簒奪者 - disperse -



「聞いたよ、司令官のこと。……レオのこともね」


 国葬が終わり、エルザの護衛を終えたアイリスは足早に宿舎へと戻って来た。すぐに身支度を整え、これから先の自分の行動についてエルンストに指示を仰がなければならないのだ。そうでなくとも、宿舎に近付くにつれて向けられる視線の多さに辟易していたこともあり、宛がわれている部屋に着いて漸く息を吐くことが出来たところだった。
 しかし、何とも言えない表情で部屋で療養しているエマが口を開いた。既に彼女の元にまで話が及んでいるらしい。だが、いつものように好奇心に満ちた視線を向けられることはなく、根掘り葉掘り聞かれることもない。そういう場合ではないということをエマも分かっているらしい。


「近衛兵団に異動になったのよね」
「うん……一時的なものだと思うけどね」


 期間ははっきりとは告げられていない。このまま状況が変わらなければ、第二騎士団に戻ることは出来ないだろう。そして何より、戻る場所である第二騎士団も存続が危ぶまれている。そんな状況をホラーツの喪が明け、シリルの王政が確立する前に打開しなければならないのだ。
 ゲアハルトは捕縛され、シリルに対抗することの出来る立場にある第二王子であるレオも捕縛されている。指揮系統は代理執政官に任じられたルヴェルチに掌握され、自由に動ける人間は皆無だ。エルンストもゲアハルトの側近ということで監視対象となっているだけではなく、シュレーガー家自体も慎重になっていることからも表立って動くことは不可能に近い。
 これから自分はどうするべきかを考えながらアイリスはベッドの下から鞄を引っ張り出す。これから生活の場はバイルシュミット城に移る為、その用意をしなければならなかった。それほど荷物は多くはない為、必要なものだけを詰め込めばそれで事足りるだろう。そんなことを考えながら手早く鞄に着替えなどを詰めていると、エマの物言いたげな視線が自身に注がれていることに気付く。


「エマ?」
「……戻って来るよね?」


 ぽつりと呟かれた言葉にアイリスはすぐに返事は出来なかった。戻って来ることは、いつかは出来るだろう。しかし、それが一ヶ月後なのか、半年後なのか、数年先のことになるのかはアイリスにも分からなかった。ホラーツの喪が明けるその日までに現状を打開することが出来なければ、ゲアハルトもレオも助けることは出来ず、第二騎士団は解散させられてしまうかもしれない。
 それを現実のものとしない為に、アイリスはゲアハルトとレオとの面会を条件に近衛兵団への異動を受け入れた。少なくとも、近衛兵になれば、王城の中をある程度は自由に動き回ることは出来るだろう。預かりはエルザである為、彼女に相談すればゲアハルトやレオとの面会回数も増やすことが出来るかもしれない。
 そういったことの出来る者が必要だと思ったからこそ、アイリスは異動を承知したのだ。エルンストは動けず、ヒルデガルトも恐らくは同様の理由で動くことは出来ないだろう。レックスはバイルシュミット城に入城することが出来ない。ならば、後は立場を変えて入り込むしかないと思ったのだ。


「大丈夫、戻って来るよ」


 いつになく元気のないエマの声に戸惑いながらもアイリスは努めて明るい笑みを浮かべ、安心させるように言う。いつ戻って来る、と明確に言えないことを歯痒く思いながら、彼女は鞄に着替えを詰めていた手を止めると隣のベッドで眠っているとエマへと近付いた。
 そして、頬に掛かっている髪を払うと「わたしは第二騎士団所属だから」と口にする。たとえ、異動となっても、近衛兵の軍服に袖を通しても、自分自身は第二騎士団所属の兵士なのだということを強く自分に言い聞かせる。戻る場所を、居場所を奪われない為にも、たった一人であっても戦わなければならないのだとアイリスは覚悟を決める。


「すぐには無理でもちゃんと戻って来るよ。だから、エマの怪我が治ったらその時こそ一緒に甘いものを食べに行こうね」
「……うん。私も頑張るわ」


 表情を引き締めて頷くエマに頷き返し、アイリスは残り僅かなスペースに荷物を押し込んだ。後はこの荷物を持ってバイルシュミット城に向かえば、それで終わりだ。しかし、自分がするべき用意は身の回りのものだけではない。
 アイリスは荷物をまとめてベッドの上に置き、足早に扉へと向かう。何処に行くのかというエマの声にアイリスは足を止めて振り向くと、「杖屋だよ」と答える。カーニバルが始まる前に注文していた予備用の杖を取りに行こうと思ったのだ。既に完成しているだろうということもあったが、それ以上にバイルシュミット城で生活する上で何があっても対応できるようにと予備の杖が今すぐに欲しくなったのだ。


「予備用に注文してたのがそろそろ出来あがってるだろうから」
「……そっか」


 アイリスの言葉に目に見えてエマはがっかりとした様子だった。しばしの別れを惜しんでくれているのだろうか、とアイリスは嬉しく思った。入隊した当初はこのように親しくなれる人物が現れるとは思いもしなかったのだ。エマの存在を改めて有り難く思っていると、「……駄目だな、こんな顔してちゃ」と彼女は溜息混じりに笑った。


「私がこんな顔をしてたら気になるわよね。……いってらっしゃい、アイリス」


 いつもの笑みには程遠いものの、それでもエマは明るい表情を浮かべた。送り出してくれるその言葉に胸が熱くなるも、アイリスはきゅっと小さく唇を噛みながら笑って見せる。そして一つ大きく頷くと、「いってきます、エマ」と口を開いた。その言葉が、今度はただいまとおかえりになることを願いながら、アイリスは足早に部屋を後にすると宿舎の近くにある杖屋に向かった。








「おい、戻ったぞ」


 昼過ぎ、久しぶりにゼクレス国に帰還したブルーノは疲れ切った表情を浮かべながらカサンドラらが使用している居室へと足を踏み入れた。居室にはカサンドラやアウレールの姿があり、いつもならばカサンドラのすぐ近くにいる少年の姿は珍しく、そこにはなかった。
 何処に行ったのだろうかと思っているとすぐさま紅い瞳が自身に向けられた。ブルーノはちらりとその視線の主であるカサンドラを一瞥する。彼女の様子から、帰還途中だった自身が引き返すことになった原因が余程堪えているのだということが伺えた。恐らく、周囲には何とでも言葉を並べて言い繕ったのだろうが、先の一件――延いてはライゼガング平原で起きた戦闘行為は、結果的にカサンドラの望む結果にこそなりはしたものの、ゲアハルトの策に嵌ったことが彼女の自尊心にはっきりと傷跡を残すことになったらしい。
 八つ当たりなどされなければいいのだが、と思いつつブルーノは遠慮なしにカサンドラの向かい側のソファに腰掛けた。軋む音が耳に届くも、そのような音は気にせず、ブルーノはローテーブルの上の茶器に手を伸ばした。彼女に給仕を任されるようになって以来、どうにも目の前にあると茶を淹れてしまいがちだった。


「報告を聞かせて」


 カサンドラの前に淹れたての紅茶を置くと、彼女はそこで漸くぽつりと口を開いた。陰惨な様を呈した瞳を見返し、ブルーノは軽く息を吐き出すと、小さく頷いた。
 帰還途中のブルーノが報告を受けたのはライゼガング平原の帝国軍本陣を出てから一日程度経過した頃だった。早く帰っても用事を言いつけられるのだと思えば、少しぐらいゆっくり戻ってもいいだろうとあまり急がずに馬を走らせていたのだ。すると、本陣からゼクレス国に向かっていた伝令に追いつかれ、ダールマン率いる帝国軍本隊の兵士が次々と眠ったように動かなくなったのだという報告を受けた。それを聞いて何もせずに帰るというわけにはいかず、ブルーノは引き返して状況を確認することにしたのだ。


「俺が到着した頃には八割の兵士が既に死んでいた。苦しんだ様子もなく眠ったようにばたばた倒れてたな」
「やっぱりベルンシュタインの兵糧に毒が仕込まれていたのかしら」
「多分な。生きてた奴らに確認したが、死んだ奴らはベルンシュタインの兵糧を使って作った飯を食べたらしい。まあ自業自得だな。兵士の遺体と兵糧の一部を運ばせてる。今日の夜には到着するはずだ」


 俺には毒のことなんて分からねーから自分で確認してくれ。
 ブルーノは湯気の立ち上る紅茶に口を付けるも、その熱さに柳眉を寄せる。すぐに口を離し、少しでも冷まそうと息を吹きかけつつ、ぼんやりと本陣の様子を思い出す。彼が到着した頃には、その様子は前日までとは大きく異なっていた。至るところに兵士らが倒れているにも関わらず、その表情は至極穏やかな寝顔なのだ。一見して疲れて所構わず眠っているのではないかとさえ思うものの、触れてみればその身体は夏場にも関わらず、ひんやりと冷たく、そして硬くなっている。
 眠るように死んだ兵士らの中にはブルーノの知る顔がいくつもあった。鴉に入隊する以前、かつて彼が一兵卒だった頃、共に戦った仲間の姿があったのだ。しかし、彼らの死体を見ても、ブルーノは泣くこともなく、また、悲しみに心が震えることもなかった。ただ、死んだのか、という事実だけを認識した。
 死んだ兵士の中には指揮官であるダールマンも含まれていた。命じて作らせたであろう豪勢な食事を前に、彼は死んでいた。ベルンシュタインの兵糧を使って食事を作るように命じたのは恐らく、彼だろう。そしてその理由は、戦場で食すには豪勢過ぎる食事が物語っていた。
 彼は恐らく、ブルーノに踏み躙られた自身の自尊心を癒したかったのだろう。兵卒だと馬鹿にしていた相手に立場を追い抜かれ、顎で使われたことが余程腹立たしかったらしい。しかし、だからといって敵国の兵糧は持ち帰ることになっている決まりを破るべきではなかった。ダールマンの判断の誤りが今回の一件を引き起こしたのだとブルーノは思った。その引鉄を引く原因を作ったという自覚はある。だが、原因になったとしても、ダールマンが指揮官として有能な人間だったのならば、このようなことはやはり起き得なかったはずなのだ。


「……そう、分かったわ。ねえ、ブルーノ、貴方はどうしてこんなことが起きたと思う?」
「あの馬鹿野郎が判断を誤ったからだろ」


 何を指してどうして起きたのかと問われているのかは分からない。今回の戦闘行為全体を指しているのか、本隊が壊滅したことを指しているのか――ブルーノは後者に限定して答えた。全体を指してのことであれば、ダールマンだけでなく、カサンドラの失策も原因の一つであると彼自身は思ったのだ。
 しかし、それを本人に対して直接言えるかどうかは別問題だ。言ったとしても、彼女であれば激昂することはないだろう。だが、激昂はしなくとも、痛い目を見ないとは限らない。ならば、何にも気付かぬ振りをして当たり障りないことを言うに限る、とブルーノは考えた。


「それにこっちもそれなりに面倒なことにはなってるけどあっちの比じゃねーだろ」


 ベルンシュタインの国王であるホラーツを手に掛けたのは他ならぬブルーノ自身だ。確実に息の根を止めたのだ。それはたった一人の人間が死んだという、ごくありふれた事柄ではある。だが、一国を統べる人間が死んだのだ――その影響力は図り知れず、今更ながらブルーノは自分が行ったことにぶるりと身を震わせた。
 微かに手が震え、持っているカップの中の液体が小さく波打つ。ブルーノはそれが零れてしまう前にテーブルにカップを戻し、自分自身を落ち着けるように深い呼吸を繰り返した。ちらりと向かい側に腰掛けているカサンドラに視線を向けると、彼女は何かを考えている様子だった。


「……アウレール」
「何だ」
「ルヴェルチ卿からの連絡はあったの?」


 手筈通りに動いているのであれば、今頃ルヴェルチはゲアハルトを司令官から引き摺り下ろし、シリルを国王に付けるべく動いているはずだ。王都ブリューゲルとゼクレス国では距離が遠く離れているということもあり、連絡を取るのも一苦労だ。しかし、そろそろ何かしらの連絡があってもいい頃であり、ブルーノは視線をバルコニーへと向けた。
 先日の雨が嘘のように、空はからりと晴れている。その燦々と降り注ぐ日光から視線を逸らすと、「いや、まだだ」とアウレールが首を横に振った。鳥を使うにしても、すぐに到着するものでもない。気ままに待つしかないだろうと内心思いながらも口には出さず、ブルーノはカップに手を伸ばす。


「連絡が届いたらすぐに教えて頂戴ね」
「了解した」
「ブルーノもご苦労さま。疲れているだろうからゆっくり休んで頂戴」
「そうさせてもらう。……そういや、あのガキはどうしたんだよ」


 普段であれば、煩いぐらいに口を開き続けている少年の姿が見当たらない。別の任務に就いているのだろうかと考えていると、カサンドラは小さく溜息を吐きながら「部屋にいるわ。そっとしておいて頂戴ね」と口にする。その言葉の端々から感じる疲れにも似た様子にブルーノは首を傾げた。


「何かあったのか?」
「そうね、色々と。今は看病で忙しくて気が立っているのよ、近付いたら噛みつかれるわよ」
「犬猫じゃねーんだから……つか、看病って何だよ」


 あいつが看病なんてする奴か、と思いつつブルーノは胡散臭そうな顔をする。何かあればするにナイフを手にするような物騒な人間に看病なんて似合わなさすぎると思ったのだ。しかし、カサンドラがこのような冗談を言うようには思えず、少年は何者かを看病しているらしい。
 自ら看病するほど親しい人間がいたことに内心驚いていると、彼女は「そう言えば、貴方は知らないのよね」と口にする。一体何をだろうかと思いながら、少し冷めた紅茶で喉を潤す。


「あの子には家族がいるのよ。家族と言っても、たった一人の家族だけれど」
「それで、そいつが病気でもしたのかよ」
「病気ではなく怪我よ。それでもう大騒ぎ……この数日、付きっきりで看病しているのはいいのだけれど……」
「何だよ」
「看病が落ち着いたら一人で仕返しに行きそうな勢いなのよ。それが心配」


 そういうわけで勝手に行動しないように見張っておいて頂戴ね、とカサンドラはブルーノが用意した紅茶にそこで漸く手を伸ばした。そっとしておくように先ほど言ったばかりではないかと柳眉を寄せるも、直接関わるのではなく、遠くから行動を見張っているようにということらしい。
 帰還早々面倒を押し付けやがって、と思うも、面と向かって言えるはずもない。仕方なく、ブルーノは「了解」と頷き、肩を落とした。しかし、少なからずカサンドラにも良心というものがあったらしく、今日一日はゆっくり過ごしていいと彼女は彼の返事に付け足した。
 そうと決まれば、この場でぐずぐずしているわけにはいかない。いつまでも近くにいたのなら、用事を押し付けられるに決まっているのだ。ブルーノは素早く立ち上がると、「それじゃあ部屋で休むわ」とだけ言い残し、足早に居室を後にした。廊下に出た彼はその足で宛がわれている部屋へと向かう。その最中、少年が使っている部屋の前を通りかかるも、部屋は静かだった。だが、次の瞬間には暴れ出すような、そんな性格をしているということもあり、ブルーノは少なくとも今日一日が何も起きずにいることを願いながら自室へと急いだ。



130121





inserted by FC2 system