最善 - checkmate -



 宵闇を縫うように馬は颯爽と橋に向かって駆け続ける。アイリスは緊張を鎮めるように努めてゆっくりとした呼吸を繰り返しながら、視界の端に映り込む谷底に流れるクラネルト川の支流へと視線を向けた。レックスはもしものことがあれば、川に落ちるようにと言ってはいたものの、水面から橋までの高さは相当なものであり、まさに助かるかどうかは運試しに思えてならない。そんなことにはならなければいいけれど、と考えていると、暫くは蹄の音と川のせせらぎの音しか聞こえていなかったが、橋に近付くにつれて何かあったのかように叫ぶ帝国兵の声が聞こえて来た。このような夜更けに馬を駆る者となれば、本隊が動いている今、帝国軍にとっては急ぎの伝令であると勘違いしたらしい。
 しかし、近付くにつれて月を覆い隠していた雲も流れ、姿が露見してしまう。月明かりに照らされた馬を駆る者の姿は帝国軍の軍服を纏った者ではない――松明を手に伝令だと勘違いしていた兵士らはすぐに表情を引き締めると「敵襲だ!」と騒ぎ始める。


「アイリス、もうすぐ橋に到着するけど準備はいいか?」
「うん、大丈夫」


 聞こえて来る怒声に緊張感が高まるも、ここまで来てしまえば後は腹を括るしかない。アイリスは馬を手足のように操りながら肩越しに振り向くレオにしっかりと頷いて見せた。いつまでもレオに心配を掛けているわけにもいかない。彼は彼でしなければならないことがあるのだ。
 アイリスは鞍をしっかりと掴み、いつでも降りられるように準備する。ゆっくりと馬を停めて降りる余裕などないため、速度を僅かに緩めたところで飛び下りなければならない。自分自身を落ち着けるように呼吸を整えながら、アイリスはちらりと並走するレックスとアベルの馬に視線を向けた。アベルも同様に飛び降りる準備をしているのが伺える。
 恐怖がないと言えば嘘になる。着地に失敗した時のことを考えると、身体が動かなくなってしまいそうだった。しかし、着地の失敗よりも作戦の失敗の方が支払うことになる代償は大きい。怪我をしたとしても、回復魔法で治癒すれば事足りるはずだと自分自身に言い聞かせ、アイリスは勢いよく身構える帝国兵らを蹴散らす馬の衝撃に耐えるようにしっかりと鞍を掴み、馬を帝国兵らが構える槍から守るべく防御魔法を展開する。


「アイリス、今だ!」


 レオの合図を信じ、アイリスは馬から飛び降りた。それは転ぶような着地となり、膝や腕に痛みが走るもののアイリスは素早く立ち上がると既に攻撃魔法を向かって来ようとする帝国兵らに放っているアベルに合流する。それを横目で確認した彼は、「怪我はない?」と至極落ち着いた声音で言う。


「平気。アベルは?」
「僕も何ともない。……それより、攻撃魔法の準備をしておいて。ああ、でも全力じゃなくて抑え目で」
「それはいいけど……何するつもりなの?」
「大丈夫。僕に考えがある」


 吹き荒れる暴風を放ち、兵士らは蜘蛛の子を散らすように徐々に橋から遠ざけられていく。しかし、それでは駄目なのだ。いずれ来るであろう応援部隊のことを考えれば、出来るだけ今この場にいる兵士だけでも戦力外にする必要がある。かと言って、アイリスが使用出来る攻撃魔法はアベルのように中距離以上に及ぶものではなく、あくまでも近接戦闘の時に相手に触れることによって漸く効果を持つものだ。考えがあるといってもどうするつもりなのだろうかと思いつつ、アイリスは言われた通りに魔力を杖に集約する。
 その間、同様に魔力を練り上げているアベルの足元にはぼんやりと青い魔法円が現れる。それだけでも彼が大規模な攻撃魔法を使おうとしていることが伺え、アイリスは思わず息を呑んだ。暴風に吹き飛ばされていた兵士らは体勢を立て直すと雄叫びを上げ、各々の武器を振り上げて再び向かって来る。そのあまりの形相にアイリスは喉を鳴らすも、アベルは焦ることなくその場に立ち続け――次の瞬間、穏やかに流れていた川の水が突如として津波のように起き上がり、その大量の水が向かい来る兵士たちを飲み込んだ。


「アイリス、水に向けて攻撃魔法を放って!」


 今だとばかりに言われ、アイリスはすぐに足元を濡らす水に触れてそこに一気にばちばちと音を鳴らす雷を落とした。途端に、彼女が落とした雷は水に濡れているあらゆるものに流れ、洪水の後のように押し流された兵士らの元に辿り着く。何とか起き上がろうとしていた兵士らに止めを刺すかのように電流は彼れの身体を駆け抜け、兵士らはぐったりとそのまま地に伏せた。
 それを確認してからアベルはアイリスに止めるように声を掛け、彼女は足元の水から手を離した。抑え目で攻撃魔法の準備をしておくように言った理由はこのためかと理解し、全力で使用しなくてよかったと溜息を洩らす。仮に全力で攻撃魔法を放っていたとしたら、兵士らを気絶ではなく、殺めるところだった。そのこと思うと、途端に背筋が冷え、ちゃんと説明してくれなかったアベルのことを恨めしく思った。
 敵兵を殺すことに躊躇しているような余裕はないということは重々分かっているし、敵兵を殺したところで作戦行動中であれば特別咎められることもない。寧ろ、誉れにさえなることではあるが、やはり人を殺めることに変わりはなく、アイリスは受け入れられそうになかった。――とは言っても、既にリュプケ砦で強化兵を一人、自分自身の手で殺めているのだから今更何を言ったところで、その事実は変わらない。人を殺めた人間であるということは、どうしようもない事実なのだ。


「……どうかした?」
「……ううん、何でもないよ」


 それより、応援が来る前に橋に防御魔法を張らなきゃ、とアイリスはアベルから顔を逸らした。とてもではないが、今は人に見せられるような顔ではなかったのだ。浮かぶ陰惨なそれを努めてゆっくりと繰り返す呼吸で抑えるも、鬱々とした気持ちは晴れなかった。
 あの時の判断が誤っていたとは思っていない。守る為には戦わなければならないという気持ちも変わってはいない。それでも、時折ふとした瞬間に記憶が蘇るのだ。そして、恐らくは一生消えることのない記憶でもある。ならば、それに慣れるしかない。じくじくと痛むそれに慣れるしかないのだ。
 だが、今はそれを気にしている時ではない。アイリスは気を取り直して杖を構えると、筒状の防御魔法で橋全体を覆うイメージでそれを展開する。以前、リュプケ砦での作戦行動中にエルンストが見せたそれを応用しているのだが、さすがに一人の力で対岸まで覆う防御魔法を展開することは困難であり、三分の二程度しか覆えていない。


「どうしよう……」
「平気でしょ。さすがにこっちの岸から向こう岸まで矢を飛ばすのは並大抵の腕前では無理だよ」


 それに追手はゼクレスから来るんだから此方側を重点的に守れていたら問題ないよ、とアベルが口にしていると、対岸の警備兵の排除が完了したらしいレックスとレオが慌ただしく橋の中央に下ろしていた火薬と魔法石の詰まった積み荷へと駆け寄っている姿が見えた。一先ずは無事に帝国兵の第一陣を退けることが出来たことに安堵しながら、そろそろ動き出すであろう応援部隊のことを思うと、気を抜いている余裕はなかった。










「補給路が全て断たれた!?」


 その報告が届いたのは夜半を過ぎ、仮眠を取ろうとした矢先のことだった。息を切らせて報告を伝えに来た兵士も俄かに信じられないと言わんばかりの表情だったが、彼以上にカサンドラは表情は驚きに満ちていた。兵士は何度も頷きながら、「ライゼガング平原へ続く補給路や橋が全て爆破工作によって寸断されているとのことです」と言い添える。
 帝国軍が整備している補給路は決して少なくない。しかし、ゼクレス国を拠点として整備されているため、その全てはクラネルト川のの二本の南北の支流に挟まれたライゼガング平原を通ることが前提となる。そこに掛かる橋を落とされた上に補給路を断たれたということは、つまり、ライゼガング平原は孤立させられた状態にあるとも言える。
 無論、完璧に孤立させられたというわけではない。少なくとも、ヒッツェルブルグ帝国に続く橋は健在であり、迂回路を使えば橋や補給路を断たれたところで兵や食料を送ることは不可能ではない。だが、迂回路を使えば、倍以上の日数が掛かることは決定的であり、やはり孤立させられたと言わざるを得ない。


「……まあ、いいでしょう。明朝、ゼクレスに残っている兵士と近隣の属国の兵士に補給路の再構築に向かわせれば済むことだわ」


 とは言っても、やはり面白くはない。カサンドラは柳眉を寄せながら、報告に来ていた兵士に下がるように手を振った。まるで逃げるように居室を後にする兵士を見送り、ソファに寝そべってクッションを抱き締めている少年は眠たげな目を彼女に向けて、「カーサも少しは休んだら?」と先ほどの報告に興味を抱くこともなく、欠伸を噛み殺している。
 対応をするにしても明日以降になるのなら今は休んでいる方が確かにいいだろう、とカサンドラは胸の内に生じた不機嫌さを追い出すように深い溜息を吐き、「そうするわ」と身体を休めようとソファから立ち上がった。しかし、それを妨害するかのように「カサンドラ様!」とノックもなく、慌ただしく兵士が部屋に駆け込んで来た。


「夜更けに騒々しいわ。何事なの」
「そ、それが……橋に、大橋に敵兵が……!」
「……何ですって」


 その報告には眠たげにしていた少年もすぐさま身体を起こし、離れた壁に凭れかかっていたアウレールも伏せていた瞳を持ち上げて視線を兵士へと向ける。カサンドラはすぐに何があったのかを説明するように促し、兵士は乱れた呼吸もそのままに口を開く。


「先ほど、大橋の警備に就いていた兵士からの報告が届き……、恐らくはベルンシュタインの兵士が橋に攻め込んで来たと……。人数は四人とのことで……」
「たった四人で此処まで来たの?何それ、他の兵士は何やってたのさ!」
「も、申し訳御座いません……!」


 声を荒げる少年に兵士は委縮し、身体を震わせている。そして、伺うように視線を今回の作戦の指揮官であるカサンドラへと向けたところで、兵士は顔色を青くした。
 カサンドラは苛立ちを露にし、赤く彩った爪を噛んでいた。柳眉を寄せるその様は、触れようものならその全てを裂いてしまいそうなほど鋭利な空気を纏っていた。それにはさすがの少年も目を瞠り、口を噤むしかない。しかし、何かしらの対処をしなければならないことは明白であり、少年は僅かに眉根を下げながらがりっと爪を噛む彼女に声を掛ける。


「……カーサ?」
「……やられた」


 ぼそりと呟いたその声音は地を這うような低い声音だった。苛立ちと殺意が綯い交ぜになったようなそれに、報告に来ていた兵士は底冷えの恐怖を感じた。顔色は悪く、身体は震え、歯はかちかちと音を鳴らせている。
 しかし、そんな兵士の様には気付くことなく、カサンドラは癇癪をぶつけるように握り締めた拳を乱暴にテーブルに打ちつけた。その拍子にテーブルの上にあったカップが転がり落ち、ぱちんと冷やかな音を立てて割れた。


「全部、これこそが目的だったのよ。だからこその布陣であり、本隊の出撃だったのよ」
「カーサ、意味が分からないよ」
「そのままの意味よ。ゲアハルト司令官は元々勝利なんて望んでない。あの橋を落とすことだけが目的だったのよ、だからこそ、こちらの本隊をこの場所から離す為にクラネルト川寄りに布陣した。あの人は目先の勝利よりも未来の勝利を選んだのよ」


 やられた、まさかこのような手を打って来るとは思いもしなかった。カサンドラは噛み過ぎたあまりにぼろぼろになった爪を口から離し、「それで、敵兵の特徴は?」と問い掛ける。たった四人でこの場所まで来たということは、ベルンシュタインの中でも実力のある者だろう。そうでなければ、この場所まで辿り着くことも出来ず、そもそも作戦行動を実行に移すような勇気もないだろう。
 何十倍もの敵兵を相手にすることは必至なのだ。勇気のない者にこの作戦は実行できない――そんなことを考えていると、おろおろとした様子で兵士は視線を彷徨わせながら口を開く。


「暗くてよく見えなかったようですが、……男三人に女が一人だったと聞いています。赤髪に金髪が二人、黒髪の四人です」
「それじゃあよく分からないよー」
「……女性が一人で金髪が二人……。その女性ってどういう子だったのかしら」
「た、確か……白いフードを被った、薄い金髪の……まだ若い、その……そちらの方とあまり歳が変わらないぐらいではないかと」
「ボクと?」


 指し示された少年はきょとんとした様子で自身を指差した。兵士はこくこくと何度も頷き、もうそれ以上のことは分かりません、と深々と頭を下げる。そんな彼の態度を気に留めることもなく、カサンドラは考える素振りを見せ、そして口の端を歪めた。


「……そういうことなのね、ゲアハルト司令官」
「何がそういうことなの?カーサ」
「ゲアハルト司令官は、此方がアイリス嬢のことを狙っていると既に承知しているのよ。承知した上で、彼女を此方まで寄越した」
「待ってよ、それじゃあ今、橋に来てる女ってその子のことなの?」
「一応、外見的特徴は当てはまるわ。勿論、暗かったのだから確たるものではないだろうけれど……本人である可能性がある以上、殺すわけにはいかないわ」


 そうなると、打てる手が限られて来る。兵士を大量に差し向けて、誤って怪我を負わせて駄目だ。何か方法を考えなければ、とカサンドラは次第に常の落ち着きを取り戻していく。


「現在出撃可能な兵士を全て橋に回して。此方の守りが手薄になっても構わないわ。多少手荒になっても構わないから全員生け捕りにして頂戴」
「りょ、了解です!」
「私は城門に行きます。以後の指揮は城門で行うから、報告も全て城門に集めて頂戴」


 了解です、と頷くなり、兵士は部屋を飛び出していく。それを見送り、カサンドラはソファから立ち上がると城門に向かうべく居室を出ようとする。すると、「ボクも行った方がいい?」という欠伸の混じった声が聞こえる。余程眠たいらしいが、何があるか分からないことを考えれば、信頼できる戦力が傍にあった方がいいことは確かであり、「悪いけれど、付き合って頂戴ね」と声を掛ける。


「アウレール、貴方もよ」
「……了解」
「仕方ないなー……まあ、たった四人で此処まで辿り着いたんだから、少しは気になるけどね」


 どんな人たちかな、と少年は欠伸を噛み殺しながら言う。気にはなっても、眠気の方が勝るらしい。壁に凭れていたアウレールも面倒そうではあるものの、言われた通りに付いて来る。カサンドラは「恨むならこんな作戦を命令したゲアハルト司令官を恨んで頂戴」と口にし、一気に騒然とする階下の喧騒を耳にしながら城門へと向かった。


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