


「……だけど、今はそんなことはもう考えていないんです。それは兄さんが死んだからじゃあない」
「……ふ、っく」
「司令官に出会ったからです。あの人に出会って、……俺は考えを改めた」
「ぐ……うぅ、」


 理解してくれる者はいなかった、認めてくれる者もいなかった。否、兄は恐らく、理解しようとしてくれていた、認めてもくれていた。けれど、それを受け入れられなかったのは他ならぬ自分自身であるとエルンストは気付いていた。
 そんな中、ゲアハルトと出会ったのだ。特例で一年早く入隊したその時に彼と出会った。その時のことを、エルンストはよく覚えている。それまでずっと気を張り詰めて周りに頼らず、人を寄せ付けず、一人きりで生きて来た。だが、ゲアハルトと出会ってからは、そんな自分に変化が生まれたのだ。
 気持ちが楽になった。今までずっと憎んでいた兄の存在も、少しずつではあったが受け入れられるようになった。それは、ゲアハルトが自分自身のことを理解してくれたからだ。彼が特に何かしたというわけではなかったけれど、それでもエルンストにとって彼の存在はとても大きかったのだ。それは今でも変わらない。


「あの人は、俺の唯一の理解者だ」


 だから、俺があの人を裏切ることはないんだよ。
 ベーデガーの身体を支えていた手を彼の首に回すと、抵抗は僅かながら強くなる。けれど、既に呼吸も儘ならず、ゆっくりと全身に巡る毒で力は抜けていく一方だった。エルンストは一つ息を吐き出すと、そのまま容赦なく首に回した腕に力を込め、本来ならば曲がらぬ方向にベーデガーの首を曲げた。骨の折れる鈍い音が聞こえ、その後に痛いほどに腕を掴んでいた手はそれはだらりと力無く落ちた。凭れかかる身体の重さに、彼が事切れたのだということが伺える。エルンストは凭れかかって来る身体をテーブルに凭れさせると、テーブルの端に除けていた二つのグラスを手に取り、その中身を地面に零した。


「珍しいな、お前が酒をそんな風に扱うなんて」
「……いつからいたの?」
「つい今し方だ」


 気配に気づかなかった自身に内心舌打ちしつつ、エルンストはテントに入って来たゲアハルトから視線を逸らした。そして、手にしていたグラスを地面に叩きつけると、それは呆気なく割れた。


「間違って使ったら危ないからね。……グラスに毒を塗っておいたんだ、丁度口に触れるところにね」
「どちらもか?」
「そう、どちらにも塗った。疑い深い人だから、グラスを交換しようなんて言い出すかもしれないからね。印を付けた箇所を除いてどちらのグラスにも毒を塗っておいた」


 その心配は杞憂に終わり、グラスの交換を求められることもなく、印を見抜かれることもなかった。仮にワインを口にしなければ、もう少し手荒な真似をしなければならなかったのだから、ベーデガーが最後の最後で油断した点には感謝の念さえエルンストは抱いていた。
 割れたグラスを手早く拾い、それを用意しておいた袋に詰めてごみ箱に投げ入れるも、その瞬間に腕に痛みが走った。顔を顰めながら袖を捲れば、痛々しいほどに赤い手型がそこに残っていた。今際の際にベーデガーが最後の力を振り絞って握り締めた痕だ。エルンストは柳眉を寄せながら袖を下ろすと、「痛むのか?」とゲアハルトに声を掛けられる。


「平気だよ、これぐらい」
「……そうか」
「そうだよ。……それより、俺はこの人の後始末をするから、司令官は戻りなよ。ああ、何か俺に用でもあった?」
「いや、大した用ではない」


 ゲアハルトは首を横に振るも、何とも言えない表情を浮かべていた。それを一瞥し、エルンストは顔を逸らしながら少しずつ冷たくなっていくベーデガーの腕を取り、それを肩に回してゆっくりと身体を持ち上げる。


「……悪いな、いつも汚れ仕事ばかりお前にさせて」


 引き摺るようにテントの入口に向かうその背に、声が掛けられる。告げられたそれにエルンストは僅かに目を見開くも、すぐに微苦笑を浮かべた。今に始まったことではないというのに、そのような言葉を掛けられたのは今が初めてだった。
 汚れ仕事を引き受けることに、エルンストは抵抗がなかった。汚れ仕事を任せてもいいと思えるほどに、信頼されているのだということが伺えるからだ。こんなことに信頼感を感じるなんて自分もどうかしていると思う反面、確かに感じることが出来るそれに安堵する自分もいた。そんな自分自身に歪んでいると自嘲する笑みを浮かべながら、「いいよ、気にしてない」とエルンストは努めて常と変わらぬ様子で言う。


「これでルヴェルチの軍部への足掛かりが一つ無くなったんだ。そうでしょ?」
「……ああ」
「だったらそれでいいでしょ。それより、第十は予定通り、明朝出撃なんだから臨時の指揮官を用意しないと」


 エルンストが事も無げに言うと、暫しの後にゲアハルトは頷いた。ヒルデガルトに頼むことにすると告げると、彼はそのまま踵を返してテントを後にした。その背を見送りながら、すれ違いざまに見えた横顔がらしくもなく物憂げだったことを思うと、エルンストはらしくないと微苦笑を浮かべた。
 そのような顔をするなら、このようなことを頼まなければいいのにと思わずにはいられない。気にするぐらいなら自分ですればいいのにとも思うが、彼がこうして汚れ事をしたとして、そのことが公になったとすれば士気に関わる。こういうことは裏方の者に任せればいいのだと思いつつ、エルンストはひんやりと冷たいベーデガーを抱え直してゆっくりと歩き出した。










 額に浮かぶ汗を拭い、ホラーツはゆっくりと寝台から身体を起こした。寝苦しい暑さにとてもではないが眠っていられなかったのだ。それでも、こうして野営するということ自体は嫌ではなく、視線を上げれば広がる星空に気分はよかった。バイルシュミット城の寝室ではこうはいかにだろうと思いつつ、傍近くに置いていた長年愛用している剣を手にこっそりとテントを抜け出す。
 抜け出したことが知れれば、血相を変えてゲアハルトが来るだろうことを思えば気が咎めるものの、少しばかり散歩をすることが許されてもいいはずだとホラーツは警護の目を盗んでクラネルト川の方向へと足を進めた。万が一のことがあったとしても、剣の腕には自信があった。とは言っても、身体は歳を重ねるごとに弱り、若かりし時と比べれば雲泥の差であるという自覚もある。それでも後進に後れを取らないという自負があるからこそ今も前線に立っているのだ。
 ホラーツは静まり返っているからこそ聞こえる川のせせらぎの音と青白く辺りを照らす月明かりを頼りに足を進める。一人でこうして出歩くことは滅多になく、だからこその一種の高揚感があった。このような気持ちを自身の子どもにも経験させてやるべきだったと今更ながらホラーツは考えていた。
 子どもにしてみれば、自身は決していい父親ではなかったようにホラーツには思えてならなかった。政務や戦時を言い訳に、子どもに構う時間を殆ど取ることはなかった。それにも関わらず、正妃であるキルスティ以外の女性との間に子どもを作ったのだから、キルスティも二人の子どもも決して内心穏やかではなかったはずだ。つくづく、最低な父親だと自嘲していると、不意に近くの草むらが揺れた気がしたホラーツは足を止めた。


「……何かいるのか」


 しかし、人が隠れられるような背の高い草むらではない。ホラーツは剣を鞘に収めたまま、それを草むらに向けてそこを揺らした。すると、程なくして素早く草むらから飛び出す黒い影があった。目を凝らすと、暗闇にぼんやりと光る金色の瞳が二つ浮かび上がる。


「何だ、猫か……」


 暫しホラーツと視線を合わせていた猫は唐突に踵を返して走り去ってしまった。暗闇であったため、はっきりとその姿を捉えることは出来なかったものの、このような平原に猫が住みついているとは考えられず、恐らくは出兵する際に積み荷に紛れてしまったのだということが伺えた。思えば、首に何か巻いていたようにも思えたホラーツはきっと探しているであろう飼い主のことを思うと、猫が走り去った方に爪先を向けていた。
 だが、数歩も歩かぬうちに「陛下!このようなところにいらっしゃったのですか!」という慌てた兵士の声が聞こえて来た。どうやら、散歩の為に抜け出したことが気付かれてしまったらしい。やれやれとホラーツは仕方がないと肩を竦める。猫のことは気がかりではあったものの、この付近には多くの兵士がいる。誰かが捕まえてくれるだろうということを期待して、「お戻りください、陛下」と眉を下げている兵士の方向に踵を返した。


「抜け出されては困ります。私がゲアハルト司令官に叱られます」
「すまんすまん。なかなか寝付けないから散歩をと思ったのだ」
「それならば、一言お掛け下さい」


 そう言って眉を下げる兵士を見ていると、余程ゲアハルトの叱責を恐れていることが伺える。一体どのような叱り方をしているのだと思わず溜息を吐いてしまう。その辺りのことを一度聞いてみた方がいいのかもしれないと考えながら、「陛下を発見しました」と辺りを走り回っている兵士らに報告する様を見ていると、思わぬ騒ぎになっていたことに漸く気付く。大袈裟だろうと思う反面、こうして探させたことを申し訳なくも思った。
 騒がせて悪かったと口にすると、途端に恐縮した様子で口々に気にしないで欲しい、見つかってよかった、無事で何よりだと言うのだ。そのことが有り難くもあり、このような兵士らに囲まれて自分は何と幸せな王なのかとも思えた。相好を崩したホラーツは促されるままにテントへと戻ろうとした矢先、「ホラーツ様!」とよくよく知った声が聞こえて来る。


「勝手に抜け出されては困ります!せめて一声掛けてからにして下さいと何度も、」
「すまん、一人で散歩がしたくてな。私が勝手に抜け出しただけだから兵たちを叱らないでやってくれ」
「……しかし、御身に何かあってからでは遅いでしょう。それに、警護兵を増員しているのに誰も気付かないことは一大事です」
「それは私が抜け出し慣れているからだ。ほら、怪我も何もなく無事そのものだ。兵たちに非はないのだから叱らないでくれ」


 そういうわけにはいかない、とゲアハルトは柳眉を寄せるも、暫し重なったホラーツの視線に根負けし、肩を落として脱力した。その様子にを息を呑んで見守っていた兵士らは互いに顔を見合わせて安堵している。その様子を一瞥したホラーツは「あまり兵士を叱り付けてばかりいてはならんぞ」と彼の肩を叩いて今度こそテントに戻った。
 物言いたげにじとりと自分を見ていたゲアハルトの顔を思い出し、ホラーツは微苦笑を浮かべながらベッドに身体を横たえる。散歩というほどのものではなかったものの、気分転換にはなった。これで少しは眠れるだろうと思いつつ瞼を閉ざす。起きたら、まずは警護兵にゲアハルトに叱られなかったかを確認しなければと考えながら、ホラーツは遠くに聞こえるクラネルト川の流れる音や風が吹く度、揺れる草木の音に耳を傾けた。




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