最善 - checkmate -



 緩かった雨脚は徐々に激しさを増し、馬車の屋根を打ち付ける雨音はリュプケ砦を発った頃よりも大きくなっている。行き先を帝国領ライゼガング平原から王都ブリューゲルへと変更してから既に数時間が経過しているが、馬車の中の雰囲気は陰鬱としたものだった。
 ホラーツが討ち取られたという報告が届いてからというもの、誰一人として言葉を発していない。誰もが周りと距離を置いて、膝を抱えて顔を伏せている。アイリスは言いようのない不安に駆られながらも、それを一人で耐えるように膝を抱き締めていた。レックスもレオも同様に顔を伏せ、リュプケ砦で見せていた冷静さは欠片もない。そんな中、不安だからといって彼らに何かを求めることなど出来るはずもなく、反対に彼らの為に出来ることもなかった。
 アイリスでさえ、ホラーツの死を受け止めきれていないのだ。同じ場所にいたであろう彼をとても慕っているゲアハルトや遠縁とはいえ、縁者であるエルンストのことを思えば、心配でならなかった。既に本隊は撤退を開始しているという報告も同時に届き、ライゼガング平原から放たれたであろう伝令がリュプケ砦近くまで到達していたことを考えれば、本隊は既にブリューゲル付近にまで撤退を完了しているはずだ。だが、ゲアハルトやエルンスト、そして最前線に立っていたエマの安否は定かではない。
 そのことを思うと、雨脚が強くなる中、走り続けている馬車の速度はゆっくりに思えてさえ来る。焦ったところでどうすることも出来ないということは重々承知しているものの、この先どうなってしまうのかという不安と仲間の安否が知れないことがじくじくとアベルの死によって苛まれていた心に圧し掛かる。


「……大丈夫?」


 薄暗闇の中、比較的近くに座っているレックスに声を掛けると彼は小さく首肯した。先ほどまでとは打って変わった様子にアイリスは掛ける言葉がそれ以上は見つからず、視線を一人離れた場所に座り込んでいるレオに向けた。声を掛けようにも、いつもとは異なる雰囲気ということもあって躊躇ってしまう。
 橋を落としてからというもの、まともに会話が続かないでいる。いつもならば、言葉に悩むことなく次から次へとするすると言葉が出て来るが、今はさすがにそうもいかない。こんなに会話というものが難しいとは思わなかったと内心考えつつ、アイリスは膝に顔を埋めた。
 このまま重たい雰囲気に押し潰されてしまいそうだ――そのように感じていると不意に馬車の速度がゆっくりとなり始めたことに気付く。アイリスは顔を上げると、馬車の前方に付けられている小窓から外の様子を伺った。視界に映り込んだのは見慣れた王都ブリューゲルの街並みであり、伝令の報告を受けて行き先を変更してから既に数時間も経っていたのだということにそこで漸く気付いた。
 速度を落とした馬車はそのままブリューゲル郊外の軍施設の一角へと進む。主に出撃の際に使用する施設であり、到着すると敷地内には多数の馬車とその間で動きまわっている兵士の姿があった。どうやらライゼガング平原に展開していた本隊もつい先ほど帰還したところらしい。


「あ、レオ!」


 馬車が完全に停車すると、いつの間にか身体を起こしていたレオが制止の声を無視して飛び出して行った。咄嗟に残されたアイリスとレックスも馬車から飛び出すも、レオの姿は既になく、慌ただしく動き回る兵士らに紛れて消えていた。何処に行ったのだろうかと二人は顔を見合わせながら、一先ずはゲアハルトに報告しなければと彼がいるであろう施設内の発令所へと向かった。
 発令所内も騒然とし、周りには怪我を負った兵士が何人も寝かされている。手当しなければと咄嗟に駆け寄ろうとするも、寸前のところでレックスによって腕を掴まれる。


「気持ちは分かるけど、報告が先だ。……急ごう、アイリス」
「……うん」


 帰還したのだから報告は真っ先にするべきことである。特に、アイリスらが実行していた作戦は今後のベルンシュタインの動きに大きく関わるものだ。ゲアハルトも結果を最も知りたいはずであり、また、知らなければならない事柄でもある。それを思えば、たとえ怪我人の治療であっても後回しにしなければならない。
 アイリスは頷くと、先を歩くレックスの後に続いた。奥に進めば進むほど、廊下は静まり返り、口を噤んでいるために互いの靴音しか聞こえない。重苦しい雰囲気のまま、自然と目線を下げて歩いていると不意に足早の靴音が耳に届いた。レオだろうかと顔を上げると、曲がり角から姿を現したのは切り傷や土埃に塗れたヒルデガルトだった。


「ヒルダさん……!」
「アイリス!それにレックスも、無事だったのか!」


 アイリスとレックスの顔を見るなり、ヒルデガルトは安堵したように顔を歪めるとそのまま力一杯、二人を抱き締めた。痛いぐらいの腕の力を感じながらも、決してそれは嫌なものではなかった。耳元で聞こえる、「よかった、生きて戻って来てくれて本当によかった」という声に自然と目頭が熱くなる。
 じわりと浮かんだ涙をそのままにアイリスはヒルデガルトの背に腕を回した。途端により強い力で抱き締められ、アイリスはその痛みと彼女が無事だったことへの安堵、そして自分が生きて戻って来たことの実感などの様々な感情のままに表情を歪める。笑っているような泣いているような、そんな曖昧な表情を浮かべながら、ゆっくりとヒルデガルトから離れた。


「ご無事で何よりです、バルシュミーデ団長」
「お前もな、レックス。本当に、二人が無事でよかった。それで、後の二人はどうした?」
「レオはさっきまで一緒でしたが、何処かに行ってしまって……アベルは……」
「……そうか」


 言葉を濁すレックスの様子から何があったのかを察することは難しくはない。ヒルデガルトは視線を伏せる二人の肩を叩き、「お前たちだけでも戻って来てくれてよかった」と努めて明るく、優しい声音で言う。
 ヒルデガルトも丁度ゲアハルトの元に行こうとしていたところらしく、共に行くこととなった。彼女の様子を見る限り、アイリスらの作戦内容については知らされていたらしい。ならば、自分たちの他にも工作任務に就いていた部隊がどうなったのかも知っているのではないかと、それについて尋ねようとするも、口を開くよりも先に目的地に到着してしまった。
 足を止めると、ヒルデガルトは軽く拳を作って扉を叩き、「ゲアハルト、入るぞ」と声を掛けた矢先、中から怒鳴り声と鈍い音が聞こえて来た。一体何事かと三人は顔を見合わせると、一気に扉を開いて室内へと飛び込んだ。そして視界に飛び込んで来た光景に目を見開く。
 扉越しにさえ聞こえて来るほどの怒声はレオのものだった。そして室内に入れば、彼は拳をきつく握り、肩を上下していた。その視線の先には殴られたらしく床に座り込んでいるゲアハルトの姿があったのだ。誰もがその光景に目を瞠り、何があったのかと唖然としながら尚も殴りかかろうとするレオに駆け寄った。


「レオ、止めろ!」
「……放せよ、レックス。バルシュミーデ団長も、放してください」
「いいや、上官に手を上げるような兵士を放すなんて出来るか」
「放せって言ってるだろ!いいから放せよ、放せって!」


 二人掛かりで抑えつけられながらもレオはそれを振り解こうと激しく身を捩る。何処にそのような体力が残っているのかと言わんばかりの動きであり、さすがのレックスとヒルデガルトも彼の様子には手を焼いていた。それでもどんな理由であれ、目の前で拳を震わせるわけにはいかないため、二人は懸命にレオを抑えつける。
 アイリスはその間に座り込んでいるゲアハルトに駆け寄った。身体を起こす彼を手伝っていると、殴られた頬が痛むらしくゲハルトは顔を顰めた。司令官である彼が顔に傷を作っているということはあまりにも決まりが悪い。これからライゼガング平原でのことを説明する為に会議に赴くのであれば、尚の事である。


「司令官、傷を見せてください。わたしが治します」
「……いや、いい」
「でも……」


 その必要はないとばかりにゲアハルトはアイリスから顔を背ける。だが、そうは言われても放っておくことは出来ない。しかし、アイリスにしてみれば、そもそもゲアハルトがレオの拳を避け切れなかったことが不思議でならなかった。実際に彼が剣を振るっているところを見たことがあるわけではなく、体術の鍛錬をしているところを見たことがあるわけでもない。それでも、第一騎士団にいたほどの実力があるのであれば、レオの拳を避けることなど造作もないことのはずだ。
 だが、この状況でどうして避けなかったのかなどと聞けるわけもなく、その問いの代わりにアイリスは再度手当をさせて欲しいと口にする。しかし、ゲアハルトは「必要ない」とその一言で切り捨てると彼女の手を借りることなく立ち上がり、背を向けた。


「それより、報告を聞かせてくれ」
「報告なんかよりも、どうして……何で陛下が討ち取られたのか、そっちを説明しろよ!」
「レオ、いい加減にしろ!」


 抑えつけられながらもレオは今にもゲアハルトに掴み掛らん勢いで声を荒げる。そのいつもとはあまりにも違う雰囲気にアイリスは戸惑ってしまう。彼女にとってレオはいつでも優しく、明るい人だという印象が強いのだ。しかし、今の様子は常の状態とはまるで違う。別人ではないのかと思わせるほどの違いだった。
 レオはゲアハルトを尊敬している。そんな彼がゲアハルトに対してこのような態度を取ることがアイリスには何故だか分からなかった。どうしてこんなにもレオが声を荒げて怒っているのか――理由を考えようにも分からず、どうするべきかとゲアハルトを見遣り、彼女は目を瞠った。
 強く強く握り締められた彼の拳からは血が滲み、それがぽたりと一滴、床へと落ちていた。手袋を嵌めているにも関わらず、爪が皮膚を破り、肉に刺さって血を流すなど、尋常な力の入れ具合ではない。アイリスはすかさず近寄るも、その手に触れる前に手は隠されてしまう。


「アイリスとレックスは報告しろ。バルシュミーデ団長はレオを外に抓み出せ」
「……ほら、行くぞ」
「放せって!オレの話はまだ終わってないんだよ!」
「いいから来い」


 半ば引き摺るようにしてレオはヒルデガルトの手によって部屋の外に連れ出された。ぱたんと音を立てて扉が閉まり、部屋にはアイリスとレックス、そしてゲアハルトの三人となった。廊下からは未だレオの怒鳴り声が聞こえてはいるものの、それも徐々に遠ざかっていく。
 大丈夫だろうかとレオのことが気に掛かりものの、報告を求められている以上、優先すべきは報告である。どのように報告するべきだろうかと言葉に迷っていると、「結果から申し上げると、作戦は成功です。橋は落ちました」とレックスの淡々とした声が聞こえて来る。


「全壊か?」
「全壊です。……ただ、アベルがしんがりを務め、……生死不明です」
「……そうか」


 生死不明、とは言ってもそれが限りなく死に近いものであるということは、あの光景を思い出せば明らかだった。その後続く、詳細な報告を聞き、ゲアハルトも彼が無事に帰還することは最早ないということは予想しているのだろう。生死不明という言葉に微かな希望さえないということを。
 アイリスは視線を伏せ、きゅっと唇を噛み締める。ずっと共に戦って来た仲間の生死が分からないというのに、たった一言で済まされてしまうことが悲しくて辛くて苦しかった。国軍全体でみれば、微々たる損害でしかないのだろう。個別ではなく全体を見なければならないゲアハルトの立場にしてみれば、その反応は決しておかしなものではない。だが、仮にも率いてる騎士団の兵士が死んだかもしれないのだ。それでも、態度が変わらないということが、アイリスには悲しくてならなかった。
 気にしていられないというのも分かる。ベルンシュタインの柱でもあるホラーツが討ち取られたのだ。それは何にも代えがたい大事であり、最も対応が優先されるべき事柄でもある。けれど、ほんの僅かにでもアベルに心を砕いて欲しいと、思わずにはいられなかったのだ。


「――それから、作戦行動中、アイリスが展開していた防御魔法が帝国軍の弓矢によって砕かれました」
「弓矢で防御魔法を?」
「使用された弓矢は回収して来ました。……アイリス」


 促されたところではっと我に返り、アイリスは手荷物の中からアベルが必ず持ち帰るように言っていた黒い弓矢を包んだ布を取り出す。それをテーブルの上で広げると、ゲアハルトは検分するようにそれを手にとって様々な方向から観察した。その目は真剣そのものであるものの、いつもの覇気は感じられなかった。
 暫くそれを検分した後、「この矢は後でエルンストに調べさせる」とだけ言うと、ゲアハルトはそれをテーブルの上へと戻した。それきりまた黙り込む彼にレックスは説明を再開した。出来ることなら橋での出来事は思い出したくなかった。橋が落ちるところなど、決して思い出したくなかった。その時の光景が脳裏を過り、アイリスは息苦しさを感じた。口を押えて顔を俯けていると、「報告は以上です」というレックスの声が聞こえて来た。


「そうか。ご苦労だった、下がって二人は休んでいてくれ」
「了解しました。……それから、司令官。ホラーツ陛下がお亡くなりになった件ですが……」
「……本陣に侵入者がいた。俺は奴と対峙したのに取り逃し、追撃に出した兵士も振り切られた」


 あいつに殴られるだけの理由はある。
 ゲアハルトはそれっきり口を閉ざすと、アイリスらに背を向けて窓の外へと視線を投じた。その背に掛ける言葉はなく、また、彼も一切の気遣いや言葉を拒否している風でもあった。せめて傷の手当てだけでもしたいところではあるが、アイリスはレックスと視線を交わすと、彼の言う通りにするべく一礼すると部屋を後にした。







 





「ところで、アウレール。戻って来るのに少し時間が掛かり過ぎてではないかしら」


 普段の淑女然りとした姿は鳴りを潜め、カサンドラはワイングラスを手にソファに寝そべっていた。既に数えきれないほどの量のワインを口にしている彼女の頬は紅く上気し、ワインのように紅い瞳も今は見え隠れする鋭さも消え去ってしまっている。そんな彼女に対し、飲み過ぎだと窘めながら、「ブルーノも寄り道することぐらいあるだろう」と答えた。
 すると、カサンドラはワイングラスに新たに芳醇な香りを放つ液体を注ぎながら「違うわよ」と溜息を吐く。ならば、何だというのかとアウレールが考えていると、彼女は溜息混じりに口を開いた。


「本隊よ。ブルーノの報告の後に本隊からも帰還の旨を記した報告が届いたけれど、それ以降の連絡が届いていないの。もう近くまで戻って来ていてもおかしくはない頃合なのによ」
「……」
「この天気で鳥を飛ばせないのかもしれないわ。けれど、それならば代わりに誰かを走らせるはずよ」
「……だが、ベルンシュタインは国王を失って撤退しているはずだ」
「そうね。……けれど、ゲアハルト司令官が何の手も打たずに、ただで引き下がるとは思えないのよ」


 カサンドラは一気にグラスを煽ると、ソファから身体を起こした。そして衣服の乱れを直すと、暫し考える素振りを見せてから「此方から伝令を出しましょう」と口にする。そこまでする必要があるのかとアウレールは、「この雨で帰還が遅れているだけではないのか?」と言えば、彼女は何とも言えない表情を浮かべる。


「その可能性もないわけではないわ。……けれど……」
「……いつになく弱気だな。あれだけ祝杯だ何だと騒いでいた癖に」
「あのゲアハルト司令官を出し抜いたのだもの。少しぐらい騒いだっていいじゃない」


 拗ねるように言う彼女にアウレールは微苦笑を漏らした。しかしすぐに表情を引き締めると、真っ直ぐな視線をカサンドラに向ける。その視線を受け、彼女は居住まいを正すように背筋を伸ばした。


「この軍を預かっている指揮官はお前だ。だから、お前が伝令を出すべきだと判断したのであればそうすればいい。それを考えるのがお前の仕事だろう、カサンドラ」
「……そうね。貴方の言う通りよ」


 伝令の手配をして来るわ、とカサンドラはソファから立ち上がる。しかし、そこから数歩も歩かぬうちに扉がノックもなしに開かれた。そして姿を現したのはいつになく顔色の悪い、いつもとはまるで違う様子の少年だった。憔悴しきったその様子にカサンドラとアウレールは顔を見合わせる。
 少年はそんな二人を気に留めることもなく、危なげな足取りでソファに近付き、そこに身を鎮める。立ち上がっていたカサンドラは出鼻を挫かれる形となったものの、少年のことを捨て置くことも出来ず、傍に膝を付いて頬に掛かる黒髪を払う。


「……カーサ」
「なあに?」
「聞いたよ、……本隊は勝ったんだってね。ブルーノが上手くやったって」
「……そうよ」


 カサンドラは頷きながら目を閉じている少年の髪を梳く。閉ざされた目の下にははっきりと隈ができ、睡眠が取れていないのだということが伺える。それだけ、先の出来事は彼にとってとても大きな出来事だったのだということを改めて実感しつつ、カサンドラはゆっくりと手を動かし続ける。
 少年のことを、彼女は弟のように思っていた。気分屋なところさえ、可愛らしいと思えるぐらいに可愛がってもいた。だからこそ、このような状態に追い込んだことは心苦しくもあった。


「よく上手くいったよね。……ボクは正直、ブルーノは失敗すると思ってたよ」
「大丈夫よ。あの子は上手くやるわ、……いいえ、やらざるを得ないもの。あの子は私の命令に従わなければ、生きていることも出来ないのだから」
「……酷いよね、カーサは。そういうところ、ボクは嫌いじゃないけど」


 少年はゆっくりと瞼を持ち上げ、黒曜石の瞳をカサンドラに向ける。そこに映る自分はどのような顔をしているのだろうかと頭のおどこかで考えながら、カサンドラは「今頃、ベルンシュタインは大慌てでしょうね」と敢えて楽しげな口振りで言う。
 寧ろ、大慌てどころの騒ぎではないだろう。国王であるホラーツが本陣で討ち取られたのだ。その場には司令官であるゲアハルトもいた、その場でホラーツは命を落としたのだ。さすがに今回ばかりはゲアハルトも無事では済まないだろう。何らかの処分が下ることは必至であり、それはそのままベルンシュタインの軍事力が衰えることに繋がる。


「ルヴェルチ卿も今頃、シリル殿下の御即位の準備をしているでしょうね」
「……そんなにすぐ出来るものなの?」
「すぐ出来るように根回しは済ませてあるはずよ。けれど、それはあくまでもルヴェルチ卿の仕事だもの。私たちがどうこうすることではないわ」
「それはそうだけど……でも、あの老いぼれを一人殺しただけで本当にベルンシュタインに勝てるの?」


 漆黒の瞳の奥底に狂気と殺意が見え隠れしていた。カサンドラはそれに気付かないふりをしながら、「勝てるわよ」と笑みを浮かべて見せる。
 事実、上手く事が運べば、ベルンシュタインを一気に叩き潰すことも決して不可能ではない。それは机上における計算ではあるが、それを実行し成功させるだけの自信がカサンドラにはあるのだ。


「幾千幾万の兵士の命もたった一人の王の命には到底敵うはずもない。王は死に、その忠実な家臣も封じ込められつつあるわ」
「……どういうこと?」
「ゲアハルト司令官はホラーツ陛下の死を防げなかった責任を取らなきゃいけないということ。……王を守れなかった人間が、いつまでも司令官の座にいられると思う?」
「……」
「ルヴェルチ卿はシリル殿下の御即位以外でも既に手を打っているわ。ゲアハルト司令官を追い落とす為にね」


 つまり、四肢は絡め取られ、その首には刃を突き付けられたも同じこと。
 カサンドラは唇の端を持ち上げて笑みを浮かべる。紅色の瞳を爛々と輝かせ、彼女は歌うように「既にチェックは掛けられてるの」と囁く。


「……じゃあ、誰がチェックメイトするの?」
「それはルヴェルチ卿のお仕事よ。本当は私がその役目を負いたいところだけれど、ここはルヴェルチ卿に花を持たせてあげた方がいいの」
「カーサがそう言うなら、ボクは従うよ。……でも、一つだけお願いがあるんだ」
「なあに?お願いって」
「……あいつはボクに殺させて」


 瞳の奥底に見え隠れしていた殺意が明確に浮かび上がる。少年の言う、“あいつ”が誰を指すのかなど、考えるまでもないことだった。ゲアハルトを殺したいのだという彼の言葉にカサンドラはただ笑みを浮かべ、「その為にはまずちゃんと身体を休めることね」とはぐらかす。
 それは決して失敗の許されないことであり、いくら可愛がっていると言っても何でも願いを叶えるわけにもいかない。然程作戦に支障のないものであれば、二つ返事で返しただろうが、こればかりはそういうわけにはいかなかった。少年もはぐらかされているという自覚はあるらしく、柳眉を寄せて咎めるような視線を彼女に向ける。


「今は自分のするべきことをしなさい」
「だから、それはボクがあいつを」
「そんなことよりも大切なことがあるでしょう?あの子の面倒を看なくていいの?」
「……それは……」


 少年にとって、ゲアハルトは許し難い存在だ。自分の何より大切なものを傷つけられた彼にしてみれば、今すぐにでもゲアハルトを手に掛けなければ気が済まないのだろう。だが、カサンドラにしてみれば、それを実行されては困るのだ。
 彼女曰く、戦争とはカーニバルだ。そして血に塗れた舞台で繰り広げられる演劇でもある。それぞれが与えられた配役を演じ、死ぬまで踊り続けるマリオネットなのだ。つまり、舞台から退場するにしても、それは然るべき演出が必要であり、然るべき時に行わなければならないものである。
 そしてそれは、今ではないのだ。そう遠くない未来ではあるが、今この瞬間ではない。カサンドラは言葉を濁す少年の頭をゆっくりと撫でながら言い聞かせるように優しい声音で言う。自分でも狡いことをしているという自覚はあったが、彼にとってはこの言葉と引き合いに出す存在こそが最も効果的であるということをカサンドラは熟知していた。


「今のあの子にとって、貴方は最も必要なのよ。それなのに、傍を離れていてもいいの?」
「……けど、あいつが……あいつのせいで、」
「気持ちは分かるわ。けれど、仕返しをするにしても然るべき時にするべきなのよ。それに、あの子が元気になってからの方が貴方だって心配がないでしょう?」


 何より、あの子だって貴方と一緒に戦ってくれるかもしれないわ。
 その一言が決定的だった。少年は目を瞠ると、途端に相好を崩す。心底から嬉しいと言わんばかりの様子で「そうだね、そうかもしれないね、カーサ」と彼女の手を握って彼は笑う。
 言葉こそ穏やかではあるものの、口にしている内容は決して穏やかではない。カサンドラは納得させられたことに安堵しつつ、少しは休んだ方がいいと睡眠を促す。少年は素直に頷くと、ソファに改めて身体を横たえて瞼を閉じた。彼女は一度だけ頭を撫でると、その身体に被せる毛布を用意しようと立ち上がった。だが、カサンドラが寝室に向かうよりも先に慌ただしい足音と共に扉が開いた。


「カ、カサンドラ様……っ大変です!」


 顔を真っ青にした兵士が部屋に駆け込んで来たのだ。その様子は尋常ではなく、カサンドラは目を見開いた。アウレールや眠ろうとしていた少年も何事かと兵士を見つめている。息を弾ませている兵士は、生唾を一度飲み下すと、「ほ、報告します」と姿勢を正す。そして彼が告げた言葉に、カサンドラらは目を瞠り、言葉を失った。



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