簒奪者 - disperse -



 国葬が厳粛に執り行われる中、アイリスはエルザの背後に控えていた。広間の最奥の壇上に置かれたホラーツの白い棺の近くに王家の人間が集まり、それに対面するように壇の下には武官や文官、貴族、騎士団団長や一部の兵士が広間に集まっている。ゲアハルトの姿は武官の集まりの中にあり、国葬が執り行われるまでの間に集まっていた視線も今は霧散していた。
 あれは一体何だったのだろうかと思いながらアイリスは視界の端に映るエルンストへと視線を向けた。王家とは遠縁の関係ということもあり貴族の集団の筆頭とも呼べる場所に両親と共に参列しているようだった。やはり、そこに自分と同じ色の瞳だというエルンストの兄の姿はなく、故人だろうというアイリスの予想は正しいようだった。


「……、っ」


 粛々と進行していく中、時折微かな嗚咽が耳に届く。視線を下げると、エルザの細い肩が震えていた。アイリスはその後ろ姿から視線を逸らし、先ほどまでの様子はただ虚勢を張っていただけなのだということに気付いた。その様子に彼女は自分自身が養父を失った半年前のことを思い出す。過ごした時間は短かったが、それでも養父の死を知り、葬儀を執り行った後もしばらくの間は堪え、引き摺っていた。エルザにとっては実の父親を失ったのだ。それを思うと、彼女の悲しみを推し量ることは出来なかった。
 そして、悲しんでいるのは彼女だけではなかった。参列者の方を見渡せば、顔を伏せて悲しみに暮れている者も多く、それだけホラーツが慕われた王であったということが伺える。アイリス自身、彼の死を悲しく思い、胸が痛んでいた。アベルのことと併せて、ライゼガング平原での戦闘で起きた出来事は忘れることなど出来そうになかった。
 しかし、悲しみに暮れる広間の中、眉ひとつ動かさない者もいた。アイリスはちらりと視線を滑らせ、その周囲を近衛兵団によって囲まれているホラーツの息子であり、ベルンシュタインの第一王子であるシリルとその母親、キルスティを一瞥した。どちらも悲しむ素振りを見せず、キルスティに至っても面倒そうな表情さえ浮かべている。それがアイリスには理解出来なかった。


「……どうして」


 つい疑問を口に出しかけ、アイリスは慌てて口を閉ざした。
 そもそも、キルスティとホラーツは政略結婚だったとアイリスは聞いていた。ベルンシュタインの名家の出であるキルスティがホラーツの元に輿入れし、彼との間に二児を授かった。それがエルザとシリルである。しかし、ホラーツの血を引く子どもは二人だけでなく、母親の違う子どもがもう一人いるのだという。それがベルンシュタインの第二王子なのだが、彼の姿はこの場にはない様子だった。
 第二王子といっても、母親が既に死亡しているということもあって後ろ盾もなく、表舞台に立つことが出来なかったとされているが、本当のところはアイリスもよく知らなかった。誰かに聞くほど、軍属とは言っても王家と関わり合いになることも、上層部に昇進することもないだろうと思っていたからだ。こうしてエルザの護衛に就くことになるのなら、もう少し詳しくなっておけばよかったと今更ながらに後悔する。
 それにしても、なぜキルスティもシリルも悲しんでいないのかがアイリスには不思議でならなかった。一度しか会ったことはなく、それも短い時間ではあったが、ホラーツは優しい気風の持ち主だったと彼女は記憶している。エルザの様子からも決して悪い父親だったというわけでもないだろう。そうなると、たとえ政略結婚であったとしても、キルスティのことを蔑ろにすることもなく、シリルのことも可愛がっていたはずだとアイリスは思ったのだ。
 とはいっても、ホラーツが自分に見せた一面が彼の全てだというわけでは決してなく、彼には彼の事情があり、心があり、思いもある。それが全て周囲に対して良く作用するとは限らない。実際、ホラーツにはキルスティだけでなく、妻がもう一人いた。しかも、その女性との間に男児をもうけているのだから正妃であるキルスティが何とも思わないはずもなかった。それを思えば、過剰なほどにシリルの周囲を近衛兵団で固める気持ちも分からなくはなかった。帝国軍による強襲よりも、シリルの王位継承権第一位の座が第二王子によって揺るがされる方が余程恐ろしいのだろう。しかし、これまで何ら行動することがなかったらしい第二王子が今になってシリルの立場を危うくさせる行動を取るのだろうかという疑問もあった。キルスティが神経質になっているだけではないのだろうかと考えているうちに粛々と進行していた葬儀は献花に差し掛かろうとしていた。


「――それでは、これより献花に移らせて頂きます」


 お手元の花を手に順に棺まで来るように告げられ、王家の人間が一斉に立ち上がる。その手には白い花があり、正妃であるキルスティから始まり、シリル、エルザの順番に棺へと歩を進める。そんな中、シリルの周囲を固める護衛の数はやはり異様であり、彼が献花する際には兵士らの背によってその姿や棺まで覆い隠されるほどだった。
 本来ならば、次は王位継承権第二位である第二王子の献花の番だった。しかし、彼の姿はそこにはなく、代わりにエルザの番となった。彼女は涙を拭って顔を上げると、棺へとしっかりとした歩みで近付いた。護衛として付き添うアイリスも棺に近付くと、そこには白い顔をしたホラーツが硬く目を閉ざして眠っていた。朗らかな笑顔はそこにはなく、かといって苦悶の表情ですらない、穏やかな死に顔だった。どのような死を遂げたのか、アイリスはゲアハルトから聞いていた。だからこそ、こうして穏やかな死に顔だったことに驚く反面、苦悶に満ちた表情でなかったことに安堵した。
 白い花をそっと手向けたエルザはきゅっと唇を噛み締めている。そんな彼女の背中に手を遣り、アイリスは座席に戻るように促した。いつまでもこの場に立ち尽くしているわけにはいかない。エルザは小さく頷くと、顔を上げて自身の座席へと戻った。その後、ホラーツの兄弟姉妹が続き、武官へと移り変わる。やはり、第二王子は姿を現さず、実の父親の葬儀にさえ参列しない人物は本当に存在するのだろうかとさえアイリスには思えてならなかった。


「待ちたまえ、ゲアハルト司令官」


 武官へと献花が移り変わり、ゲアハルトの番になった直後、それまで静まり返っていた広間に厳しい声が響いた。棺へと近付こうと通路に出ていた彼の足は止まり、声が聞こえて来た方向――文官の座席から立ち上がるルヴェルチに視線が向いた。周囲から視線を一身に集めるルヴェルチは先ほどの声音と同様に厳しい表情を浮かべていた。
 一体何を言い出すのかとアイリスやエルザは目を瞠り、ルヴェルチとゲアハルトに視線を向ける。周囲の王家の人間の間にも囁き声が広がるものの、キルスティとシリルだけは平然とした様子であり、それを一瞥したアイリスは違和感を覚えた。ホラーツの死を悲しむこともなく、進行を妨げるルヴェルチに対して顔色一つ変えることはない――まるでホラーツの死に対して何も感じていないのか、それとも全て承知しているのか、とさえ思えて来る。


「今はホラーツ様の葬儀だ。何かあるなら後にしろ、ルヴェルチ」
「そういうわけにはいかないからこそ、声を掛けているのだよ」


 ルヴェルチの態度は表情こそ厳しいものだが、慇懃無礼なものでアイリスはそのことに眉を寄せた。ホラーツの葬儀の進行を妨げてまで口にしなければならないこととは一体何なのか、そのようなことがあるのかと思うも、それはゲアハルトも同じらしく、顔を顰めていた。
 それと同時にアイリスは違和感を感じた。本来ならば、このようなことは許されるはずもない。しかし、誰もがルヴェルチを止めるでもなく、ゲアハルトに献花を促すのではなく、ただ黙って事の次第を見守っていたのだ。周囲は互いに顔を見合わせ、口々に何かを囁いている。その声が壇上にいるアイリスの耳にまで届くことはなく、もどかしい思いをしながら見守ることしか出来ない。


「ゲアハルト司令官、いや、ゲアハルト。貴様にホラーツ陛下への献花の資格はない」
「……何を言っている、ルヴェルチ」
「聞こえなかったのか?ならばもう一度言おう。貴様には献花の資格などないと言ったのだ」


 ぴしゃりと言い放つ厳しい声音の中、ルヴェルチの声には隠しきれない喜悦が見え隠れしていた。しかし、ゲアハルトはそんな彼を一瞥するに留め、付き合っていられないとばかりに歩き出そうとする。だが、数歩も歩かぬうちに足を止めざるを得なくなる。片手を上げたルヴェルチの合図をきっかけに広間を警備していた兵士らが一斉に動き出し、ゲアハルトを剣を手に取り囲んだのだ。
 その行動に王家や貴族の席からは悲鳴が上がる。剣を手にした兵士の姿など、殆ど目にする機会がない為だろう。しかし、そのような悲鳴はアイリスには遠く聞こえ、眼下に広がる光景を信じることが出来なかった。ゲアハルトが兵士に囲まれている――考えたこともない光景に理解が追いつかなかったのだ。


「……どういうつもりだ、ルヴェルチ」
「どうもこうもない。それは自分が一番分かっているだろう?ゲアハルト」


 剣を向けられてもゲアハルトの表情は変わらない。一瞬驚いた顔をしたものの、すぐにそれは消え去り、明るい青の瞳はルヴェルチを睨みつけていた。しかし、その間も周囲の誰も止めようとせず、少なくとも味方であるはずの武官もそれぞれ顔を見合わせ、困惑した様子だった。どうして、とますます違和感を強めていると、「待て、ルヴェルチ卿!今は陛下の葬儀の真っ最中だ、陛下の御前でこのようなことをして許されると思っているのか!」と苛立ちを含むヒルデガルトの声が壇上のすぐ近くから広間に響いた。途端に、それまで小さな囁きで満ちていた広間にそうだそうだ、と彼女に同調する声が後方の騎士団所属の兵士の集まりから聞こえ始める。
 ちらりと貴族が集まっている座席へと視線を向けると、真っ先に声を上げると思っていたエルンストの姿があった。落ち着かない様子で立ち上がろうとするも、それを周囲の親族に押さえつけられている様がよく見える。その様子からも本当ならば一番に声を上げようとしたにも関わらず、周囲に止められたのだということが伺えた。それと同様に声を張り上げたヒルデガルトも周囲から座るように促されている様子も見え、アイリスはますます困惑した。自分の知らない何かが周囲で動いているように思えてならなかったのだ。


「許されるも何も、陛下の御前であり多くの人間が集まっているからこそ、明らかにしなければならないことがあるのだよ、バルシュミーデ団長」


 ルヴェルチはヒルデガルトを一瞥し、改めて周囲を見渡す。そして嘆かわしいとばかりに表情を歪め、白い棺に視線を向けた。


「陛下は騙されていたのか、それともご存じだったのか……今となっては知ることは出来ないことが嘆かわしい」


 仰々しく口にしたルヴェルチは口振りとは裏腹に喜悦を滲ませる双眸をゲアハルトに向け、そして口にした。


「ゲアハルトを、いや、ヒッツェルブルグ帝国第一皇子、ライル・ゲアハルト・ヒッツェルブルグを、ベルンシュタイン王国の仇敵を捕縛せよ!」


 響き渡るルヴェルチの声にゲアハルトに剣を向けていた兵士が一斉に動いた。助けなければ、と強くそう思うのに、ルヴェルチが告げた言葉に縛り付けられたかのように足は動かず、アイリスはただその光景を見ていることしか出来なかった。
 ヒッツェルブルグ帝国の第一皇子だとルヴェルチは言った。以前、カーニバルが終えた頃、教えられたライルという名は確かにゲアハルトのものだった。しかし、それだけだ。その名前以外にゲアハルトが帝国の第一皇子であるとするものをルヴェルチは提示していない。それだけのことで、名前だけでゲアハルトが帝国の第一皇子であり、仇敵であるとしていいのだろうかと思うも、喉はからからに乾き、声は出そうになかった。
 周囲は騒然としていた。まさか、そんな、という声がアイリスの耳にまで届き、エルザも愕然としていた。そんなはずはない、と声を大にして言いたかった。ゲアハルトはいつだってベルンシュタインのことを考え、勝利に導き続けた。ホラーツのことをどれだけ大切に思っていたのかもアイリスは知っている。そんな彼がたとえ帝国の第一皇子であったとしても、ホラーツを裏切るようなことだけはするはずがないと思ったのだ。
 だが、自分が知っているのはそれだけだ。ゲアハルト自身のことで知っていることなど高が知れている。これまでどのように生きて来たのかなど知らず、顔を隠している理由も知らない。それこそが帝国の第一皇子である証拠だ、などと言われてしまえば言い返す言葉もなかった。
 それでも、このまま黙って見ていることなど出来ない。兵士らによって手錠を嵌められたゲアハルトは両脇を屈強な身体つきの兵士に挟まれていた。抵抗せず、ただルヴェルチを睨みつけ、彼が口にしたことを肯定も否定もしない彼にアイリスが口にしようとした矢先、ルヴェルチが悠然とした様子でホラーツの棺に近付いて来た。


「肯定も否定もしないか。それは貴様を司令官に任じた陛下を庇い立てしているからか?」
「……」
「もし陛下が帝国の第一皇子と知らず、貴様を司令官に任じたのであればそれは貴様が我々を欺いていただけだ。だが、陛下が第一皇子と知りながら貴様を司令官に任じたのであれば、この男は帝国の皇子にこの国を売った売国奴も同然、」
「ルヴェルチ!お父様を売国奴だなんて、口が過ぎるわ!今すぐ控え、」


 控えるように堪らず声を荒げるエルザを遮るように爆発音が聞こえた。それは決して大きなものではなかったが、広間に大きく響き渡り、同時に夏場にも関わらず、冷気が瞬時に広まった。肌を刺す冷気に魔力を感じたアイリスははっと目を見開き、爆発音が聞こえた方向――ゲアハルトへと視線を向ける。
 鈍い音が聞こえると同時に自身を捕えていた兵士を吹き飛ばし、彼らから奪い取った剣を手にゲアハルトは一直線にルヴェルチに向かって駆け出していた。手錠は先ほど、自身の魔力を爆発させた際に破壊したらしく、彼を拘束するものは何もない。壇の下からはエルンストの「止めろっ司令官!」という叫び声が聞こえ、気付けばアイリスは背後から聞こえるエルザの制止の声を振り切って飛び出していた。


「……っ、」


 ゲアハルトは壇上まで辿り着いていた。ルヴェルチまでの距離は短く、彼は大きく剣を振り被る。冷気を纏ったそれが振り下ろされる最中、アイリスは両手を広げてゲアハルトの前に立ちはだかった。
 息が止まりそうだった。明るい青の瞳は怒りに染まり、ルヴェルチへの殺意に満ちていた。ホラーツを売国奴と中傷されたことが余程腹立たしかったらしい。その気持ちはアイリスもよく分かったが、だからといって実力行使に出るべきではないと思ったのだ。 両手を広げて立ちはだかると、ゲアハルトの瞳が大きく見開かれた。しかし、振り下ろされるそれを止めることは、たとえ本人であっても容易なことではない。それでも、アイリスは恐怖を抑え込んで真っ直ぐにゲアハルトを見つめ、唇を噛み締めてその場に踏み止まった。
 誰もが最悪の結果を想定し、このような場面に慣れていない貴族らの悲鳴が広間に響いた。しかし、いつまで立っても首が落ちる音もそこから血が噴き出す音も聞こえず、やがて止んだ悲鳴の後、そこは無音であり、白い床のままだった。


「……アイリス、そこを退いてくれ」
「……出来ません」
「そこを退け、アイリスっ!これは命令だ!」
「出来ませんっ」


 剣はアイリスの首筋を浅く裂いて止まった。白いローブに血が滲み、それに目を瞠りながらもゲアハルトは小さく呟いた。しかし、彼女はそれを拒否する。両腕を広げ、ルヴェルチを背に庇ったまま一歩たりともそこから動こうとはしない。否、動いてはならないと思ったのだ。
 たとえ、ゲアハルトが帝国の皇子であったにしろ、なかったにしろ、ルヴェルチを手に掛けた時点で捕縛され、処罰されることは確定する。それだけは避けたかったのだ。帝国の皇子であるという確たる証拠さえ示されなければ、まだ彼を救い出す手立てはあるかもしれない。だが、それ以前に公衆の面前でルヴェルチを手に掛ければ、救い出す手立てはなくなってしまう。ルヴェルチを手に掛けたその事実が、彼を窮地に追い込んでしまうのだ。
 だからこそ、アイリスはこの場を動くわけにはいかなかった。ゲアハルトのことを想えばこそ、彼にルヴェルチを殺させるわけにはいかなかった。


「司令官のお気持ちは分かります。陛下を売国奴などと言われて黙っていられないのも分かります。でも、此処で剣を振るえば、司令官の立場が悪くなるだけです!」
「俺の立場なんてどうでもいい!この国を想い、この国の為に生きて来られたホラーツ様を侮辱したルヴェルチを許せるはずがないだろ!」
「だったら、そんなに殺さずにはいられいないと仰るのなら、どうぞわたしごと斬り捨てて下さい」


 声を荒げるゲアハルトを見つめ、アイリスはきっぱりとした口調で言い切った。その言葉にはさすがの彼も目を瞠り、背後でルヴェルチが息を呑む気配も伝わって来た。
 狡いことを言ったという自覚はあった。ゲアハルトにとって、自分は容易に斬り捨てられる存在ではないということを自惚れではなく、客観的な事実としてアイリスは気付いていた。自分は彼にとって、ローエの件での贖罪の対象である。そして、以前世話になったと口にしていたコンラッド・クレーデルの養女だ。ホラーツに対してこんなにも義理堅い一面を見せている彼が程度は違えど、世話になった人間の養女を斬り捨てられるはずもない。
 ただ、これは賭けだ。ゲアハルトのルヴェルチへの怒りが彼の性情を越えてしまえば、自分は文字通り、斬り捨てられることとなる。けれど、それはないとアイリスはゲアハルトを信じた。彼は必ず剣を下ろすと、そう信じてそこに立ち続けた。


「……っ」


 やがて、唇を震わせながら彼は剣を取り落とした。刃からは僅かに付着したアイリスの血が床に零れ、白い床を汚した。顔を伏せるゲアハルトを見つめていると、唐突に背後から勢いを取り戻したルヴェルチが「捕縛せよ!」と声を荒げる。途端に先ほどゲアハルトによって吹き飛ばされた兵士らが壇上に詰め掛け、荒々しくゲアハルトを拘束し始める。
 その姿が見ていられず、アイリスは堪らずすぐ傍にいるルヴェルチに声を荒げようとするも、「ちょっと待って」と背後から腕を引かれる。振り向けば、そこには息を切らせているエルンストの姿があった。どうやら、押し留めようとするシュレーガー家の人間を振り切って壇上まで上がって来たらしい。


「ルヴェルチ卿、お待ち下さい。貴方はそもそも何の権利があってこうして陛下の葬儀を乱しているのですか」
「私は葬儀を乱してなどいない。然るべき対応を取っているまでのことだ」
「然るべき対応?この有様を見て葬儀を乱していないなどとよく言えたものですね。確かにゲアハルト司令官が本当に帝国の皇子であるというのなら捕縛は止むを得ません。しかし、貴方は未だ何の証拠も我々には示していない」
「……」
「ゲアハルト司令官が帝国の人間だという確たる証拠を今此処で我々全員に示して頂きたい、ルヴェルチ卿」


 エルンストはアイリスを背に追いやりながらルヴェルチに証拠を提示を迫る。ルヴェルチの勢いに呑まれていた貴族や兵士らも互いに顔を見合わせ、思えば証拠が未だ提示されていないということに気付いた様子だった。ルヴェルチは苦々しい表情を浮かべながらエルンストを睨みつける。そして口を開こうとした矢先、それを封じるようにエルンストが続けた。


「そもそも貴方はどうやってゲアハルト司令官が帝国の人間であると知ったのでしょう。名前の一部が同じだから、なんてことは言い出しませんよね?同じ名の人間など珍しくはない。それとも顔立ちをご存じだったのでしょうか」
「それは、」
「だとしても、やはりおかしいですね。国交が断たれて十数年経っているというのに、その国の皇子の顔をご存じだなんて。皇子の顔を知るほどの帝国の高官と顔見知りでないと顔立ちなんて知ることは出来ない」


 はっきりとエルンストに断言され、ルヴェルチがぐうの音も出ない様子だった。普通に考えてもルヴェルチがヒッツェルブルグ帝国の皇子の顔を知っているとは考え難い。十五年前より、国境は断絶状態にあり、たとえそれ以前のまだ国交がある時に顔を見たと主張しても、子どもの頃の顔と今とでは違っている。何より、ルヴェルチ自身、皇族と関わるほどの高官ではなかったはずだ。
 そうなるとルヴェルチがゲアハルトを追い落とす為にでっち上げているようにも思えるだけでなく、本来ならば知ることの出来ないことを知っているという点で帝国と内通しているのではないかという疑いさえ浮上する。それ気付いたらしいルヴェルチは唇を噛み締め、エルンストを睨みつける。
 追い込まれてなお、所持しているはずの確たる証拠を示さないルヴェルチに周囲は一層ざわめき出した。アイリスはあともう一押しでゲアハルトを助けることが出来るのではないかという希望をエルンストに見出す。ルヴェルチは元々、司令官の座に就いていたが、失脚の後にゲアハルトが司令官に就任した。そのことを恨んでいるということを知らぬ者はいないほどだ。その一件の仕返しを今しているのではないかという疑問を周囲に持たせることで形勢逆転を狙うエルンストは更にルヴェルチを追い込むべく「それに、何も今である必要はないでしょう。これではまるで、」と口を開くも、まるでそれを遮るように後方からぱんっという音が響いた。振り向けば、扇子を手にしていたキルスティが閉じたそれで手を打ち据えたようだった。


「ゲアハルトが帝国の人間であろうとなかろうと、陛下を守ることが出来なかったという事実は変わらない。その責任は取ってもらうわよ、ゲアハルト」
「……キルスティ様」


 そこにゲアハルトを責めるような響きこそなかったが、それでも声音は冷たく、吐き出される言葉は刃のように感じられた。アイリスは椅子から立ち上がり、此方へと歩み寄って来るキルスティから目を逸らすことが出来なかった。
 彼女は美しかった。けれど、その美しさは氷のようでホラーツの温かな人間性を思うと、正反対の二人が政略によって婚姻を結んだのだということがよくよく分かった。
 キルスティは顔を伏せているゲアハルトの前まで歩み寄ると、ひんやりとした視線を向け、感情の抜け落ちた冷たい声音で命じる。


「今この瞬間、ゲアハルトの司令官の地位を剥奪。以後の軍事権は代理執政官であるルヴェルチに一任。陛下をお守り出来ず、代理執政官に剣を向けたゲアハルトは反逆罪に処す。捕えよ」


 無慈悲なその命令にアイリスは目を見開き、「そんな……」と声を漏らした。正妃の命令にゲアハルトを捕縛していた兵士らは一様に敬礼すると、愕然としているゲアハルトを連れて広間から出て行こうとする。途端に我に返ったように彼は抵抗するも、先ほど以上に厳重に身体を拘束されてしまえば、いくらゲアハルトであってもどうすることも出来ない。
 半ば引き摺られるようにして連れ出されるゲアハルトを追いかけたい衝動に駆られるも、「お待ち下さい、キルスティ様!」といつになく切迫したエルンストの声がアイリスをその場に引き止める。


「いくら何でもあんまりです、ゲアハルト司令官はこれまでベルンシュタインの勝利に貢献して来たではありませんか!」
「けれど、陛下を守り切れなかったのは事実。それにエルンスト、奴はもう司令官ではない。今後はルヴェルチが軍部を引き締める」
「……っ、その件も聞いていません。ルヴェルチ卿を代理執政官とするなんて案件、会議には、」
「会議で通ったからこそ私も承認したのよ、エルンスト。……ああ、でもそう言えば、今朝方急な会議だったから来れなかった者も多かったようね」


 取って付けたようなキルスティの言葉にこの一連の件が最初から仕組まれていたことだということにアイリスは気付いた。ゲアハルトを追い落とし、司令官の地位を剥奪することも、ルヴェルチが代理執政官となることも――もしかしたら、ホラーツの死さえも仕組まれていたのではないかとさえ思え、アイリスは顔を青くした。
 そうなると、ルヴェルチとキルスティが結託しているだけではなく、その背後にはヒッツェルブルグ帝国の影がちらつく。それにはエルンストも気付いているらしく、ちらりと見上げた彼の横顔は青く、ルヴェルチを睨みながらエルンストは「この簒奪者が……」と地を這うような低い声音で囁いた。


「……異議を申し立てます、キルスティ様。ルヴェルチ卿の代理執政官の就任を認めることは出来ません」
「悪いが、それは却下だ。エルンスト」
「……シリル殿下」


 とてもではないがルヴェルチを代理執政官として認めることは出来ない、と主張するもそれを却下したのはキルスティではなく、今まで沈黙を守っていたベルンシュタイン王国第一王子のシリルだった。母であるキルスティとよく似た顔立ちをした青年は冷えた視線をエルンストに据えながら、「これは次期国王として下した王命だ」と告げる。


「私は父上の喪に服さなければならない。ならば、その間、私の代わりに政を行う者が必要だろう?それをルヴェルチに任せることにした、それだけだ」
「しかし、殿下、」
「くどいぞ、エルンスト」


 戻れ、と言い放つシリルの言葉は冷たく響く。これ以上、食い下がろうものならどのようなことになるか分からず、シュレーガー家のことを思えば、エルンストは悔しげに顔を歪めながらも自身の座席に戻るしかなかった。アイリスも同様にエルザの護衛に戻ろうとするも、その背に向けて「待て」と短くシリルに声を掛けられる。びくり、と肩を震わせながらも、無視など出来るはずもなく、アイリスは足を止めて振り向いた。
 すると、シリルは至極楽しげな笑みを浮かべ、アイリスに向けてゆったりとした拍手を送った。一体何なのかと怪訝な表情を浮かべて身構えていると、彼は一歩ずつ彼女との距離を詰めた。その度に警戒心を露にするも、シリルは笑みを深める一方だった。


「先ほどの貴様の行動、普通は出来るものではない。称賛に値する」
「……いえ、あれは……ただ、無我夢中だっただけです」


 アイリスは視線を逸らし、居心地の悪さを感じた。そのような言葉を掛けられても何ら嬉しくなどなかったのだ。自分はただゲアハルトを止めたかっただけであり、それを彼を追い込んだ内の一人に褒められても、寧ろ苛立ちしか感じないぐらいだ。しかし、シリルはそんなアイリスの態度を気に留めることなく、ただ一言、「気に入った」と呟いた。


「え、」


 その呟きが耳に届く頃には一気に距離は詰まり、腕を引き寄せられる。感じていた不快感をどうにかすることに気を取られていたアイリスは咄嗟の判断が遅れ、目を見開いた時には背けていた顔に持ち上げられていた。顎をくいと持ち上げられればすぐ近くに黒い瞳が迫り、殿下、と動いた唇に柔らかく温かなものが重なった。
 それがシリルの唇であり、自分が彼にキスをされているのだと気付いた頃には唇は既に離れた後だった。



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