王城 - masquerade -



 翌朝、アイリスは豪奢な細工が施された白い大きな扉の前に立っていた。その身に纏っているものも第二騎士団に所属していた時のものとは違い、近衛兵団の深紅の軍服だった。深紅の詰襟に金の刺繍が施された上着に白のスカートは真新しく、アイリスは裾や袖に触れて落ち着かない様子だった。
 しかし、いつまでもこの場にいるわけにもいかない。何度か深呼吸を繰り返した彼女は意を決して軽く握った拳で扉を叩いた。すぐに聞こえた誰何の声に「エルザ殿下、アイリス・ブロムベルグです」と返事をする。すると、昨日と同じようにすぐにその扉は開いた。そしてにこりと微笑んだエルザ自身がアイリスを迎え入れた。


「おはよう、アイリス」
「おはようございます、殿下」
「もう、そんな他人行儀な呼び方は止めて頂戴。此処には私しかいないのだから」


 微苦笑を浮かべながらアイリスを招き入れたエルザは自分自身の手で扉を閉める。どうやら彼女は身の回りのことを侍女には任せていないらしい。そのことを意外に思いつつ、広々とした室内を遠慮がちに見渡した。室内に調度品は少なく、必要なものだけを置いているようだった。もっと様々な珍しいもので溢れ返っているのだとばかり思っていたアイリスが驚いた顔をしていると、「苦手なのよ、ごちゃごちゃしているのは」と微苦笑を浮かべながらエルザが言う。
 あまり部屋をじろじろ見るものではなかった、とアイリスは「申し訳ありません」と頭を下げるも、「そういう意味で言ったわけではないのよ」とエルザは慌てた。その様子からも本当に咎める気はなかったのだということが伺え、何となくではあるものの、エルザの人となりが分かり始めた。
 思えば、半分しか血は繋がっていなくとも、エルザはレオの姉なのだ。それを言えば、シリルはレオの兄になるわけだが、彼はともかくとして、彼女はレオとよく似ているように思えた。つまり、エルザはホラーツに似ているのだろう。顔立ちや見た目にもホラーツの面影があった。ホラーツやエルザの笑顔に対して既視感を覚えたのも、レオの笑顔と似たところがあったからだろうと今更ながらに気付いた。


「何だか昨日とは雰囲気が違うわね。髪も結い上げてて」
「エルザ殿、……エルザ様のお傍にお仕えするのですから身嗜みも気を付けなきゃと思って」
「そんなこと、気にしなくてもいいのに。でも、その髪飾り、とっても可愛いわね。貴女によく似合ってる。……もしかして、いい人からの贈り物?」


 悪戯っぽく笑って言うエルザにアイリスは慌てて首を横に振った。普段は下ろしている髪を結い上げ、彼女はそこに以前、カーニバルでレックスから贈られた赤い花の髪飾りを差した。それを付けていれば、この城でも自分一人ではないのだと思えるような気がしたからだ。
 指先で髪を飾るそれに触れながら、アイリスは視線を伏せながら微かな笑みを浮かべる。「大切な仲間からの贈り物です」とだけ答えると、それ以上はエルザもからかうような素振りを見せず、僅かに目を細めて笑みを浮かべると「そうなの」と頷いた。


「それにしても、貴女がコンラッドおじ様の養女だったなんて知らなかったわ。言ってくれればよかったのに」
「黙っててすみません。そのことは司令官から内密にしておくように言われていたので」
「……そうだったのね。おじ様は人望もあったけれど、それと同じぐらい妬み嫉みも買っていらしただろうから……それなのに、シリルのせいで……ごめんなさいね」


 アイリスの養父は今は亡きホラーツと親しい間柄だった。そのことをアイリスが知ったのはつい最近のことだが、今にして思えば、それを教えられていなかったのは自分自身に向けられている妬みや嫉み、恨みといった感情が養女である自身に向かないように気を配っていたからではないのかとも考えられた。それに気付いていたからこそ、ゲアハルトもクレーデルの姓を伏せるように言ったのではないか、と。
 今となってはそれを確かめる術はない。養父は半年前に戦死し、ゲアハルトもこの城の何処かの地下牢に幽閉されているのだ。早くゲアハルトを見つけなければと思いつつ、アイリスは平気だと首を横に振り、エルザへと視線を向けた。今は自分のことを気にしている場合ではない、とその目には必ずゲアハルトとレオを助けてみせるという確たる意志が込められていた。


「エルザ様、単刀直入にお聞きしますが、司令官とレオ、殿下の居場所はご存知ですか?」
「私の前ではあの子のことはいつも通りの呼び方でいいわよ。……でもね、ごめんなさい。私も二人の居場所は分からないのよ」


 そう言ってエルザは悔しげに眉を寄せた。国葬後、彼女はシリルに会おうとしたのだという。レオやゲアハルトの捕縛、アイリスとのことについて何としても話さなければと思ったらしい。しかし、顔を合わすことすら出来なかったのだとエルザは顔を歪めた。
 姉弟だというのにそんなことがあるのかとアイリスは驚くも、エルザとシリルはただの姉弟ではない。ベルンシュタインの王族であり、たとえ姉弟であったとしても、今や次期国王となった弟とは簡単に会えないのかもしれない――それと思うと、アイリスは何とも言えない気持ちになった。


「ごめんなさいね。私も何とかして二人の居場所は探してみるから」
「わたしも探してみます。……食堂だとか、そういう場所でなら何か噂も聞けるかもしれません」
「そうね。仮にも国軍司令官と第二王子だもの。そんな二人が幽閉されているとなれば、人の口にも上るものね。……でも」
「でも?」
「それは貴女だって同じよ。決していいようには思われていないかもしれない……そんな場所に出入りする覚悟はある?」


 心配げなエルザの言葉にアイリスは小さく頷いた。自分は近衛兵からしてみれば、いきなり異動して来た元騎士団所属の人間だ。すぐには受け入れられるはずもないということは分かっているし、よく思われていないということも分かっている。それでも、ゲアハルトやレオの居場所を見つけ出す為にはどのようなことでも我慢しなければならない。
 アイリスの真っ直ぐな視線を受けたエルザは相変わらず心配げな顔だったものの、「そうよね。だから貴女は此処にいるんだもの」と呟く。そして、「大丈夫、きっとすぐに見つかるわ」と励ますように、それでいて自分自身に言い聞かせるように口にした。
 。エルザにとってレオは半分しか血は繋がっていなくとも、弟だということに変わりはないのだろう。シリルやキルスティがレオに対して冷たく当たっていたのだろうが、彼女だけは家族として接していたのだと思うと、ほっとする反面、とても寂しくもあった。
 それと同時に、レオがカーニバルの最中に自身に生い立ちについて話したことの意味がやっと理解出来た。彼は言ったのだ。置いていかれることよりも自分の存在が相手を害してしまうことの方がずっと辛い、と。それは母親に先立たれたことよりも、その原因が自分にあったことを言っていたのだろう。
 第二王子として自分が生まれたが為に母親は正妃に死へと追い込まれた。レオは病死したと言っていたが、身体を壊してしまうほど、正妃にきつく当たられたということだろう。そのことを思えば、遠くから見ればただただ美しいこのバイルシュミット城も、血に塗れた嫉妬と憎悪に塗れた醜悪な場所としか思えなくなった。エルンストからそういう場所だと言われてはいたが、それはアイリスの予想を遙かに超えたものだった。


「とりあえず、まずは近衛兵としての貴女の仕事を伝えるわね。名目上は私の預かりの近衛兵だけれど、仕事内容を何も知らないままだと何か言われた時に危ないものね」


 仕事としてエルザが挙げたものは大きく分けて二つのことだった。まず一つに、彼女の傍仕えだ。まだ、城内がどのような状況にあるかは分からないということもあり、なるべく一人での行動は避けて自分の傍にいるようにという気遣いからのものだ。アイリスとしても、すぐにでも城内を駆け回りそうな衝動があるため、この内容は正直なところ、有り難くもあった。仕事としてならば、落ち着いていられるだろうと思ったのだ。
 そして、もう一つはエルザの公務への同行だった。既に近日中にいくつかの公務があるらしく、そこに護衛として同行して欲しいということだった。


「城の外だとまだ騎士団の方たちと接触しやすいと思うのだけど、どうかしら」
「お気遣いありがとうございます、エルザ様。わたしもその方が助かります」
「いいのよ、気にしないで。それで、騎士団の方とはどうやって連絡を取るつもりなの?」
「今はエルンストさんからの連絡を待っているところです。必要な物資を送ると仰っていたのでこの数日のうちには連絡があるはずです。……ただ」
「ただ?」
「……わたしがエルンストさんからある程度の指示を受けた後、すぐに監察官の方がいらしたようなので……」


 それ以降、エルンストがどうなったかをアイリスは知らないのだ。無事ではあるとは思うものの、どのような状況かが分からないということもあって、どうしようもない不安に襲われる。彼ならば、何とか切り抜けるだろうとは思う。これまでの様子からしても、この程度のことであれば、エルンストは容易く切り抜けるだろう。
 だが、今は普段とはあまりにも状況が違う。劣勢に立たされているのは此方であり、全てがいつも通りにいくというわけではない。もしかしたらエルンストであっても難しい状況に追い込まれているかもしれないのだ。恐らく、ルヴェルチは用意周到に全てを画策して来たのだろう。そんな人物を相手に一体どうなるのだろうかと眉を下げていると、「大丈夫よ、エルンストなら」とエルザは安心させるような優しい声音でアイリスに語りかける。


「多少の無茶はするだろうけれど、こんなことに負けるような人ではないから」
「……エルザ様」
「それにね、エルンストにとって貴女はとっても大事な子だろうから、貴女を悲しませるようなことはしないわ」


 その言葉に面食らうアイリスを横目に、「それにしても、あのエルンストがこうも丸くなるなんて驚いたわ」とエルザはくすくすと笑う。幼馴染であるということは聞いていたが、二人がどのような幼少期を過ごしたのかまでは知らない。ただ、彼女のその言葉からエルンストは今とはまるで違った性格をしていたのだということが伺える。


「今でこそちょっとふざけた性格だけれど、昔はもっと突っ慳貪な性格でね、無表情か眉間に皺を寄せた顔ばかりしてたのよ。口もとっても悪くてね」
「意外ですね。……口が悪いのは今もですが」
「そうね。それでもまだマシになったのよ、女性嫌いもね」
「女性嫌い……」
「本当に酷かったのよ。口は利かない、目も合わさない。彼のことを好きな友人が告白した時なんて、顔を見ただけで吐き気を催したんだから」


 百年の恋も冷めるわよね、とエルザはその時のことを思い出したのか、眉を下げて言う。それを聞くと、本当に女性嫌いなのではないかとさえ思えて来る。しかし、エルンストは確かにそれは嘘だとアイリスに言ったのだ。どちらが本当なのだろうかと考えていると、「でもね、」とエルザの優しい声が聞こえた。
 顔を上げると、レオとよく似た微笑を浮かべている。最近はずっと彼の辛そうな顔しか見ていなかったということもあり、エルザの微笑みにレオの笑顔を思い出し、胸の奥がつんと痛んだ。今はどうしているのだろうかと心配に思いながらも、彼女の言葉の続きを待つ。


「少し安心したのよ、貴女と喋っているところを見て。お父様やおじい様、自分の家族が苦手なのに、制止も振り切って形振り構わず貴女の元に駆け出したところを見て、もう大丈夫なのかもって」
「……エルンストさんが……」
「だけどね、レオだって同じよ。あの子は、多分きっと第二王子として表に出るつもりはなかったわ。無用な争いを嫌う子だから……違うわね、あの子はお母様……正妃が怖いのよ。だから、関わり合いになんてなりたくはなかったはずなのよ」


 それでも飛び出してシリルを殴り飛ばしたのは、きっと貴女のことが大切だからよ。
 その言葉にアイリスは何も言えなくなった。形振り構わずに駆け出してくれた二人に対して感謝と申し訳なさでどうしようもないぐらいに胸がいっぱいになった。顔を伏せるアイリスの頭を優しく撫でながら、エルザは「だから、あまり無茶はしないで」と口にする。


「そうじゃなきゃ、たとえゲアハルトやレオを救い出せたとしても、貴女が傷ついていたら誰も喜べないわ」
「……はい」
「私も彼らに申し訳が立たないし、エルンストにも叱られちゃう。焦れる気持ちも分かるけれど、貴女は自分のことを一番に行動して頂戴」


 それはエルンストからも言われていたことだ。この城は何があるか分からない場所であり、誰も自分のことを助けても守ってもくれない場所だ。だからこそ、自分のことを一番に行動するようにと彼にも言われた。同じことをエルザにも言われてしまえば、それに従わないわけにはいかない。
 そして何より、形振り構わず庇ってくれたエルンストやレオ、自分の気持ちを押し殺して剣を下げたゲアハルト、そして、また皆で揃って会おうと今は別の場所で戦ってるレックスの為にも無茶はせず、自分に出来る最善のことをしなければならないと思った。アイリスは伏せていた顔を上げると、しっかりとした意志を秘めた瞳をエルザに向ける。


「分かりました。そのお言葉、胸に刻みます」


 彼女の言葉にエルザは穏やかな笑みを浮かべて頷き、今日はまず、城内を歩いてみてはどうかと提案した。ゲアハルトやレオが幽閉されている地下牢を探すことも大切だが、まずは城内を実際に歩いてみた方がいいということだった。これから先、暫くの間は出入りすることになる場所なのだから、という尤もな言葉を受け、アイリスは頷くとエルザの部屋を後にした。
 今までは時折回って来る王城警備などで外側から城を見る機会が多く、その度に綺麗な城だと思っていたが実際に中に入ってみてもそこは美しい城だった。だが、今となってはただの美しい場所だとは思えない。美しい外見の裏側には嫉妬や恨み、憎悪といった負の感情が隠れている。それを一度目の当たりにしてしまうと、もう美しいだけの場所とは思えなかった。
 アイリスは辺りを控えめに見渡しながら広い廊下を歩き出す。昨日のうちに城内の地図は頭に叩き込んではいるものの、実際に歩いてみると、やはり違う。いざとなれば、城内を駆け巡ることにもなるかもしれないのだ。しっかりと周囲の様子を覚えなければと思いつつ足を進めていると、不意に微かな話し声が聞こえて来た。ちらりと聞こえて来る方向に視線を向ければ、城仕えの侍女らが数人集まって何やら話しているようだった。何を話しているのだろうかと気になったアイリスは前方へと戻していた視線を再度、彼女らへと向け――視線が重なった。


「……っ」


 慌てて視線を戻すも、鋭い視線が自分自身へと向けられている気配があった。彼女らだけではなく、気付けば周囲の物影から視線を向けられているようだった。気付いてしまうと、知らない振りは出来ない。背筋には冷たい汗が伝い、アイリスは緊張に小さく喉を鳴らした。
 向けられている視線は好奇によるものだけではなく、妬み嫉みの混じったものも見受けられる。どうして、と一瞬考えるも、その答えはすぐに分かった。多くの貴族や兵士の前でのシリルとの一件が原因なのだ、と。仮にも次期国王に正式ではないにしろ、妃に迎えてやると言われたのだ。まだ彼には決まった相手もいないということもあり、正妃の座を狙っている貴族の令嬢や正妃でなくとも第二妃などに迎えられたいと思っている城仕えの女性は少なくない。
 そこで漸く、エルンストやエルザが危惧していた意味を正確に理解した。しかし、だからといって踵を返してエルザの元に逃げ帰るわけにはいかない。城内を確認し、頭に叩き込まなければならない。そして、ゲアハルトやレオの居場所を探し出さねばならないのだ。向けられる視線にいくら嫉妬や好奇が含まれたとしても、それに負けるわけにはいかない。
 アイリスは居心地の悪さに耐えながら、周囲に耳を欹てる。自分のことを噂する会話の中に、微かでもゲアハルトやレオの居場所に繋がる言葉を見つけ出そうと、微かに震える手を握り締めて顔を上げ、表情を引き締めて足を動かし続けた。しかし、城内の中を確認している最中に二人の居場所に繋がる手掛かりを掴むことは出来ず、アイリスは近衛兵団の食堂へと向かうことにした。だが、やはりそこでも視線を一身に受けることになり、居心地の悪さで食欲も失せてしまうほどだった。
 今更になって、どれだけ騎士団が居心地のいい場所であったのかを思い知った。レックスやレオ、アベルやエマがいて、医務室にいけばエルンストと、時々ではあるがゲアハルトがいる。食事を取っていても、レオとアベルが喧嘩をして、それをレックスが叱るという騒がしくも楽しい時間だった。けれど、今はそれとは正反対の状態にあり、口に運んだ料理は、味がしなかった。


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