最善 - checkmate -



「あらあら……これは……少し厄介ね」


 城門の屋上に移動したカサンドラは双眼鏡を手に眼下に広がる光景を観察していた。ゼクレス国に残っていたほぼ全ての戦力を投入している為、橋付近には大勢の兵が殺到している。しかし、あくまでも橋の近くにいるだけであり、ある一定の距離を境にゼクレス国の兵たちは足を止めていた。それは単に足を止めているわけではなく、絶え間なく放たれ続ける攻撃魔法によって近付こうにも近付けないのだ。
 また、矢を射かけて威嚇しようにも防御魔法が展開されている為にそれも無駄足に終わることは見るからに明らかであり、このまま魔力が切れるまで様子を見ている方がいいのではないかとカサンドラは考えた。しかし、そうしている間にも足止めをしている者らの他に橋で忙しなく動いている者の姿も確認でき、様子を見ている間に橋が爆破されてしまうだろう。それだけは避けなければならない。兵を多少失ったところで咎められることはないだろうが、橋はそうはいかない。谷間に架けた橋の完成までは長い時間を要したという。それを落とされ、再び橋を架け直すことになれば、ベルンシュタインはそれを間違いなく好機と捉えるだろう。そして何より、綿密に立てられた計画にも支障が生じる。何としても橋を死守しなければとカサンドラが柳眉を寄せていると、「聴取終わったぞ」という声が聞こえて来た。


「ご苦労様。どうだったの?」
「撤退した橋の衛兵らが言う特徴はアイリス・ブロムベルグと一致するところが多い。……それから」
「何かしら」


 元々橋を警備し、アイリスらによって気絶させられていた衛兵らは連れ帰られ、先ほど半ば無理矢理意識を取り戻させられ、アウレールによって事の次第の聴取が行われた。聞き出した情報を整理すると、事前に聴取に向かう前にカサンドラから教えられていたアイリスの特徴と一致する特徴を聴取することができ、彼女がこの場にいる可能性は高くなった。
 しかし、それと同時にアウレールの耳に気になる話も飛び込んで来たのだ。彼は辺りを見渡してあることを確認した後にそっとカサンドラに耳打ちした。告げられたそれに彼女は軽く目を瞠ると、アウレール同様に辺りを見渡した。


「このことは口外しないで頂戴。気付かれて暴れられでもしたら困るもの」
「了解した」


 アウレールは一つ頷くとカサンドラの傍らに下がった。彼女は再び双眼鏡を通して橋へと視線を向ける。それが映し出すものを見つめ、何とも言えない表情になっていると「カーサ、準備出来たよ」という先ほどまでの眠たげな声とは一変して常と変わらない笑みを含んだ声音が聞こえて来た。
 振り返ると、弓を手をした少年と背後に木箱を運んで来る兵士の姿があった。少年にはそれらを用意するように頼んでいたのだ。カサンドラは笑みを浮かべて礼を言うと、弓をアウレールに渡すように口にした。


「ボクじゃ駄目なの?」
「そうね、今回はアウレールの方がいいのよ。射殺すわけでもないから……それに、弓は苦手でしょう?」
「でも、飛ばすぐらい出来るよ」
「それじゃあ駄目なのよ。特に今回はアイリス嬢がいるのだから失敗は許されないの」


 そう言うと、少年は途端に不快そうに顔を歪めた。気に入らないと言わんばかりのその様子にカサンドラは微苦笑を浮かべながら、やんわりと彼の手から弓を取り上げた。口では色々と言ってはいたものの、失敗した時にどういうことになるかを少年も分かっているらしく、抵抗らしい抵抗はなかった。
 カサンドラはアウレールに弓を手渡すと、背後に用意された木箱を開けるように近くにいた兵士に命じた。そして、改めて橋へと視線を投じようとした矢先、「あんな女、死んだっていいじゃないか」と拗ねた声が聞こえて来る。


「白の輝石はルヴェルチが手に入れる手筈になってるんだよ?だったらあんな女、生かしておく必要もないよ!」
「駄目よ。保険は幾重にも掛けておくものよ。正妃様が本当に白の輝石を持っているのか、それこそ怪しいでしょう?」


 ルヴェルチとは、彼の後ろ盾となってベルンシュタインの王権を手に入れる助力をする見返りとして、白の輝石を鴉に差し出すという契約を結んでいる。しかし、ルヴェルチの手に元々白の輝石があるというわけではなく、彼も正妃キルスティと第一王子シリルを王位に付けるという契約を交わし、その見返りとしてキルスティが所持しているという白の輝石が与えられることになっている。
 つまり、キルスティより白の輝石をルヴェルチが得られなければ、そもそもこの契約は成立しないのだ。しかし、その可能性は十分にある。失われた国宝をその国の正妃であるキルスティが秘密裏に所持しているのだ。嘘である可能性は低くはなく、だからこそ、カサンドラはより確実に白の輝石を入手する為に幾重にも保険を掛けておく必要があると考えていた。
 その一つが白の輝石を研究していたという今は亡きコンラッド・クレーデルの養女であるアイリスだった。誰も気付かぬうちに、彼女すら気付かぬ手掛かりや鍵を託されている可能性がある。その可能性が捨てきれぬうちは、彼女を手に掛けることは出来ないのだ。

「シリル殿下を王位に付ける為に吐いた嘘かもしれないわ」
「そうかもしれないけど……だったら何で、カーサはあのおじさんを殺したの。余計面倒なことなったのに!」
「殺すつもりなんてなかったわ。……だけど、あの方、こちらは色々手は尽くしてるのに我慢して何にも話してくれないからつまらなかったんだもの」


 溜息混じりにカサンドラは口にした。けれど、その赤紫の瞳は当時のことを思い出し、嗜虐的な笑みを滲ませる。少年はそんな彼女の様子に物言いたげな顔をしたものの、結局は何も言わずに「分かったよ」と唇を尖らせた。


「カーサの指示に従うよ。指揮官はカーサだからね」
「ありがとう、そうしてくれると助かるわ。……あら」


 にこりと愛想のいい笑みを浮かべ、カサンドラは双眼鏡を持ち上げてそこを覗き込む。そしてそれを通して見ていると、不意に距離のある城門からでも確認出来ほどの青い魔法陣が浮かび上がっていた。それに引き寄せられるように魔力によって勢いと質量を増した川の水が勢いよく橋の周辺に集まっている兵士らを押し流し、攻撃魔法を逃れることが出来た兵士らも散り散りに後退していく。
 そして動いた白い影が足元の水に手を触れ、駆け抜ける明るい光が見えた。先ほどアウレールから聞いた通りの光景が繰り広げられ、カサンドラは「あらあら、困ったわね」と然程困っているようには聞こえない声音で口にした。


「どうしたの?」
「兵士がどんどん蹴散らされてしまうのよ。……そろそろ、お灸を据える頃ね。アウレール、矢を射かけて頂戴」
「はい、どーぞ。痺れ薬を塗っておいたよ」


 カサンドラの指示に弓を構えるアウレールに少年は黒々とした矢を差し出した。通常のものと比べて、形状こそ同じものの鴉の羽を付けたかのような黒いそれは異質な矢だった。


「人は狙わないで、あくまでも橋を覆っている防御魔法を狙って頂戴ね」
「ああ、分かっている」
「上手くいくかなー……黒の輝石から精製した特別な石を組み込んだ矢は」
「理論上は防御魔法を突き破るはずよ。魔法耐性を持つ石だもの」


 アイリス嬢は防御魔法が得意だという話だから、いい実験台になってくれると思うわ。
 彼女は至極愉しげに目を細める。これまでにも様々なものを研究の末に生み出して来た彼女だが、こうして実戦投入に立ち会うことは滅多にない為、その表情は実に愉しげなものだった。
 アウレールは受け取った矢をつがえ、弓を引き絞る。そして、狙いを定めるとぎりぎりまで引き絞ったそれを橋に展開されている防御魔法を打ち破る為に放った。











「アベル、あんまり無理しないで」


 肩で呼吸を繰り返すアベルはアイリスは堪らず声を掛けた。ゼクレス国から出兵して来た帝国兵らが橋に詰め掛けている為、彼はそれを追い払うべく先ほどから休む間もなく攻撃魔法を使用し続けている。いくらアベルでも、短時間に魔力を消費し過ぎればすぐに疲弊してしまう。
 しかし、それはアイリスにも言えることだ。遠方や左右からの矢などによる攻撃に備えて防御魔法を橋に掛けているのだ。それを形成し続けながら同時に攻撃魔法も時折使っているとなると、魔力の消費は大きい。維持出来る時間はそれほど長くはない――アイリスはちらりと後方へと視線を向けた。
 後方ではレックスとレオが手分けして橋の支柱付近に火薬や魔法石を設置しているものの、谷に掛かる橋を支える支柱は決して少なくはない。全ての支柱付近に火薬や魔法石を設置が完了するまで防御魔法を維持するのはぎりぎり間に合うかどうかといったところだ。額に浮く汗を拭い、荒い呼吸を整えるように努めてゆっくりと呼吸を繰り返す。
 ここまで来たら、あとは信じるしかない。レックスとレオは必ず間に合わせてくれる、と。アイリスは杖を握り直し、先ほどの攻撃魔法によって身体が痺れて動けないでいる大勢の兵士らへと視線を向けた。橋のすぐ近くまで迫っていた彼らも今は水に押し流されてすっかりと離れている。たとえ動けたとしても、もう一度があるのではないか、と思えば、なかなか踏み込んで来ることは出来ないはずだ。


「平気だよ、……これぐらい」
「こんな時に嘘言わないで。顔色も悪いんだから」
「……見間違いだよ」


 そう言ってアベルは取り合わない。そのことにアイリスは眉を顰めるも、今はそんなことで口論している場合ではない。彼がそうして立っているだけでも帝国兵に対してはある程度の牽制になるのだ。それが分かっている手前、苦しそうであっても下がるようには言えない。
 今はたった四人しかいないのだ。多少無理をしてでも立ち続けなければならない。そう考え、アイリスが取り込んだ空気を入れ替えるように深く息を吐き出していると「ねえ」とアベルに声を掛けられる。


「どうしたの?」
「此処は僕だけでも大丈夫だからあんたはあの人たちを手伝って来て」
「でも……」
「もうすぐ予定時間になる。これは僕たちの作戦行動時間だけど、帝国にしてみれば奇襲から立ち直って体勢を整え終える時間でもあるんだ。……大丈夫、危なくなったら呼ぶから」


 だからあんたは手伝って来て。
 手が多いに越したことはなく、アイリスがアベルと並んで立っていても出来ることは限られている。ならば、少しでも早く撤退出来るようにレックスらの手伝いをした方が余程効率がいい。アイリスは「絶対に呼んでね」とアベルに念を押すと、足早に対岸側付近で作業している彼らの元に駆け出した。
 その矢先、不意にぴしりという罅が入る音が聞こえて来た。一体何の音なのかと思いつつ視線を上げ、そこに広がる光景にアイリスは目を見開いた。


「何で……防御魔法に罅が……」


 魔力が切れているわけではなく、正常に防御魔法は効果を発揮しているはずだ。それにも関わらず、数か所に罅が入り、そこからじわじわと広がり始めている。アイリスは慌てて杖を構え、展開している防御魔法に更なる魔力を注ぎ込む。それで罅は修繕されるはずだった。――しかし、一度は治ってもまたすぐに罅が走ってしまう。
 一体何が起こっているのかと信じられない思いでそれを見上げていると、ふとあるものに気付いた。罅の中心点に刺さっているものが見えたのだ。目を凝らしてそれを観察し、その形状に一致する物体が脳裏を過ったアイリスは目を見開いた。


「矢が、刺さってる……」


 本来ならば弾き返すはずのものが防御魔法に刺さっていた。そしてそれは刺さるだけではなく、そこを起点として防御魔法に罅を広げていっていた。矢は何処からか今も射続けられているらしく、徐々にその範囲は広がり、アイリスがいくら魔力を注ぎ込もうともそれを破壊しようとする矢の速度には敵いそうになかった。
 このままでは防御魔法が破壊されて、一気に矢に射られてしまう――それだけは避けなければとアイリスは三人に聞こえるように声を張り上げた。


「皆、伏せて!」


 悲鳴にも似た声が夜の闇を裂く。その一瞬の後に、罅が全体に行き渡ったアイリスの防御魔法は粉々に砕け散り、それと同時に防御魔法に突き刺さっていた矢が一気に振り掛かって来る。咄嗟に再度、防御魔法を展開するも、矢はそれを易々と破ってしまう。アイリスはすぐに伏せて身体を小さく丸めた。
 空気を裂く矢の音が止むと、彼女はすぐに顔を上げてレックスやレオの方を見た。彼らがいた場所は防御魔法が届かず、野ざらしになっている場所だった。大丈夫だろうかと慌てて立ち上がると、「こっちは平気!」とレオが手を挙げた。一先ずは安堵するも、アイリスはすぐに振り向いてアベルへと視線を向けた。これを機に一気に帝国兵らが攻めて来るのではないかと思ったのだ。しかし、振り向いたそこに広がっている状況は予想とは異なっていた。


「アベルっ!?」


 視界に飛び込んで来たのは肩や足から血を流しているアベルだった。どうやら防御魔法を突き破った矢が彼の身体を直撃したらしい。膝を付き、肩を押えているアベルに駆け寄り、アイリスは顔を青くした。
 自分の所為だと、思ったのだ。もっとしっかりと防御魔法を展開出来ていたのなら、こんな怪我を負わすことにはならなかったはずだ、と。すぐに止血しなければと肩と足に刺さったままだった矢を抜き出し、アイリスは止血しようと傷に手を伸ばす。けれど、傷へと手が届く前にアベルは身体を痛みに震わせながらゆっくりと立ち上がってしまう。


「駄目だよ、じっとしてて!」


 しかし、アイリスの制止を無視したアベルはゆっくりと迫っていた帝国兵らに向けて彼らを後方に吹き飛ばす疾風を放った。だが、その衝撃にアベル自身の身体が持たず、ぐらりと傾いでしまう。アイリスはすぐさま彼を抱き止めると、そのまま後方に下がって橋の壁に寄りかからせた。
 そしてすぐに処置しようと杖を傷口に翳すも、アベルはそれを遮るようにアイリスに向けて手を突き出す。必要ないと言わんばかりの様子だったが、もちろん、彼女は納得出来なかった。


「僕なんかに……構ってる暇なんてないよ」
「そんなことない!」


 そう言うアベルは酷く眠たげで眉を寄せて何とか目を開いてはいるものの、とろんとした様子だった。矢に眠り薬が塗られていたのだということは明らかであり、それがどうして毒ではなかったのかは不思議だったものの、今回ばかりは毒でなかったことは有り難かった。
 早く吸い出してしまわなければとアイリスは杖を傍らに置くと、アベルの肩へと手を掛ける。けれど、それを拒むようにやんわりと力の入らない腕で身体を押し返されてしまう。何としてもアイリスの手を借りるつもりはないらしく、そのことに彼女は柳眉を寄せた。


「アベル、どういうつもり?」
「……平気だよ、これぐらい。それに……」


 震える声で言いながら、アベルはポケットから鋭利なナイフを取り出した。そしてそれを振り上げると、容赦なく自分自身の腕に突き立てた。噛み殺し切れなかった悲鳴が口から漏れ、鮮血が彼の白い肌を伝った。何をするのかとアイリスは慌ててアベルの手からナイフを取り上げると、「もう全身に回ってる……意識を保つにはこれぐらいしないとね」と息も絶え絶えに彼は口にした。
 そして腕の傷を押えながらアベルは近くに転がっていた矢へと手を伸ばす。それを数本拾い上げると、「持って」とアイリスに手渡した。言われるがままに受け取った彼女は、黒々とした矢を見つめた。形状自体は普通の矢と変わらない。しかし、この矢は確かに自分自身が作り上げた防御魔法を打ち破ったのだ。


「……それ、性悪軍医に渡して。あんたの攻撃魔法を破ったって伝えるんだ」
「わ、分かった……分かったから、手当しよう、アベル」
「いいよ、……勿体ない」


 そう言うと、アベルはふらつきながら立ち上がり、閉じてしまいそうな目でゼクレス国の方向を見つめた。そこからは更に兵が差し向けられたのか、移動して来る松明があった。これ以上、兵がこの場に集まったなら、橋を落とすことさえ困難になる。それはレックスやレオも考えたことらしく、「急げ!」という声が聞こえて来た。
 アイリスも手伝わなければと踵を返して彼らに駆け寄ろうとするも、駆け出す直前にアベルに手を掴まれた。つんのめるようになりながらも足を止めた彼女はどうしたのかと彼を振り向く。しかし、アベルは顔を伏せ、何も言わずにいる。焦る気持ちが募り、いつもなら口を開くまで待つ彼女もこの時ばかりはそうはいかず、「急がなきゃ……何もないなら離して、アベル」と早口に言う。すると、そこで漸く彼は顔を上げ、眠た気ではなく、はっきりとした強い意思を秘めた瞳が向けられる。けれどそれは、どこか寂しげでもあった。


「大丈夫、間に合うよ」
「……アベル?」
「だからあんたが心配することはない」


 アベルはそう言うと、アイリスの手を握ったまま橋の中央へと向かって歩き出す。手を引かれるがまま、彼女は先ほどまでとは打って変わってしっかりとした足取りで歩くアベルの背を、ただ見ていることしか出来なかった。そして火薬や魔法石がまだ多く残されている中央に到着し、そこで漸くアベルの手は彼女の手から離れた。
 


「アベル、何するつもり?」
「……」
「ねえ、アベル……」


 胸騒ぎがした。嫌な予感が脳裏を駆け巡った。それを否定して欲しくて、アイリスは早口に彼の名を呼ぶ。アベルはそんな彼女の表情に微苦笑を洩らし、「情けない顔してるよ」とからかうように言う。そんな言葉が欲しいわけではないのだと、アイリスは捲し立てるように言うも、彼の態度は変わらない。


「レックス、レオ!」


 いつもはあまり呼ぶことのない彼らの名前を呼び、アベルは此方に来るように言う。そしてその間に魔法石が入った袋を開け、それらを辺り一面に乱雑に撒き散らした。そして二人が足早に近づいて来ると、「連れて行って」と彼らの方にアイリスを押し遣った。何をするつもりだとレックスもレオも驚いた表情を浮かべていたが、すぐにアベルがしようとしていることに気付いたのか、その表情は歪んだ。


「……アベル」
「いいから、早く行って」
「……だが」
「いつかこういう時が来るっていうのは攻撃魔法士として配属された時点で覚悟は出来てる」


 的を得ない三人の会話にアイリスは付いていけなかった。それでも、よくないことを話しているのだということは分かる。否、何を話しているのかは、本当は気付いていたのだ。けれど、それをどうしても理解したくなくて、頭が理解することを拒否した。
 分かりたくない、何も聞きたくない、受け入れたくない――そう思うのに、時間は残酷にも過ぎていく。ゼクレス国側の橋にいよいよ兵が先ほどまでの数とは比べものにならないほど集ってしまっている。アベルは彼らに向けて手を翳し、再び巻き起こした疾風で帝国兵らを吹き飛ばす。


「……やだ」


 そして漸く、アイリスは口を開いた。これからアベルがしようとしていることは、嫌だった。絶対に嫌だった。いくら彼に覚悟が出来ていようと、そんなことは関係なかった。これから起こることをどうして受け入れられるというのか――レックスやレオのことが分からなくなった。
 アイリスは首を横に何度も振り、アベルへと手を伸ばした。もう殆ど魔力も残っていない、傷を負って立っていることさえやっとなのだ。そんな彼に一体何が出来るのだ、とアイリスは首を横に振る。けれど、伸ばした手はやんわりと振り払われ、アベルは弱々しく彼女の肩をレックスとレオの方へと押し遣った。


「……ごめん、アイリス」
「嫌だ、こんなの……」
「やっぱり、約束は守れそうにない」


 その声音は優しく、幼子に言い聞かせるようなものだった。こんな時だけ名前を呼ぶ――それがとても狡く、アイリスは嫌だ嫌だと駄々をこねる子どものように首を横に振り続けた。
 どうしても認めることも許すことも出来なかったのだ。たった一人、橋を落とすという任務を果たす為に彼をこの場に置き去りにするということを――。


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