簒奪者 - disperse -



 翌朝、アイリスは緊張と不安が綯い交ぜになった表情を浮かべながら王城バイルシュミット城に向かう馬車に乗っていた。窓から見える街並みからは普段に比べものにならないほど、沈んだ雰囲気を醸し出していた。半旗が掲げられているところからも既に国民に国王崩御の旨は通達されているらしい。
 アイリスも普段付けている国軍所属を示す深紅の腕章から黒の喪章へと付け替えていた。数時間後に執り行われるホラーツの国葬に参列する為に用意したのだ。しかし、今の時間はバイルシュミット城に向かうにしてもあまりにも時間が早過ぎる。それにも関わらず、アイリスが城に向かっているのは向かい側に腰掛け、ぼんやりとした様子で窓の外を眺めているエルンストに声を掛けられたからだ。


「あの、エルンストさん……本当にわたしで大丈夫ですか?」
「何がー?」
「何がって、エルザ殿下の護衛のことです!」


 間の抜けた返事をするエルンストにアイリスは焦りを帯びた声で返した。
 そもそも、アイリスがこうして他の兵士らよりも先にバイルシュミット城に向かうことになった理由は、エルンストにある。彼が今朝になって急に「エルザの護衛をしてくれないかな」と彼女を呼び出したのだ。
 エルザはホラーツの長女であり、ベルンシュタイン王国の王女である。エルンストとは遠縁にあたるということもあっての依頼なのだろうが、そのような大役を一兵士でしかない自分に任せていいのだろうかとアイリスは考えているのだ。特に今は、先日の橋での一件で自分の防御魔法に対しての自信が失せている。そのような状態なのだから何としても固辞すればよかったと今更ながらに考えていると、ここに来て漸くエルンストの視線がアイリスに向いた。


「大丈夫だよ。エルザの護衛と言っても、ただ傍にいてあげてくれればそれでいいから」
「ですが……」
「警備には近衛兵団も動いてるからそっちに任せておけばいい。まあ、信用は出来ないけどね」
「え?」


 こういう時、異性よりも同性の人間が傍にいた方が気楽だというのはアイリスも養父を失った時に実感していた。だから、その点でエルンストが自分に護衛を依頼して来たのは分かるのだ。しかし、本来であれば王族の護衛を特務とする近衛兵団の仕事のはずであり、近衛兵団にも女性兵士はいるはずだ。そもそも彼の近衛兵団を信用出来ないという言葉の意味がアイリスには分からなかった。
 エルンストは再び窓の外へと視線を投じながら、溜息を吐いた。それは重々しいものであると同時に苛立ちを含んでいるようだった。


「あの頭の悪い馬鹿女がエルザの護衛兵を全員、阿呆王子の護衛に回したんだ」
「えっと……キルスティ様がエルザ殿下の護衛兵を外してシリル殿下の護衛にしたってことですか?」
「そうだよ。一体何を考えてるんだか……昔からあの阿呆を溺愛してたけどこんな頭の悪いことをするとは思わなかった」


 吐き捨てるように言うエルンストにアイリスは「口が過ぎますよ、エルンストさん」と彼を窘める。この馬車にはアイリスとエルンストしか乗っていない為、彼女が口外しない限りは特に問題にはならないだろう。しかし、いつどのようにして話が漏れるかは分からない。たとえ今のような些細なことでさえ、不敬罪に処されてしまう可能性はあるのだ。
 気を付けるべきだと言外に含めて言う彼女にエルンストは肩を竦めて見せた。その表情に反省の色は見えず、アイリスは何とも言えない表情になった。しかし、しつこく注意することも憚られ、アイリスは話題を変えるべく口を開いた。


「それじゃあ、エルザ殿下の護衛に直接就くのはわたしだけってことですか?」
「いや、うちの私兵を回した。アイリスちゃんの腕前を信用していないわけではないけど、一人きりより大勢の方が気持ちも楽でしょ?」


 エルンストが私兵を回した理由は決してそれだけではないことは明らかだったが、その気遣いは嬉しくもあった。さすがに一国の王女の護衛に就くというのはどのような理由であれ至極緊張してしまう。遠目に数度、これまで行われた式典でその姿を見たことがあるだけで、アイリス自身はエルザがどのような人物であるのかは知らない。しかし、彼女が男だったならよかったのに、とホラーツが生前零したことがあるという話は聞いたことがあった。
 エルザは一体どういう人物なのだろうかと気になっているうちに馬車は城の裏門を滑り込んでいく。そのまま城の裏手に馬車が停車すると、エルンストは彼女を伴って足早に馬車から降りると城主を失ったバイルシュミット城へと入城した。初めての城にアイリスは緊張した面持ちで先を歩く彼の背中を追いかける。出入りすることが多いらしいエルンストの歩みに迷いはなく、置いていかれないように懸命に背中を追いかけ続けると、国葬が執り行われる広間に近い小さな控室ような部屋の前でエルンストは足を止めた。


「此処だよ」


 それだけ言うと、エルンストは幾度かの深呼吸を繰り返した。いつも飄々としている彼らしくない行動に緊張しているのだろうかとその横顔を盗み見る。しかし、常ならば気付くであろうその視線にさえ気付かず、エルンストは真っ直ぐに見据える扉をノックするべく軽く拳を握ると扉を叩いた。
 程なくして沈鬱とした声音が扉の向こうから聞こえて来た。その声音にぴくりと微かにエルンストの肩が反応するも、彼はそのことを気にせず、「エルンストだけど」と名前だけを告げた。王家とは遠戚関係にあるということもあり、エルザとも顔見知りであることはアイリスも伺い知ることは出来たが、仮にも一国の王女に対してその返答はないのではないかとアイリスは眉を下げながら考える。すると、「どうぞ、入って」と扉がゆっくりと開いた。


「こうして会うのは久しぶりね、エルンスト。それでどうしたのかしら、国葬が始まる前で貴方だって忙しいでしょう」
「そこそこね。護衛を連れて来たんだ。彼女はアイリス、第二騎士団所属の魔法士だよ」
「お、お初にお目に掛かります。第二騎士団所属のアイリス・ブロムベルグと申します」


 ホラーツと同じ色をした金髪に濃紺の瞳を持つ彼女は緊張した面持ちで自己紹介をするアイリスを見遣ると、にっこりと笑みを浮かべて「エルザ・ヴェラ・ベルンシュタインです。今日はよろしくお願いします」と答えた。礼儀正しいその様子にアイリスは軽く目を瞠りながらも改めて頭を下げる。
 にっこりと笑ったエルザだが、その顔色は悪く、目の下には化粧では隠しきれていない隈が出来ていた。ホラーツ崩御の一件が届いて以来、眠れていないのだということが伺える。顔色の悪さからも体調も優れていないはずであり、睡眠だけでなく食事も取れていないのではないだろうかという心配が脳裏を過る。


「エルザ、顔色が悪いよ。眠るのが無理でも横になるようにして、それからちゃんと食事も取って」
「眠れないのよ、それに食欲もなくて」
「無理矢理にでも眠るなり、食べるなりしてよ。ここでエルザが倒れれば、ますますあの馬鹿なお妃が調子に乗るんだから」
「エルンスト」


 そういう言い方は止めなさい、とばかりに窘めるようにエルザは彼の名前を呼ぶ。それだけで口を噤むエルンストの姿は新鮮であり、いつも飄々としてゲアハルトの言うことさえなかなか聞こうとしない為、こうして目の前で繰り広げられている様子は真新しいものだった。
 目を瞬かせているアイリスに気付いたらしいエルンストはばつの悪そうな表情を浮かべると、「それじゃあ俺はもう行くから」と部屋から出て行こうとする。しかし、さすがに初対面の自分一人が王女であるエルザの前に残るというのは緊張してしまう為、慌ててエルンストの名を呼ぶと、「ごめんね、他にやらなきゃいけないことがあるんだ。エルザのこと、任せたからね」とだけ言うと、彼は足早に部屋を後にしてしまった。
 取り残されたアイリスはどうするべきだろうかと困り果てる。エルザに付けられたシュレーガー家の私兵による護衛はあくまで部屋の外に待機している。室内に足を踏み入れているのはアイリスだけであり、それを思うと自分がどれだけ場違いなところにいるのだろうという思いになって来る。


「貴女って面白い人なのね」
「え?あ、えっと、そうでしょうか……」
「そうよ。だって貴女、ずっと百面相していたのだもの」


 くすくすと聞こえて来た小さな笑みにアイリスが視線をエルザへと向けると、彼女は口元に手を遣り笑みを漏らしていた。どうやらどのように護衛をするべきなのか、そして、エルンストやエルザのことを考えていたということもあってそれが顔に出てしまっていたのだろう。
 慌てて表情を引き締めるも、そうして常時表情を引き締めているということは決して簡単なことではないため、エルザはくすくすと笑みを深めていた。笑ったその表情にアイリスは既視感を覚え、ホラーツの笑った顔に似ているからだろうと考えていると「でも、貴女が来たことに正直少し驚いたの」とエルザは口にした。


「仕事にまで持ち込んでいるかは知らないけれど、エルンストって女性嫌いでしょ?だから貴女と一緒に此処に来たのを見て本当は驚いてたのよ」
「あ……でも……」
「どうかしたの?」
「いえ、何でも。あの、エルザ殿下はエルンストさんが女性嫌いな理由をご存じでしょうか」


 エルンストが女性嫌いだという話はアイリスも耳にしたことがあり、以前それを本人に直接事実かどうか尋ねたことがあった。しかし、彼の口からそれは嘘だと聞かされたのだ。いつも手当を適当にして人付き合いも避けた結果、あのような噂が流れるようになったのだ、と。
 しかし、その噂が王城で暮らすエルザの耳にまで届くとは思えなかったが、ホラーツの主治医ということもあって頻繁に城に出入りしていた為にエルザの耳に届くこともあったかもしれない。だが、もしエルザの耳に噂が届き、それを正しい事実であるとするのならアイリスに否定したエルンストは嘘を吐いたということになる。
 一体どちらが本当なのか、アイリスには見当がつかなかった。そのため、首を傾げるエルザに対して何でもないとだけ言うと、彼女はエルンストが女性嫌いとなったそもそも理由が何だったのかを尋ねた。遠縁とはいえ、一応は親戚関係にあるのだから何か知っているかもしれないと思ったのだ。本人のいない場所でこのようなことを尋ねるのは褒められた行為ではなかったが、本人に疑問をぶつけたところで正しい答えが得られるとは思えず、アイリスは軽く目を瞠るエルザを見つめた。


「それは……」
「あの、答え辛いことであれば結構です。やっぱりエルンストさんがいない場所でこのような話をするべきではありませんよね」


 視線を逸らし、言葉を濁すエルザにアイリスは慌てて言い添える。何が何でも知りたいというわけではなく、あくまで好奇心からの質問だ。事実がどちらなのだろうかということさえ分かればそれでいいと思っていたのだが、元より悪い顔色をより悪くさせるエルザを見ると、自分の選択が失敗だったことに気付く。
 慌てるアイリスはエルザに「ごめんなさい。そのことはやっぱりエルンスト本人から聞くのがいいわ」と告げられ、何度も頷いた。気分を害してしまっただろうかと不安に思いながらエルザを盗み見ていると、ぱちりと音を立てて濃紺の瞳と視線が重なり合う。


「……貴女の瞳の色、とても綺麗な紫ね」


 ぽつりと呟かれたその言葉にアイリスは軽く首を傾げた。その声音が酷く寂しげなものに聞こえたのだ。どうしたのだろうかと不安に眉を下げていると、その顔に気付いたエルザは軽く首を横に振って微苦笑を浮かべた。


「ごめんなさいね、急に変なことを言って。少し思い出すことがあったのよ」
「思い出されること、ですか?」
「ええ。……貴女と同じ、とても綺麗な紫の瞳の人がいたのよ。……彼は私の婚約者でエルンストの兄君だったわ」
「エルンストさんの……」


 その言葉に、アイリスは妙に合点がいった。エルザが過去形で話し、エルンストが自由に家の私兵を動かすといったことから彼女の婚約者であり、彼の兄だというその人物は既にこの世にはいないのだろう。だからこそ、エルンストは兄に代わり、エルザのことを気に掛け、アイリスを護衛に抜擢した。そうでなければ、忙しい合間を縫って護衛を手配してアイリスを連れて城まで訪れることはないだろう。少なくとも、アイリスはそう感じたのだ。遠縁だからと言えば、それまでの話だが、遠縁にしてはあまりにも気に掛け過ぎているように思えてならなかった。
 しかし、コンコンと控えめに扉を叩かれ、「エルザ殿下、お時間です」と扉越しに告げられたアイリスは思考を切り換える。今日、此処に来たのはエルザと話をする為ではなく、彼女の身を守る為だ。自分が護衛に就いて彼女の身に何かあれば、自分はもちろんのこと、養女として迎えられたクレーデル家やアイリスを護衛に推したエルンストの身も危ういだろう。気をしっかりと引き締めなければと考えていると、「よろしくお願いするわね」と微苦笑を交えて声を掛けられる。


「頑張ります。それでは、此方に。エルザ殿下」


 アイリスは扉を開けると移動を開始する旨を部屋の外で護衛に就いているシュレーガー家の私兵に告げ、エルザを振り向いた促した。広間からはざわざわとした小さな声が聞こえ、多くの人間が広間に集まっているのだということが伺える。
 誰もが予想外の出来事だったのだろう。アイリス自身、ホラーツが討ち取られることなど考えたことはなかった。いつも聞くのはどれだけ彼が勇猛であるのか、聡明であるのかということばかりだったからだろうかと思いながらアイリスはエルザの後ろに控えつつ広間へと足を踏み入れた。
 そこには喪章を付けた文官や武官、貴族や兵士が並んでいた。中には泣いている者さえ見受けられ、どれだけホラーツが皆に愛された王であったのかということが伝わって来る。そんな顔ぶれの中、アイリスはいくつか見知った顔を見つけることが出来た。レックスやレオ、エルンストの姿はすぐに見つけることが出来たのだが、ゲアハルトの姿が見えない。国軍の司令官である彼ほど目立つ存在はないのだが、どうしたのだろうかと昨夜のゲアハルトの様子を思い出しながら不安に眉を下げる。


「どうかしたの?」
「いえ……ゲアハルト司令官のお姿が見えなくて……」
「あら、確かにいないわね。……あんなに目立つ格好をしているのに」


 冗談めかして付け足すエルザの表情は、言葉とは裏腹に暗いものだった。いざこうして広間に入れば、そこには父の棺があるのだ。そのすぐ近くにいて明るく振る舞えるはずなどない。アイリスはエルザを気遣いながら今は彼女のことを一番に考える時だ、と自分に言い聞かせる。
 すると、不意に深紅の軍服をまとった大勢の兵士に周囲を守られながら広間に入場する者を視界の端に捉えた。一体何者だろうかと顔を上げると、そこにはこげ茶色の髪と黒い瞳の青年が面倒そうな顔でそこに立っていた。青年の周囲を隙もないほどに守る深紅の軍服をまとった兵士らはその誰もが王族の警護任務を中心とする近衛兵団のものであるということの気付いたアイリスは彼らが守っている男が次の国王と目されているシリルであることに気付く。


「あの方が……」
「そうよ。私の弟の一人、シリルよ」


 ぼそりとエルザはアイリスに耳打ちしながら、用意されている自身の椅子へと腰掛けた。そのすぐ近くにはシリルの分の席も用意されているものの、彼はなかなか座ろうとはしなかった。否、座ろうとしている素振りは見せていたのだが、誰もそれに気付かず、彼の命令以上に護衛を手配したキルスティの命令に従っている最中らしい。
 そんな中、唐突にそれまでざわめいていた参列者らの口が一斉に閉ざされ、広間はしんと静まり返った。一体どうしたのだろうかと顔を上げると、そこには扉を押し開いた姿のゲアハルトを視界に捉えることが出来た。何かあったのだろうかと思いながら、ゆっくりとした足取りで彼は参列へと加わった。
 しかし、相変わらず誰も口を開くことはなく、代わりにちらりちらりと姿を現したゲアハルトに視線は集中していた。自分が離れている間に何かあったのだろうかと考えていると、「これより、レオナルド・ホラーツ・ベルンシュタイン陛下の葬儀を執り行います」という声が聞こえ、アイリスの不安と共に国葬は始まった。



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