最善 - checkmate -



「本当に大丈夫だから、そんな顔しないでよ」


 そう言ってベッドに横たわり、目に痛々しく映る包帯を腕に巻かれて首から布で吊っているエマを前にアイリスは表情を曇らせていた。ゲアハルトへの報告を終えてからアイリスはレックスと共にヒルデガルトによって部屋から連れ出されたレオの元に行こうとした。だが、今はそっとしておくように彼女に言われてしまい、それからお互いに宛がわれた部屋で休息を取ることにしたのだ。
 そして、夜も更けた頃になって漸く、本隊の被害情報がアイリスの元まで下りて来た。怪我人として知らされた中には最前線に立っていたエマの名前もあり、彼女はすぐに医務室へと向かって現在に至る。エマの怪我は右腕の骨折や至るところへの打撲であり、命に別状こそないものの、軽い怪我でもなかった。


「アイリスこそ、無事でよかった。心配してたんだから」
「……ごめん」
「何でそこで謝るの。……陛下があんなことになって、なかなか周りも落ち着かなかったんだもの。無事を確認できるのが遅くなっても仕方ないわ」


 兎に角、お互い無事でよかったじゃない。
 エマはそう言うと、いつもと変わらない明るい笑みを浮かべる。その様子にアイリスは安堵しながら、小さく頷いた。けれど、その表情も互いにすぐに曇った。エマ自身、先ほど口にしたところだが、ホラーツが崩御したことがやはり気に掛かるのだ。これからどうなってしまうのだろうかという漠然とした不安が胸中に渦巻く。
 しかし、それを口に出したところでどうにか出来るほどの力は自分たちにはない。それが分かっていることもあり、アイリスもエマもそのことには触れず、「そろそろ戻るね。傷に障るといけないから、ゆっくり休んで」とアイリスは横になるように促した。


「アイリスもちゃんと休まなきゃ駄目よ」
「分かってる。……それじゃあまたね」


 心配げなエマの視線から逃げるようにアイリスは踵を返し、医務室を後にした。廊下に出るとそこは明かりもない、薄暗い空間だった。窓を叩く雨脚は変わらず、その音がやけに響いて耳に届いた。施設で休養を取っている兵士らもその殆どが眠りに付いているところなのだろう。アイリスはなるべく音を立てないように気をつけながらゆっくりと暗い廊下を歩き出した。
 このまま部屋に戻って寝るべきであるということは分かっていた。けれど、そういう気分にもなれなかったのだ。
 こうして一人になると、どうしてもアベルのことが脳裏に過る。彼は川に飛び込むから平気だと言っていた。けれど、それで助かる可能性は限りなく零に近いということも、アイリスは分かっていた。助かるほどの爆発ではなかった。仮に爆発を逃れて川に飛び込めたとしても、上からは崩れた橋の残骸が落下して来るのだ。それを避けることは容易なことではなく、アベルは怪我を負っていたのだ。どうなるかなど、考えるまでもなく明らかなことだった。
 彼は言っていた、必ず生きて前に進むようにと。そして、約束を交わした。けれど、前に進むにはあまりにもその一歩が重かった。守る為に戦うことを決めたのに、守ることが出来なかった。破られてはならない防御魔法を破られ、それによって一気に形勢は悪くなった。あの場面で防御魔法を破られることがなければ、このようなことにはならなかったのに――それを思うと、アイリスは前に進むどころか、その場から動けず、足の力さえ抜けてその場に膝を付いた。


「……っ」


 気付けば、頬に涙が伝っていた。止めようと拭っても、後から涙が溢れ出す。泣いたところでどうにもならないことは分かっているのに、アベルが戻るわけでも、時間が戻るわけでもないのに、どうしても涙を止めることが出来なかった。
 蹲ったまま膝に顔を押し付けて声を押し殺していると、不意に微かな足音が聞こえて来た。このようなところを見せるわけにはいかない、とアイリスは慌てて涙を拭いながら立ち上がり、足音が聞こえてくる方向に対して背を向けた。このような誰が来るか分からない廊下で泣くなんて、と自分の行動に反省しながら部屋に戻ろうと足を動かす。けれど、数歩も歩かぬうちに「アイリスか?」と背後から声を掛けられた。
 びくりと鼓膜を揺らすその声音にアイリスは肩を震わせる。だが、無視するわけにもいかず、彼女は顔を伏せたまま声を掛けて来たゲアハルトの方を振り向いた。


「……泣いていたのか」


 ぼそりと雨音に紛れて微かな声が聞こえた。アイリスは何も答えなかった。今は戦争中であり、仲間を失うことは決して珍しいことではない。先のリュプケ砦でも預けられた部下の一人を失ったのだ。それを思えば、自分は余程運がよかったように思える。今まで近しい仲間を失うことなくいられたのは、運がよかっただけのことなのだ。普通であれば、既に数人、近しい仲間を失っていてもおかしくはないはずだ。
 仲間を失った兵士は少なくない。何も特別なことではないのだ。自分一人が悲しみ暮れていていいはずもない。誰もが悲しみながらも前に進んでいるのだから、自分一人だけしゃがみ込んでいるわけにはいかないのだ。何より、アベル自身が前に進むことを願っていたのだ。ならば、それを全うしなければならないはずだ。
 アイリスは濡れた目元を乱雑に拭い、「いいえ、……何でもありません」と首を横に振って顔を上げた。ホラーツが亡き今、ゲアハルトは今まで以上に忙しいはずだ。そんな彼の手を煩わせるわけにはいかない、と彼女は努めて平気な顔をした。けれど、その目に映り込んだのは微かに目を赤くした、明らかに泣いた跡が残る彼の目元だった。


「……アイリス」
「……はい」
「……辛いか?」


 それが何を指しているのかは明らかだった。アベルを失ったことを辛いのかと、彼は口にした。だが、辛いのはゲアハルトも同じことだと思ったのだ。たった一度だけではあるが、彼と共にホラーツと話したことがあった。カーニバルのあの日のことを思えば、どれだけゲアハルトがホラーツを慕い、大切に思っていたのか、そしてそれ故に今、どれほどの悲しみと喪失感に襲われているのかは想像に難くない。
 そんな彼を前にして、辛いなどとは言えるはずもなかった。アイリスは「わたしなら平気です」とゲアハルトに告げる。けれど、そんな言葉が彼に通用するはずもなかった。伸ばされた指先が頬に触れ、拭いきれなかった涙に触れる。だが、それだけだった。それ以上はそのことに触れず、代わりに「部屋まで送る」とやんわりと肩を押された。


「でも、何かご用があったのでは、」
「構わない。……少し外に出ようと思っていただけだ」


 そう言われると、これ以上は拒むことも出来ない。アイリスは促されるままに歩き出すも、特に会話はなく、二人分の靴音と窓を叩く雨の音だけが響いていた。
 程なくて宛がわれている部屋の前に着くと、彼女はゲアハルトに対して頭を下げた。部屋まで送ってもらった礼を口にすると、彼は首を横に振った。大したことはしていない、と一言口にするも、なかなか立ち去ろうとはしない。何か言おうとしている雰囲気が伝わり、アイリスはどうしたのだろうかと思いつつ、ゲアハルトが口を開くのを待った。


「……アイリス」
「はい」
「……もしも辛いのなら、どうしようもないほど辛くて苦しいのなら」


 俺のことを恨めばいい。
 ゲアハルトは淡々とした声音で囁いた。その言葉に自然と視線を伏せていたアイリスは目を瞠り、彼の顔を見上げた。相変わらず紅くなった目元のまま、ゲアハルトはじっと彼女を見つめていた。
 向けられるその視線から彼が本気で言っているのだということが伝わって来る。しかし、だからと言ってゲアハルトのことを恨めるはずもなかった。元々、命が危険に晒されることは承知の上で作戦行動を実行していた。参加していた四人全員が納得の上で実行したのだ。ならば、たとえ立案した人間が生きているとしても、恨みの対象になど出来るはずもなかった。
 アイリスは首を横に振り、ゲアハルトの視線から逃れるように顔を俯けた。まともに彼の顔を見ていることが出来なかったのだ。そして、そのようなことを言わせてしまう自分が情けなくもあった。もっと強くなりたいと、いつもそう思って鍛錬に励んでいるのに少しだって成長していないように感じられてならないのだ。


「……わたしは、司令官を恨んだりはしません」
「だが、」
「全部承知の上で作戦行動を実行したんです。……それに、司令官を恨んだところできっと心が楽になるなんてことは、ないと思います」


 気遣わせてしまったことへの申し訳なさや、そんな自分への情けなさを感じることだろう。近しい人間を失った痛みや喪失感は時間が経たなければ消えることはない。結局のところ、どうすることも出来ないのだ。
 アイリスの言葉に、ゲアハルトは何も言わなかった。口を閉ざす彼を盗み見ることもなく、彼女も同じように口を閉ざした。以前ならば、こうして並んで歩いていたのなら、何かしら会話をしていたことだろう。けれど、今はその何気ない会話さえ難しく、今となってはどのように会話をしていたのかさえ分からなかった。
 そうして暫くお互いに口を開くことなく歩き続けると、アイリスに宛がわれている部屋の前に到着した。数人の女性兵士との相部屋だが、室内は静まり返り、誰もが疲れのままに眠りについているらしい。


「送って下さってありがとうございました」
「いや、大したことではない。……ゆっくり休んでくれ」


 そう言うと、ゲアハルトは足早に踵を返した。アイリスは慌てて口を開き、「おやすみなさい」と告げれば、歩調を僅かに緩ませて彼は片手を挙げてそれに応じた。その背中が角を曲がって見えなくなるまで見送ったところで、アイリスは肩に入っていた力を抜いた。
 先ほどの言葉は、彼らしくないものだった。普段ならば、自分が立案した作戦に対して絶対の自信を持っているのがゲアハルトだ。だからこそ、常ならばあのような、自分を恨めばいいなどという言葉が出てくるはずがない。そのことから分かることは、ホラーツの死にゲアハルトは余程堪えているということだ。
 そのことを思えば、先ほどまで視界の中に収まっていた背中が、やけに寂しげに思えて来た。もっと何か、掛ける言葉があったのではないかと思うも、もうこの場に彼の姿はない。アイリスは溜息を吐くと、一先ずは部屋の中に入ろうとドアノブを回し、既に就寝している仲間を起こさないように足音を殺して自分のベッドへと歩を進めた。
 身体は疲れ切り、ベッドに潜り込んで早く眠りに落ちたいと思う。けれど、瞼を閉じるとどうしても紅く立ち上る炎や黒煙、橋が落ちる音が蘇ってしまう。身体は重たいというのに、少しだって眠れる気配がないのだ。それでもアイリスは目を閉ざし、脳裏に蘇る光景を振り払いながら眠りに落ちるその時を待った。





 



 
 ホラーツ崩御の報がバイルシュミット城に届き、既に十数時間が経過していた。すぐに招集された、主に文官を中心とする政務官らは一様に渋面を作り、会議室は重苦しい空気に包まれていた。
 かれこれこの数時間、ずっと意見が平行線を辿っているのだ。議題の中心は専ら後継者問題だった。ホラーツが第一王子と第二王子、どちらに王位を譲るのかを言い残さずに崩御してしまったのが一番の原因だった。彼をよく知る人物であれば、どちらを王位に据えたいかと彼が考えていたのかは考えるまでもないことだ。けれど、それを証明するだけの確かな証が存在していない。そのように感じた、そのような口振りだった、などのことは証には成り得ないのだ。
 挙げられている意見は主に三つだった。一つ目は、王位継承権に則り、第一位であるシリルを次期国王に推すというもので主にルヴェルチを中心とする文官に多い意見だった。二つ目はシリルではなく、第二王子を次期国王に推薦するというものだが、後ろ盾もなく、彼の存在自体、よく知られていないということや仮に即位出来たとしても上手くいくのだろうかという不安があるのだ。この意見を推している者はおらず、口には上ったものの、誰もそれを推す者はいなかった。三つ目に武官が主張した意見だが、ヒッツェルブルグとの戦争が終結し、和平が結ばれるその時はまでは王は新たに立てず、ゲアハルトが臨時で執政官の任に付けばいいというものだった。主に彼が統括している軍部出身の者が半数以上の意見であり、意見がぶつかり合って緊密な状態に陥っていた。



「やはり、シリル殿下が御即位するよりもゲアハルト司令官が国をまとめた方が国民も納得するのではないでしょうか」
「あんな素顔を隠し、何を考えているか分からないような男にこの国の命運を任せられるか!陛下のことさえ守れない奴に国が守れるものか」
「それはあまりにも酷い言い草に思います。ただ、シリル殿下らはどちらも王位継承権を所持されていますし……」
「ここは順当に継承権の順番に従うべきだろう」


 あんな何処の馬とも知れない男に任せられるか――吐き捨てるように文官の男は罵った。ルヴェルチはそのような様を一瞥し、内心ほくそ笑んでいた。何をどう話したあったところで既に全ては決定しているのだ。しかし、それをあまりに強引に押し通せば、自分の傀儡にするのではないかと糾弾されかねない。何事も焦らず、だが、迅速に事を運ばなければならない。


「しかし、シリル殿下は剣も握れず、政の勉学にも励まれていない。そのような方を国王の座に据えるのもどうなのか」
「だからこそ、我々が後ろからしっかりと支えて、」
「それでは傀儡にするも同義。せめてまともに政を執り行うことが出来るようになるまで、ゲアハルト司令官に、」
「それはなりません」


 ゲアハルトが国をまとめた方がいいと主張する武官を遮り、ルヴェルチがぴしゃりと言い放った。自身の言葉を途中で遮られたことに武官の男は眦を吊り上げ、彼を睨みつけた。そもそも、軍部はルヴェルチのことを決してよくは思っていない。ベーデガーやエメリヒなどの例外はいるものの、彼が司令官の座に就いていた頃からあまり快く思われてはいなかったのだ。
 彼が退任し、ゲアハルトが司令官となってから軍部は一新され、ヒッツェルブルグ帝国に領地に攻め込まれることもなくなった。その点からしてもどちらに采配の才があるかは明らかであり、ますますルヴェルチからは人が離れていくことに繋がった。そのことは彼自身もよくよく知っていたことだ。
 才がないことはルヴェルチ自身、自覚があった。だが、たとえ自覚があっても自分よりも年若いゲアハルトに容易く司令官の座を奪い去られたこと、そして彼を推挙したホラーツに対して何も感じていないはずもないのだ。その地位に返り咲きたいというわけではない。ただ、自分と同じように屈辱に塗れさせたい――それがホラーツの望みだった。そして、今やその願いが叶おうとしている。ゲアハルトを庇い立てるホラーツは既に亡くなり、残る彼に対しても決定打と成り得るカードはルヴェルチの手中に在る。


「ならば、何か意見があるのだろう?ルヴェルチ卿」
「勿論。今からそれを皆々様方にお伝え致します」


 ここからがルヴェルチにとっての勝負の時だ。一度それを口に出してしまえば、それは瞬く間に周囲に広がっていくことだろう。だが、今ここで口にしなければ、この場にいる文官も武官も寝返らせることは出来ない。いかに説得力を持たせるのかということが重要である。
 ルヴェルチは自分自身を落ち着かせるように溜息を吐き、そして表情を引き締めると「実は、」と前置きをしてから話し始める。告げられたその言葉に文官や武官らは顔を顰めて俄かには信じられないという声が聞こえて来た。けれど、彼が口にしたことは紛れもない事実である。
 話し終えると、途端に会議室は慌ただしくなり始めた。ルヴェルチは口々、ああだこうだと自分の意見を主張する彼らを眺め、一人ほくそ笑んでいた。あともう少しだ。あともう少しで、ゲアハルトを追い落とすことが出来る。それがルヴェルチにとってはこの上なく嬉しくて仕方のないことで、それを顔にだ出さないようにすることが難しくてならなかった。


「……ルヴェルチ卿、その話は……」
「事実で御座います。皆々様の方の前で訂正するわけにもいきませんのでしっかりとした裏付けも致しました」
「……ならば」
「残念ながら事実です。これで分かって頂けたでしょう、ゲアハルト司令官が国をまとめるなんてことは」


 その言葉に明かされた真実を耳にした文官や武官らは口を閉ざした。ルヴェルチはその様を見詰めながら、必死で吊りあがりそうになる口の端を引き締める。
 先ほどまでとは会議室の雰囲気は異なっていた。ルヴェルチによって齎された新たな情報をどう扱いべきを考えているのだろう。だが、ここまで事が進んでしまえば、後はルヴェルチの領分である。困惑している文官や武官らを相手にルヴェルチは笑みを隠しながら応対し続け、そして漸く目的のスタートラインに着くことが出来たのだ。
 窓を叩く雨をちらりと振り返り、ルヴェルチは時折響く雷鳴に笑みを漏らした。この荒れこそが、自分のこれから先の将来の門出を祝っているようにさえ思えたのだ。彼は黒々とした雨雲から視線を戻し、至極深刻な表情を浮かべながらあれやこれやと噴き出す疑問に対し、自分の意見を述べて全員の方向性を定め始めた。




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