簒奪者 - disperse -



「やられた……っ」


 注文していた杖を受け取って来たアイリスはその足で宿舎の医務室を訪れた。ノックの後に扉を開けるなり聞こえた抑えられた怒声とテーブルを殴りつける鈍い音にびくりと肩を震わせる。医務室にはエルンストだけでなく、レックスの姿もあった。彼の顔色も悪く、改めてどれほど状況が悪いのかを思い知らされるようだった。


「あの野郎、よりにもよって帝国軍なんかと手を結びやがって……簒奪者どころか、あいつこそが売国奴だろ」
「エルンストさん、落ち着いてください」
「落ち着いていられるか!司令官もレオも捕縛された上にあの大馬鹿野郎が代理執政官なんて、シリルのアホは何考えてんだ」


 いつになくぞんざいな口調で怒りを露にするエルンストにレックスとアイリスは顔を見合わせた。しかし、今は怒りに任せて文句を言っている余裕はない。国葬が終わり次第、第二騎士団には監察官が差し向けられることになっている。それまでにアイリスはエルンストから当面の行動についての指示を受けておきたいのだ。
 レックスはエルンストを宥めつつ「でも、ルヴェルチ卿には監視を付けていたんですよね?何も報告はなかったんですか?」と問い掛ける。すると、彼は首を横に振り、深い溜息を吐き出す。


「何も報告は上がってきていない。……いや、待てよ……ルヴェルチが動かなくとも、帝国軍の奴らが周りで動いていたのなら……」
「付けていたという監視はルヴェルチ卿個人にですか?」
「あいつと邸の両方に付けていた。でも、邸の監視を掻い潜って入り込むぐらいのことは……」


 そこまで言ってエルンストの双眸が軽く瞠られる。何かに気付いたようなその表情にアイリスは声を掛けようとするも、それよりも先に「違う、今はそれどころじゃないな」と話題を打ち切られてしまう。出鼻を挫かれる形となったアイリスは出かけた言葉を飲み込み、向けられる青い瞳に僅かにたじろぐ。真っ直ぐなその視線は今まで見たことがないほど、真剣そのものだった。
 しかし、それはすぐに逸らされてしまう。エルンストは「レックスは今すぐ此処を出る用意をして」と早口で言うと、執務机に向かった。そして、引き出しから取り出した書類に素早くペンを走らせていく。一体何を書いているのだろうかと書類を覗き込むと、それは診断書であり、記載されている名前はレックスのものだった。


「あの、エルンストさん。オレは怪我なんてしてませんけど」
「見たら分かる。でも、お前を自由に動けるようにするには必要なものなんだよ。……よし、これでいいだろ。頭部裂傷、右大腿骨骨折で療養」


 完成した虚偽の診断書をアイリスに差し出すと、エルンストは白紙を取り出してそこに何やら地図を描き始めた。視線は相変わらず手元の紙に向けられたままだったが、「多分、これから始まる監察で第二の大半は停職処分にされると思う」と彼は先ほどまでとは打って変わって冷静な声音で言う。
 つまり、第二騎士団が完全に封殺される前に少しでも戦力を外に出しておくということだ。しかし、それをするにはあまりにも危険過ぎるとアイリスは眉を寄せる。エルンストが虚偽の書類を作成したことが知れれば、間違いなくそこを突いて来るだろう。そうなれば、たとえ彼でも逃げ切ることは難しい。
 それが顔に出ていたらしく、エルンストは微苦笑を浮かべながら「平気だよ、俺のことなら」と大したことはないとばかりに言う。だが、そう言われたところでアイリスもレックスも素直に納得することは出来なかった。ルヴェルチは本気だ。本気で自分の邪魔をする者を排除しようとしている。たとえ、エルンストがシュレーガー家の出であったとしても、そのようなことはお構いなしに処分を下すだろう。
 しかし、現状においてエルンストがしようとしていることが第二騎士団にとって、延いてはこれから先の行動の為にも必要なことは確かだ。だからこそ、アイリスもレックスも顔を顰めることはあっても面と向かってそんなことは止めるべきだとは言えないのだ。エルンストはそんな二人の視線を受けながら、黙々と虚偽の書類を作り上げていく。そして、「レックス、お前が信頼出来ると思う第二の兵士の名前を三、四人教えて。ただし、あんまり有名ではない奴」と告げる。


「それは構いませんが……それ、死亡報告書ですよね?」
「お前は第二の部隊長として顔と名前が割れてるから死亡の偽装が難しいだけ。だから替え玉を用意して顔に包帯巻き付けて寝かせておく必要があるけど、そんなのばっかり今から用意は出来ないから影の薄い奴で信頼出来て且つ腕の立つ人間を死んだと報告して逃がすんだよ」
「……注文増えてませんか、エルンストさん」


 レックスは溜息を吐きながらも、彼が出した条件に当てはまる数人の兵士の名前を挙げていく。それらの名前を報告書に書き記したエルンストは新たに取り出した紙に簡単な地図を描き始める。一体何なのだろうかと思いつつその様子を見守っていると、エルンストは描き終えたそれをレックスに差し出した。
 手渡された地図をレックスと共に覗き込んでいると、「それは俺が持ってる隠れ家への地図だよ」とエルンストが口にする。まさかそのようなものまで持っているとは思いもしなかった二人は驚いた表情を浮かべた。しかし、エルンストは特に何の様子も見せず、すぐに隠れ家に向かうようにレックスに言う。


「監察官が到着してからでは遅い。お前は今すぐさっき名前を挙げた奴らを連れて隠れ家に急いでくれ」
「了解しました」
「ただし、あまり周囲の他の兵士らに見つからないようにね」


 それが最も難しいのではないだろうかと思いつつ、アイリスはちらりと視線を隣で地図に目を通しているレックスへと向けた。しかし、既に宿舎からどのようにして脱出するかということに意識が向いている彼は彼女の視線には気付かない。渡された地図からどういった経路を取るかを決めたらしいレックスは地図から顔を上げると、その紙をエルンストに差し出した。
 エルンストは受け取ったそれをぐしゃりと握り締め、次の瞬間には掌の上でぶわりと燃え上がる。燃え滓となったそれは吹き込んだ風に煽られてすぐに視界から消え失せてしまった。


「これが隠れ家の鍵。家のものは好きに使ってくれていいよ」
「分かりました。連絡手段はどうしますか?」
「そうだな……そのことも含めて夕方に一度どうにかして連絡を入れるよ。それまでに監察官が帰って、俺も自由の身だといいんだけど」


 微苦笑を交えて言うエルンストの言葉に二人は揃って眉根を下げた。ありありと心配げな顔をする二人に気付いた彼は慌てて「平気だよ、大丈夫。少なくとも今すぐどうこうされるようなことはないだろうから」と口にする。しかし、捕縛される可能性を捨て切れないことは変わらない為、平気だと言われたところで不安は拭えない。
 かと言って、何もしないわけにもいかないのだ。それはアイリスもレックスも重々承知していることだ。政は全てシリルに代わって代理執政官であるルヴェルチが執り行うことになる。何をするつもりかは知れないが、このまま黙って手をこまねいているわけにはいかないのだ。動くべき時にすぐに動けるよう、今出来る最善のことをしなければならない。


「今の俺に出来ることは少しでも戦力を逃して備えることと出来得る限りの指示を出すこと、それだけだ。たとえその所為で自分の身が危険に晒されたとしても……俺の知ってるあの人なら、足を止めることはないだろうから」


 誰のことを言っているのか、それは彼の顔を見ていれば考えずともすぐに分かった。レックスは一度目を閉じ、ゆっくりと呼吸を繰り返すと「……そろそろ行きます。気を付けて下さい、エルンストさん」と声を掛ける。そして隣に立つアイリスを向き直ると、何かに耐えるような顔で彼は笑った。


「アイリスも、気を付けて。無茶はするなよ」
「うん……レックスも」
「ああ。……また、皆で揃って会おう」


 くしゃりとアイリスの頭を一撫でし、レックスは足早に医務室を後にした。その背を見送り、アイリスはいよいよ自分の番だときゅっと拳を握り締める。レックスは自分の出来ることをする為に走り出した。その姿を見ていると、自分も負けてはいられないという気持ちが湧き起こる。
 エルンストの方を向くと、ばちりと音を立てるかのように視線がぶつかった。真っ直ぐに向けられる深い青の瞳を前に、アイリスは目を逸らすことなかった。見定めるかのような視線を真っ向から受けながら、彼女は自分の意思を示すようにしっかりと彼を見つめ返す。程なくしてエルンストは「変わったね、君は」とぽつりと呟いた。


「クラネルト川での戦闘から戻って来た時、君は酷い状況だった」
「……覚えています」
「リュプケ砦での戦闘の後も、君は泣いていた」
「……そうでした」
「だけど、……君は強くなった」


 アベルの生死が不明の中――殆ど生還を望めない中、司令官の剣にさえも立ち向かって、それでも君は今も前を向いている。
 そう口にした彼は眉を下げ、眩しそうに目を細めて笑った。それは困ったような笑みにも見え、胸が苦しくなった。けれど、それを口には出さず、アイリスは「そう言ってもらえると嬉しいです」とほんの少しの笑みを滲ませる。
 けれど、自分はエルンストが言うほど、強くはないとも思った。ともすれば、立ち止まってしまいそうなほど、本当は怖くて仕方なかった。後ろを向けば、前を向けなくなりそうだからこそ、振り向かない為に立ち止まらないように必死で走り続けているだけだ。レックスが言った、また皆で揃って会えるはずだという、不確かな未来に縋っているに過ぎないのだ。


「……本当は、出来ることならアイリスちゃんを城になんか行かせたくないんだ」
「エルンストさん……」
「あそこは君が思っている以上に危険な場所だよ。正妃を見たら分かるように、あんな風に人を歪ませる、嫉妬と欲望に満ちた場所だ。でも……」
「……」
「それでも、行くなって、俺は言えないんだ」


 歯痒そうにエルンストは顔を歪める。国を思えばこそ、友人のことを思えばこそ、行くなとは言えない。きつく唇を噛み締めるエルンストに、アイリスは掛ける言葉が見つからなかった。本来なら、城に入るのはエルンストの方が適任だ。けれど、彼の動きは封じられつつあり、虚偽の書類を作成し、隠れ家を提供することが精一杯の現状だ。
 恐らく、エルンストの祖父や父親といったシュレーガー家の人間が彼を押さえつけているのだろう。国葬の場でのエルンストやその周囲の様子を見ていれば、それは想像に難くなかった。城に入り、動く人間は必要だ。それも信頼出来る人間であり、ゲアハルトやレオを救い出す術を見つけ出すことが出来なければならない。そしてそれが現状、可能な存在がアイリスだった。


「……自分で決めたことですから、あまりご自分を責めないで下さい」
「……アイリスちゃん」
「わたしは司令官もレオも助けたい。この国を守りたい、……だから今も此処にいるんです。だから、エルンストさん。わたしに指示を下さい」


 バイルシュミット城に近衛兵として入った後、自分は一体どう動くべきなのかという指示が欲しかった。ただがむしゃらに動いてどうにか出来るほどの力は自分にはなく、そんなことをしたところでどうにかなるほど簡単な状況ではない。そして、時間もない。シリルが即位すれば、ゲアハルトやレオの命も危険に晒される可能性が高くなる。だからこそ、迅速且つ的確な行動を選択しなければならない。
 だが、それを自分で判断するにはあまりにも経験がなさすぎる。アイリスは真剣な表情で真っ直ぐにエルンストを見つけた。その視線を受け、顔を歪めていた彼は緩々と頬の強張りを解き、「……君はやっぱり、変わったよ」と呟いた。そして、顔を伏せた彼が次に前を見据えた時には、その瞳には常と変わらない自信に満ちた輝きが戻っていた。


「まずは司令官とレオが閉じ込められているところを見つけ出して欲しいんだ。多分、地下牢だとは思う。ただ、城にもいくつか地下牢があるからその何処かを探し出さなきゃいけない」
「分かりました。その後はどうすればいいんですか?」
「手錠とかで拘束されているのなら、可能であれば鍵の型取りをして来て欲しいんだ。それからまともに食事なんて出されていないだろうから水とか食糧とかも渡してあげて」


 それから、小型のナイフも、とエルンストは口にした。だが、レオには渡さなくていいと彼は付け足す。一体どうしてなのだろうかと思っていると、彼は何とも言えない表情になった。しかし、キルスティに掴み掛られて罵声を浴びせられていた時のレオの様子を思い出せば、武器となるものを彼に与えることは危険なようにも思えた。
 尋常な様子ではなかったのだ。大きく目を見開き、その瞳は何も映さずにただただ大きく揺れていた。身体も震え、緊張の所為か身体はひんやりと冷えていたようにも思う。今もそのような状態かどうかは知れないが、仮にそのような状態であれば、自分の命を断つことさえ出来る武器を与えるわけにはいかない。


「……エルンストさんは、レオが第二王子だということはご存じだったんですか?」
「知ってたよ。……俺も司令官も、バルシュミーデ団長も多分知ってたんじゃないかな」
「……そうだったんですか」
「正妃が言ってたように、君の養父がレオの母君、アウレリア様の後ろ盾だったからね。俺も少し世話になることがあったから何かあれば助けてやってくれって言われてたんだ」


 だけど、俺は何も出来なかった。
 悔しげに呟くエルンストにアイリスはそんなことはないと首を横に振る。それにまだ、全てが終わったわけではないのだ。機会はまだ必ずあるはずだと彼女はエルンストに笑いかける。
 それと同時にクレーデル家の広い屋敷に出入りする人間や仕えている人間がとても少なく、そしてコンラッドが自由気ままに過ごしていた理由が分かった。レオの母親である第二妃が亡くなったと同時に没落したのだろう、と。キルスティの口振りからもアウレリアの身分は決して高いものではなかったということが伺える。その後ろ盾となったのが、ホラーツと親しい間柄だったコンラッドだったのだろう。
 だが、アウレリアは死に、それと同時にクレーデル家は没落した。無論、それだけが理由ではなく、ゲアハルトやレオが追い詰められたように誰かが没落へと追い込んだ可能性もある。王城とはそういう場所なのだということがキルスティやルヴェルチのことを思い出せば、よくよく理解できた。


「……黙ってたこと、怒らないでやってね。好きで隠してたわけではないからさ、二人とも」
「怒るだなんてそんな……でも、それじゃあ、司令官も……」


 目を見開くアイリスにエルンストは何も答えなかった。だが、その沈黙こそが答えを物語っている。そして、自分で全てを聞くようにという意味も込められているように彼女は感じた。


「とにかく、城に入ったら自分のことを一番に考えて行動して。エルザは当てに出来るけど、君のことを守ってくれる人は誰もいないんだから」
「……はい」
「無茶もしないこと。すぐに司令官とレオの居所を探そうとしなくていいよ。そんなことをすれば怪しまれちゃうだろうし、助けるのに必要なものもまだ用意出来ていないからね」


 必要な道具や食料は後で届けさせるよ、とエルンストは言った矢先、俄かに玄関が騒々しくなった。恐らく、ルヴェルチに差し向けられた監察官が到着したのだろう。しかし、素直に仲間を引き渡すつもりはないらしい兵士らが足止めしているらしい様子だった。
 エルンストはちらりと開く気配のない扉を一瞥すると、「もう時間もないみたいだ」と言いつつ立ち上がる。そして、室内にひっそりと存在している少し小さめの扉の鍵を開けた。どうやらそれは宿舎の中庭に続いているらしい。そこから出れば、監察官と鉢合わせることはないだろう。アイリスはほっとしつつ、出入り口の前に立つ。


「司令官とレオを頼むよ」
「はい、助け出して見せます」


 振り向いたアイリスは真剣な表情でエルンストを見つめた。この国を立て直すには、王族だけでは駄目なのだ。ゲアハルトが司令官の座に就いてこそ、漸くこの国は再生することになるのだ。それだけで、一体どれほどゲアハルトが重要な人間なのかが伺える。


「さっきも言ったけど、城の人間のことは信用しちゃ駄目だよ。エルザは平気だけど、彼女以外の城の人間には気を付けて」


 そうしている間にも喧騒は少しずつ近くなっているようだった。アイリスは押し出されるようにして扉の外、中庭へと足を踏み出した。そして振り向くと、彼は心配な顔をしながらも「気を付けてね。無茶だけはしないでよ」と念押しする。余程自分は無茶をしそうに思われているらしいとアイリスは眉を下げながら笑う。
  

「無茶なんてしません。……アベルが繋いでくれた命です。無駄にするようなことは出来ませんから」
「……そっか」
「それじゃあわたしはもう行きます。ご武運を、エルンストさん」


 アイリスはエルンストに敬礼を送る。一国を相手取ってごく少数で戦いを挑むのだ。互いにまた生きて会えることを願いながら、彼女は走り出す。背後からは扉が閉まる音と共に微かなノックの音が紛れて聞こえた。心配と不安に胸がいっぱいになる。けれど、立ち止まっている時間はなかった。少しでも前に進まなければならないのだと自分に言い聞かせながら、アイリスは荷物を取りに戻るとエマへの挨拶もそこそこに宿舎を飛び出し、バイルシュミット城へと駆け出した。



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