最善 - checkmate -



「アベルを置き去りにして自分たちだけ逃げるなんて出来ないよ……!」


 絶対に嫌だと首を横に振るアイリスは悲痛な声を漏らした。目の端に涙が浮かび、首を振る度にそれは宙に散った。アベルの手を掴み、絶対に離さないとばかりに強く握り締める。けれど、彼が手を握り返してくれることはなく、レックスやレオがもう止めろとばかりに彼女の肩に手を置き、やんわりと手を離させようとする。
 だが、アイリスにはそれが理解出来なかった。どうしてそんなにもすんなりとアベルを置き去りにすることに納得が出来るのか、と。これまでずっと一緒に戦ってきた、非番の時は共に過ごすことが多かった。そんな相手をどうしてこうも容易く切り捨てられるのかと言い募ろうと顔を彼らを振り向き、アイリスは目を瞠った。
 平気でいるはずがないのだ。仲間を、アイリスよりも長く共に過ごしていた二人が容易く感情を割り切れるはずがない――堪えるように奥歯を噛み締め、きゅっと眉を寄せているレックスとレオを見ると、アイリスは何も言えなくなった。アベルは既に覚悟は出来ていると言っていた。それと同様に、彼らもまた、切り捨てる覚悟はしていたのだろう。――覚悟が出来ていないのは、アイリスだけだった。


「……やだ、……やだよ、アベル」


 優先すべきは任務だということは分かっている。自分は軍人だ。入隊試験を通過し、ベルンシュタインの為に、守る為に戦うと決めた軍人だ。従わなければならないのは上官の命令であり、今は作戦行動中である。作戦を遂行する為に犠牲を払うことになる可能性があるということも承知していたのだ。
 けれど、いざそれを目の前にすると、どうしても足が竦んでしまう。仲間を一人、敵地に残して自分だけ安全な場所に逃げ帰るということはどうしても許せなかった。
 アイリスはじわりと浮かんだ涙を零しつつ、いつものように握り返してはくれないアベルの手を握り続ける。どうかこの手を取って欲しい、傷の手当てをさせて欲しい、一緒に逃げて欲しい、そう願いながら手を握るのに、彼の冷たい手には少しもその願いが届いてはくれない。


「……これでいいんだよ、アイリス」


 アベルは困ったように笑った。自分が残り、橋を爆破させるのが一番なのだと彼は言う。だが、それを受け入れることなどアイリスには出来ない。嫌だ嫌だと駄々をこねるように首を振っていると、ほんの少しの溜息が聞こえて来た。
 こんなことをしている場合ではないということは分かっている。時間はないのだ。今すぐにでも帝国兵が走り込んで来てもおかしくはない、そんな状況なのだ。自分がこの場に残る限り、レックスやレオも逃げられない。彼女が整理を付けられないが為に、彼らは待ってくれているのだ。けれど、それを分かりつつも、容易く整理がつくような心境ではない。
 顔すら上げられず、アイリスが肩を震わせていると不意に彼の手を掴んでいる腕が引き寄せられ、血と汗のにおいがする身体へと引き寄せられた。手は冷たいのに、抱き寄せられた身体には確かな熱があった。


「聞いて、アイリス。……僕はずっと前から覚悟してたんだ。攻撃魔法士は対複数に向いてる。だから、いざという時にしんがりを務める為に必ず隊に一人は配属されることになってる」
「……そんな」
「一人でも多くの兵士が生き残る為には必要なことなんだ。……僕はこのことを受け入れてる」


 だからこれでいいんだ、とアベルはぎこちない手でアイリスの頭を撫でた。本当は身体が痛んで仕方ないのだろう。けれど、そのようなことはおくびにも出さず、いつもと何ら変わらない様子を装って話し続ける。――否、いつもよりもずっと優しく、滅多に呼ばない名前さえ呼んでいる。それがとても狡いのだと、アイリスは唇を噛み締めた。


「……僕は、アイリスと一緒にいると心地よかったんだ。あんたの傍はあったかくて、気持ちが落ち着いた。こんな僕にまで優しくしてくれるから……それが本当は、すごく嬉しかったんだ」
「……アベル」
「でも、僕は心配だよ。あんたはすぐに無茶をするから……ああ、でも、あんたの傍にはレオとレックスがいるから、だからきっと大丈夫だね」


 すぐ近くで聞こえる声はとても優しい声音だったけれど、微かに震えて耳に届いた。努めて平静を装ってはいるが、本当は彼だって怖いのだということが伝わって来る。そのような声で言葉を重ねられたら、余計に手は離せないではないかと、アイリスは未だ握ったままの手に力を入れた。
 そんなことはないのだと言いたかった。二人がいるから平気だと彼は口にしたけれど、それはまるでもう自分は必要ないのだという言葉が聞こえて来たように思え、アイリスはそれを否定しようと口を開く。だが、涙に濡れた声は上手く言葉を発してはくれない。そんな彼女にアベルは目を細めて、ほんの少しだけ寂しそうに笑う。


「……だからね、アイリス。もう僕のことなんて忘れてよ」
「何、で……っ」
「だってあんたは優しいから。……だから、僕のことを忘れないと、ずっと引き摺って前に進めない。それは僕の本位じゃない」
「……でも、そんなの、」
「僕はアイリスの重荷になりたくないんだ。それに約束したでしょ、僕と。何があっても必ず前を向いて進むって、生き残るって……」


 僕はあんたとの約束を守れなかったけど、あんたは僕との約束を守って欲しい。
 都合がよすぎる、とアイリスは言いたかった。自分勝手だと、そう言いたかったのに何も言葉が出なかった。想ってくれているのだということが伝われば伝わるほど、何も言えなくなってしまう。手を離したくはないのに、離さなければと理解してしまう。もう時間はない、早く手を離さなければアベルだけでなく、自分たち全員が命を落とすことになりかねない。それだけは避けなければならず、ならば作戦遂行を含めて選ぶことの出来る最善の選択肢は、やはりこの一つだけなのだという考えに至る。
 頭は感情が割り切れずとも理解してしまう。しかし、そこで起きた齟齬は容易くどうにか出来るものではない。じくじくとした痛みを伴って延々と自分自身を苛むことになる。だが、それさえ見越してアベルは言ったのだ。自分のことを忘れてくれ、と。生き残ることをこんなにも願われて、それを嫌だと言い続けることは、アイリスには出来なかった。それでも最後の意地でアベルの手を離さずにいると、頭を撫でていた手が離れ、それが手を握り締めている彼女の手に重なった。


「……アイリス」
「……」
「ほんの少しでも、僕のことを想ってくれるなら……この手を離して」


 酷い言葉だった。こんなにも酷くてずるい言葉を、アイリスは他に知らない。そんな風に言われたら、手を離す以外の選択肢は全てなくなってしまう。
 力の抜けた彼女の手から握られていた手を引き抜くと、両手を使ってアベルは伏せてしまっているアイリスの顔を持ち上げた。涙でぐしゃぐしゃになった顔に微苦笑を浮かべながら、頬を伝う涙を優しく指先で拭う。


「ありがとう、アイリス」
「……アベル……わたし……」
「……さようなら、アイリス。僕はあんたのこと……嫌いじゃ、なかったよ」


 さあ行って、と彼はそれだけ言うと、アイリスを強くレオの方へと押し出した。そして踵を返すと、じりじりと迫りつつあった帝国兵らを攻撃魔法で追い払う。しかし、それは今までとは違い、力一杯遠くまで追い払うのではなく、踏ん張れば何とかその場にとどまれる程度のものだった。
 レックスとレオの二人の手を引かれて引き摺られるようにしてアイリスは対岸へと連れられる。首を回して振り向けば、息も絶え絶えに荒い呼吸を繰り返すアベルの姿が目に映り込む。もう限界が近いのだということは明らかであり、今更ながら手を離したことを後悔した。やっぱり行けない、このまま逃げられないとアイリスは二人に懇願するも、彼らは顔を歪めながらそれには答えず、馬の元まで辿り着くと、半ば無理矢理、彼女を馬に乗せた。


「お願い、レオ!やっぱりわたしはアベルを置いていけない!」
「駄目だ!絶対駄目だ!……言ってたろ、あいつも。あいつのことを思えばこそ、オレたちは前に進まなきゃいけないんだ!」
「でも……!」


 自分の後ろに乗ったレオにアイリスは言い募る。けれど、彼の意思は変わらない。分かっているのだ、何を言ったところでもうどうすることも出来ないのだということは。それでも、何も言わずにいられるほど、割り切ることはまだ出来ない。
 動き出そうとする馬にはっとした彼女は咄嗟に杖を取り出した。何をするのだとレオは驚いたが、「防御魔法だけでも掛けさせて!」というアイリスの願いを拒否することは出来ず、彼は小さく頷いた。分かっているのだ、レオだって本当はこのような決断をしたくはないということぐらい、彼女は分かっているのだ。いつも口喧嘩ばかりしていた二人だったけれど、レオはいつもアベルのことを気に掛けていた。それはレックスも同様だ。そんな二人が、何も感じていないはずがないのだ。
 杖を構えて防御魔法を掛けた矢先、ちらりと見えたレオの手からは強く拳を握り過ぎたが為に皮膚が破れ血が滲んでいた。それほどまでに、仲間を置き去りにすることに悔しさを感じていたのだろう。それを見ると、アイリスももう何も言えなくなった。


「……もう行くぞ」


 遠く離れたところに一人立つアベルにアイリスは何とか防御魔法をかける。それに気付けば、彼は振り向いてくれるのではないかと思ったけれど、アベルは振り向くことはなく、真っ直ぐに帝国兵を見据えていた。
 レオはぼそりと一声掛けると、馬の腹を軽く蹴って馬を走らせ始めた。ゆっくりと距離が開いていくも、アイリスはアベルから視線を逸らすことが出来なかった。せめてその姿を目に焼き付けなければ、とそう思ったのだ。それしか自分が彼に出来ることは、もうないのだと。
 拭われた頬に涙が再び濡らし始める。けれど、呆れたように笑ってからかうようなことを言いながらもそっと涙を拭ってくれた人はもういない。距離が離れれば離れるだけ、喪失感が心を苛み、涙が止まることはなかった。











 帝国兵らを前に、アベルは努めてゆっくりと呼吸を繰り返した。自分を守るように柔らかくその身を包みこんだ防御魔法に触れ、彼は微苦笑を浮かべる。そして僅かに肩越しに振り向き、逃がした彼らが距離を取ったことを確認してからアベルは矢を受けていない方の手を掲げた。
 ぶわりと残された魔力を放ち、頭上に巨大な赤い魔法陣が浮かび上がる。じりじりと橋に迫って来ていた帝国兵らはそれを見るなり、互いに顔を見合わせて足を止める。中には腰を抜かす者さえいる。魔法陣の大きさに怯えを見せる帝国兵らにアベルは唇を歪めた。


「情けないんじゃないの?大の大人が僕みたいな子どもの魔法に怯えてるなんてさ」


 自分自身、何とも安い挑発だと思いつつ、アベルは声を大にして言い放った。本当は声を張り上げることさえ辛かった。矢を受けた傷から回った眠り薬のせいでともすれば今にも倒れそうになる。けれど、まだ倒れるには早い、と自分自身を叱咤しながらアベルは火薬が散らばった足元に立ち続けた。
 何としても、橋だけは落とさなければならない。そうでなければ、彼らを逃がした意味がない――アベルは漸く剣を手に動き出した帝国兵らに安堵しながら、体内に残る魔力を全てこれから放つ大魔法に注いだ。道連れは一人でも多い方がいい、と小さな笑みを浮かべながら。


「……これでよかったんだ」


 ぽつり、と彼は呟く。自分の選択肢は間違ってはいなかったのだと、これが正解なのだと彼は言う。そうしている間に周りは帝国兵らで埋め尽くされた。橋の向こうから撤退するように指示する声が聞こえるものの、彼らに従う気はないらしい。先の挑発に乗った為か、それともアベルを討ち取ることで手柄を立てたいのか――そんなところだろう、とアベルは笑った。


「何を笑って……」
「だっておかしいんだよ。あんたたちは僕を殺す気だろうけど、あんたたちに僕は殺せない」
「……何を言ってるんだ」
「僕があんたたちを道連れに死ぬからだよ」


 魔法陣が一際明るい光を放ち、辺りに熱風が吹き抜ける。それによってアベルの周りにいた兵士らが吹き飛ばされ、中には橋の向こうに飛ばされた者さえいた。そこで漸く兵士らは蜘蛛の子を散らしたかのように逃げ出そうとするも、もう遅い。


「これが僕の最善だ」


 最善を尽くすように命じられた。だからこその、行動だ――アベルが口にした矢先、赤く輝く魔法陣からそれと同じ色をした炎の渦が召喚された。それは橋に直撃すると同時にばらまかれていた魔法石や火薬を次々と爆破させていく。地震のような揺れが橋全体を襲うと、橋に次々と亀裂が走り、支柱がぐらつく。
 辺りを舐めつくす炎の中、アベルはアイリスが放った防御魔法の中にいた。それは確かに彼を守るように存在してはいるものの、少しずつ罅が入り始めていた。彼が魔力の最後の一滴まで絞り出して放った大魔法はそう容易く受け止めきれるものではない。何より、もう彼に動くだけの力は残されていなかった。


「……眠い」


 傷が痛むが、それ以上に瞼と身体が重たかった。もう動けない、動きたくない。張っていた緊張の糸がぷつんと切れたように、アベルは崩れていく橋の上に倒れ込んだ。
 熱いほどの熱が辺りを包み込む中、アベルはゆっくりと瞼を閉じた。脳裏に過ったのは、春に出会った彼女のことだった。











 爆発音が聞こえた。何度も続く爆発音が鼓膜を揺らし、レックスとレオは馬を停めた。そして、遠く離れたところで巻き上がる炎と黒煙に目を瞠った。
 橋が崩れていく。アベルはその役目を確かに果たしたのだということが、遠目からでも確認することが出来た。


「……あ、……ああ、っ……」


 声が震えた。元より、こうなるということは分かっていた。アベルは橋を落とすと言っていたのだ、予想は出来ていたことだった。けれど、それを実際に目にしてみると、やはり違う。それと同時に、あのような場にアベルを一人置き去りにして来たのだということを実感させられるのだ。
 彼は自分の意思だと言っていた。覚悟は出来ているとも言った。自分を少しでも想ってくれるのなら、逃げて欲しいとさえ言われたのだ。それでも、何とも思わないはずがない。忘れてと言われても、忘れられるはずがない。


「―――――っ」


 声にならない叫びが響く。彼の名前を呼ぼうとしたけれど、それが音になることはない。止め処なく溢れる涙がそれを邪魔する。手を離さなければよかったという後悔と、アベルを置き去りにしたことへの罪悪感と何も出来なかった自分の無力感が一気に押し寄せ、心がぐちゃぐちゃになった。
 辛くて苦しくてどうしようもなく、心は痛んで仕方なかった。それでも、足を止めているわけにはいかない。レックスとレオはゆっくりと馬を走らせ始める。けれど、いつまでも彼女の涙が止まることはなかった。橋から遠く離れても、続く爆音が聞こえなくなっても、赤い炎が見えなくなっても、少しも心はあの場所から離れることはなかった。



121208

inserted by FC2 system