会戦 - secret mission -



 鬱蒼と茂る木々の隙間から差し込む月明かりのみが光源の夜の森の中、颯爽と走っていた馬はゆっくりと速度を緩め始めた。程なくして足を止めた馬から降りると、森の終わりが遠目にもはっきりと見ることが出来た。そこを抜ければ、後はもう足を止めることは出来ない。これまでのように身を隠してくれる森はなく、目標である橋まで一直線に駆け抜けるしかないのだ。
 アイリスは近くの木々に近付き、そこからこっそりと辺りを伺う。目を凝らすと、赤々と燃える松明が闇夜に浮かび、最奥には堅牢な城壁が視界に映った。橋の近くにはすぐにゼクレス国があるのだということは聞かされていたが、改めてその城門との近さを実感し、アイリスは表情を強張らせた。自分たちが橋に向かえば、すぐに衛兵が飛び出して来ることだろう。それを思うと、万に一つの失敗すら許されないのだと彼女は緊張に生唾を呑む。


「どうしたの?」
「あ、ううん……ちょっと緊張してるだけ。近いとは聞いてたけど、城門と橋があんなに近いから驚いちゃって……」
「実物を目にしてみると、違うことって多いからね」


 アベルは頷きながら、アイリスの隣に立って同じ方向を見つめる。その横顔は、どこかいつもと違うものだった。緊張を帯びた表情の中に、何か別のものが混ざっているように思えてならない。どうしたのだとうかとアイリスは口を開くも、言葉を発するよりも先に「作戦行動を確認するぞ」と火薬や魔法石の最終確認を終えたレックスが二人に呼び掛けた。
 すぐに踵を返すアベルの背を追いかけ、アイリスは地図を足元に広げているレオの近くにしゃがみ込んだ。地図で見るよりも実際に目にした方がやはり城門と橋は近いように感じる。多少、そこに自分自身の緊張故の主観が入っているということは自覚しているが、アベルが言うように実際に目にしてみると違うことは多いと改めてアイリスは感じていた。


「緊張してんの?」
「そりゃあ、緊張するよ。レオはしてないの?」
「してるけど、アイリスほどじゃあないかな」
「お前は緩すぎるから少しは緊張しろ」
「無理だよ、レックス。レオは頭のネジが緩いんだから」
「おい、黙って聞いてたら好き勝手言いやがって、誰の頭のネジが緩いって?」


 途端にレオは眉を寄せてアベルの頬を抓る。すると、顔を歪めたアベルが両手で思いっきりレオの頬を引っ張り上げ、彼は素っ頓狂な声を上げた。こんなところで騒いでたら拙いよとアイリスは慌てて二人を止めようと、互いに抓り合っている二人の手に手を伸ばすも、それよりも先に「いい加減にしろ」といつも通りとも言えるレックスの鉄拳が二人の頭に直撃した。
 声も出せずに頭を押えて俯くレオとアベルに彼は呆れかえった様子で溜息を吐き、「次、騒いだら二発にするからな」と釘を差す。ただでさえ、毎度鈍い音が聞こえる拳骨を更にもう一発加えられるのだと思えば、さすがの二人も口を噤んだ。言い返せば、間違いなくレックスの鉄拳制裁に見舞われることは彼らも身に沁みて理解しているのだろう。
 これから作戦行動に移るというのに、このやりとりはいつもと何ら変わりない。そのことにアイリスは緊張に引き攣っていた頬を緩ませ、僅かに安堵感を漏らす。痛がっている二人には申し訳ないとも思うのだが、やはりこういったやりとりを見ていると、いつもと何も変わらないのだということを直に実感し、凝り固まっていた気持ちも解れるのだ。


「それじゃあ、本題に移るぞ。まずは此処から探れる限りの橋の警備を探る。その確認を終えてから一気に森を抜けて爆破目標である橋を目指す」


 橋に到着後、アベルとアイリスはゼクレス国側で馬を下りて警備兵を排除し、その後も援護に来るであろう帝国兵を橋に近付けないように排除を継続。その間にレックスとレオは橋中央に火薬と魔法石を下ろした後、対岸まで馬を連れて行き、ヒッツェルブルグ帝国側の警備兵を排除する。その後、橋中央に下ろした火薬と魔法石を橋全体に仕掛け、頃合いを見計らって帝国側の対岸に退避して橋を爆破し、リュプケ砦に撤退するという流れをレックスは作戦行動として説明した。


「何か質問は?」
「もし失敗した時は?」
「その時は川に飛び込め。運が良ければ、流されてクラネルト川まで辿り着ける。辿り着いたら、そこからは自力で王都を目指す」
「作戦行動の所要時間は?」
「撤退も含めて十五分だ。それ以上留まれば、橋を爆破出来たとしても俺たちが生存している確率は限りなく零に近付く」


 落ち着いた声音で言うレックスの言葉を受け、アイリスらは表情を引き締める。元より、作戦行動は困難を極めるということは承知の上だ。失敗すれば命はないということも分かった上で覚悟を決めてこの場にいるのだ。一切の恐怖がないというわけではないものの、やっぱり嫌だなどと言い出す者は誰一人としていなかった。
 レックスは改めて質問はないかを問い掛け、三人の顔を順繰りに見つめた。質問がないことを確認すると、「作戦開始は十五分後だ。それまでに作戦行動を確認して、それぞれ打ち合わせをしておいてくれ」と口にしてその場は解散となった。レックスとレオはそれぞれ火薬と魔法石の再確認と準備の為に立ち上がるとその場を離れ、アイリスはそれを見臆すると隣に腰を下ろしていたアベルの方を向いた。


「細かい動きはどうする?」
「いつも通り、僕が攻撃魔法で追い払ってあんたは防御魔法を展開。ゼクレスの城門付近から矢を放たれることも考えて、広く展開した方がいいかもしれない」
「了解。あ、わたしも追い払うの手伝うからね」
「確かに、こういう時はあんたの不安定すぎる攻撃魔法も役に立つかもね」


 それもそうだ、と言わんばかりのアベルにアイリスは頬を引き攣らせるも、不安定であるということは事実である為、言い返すことが出来ない。悔しげに眉を寄せていると、彼は微苦笑を浮かべながら「まあ、でも最初の頃よりはずっと上手くなってると思う」と口にした。今の今までそのようにはっきりと言葉にして褒められたことなどなかったアイリスは目を瞠り、すぐには言葉が出て来なかった。


「……何て顔してるの、間抜け面」
「し、失礼な。ちょっと驚いただけで間抜け面なんてしてない!……アベルが急に褒めるから……」
「何それ、僕だって褒めることぐらいあるよ。嬉しくないの?」
「……嬉しいけど、同時に貶されてるからちょっと複雑」


 素直に喜びたいところではあるものの、間抜け面だと言われたことがつい引っ掛かってしまっていた。手放しに褒めるとは思っていなかったが、その言い草は少し酷いのではないかと唇を尖らせていると、アベルは可笑しそうに笑い出した。ますます心外だと眉を寄せていると、不意に彼は笑うのを止めて真剣な様子の黒の瞳をアイリスに向けた。


「何……?」
「……約束、覚えてる?」


 それが何を指しているのかはすぐに分かった。昨夜交わした、何があっても振り向かずに必ず生きて戻るという約束のことだ。アイリスは小さく頷き、「覚えてるよ」と真っ直ぐに向けられる黒い瞳を見返す。数瞬、伺うような視線を向けられるも、すぐに視線は外れてアベルはゆっくりと立ち上がった。


「それならいいんだ」
「……だけど、アベルだって同じだよ?ちゃんと約束して」


 逃げるように背を向けるアベルの手を取り、アイリスはこっちを向いてと腕を引く。彼は手を振り払おうとするが、しっかりと両手で手を握っている彼女の手を振り払うことが出来ず、アベルは大袈裟なほどの溜息を吐くと僅かに眉を下げながらアイリスの方を見た。
 

「離して」
「嫌。アベルもちゃんと生き残る約束をしてくれなきゃ離さないから」
「……僕のことは気にしなくていいよ」
「そんなの無理。それにアベルは狡い。わたしのことは心配してくれるのに、わたしがアベルを心配するのは嫌がるじゃない」
「別に、嫌がってるわけじゃないけど……」


 その間もアベルは何とかしてアイリスの手から逃れようとするも、いい加減、それが無理だということを悟ったのか溜息を吐きながら改めて彼女の前に膝を付いた。けれど、アイリスに手を離す気はなく、アベルは溜息を吐く。そしてぼそりと「強情すぎ」と呟くものだから、余計に握られている手に力が込められてしまう。
 途端にアベルは顔を顰めて、痛いと呟くのだが自業自得だとアイリスは取り合わない。どうにか話をすり替えようとしてくるアベルの言葉を次から次に切り捨てるため、彼は降参だとばかりに空いている手を上げた。


「分かったよ、約束すればいいんでしょ、約束すれば」
「嫌々そうに言わないでよ」
「……注文が多いよ」
「もう、……アベルも生きて一緒に帰るんだよ、絶対だからね」
「分かった分かった」


 はいはい、と溜息混じりに言うアベルにアイリスは眦を吊り上げる。そんな彼女にアベルは再度溜息を吐くと、分かったよと彼女が痛いぐらいに握る手に空いている手を重ねた。そして「約束するよ、生きてあんたと一緒に帰る」と少しだけ困ったように笑った。
 その笑みを見ると、約束すると言っているのにどうしようもなく不安になった。手を掴んでいても、何処かに行ってしまいそうな雰囲気のある彼だ。言葉にして、約束を交わせば少しはその不安もなくなるのではないかと思ったけれど、少しも減らず、それどころか増える一方だ。


「……何処にも行かないよね、アベルは」
「何でそんなこと聞くの?」
「……手を握ってるのに、アベルが遠くにいるみたいに感じたから」


 自分は彼の手を握っている。少し温度の低い手を、しっかりと両手で握っている。そして空いている手で、アベルは自分の手に触れている。それを確かに感じるのに――どうしようもなく、すり抜けて消えてしまいそうに思えてならなかったのだ。
 一度芽吹いた不安はそう簡単には消え去ってはくれない。アイリスはきゅっと瞼を閉じ、不安を追い払うように頭を振る。それでも巣食ったそれはなかなか消えず、もうすぐ作戦行動に移るというのに心は少しも落ち着かず、それが却って彼女に焦りを齎す。


「あんたの目の前にいるよ」
「……分かってるよ。でも……」
「こうしてあんたの手を握ってる。それなのに、何処にも行けるわけないでしょ」


 あんまり馬鹿なことを言ってると怒るよ、とアベルは苦笑を浮かべながらアイリスの頬を軽く抓む。ひりひりと痛むそれに眉を下げながらも、アイリスは小さく「ごめん」と謝罪の言葉を口にする。すると、頬を抓んでいた手は離れ、離れ際に抓んだそこを軽く撫でられる。その瞬間の黒曜石の瞳が微かに揺れたように思え、アイリスは咄嗟に離れていく彼の手を取ろうと手を伸ばす。けれど、その瞬間に緩んだアイリスの手から握られていた手さえも離れ、アベルは距離を取るように立ち上がってしまった。


「もう時間だよ」


 然も当然のように、彼は言う。否、作戦開始の時間になったのだから、当然の行動だった。アイリスは一度顔を俯け、気持ちを切り返すように深く呼吸を繰り返した後に立ち上がった。離れたところで火薬と魔法石の確認作業をしていたレックスとレオも丁度終えたところらしく、馬を連れて元の場所へと戻って来た。二人の表情は既に作戦を前にして引き締まったものであり、自分も今は作戦に集中しなければと改めて気合を入れ直す。
 アベルのことが気がかりでなかったわけではない。それでも、彼を思えばこそ、作戦に集中しなければならなかった。この作戦が失敗すれば、約束以前の問題となってしまう。それだけは何としても避けなければならない。これから始まる十五分という短い時間に力を尽くさなければならないのだ。


「用意はいいか?」
「勿論。ちゃんと帝国兵を追い払えよ、アベル」
「あんたこそ、火薬と魔法石の設置をしっかりとね」
「こんな時まで喧嘩腰になるな。……アイリスも、用意はいいか?」


 溜息混じりに睨み合う二人の間に入り、レックスは深呼吸を繰り返すアイリスに問い掛ける。肺に溜まった空気を全て吐き出すように深く息を吐き出し、彼女は杖を手に取ると小さく頷いた。それを確認し、レックスは睨み合うレオとアベルを軽く小突いて三人の顔を改めて見つめる。


「一度走り出したら、もう後戻りは出来ないぞ。作戦が始まれば、後は各自、自分の最善を尽くして行動しろ」


 そして必ず、全員で生きて帰ろう。
 レックスのその言葉に小さく頷き返す。そこから先に言葉はなく、それぞれが馬に跨った。アイリスはレオの後ろに手を貸されながら乗ると、馬はすぐに走り出した。鬱蒼と茂る森の終わりから飛び出すと、夜の闇を照らし出す月明かりは運よく雲に隠れていた。今のうちだとばかりに馬の速度は増し、四人は一直線に松明が燃え、そこだけがぼんやりと浮かび上がっている橋を目指した。



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