最善 - checkmate -



 しとしとと未明から降り続く雨は一晩中止むことはなかった。殆ど休憩を挟むことなく馬を駆り続けていたアイリスらもすっかりと雨に濡れているが、誰もそのことを気にはしていなかった。否、気にする余裕なんてものが彼らにはなかったのだ。
 ただ只管、リュプケ砦への帰還を目指して馬を走らせ続け、漸く遠目にではあるもののリュプケ砦が見えるところまで戻って来ることが出来た。橋の陥落に成功してから既に丸一日が経過しているということもあり、アイリスだけでなくレックスやレオの体力も限界に近かった。
 雲に覆われているため、太陽こそ見えないもののいつもならば夜が明けている頃、はっきりとリュプケ砦が見えるところまで来ると砦付近に布陣している第八騎士団の姿も見え始めた。漸く戻って来たのだという実感が湧くと同時に視界にはこちらに向かって来る騎馬兵の姿があった。彼らは馬に乗っているのがアイリスらであるということを確認すると、「大丈夫か!」と声を掛けて慌てて近付いて来た。
 馬の限界も近いということでアイリスらはそれぞれ近付いて来た兵士らの馬に移り、そのままリュプケ砦へと兵士らに付き添われることとなった。殆どされるがままの状態であり、砦に到着して馬から降りると待機していた救護兵らに付き添われて一先ずは身体を休める為に砦の一室へと案内された。


「よく戻って来た」


 濡れた衣服から用意されていたものに着替え、用意された温かい飲み物のカップに手を伸ばした矢先、部屋の扉がノックもなく開け放たれ駆け込むようにしてガストンが姿を現した。そしてアイリスやレックス、レオの顔を順繰りに見遣り、そしてそこにはいないアベルのことを思い出したのか僅かに目を見開くも、そのことについては何も言わずに三人を労った。
 その言葉に、アイリスは漸く自分が生きて戻って来たのだということを実感する。橋の崩落を見届けてから殆ど言葉を交わすことなく、リュプケ砦に向かっていた。そのためか、自分が生きているのかそうではないのかすら分からなくなっていたのだ。


「怪我はしていないのか?」
「……ええ、まあ。ですが、もう少し休んだらすぐに此処を発ちます」
「しっかり休んでからでも遅くはないだろう」
「お気持ちは嬉しいんですけど、司令官に報告しなきゃいけないんで」
「そうか。……それならすぐに馬車の用意をさせよう」


 顔を伏せたままのアイリスとは違い、レックスとレオは顔を上げてしっかりとした声音で口を開いた。その様が彼女にとっては羨ましくもあり、寂しくもあった。アベルを失ったことを何とも思っていないのではないかとさえ感じられるほどの落ち着きに、そんな風に感じてしまう自分に嫌悪感さえ感じる。彼らが何も感じていないはずがないのは分かっている。自分よりも付き合いが長かった分だけ、思うこともあるはずだ。
 自分が感情的になっているだけという自覚はあった。誰かを失うことがあるということは理解しているはずだった。それはリュプケ砦で任せられた小隊の兵士を失ってさえいる。けれど、今はそれ以上の悲しみが胸を襲っていた。兵士を、仲間を失ったという事実は変わらない。だが、アベルは親しい人間だった。いつも何かと一緒にいることが多かった友人だった。大切な人間だった。そんな相手を失って、簡単に心の整理を付けることなどアイリスには出来なかったのだ。
 軍人としては失格だとアイリスは内心自嘲した。仲間を失う危険は分かっていたのだ、想定の範囲内のことだ。アベルにだって覚悟をしておくようにと言われていたのだ。それを出来ずにいたのは他の誰でもなく自分自身であり、それがレックスやレオとの違いなのだろう。


「馬車の準備が出来ました。どうぞこちらに」


 それから程なくして兵士が部屋に準備が出来たと呼びに来た。彼が来るまでの間、誰一人として口を開くことはなく、雨の音だけが静かに部屋を満たしていた。
 行かなくてはとアイリスは立ち上がり、重たい足取りで先を歩くレックスとレオの後に続いた。リュプケ砦を出ると相変わらず外は警戒態勢のままであり、今がまだ戦闘状態にあるのだということを思い出す。悲しんでいる状況ではないのだとアイリスは自分自身を鼓舞するも、頭からは橋での出来事が一向に消える気配はなかった。


「司令官にはこちらの状況は特に変化はないと伝えておいてくれ」
「了解です。まだ何があるか分かりません、ご武運を」


 レックスは見送りに来たガストンと二言三言、言葉を交わしてから馬車へと乗り込んだ。彼が馬車の奥に座り込み、膝を抱えているアイリスの近くに腰を下ろすと、馬車はゆっくりと動き始める。時折がたんと揺れる馬車に、アイリスはこの揺れが苦手だったアベルのことを思い出す。それと同時に胸を襲う喪失感に堪らずアイリスは膝に顔を押し付けた。
 今はこれからのことを考えるべきであると強く自分に言い聞かせるのに、少しだって思考はアベルのことから離れてはくれないのだ。このままでは駄目だと思えば思うほど、焦れば焦るだけ、苦しくて悲しくて辛くて仕方なかった。


「……無理するな」


 ぼそりと、声が聞こえて来た。膝に押し付けていた顔を上げると、傍に座ったレックスが少しだけ困ったように笑っていた。目の下には隈ができ、顔色も悪く疲労の色が濃い。そして目も赤くなっていた。
 そんな彼の様子に驚き、アイリスが目を瞠っていると彼は微苦笑を浮かべたまま彼女の肩に手を回し、やんわりと自分の膝にアイリスの頭を導いた。視線が床へと近くなり、それと同時にほのかに温かい体温を傍に感じる。


「横になれば少しは疲れもマシになる」
「でも、それじゃあレックスが……」
「オレは平気だ。……鍛えてるから、これぐらいどうってことない」


 それを言えば、自分だって鍛えている――アイリスはそう言おうと思うも、一度こうして横になると身体はなかなか起き上がりたがらず、あまつさえ瞼も重くなって来た。身体は正直で、余程疲れが溜まっていたらしい。
 緩やかなな揺れとすぐ近くの温もり、とんとんと眠気を促すように軽く叩かれる背に眠たくなる反面、こんな状況になるというのに眠りにつこうとする自分に嫌気が差した。眠りたくない、そんな場合ではないと身体を起こそうとすると、「いいから」とレックスに肩を抑えられてしまう。


「……寝てる場合じゃないのに」
「それで倒れられた方が困る。……どの道、到着するまでオレたちに出来ることは身体を休めることぐらいなんだから」
「……」
「レオだってああして身体を休めてるだろ」


 その言葉にアイリスは視線を少し離れたところにいるレオへと向けた。彼女らに背を向けるようにして寝転がっているため、彼がどのような表情をしているのかは元より、寝ているのかさえ分からない。それでも、向けられているその背がとても寂しげであるということだけは伝わって来た。
 いつも口喧嘩ばかりしていたレオとアベルだが、それでも決して仲が悪いわけではなかった。何だかんだ言いつつもレオはアベルをいつも気にかけ、アベルもまた、そんなレオのことを毛嫌いしているわけではなかった。喧嘩ばかりしていたが、お互いのことは認めているようだった。
 そんなレオが今回のことを何とも思っていないはずがない。その証拠に、耳を澄ませば微かに押し殺された小さな嗚咽がアイリスに耳に届いた。リュプケ砦ではしっかりとした様子だったが、それはただの虚勢でしかなかったのだ。


「……だからほら、アイリスも」


 優しい声でレックスは言い聞かせるように言う。けれど、ほんの僅かにその声は震えていた。彼の耳にもレオの嗚咽が届いていたのだろう。アイリスはそれ以上、首を横に振ることが出来ず、言われるがままに身体を横たえた。そして先ほどまでと同じように優しい手つきで頭を撫でられる。その心地よさと優しさに、目の端に浮かんだ涙が頬を滑った。
 それから暫くの間、アイリスは声を押し殺して涙を流した。けれど、心地のいい揺れと頭を撫でるレックスの手に、ずっと寝ずにいた疲労も重なってゆっくりと沈むように眠りに落ちていった。


「……ん、何だ……」


 いくらか時間が経つも、相変わらず雨は降り続いていた。そんな中、不意に馬車が停車したのだ。レックスが外を伺うように身体を動かしたため、膝に頭を置いていたアイリスはその揺れで目を覚ました。幾分か身体は楽になり、気分も少しは落ち着いて冷静に考えられるようになっていた。
 休んで正解だったかもしれない、と思いつつ身体を起こすと、「ああ、ごめん。起こしちゃったな」とレックスは視線をアイリスへと向けた。平気だよ、と首を横に振っていると、同じく馬車が止まったことで目を覚ましたらしいレオが身体を起こし、ぼんやりとした様子で目を瞬かせていた。


「レオ、大丈夫?」
「あー……うん。……何で馬車停まってるんだ?さすがにまだ到着してないだろ……?」
「ああ。急に止まったんだ。ちょっと外に出て、」
「た、大変です!」


 レックスが立ち上がり、外を確認するために馬車を降りようとした矢先、顔を真っ青にした御者をしていた兵士が駆け込んで来た。一体何があったのだろうかとその様を見るなり、アイリスもレオも眠気が吹き飛び、表情が引き締まった。「どうした?何かあったのか?」とレックスが問い掛けていると、すぐ近くを兵士を乗せた馬が颯爽と駆け出していた。誰かが伝令を出していたらしく、どうやら御者はその報告を受けたのだろうということが伺え、アイリスは戦場で何かあったのではないかという不安に襲われる。


「それが、……陛下が、……ほ、崩御されたと……!」
「……何だよ、それ。あの方が何で……!司令官だってあの場にはいたんだろ!?」
「レオ、落ち着け。それで、他に報告は?」


 声を張り上げるレオを宥めながらレックスは顔を蒼白にしている御者に問い掛ける。しかし、顔色が悪いのは御者だけでなくレックスやレオ、アイリスも同じことだった。
 アイリスは告げられた事実に声も出せず、口元を押えていた。脳裏を過ったのは優しく笑うホラーツの姿であり、彼が戦場で討ち取られたということが俄かに信じることが出来なかった。レオも口にしていたが、あの場にはゲアハルトもいたのだ。彼がいたにも関わらず、国王であるホラーツが討ち取られるなどとは考えられなかった。


「本隊は、既に撤退しているということでして……あの、……」
「それならオレたちも行き先は変更だ。ライゼガング平原ではなく、急いでブリューゲルに向かってくれ」
「りょ、了解しました!」


 御者は転びそうになりながら御者台へと戻ると、すぐに馬を走らせ始めた。けれど、先ほどまで心地よかった揺れも今はもっと急ぐことは出来ないのかと気持ちを焦らすばかりだった。
 レックスもレオも口を噤み、馬車の空気は重たくなる一方だった。アイリスはこれからベルンシュタインはどうなってしまうのだろうかとそれが不安で仕方なく、それと同時に本隊の兵士らがどうなったかが気になって仕方なかった。
 しとしとと降り続く雨は一向に止む気配はなく、空を覆う暗い雨雲はこれから先の国の行く末を暗示しているかのようだった。


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