王城 - masquerade -



 アイリスが近衛兵団に異動となってから数日が経つも、状況は依然として芳しくなかった。未だにゲアハルトとレオの居場所を掴むことが出来ず、時間だけが過ぎていく。エルンストからの連絡もなく、現在がどのような状況であるのかということもなかなか掴めずにいた。
 急がなければという焦れる気持ちを何とか抑えるも、それも限界に近い。日々、好奇の視線に晒され続けているということと一向に手掛かりさえ掴めないことへの焦りによって精神的にもアイリスは追い詰められていた。それでも自分を保ち続けているのは、偏に幽閉されているゲアハルトとレオを助け出したいという気持ちがあるからだ。ともすれば、折れてしまいそうであり、擦り切れてしまいそうな心をその気持ちだけで支えているのだ。
 エルンストがこんな自分を知れば、強いと言ってくれたその言葉は取り消されるだろう――アイリスはぼんやりとそんなことを考えながら、医務室でそう告げた彼のことを思い出す。準備が出来次第、連絡すると確かに言っていた。けれど、一向にエルンストからの連絡が届くことはない。監察官に捕縛されたのだろうかという考えが幾度となく頭の中を駆け巡るも、アイリスは首を横に振ってやり過ごしていた。


「顔色、とても悪いわよ。大丈夫?」


 今日はエルザの傍に付き、彼女も独自に調べてくれている現在の状況やゲアハルトとレオの居場所の調査について話し合っていた。しかし、告げられる内容はどれも芳しくない状況を示すものであり、この数日の疲れと相まって重く圧し掛かって来たのだ。
 この数日、まともに寝られた日はなかった。何処に行っても視線を向けられるということは、アイリスが思っていた以上に堪えるものだった。食事も喉を通らず、睡眠さえまともに取ることが出来なかった。近衛兵団の宿舎にも居辛く、そういった場所で情報を集めなければならないということは分かっていても、どうにも依り付けずにいた。
 誰よりも早く宿舎を出て、誰よりも遅く宿舎に戻るということが続いていたのだ。その間、少しでも気を紛らわせようと鍛錬をしてはいるものの、体調が整った状態ではないということもあり、殆ど意味のない行為ですらあった。リュプケ砦での戦闘後も同じことをしてゲアハルトに注意されたことを思うと、止めなければならないとは思う。このままでは駄目だということも分かってはいるのだが、それでも向けられる視線から逃げ出さずにはいられなかったのだ。
 向けられるそれが好奇に満ちたものだけならばまだいい。しかし、それらに混ざって確かに強い嫉妬や殺意にも似た感情が見え隠れしているものがあるのだ。冷たい刃を向けられているような感覚にさえ陥ると、足は自然と後退してしまう。仮に立ち向かうことが出来たとしても、それが問題に発展することだけは避けなければならない。今後、動き辛くなるだけでなく、自分を預かりとしているエルザにまで迷惑が及んでしまう――そのことを思えば、耐えるか逃げるかしかの選択肢しかなかった。


「……平気です。ちょっと慣れない場所で、寝辛くて」
「本当にそれだけ?」
「それだけです。……それにしても、エルザ様でも二人の行方が掴めないとなると、緘口令が敷かれているか、それとももうこの城にはいないか……そのどちらかが考えられますね」


 大丈夫だと言い張るアイリスに怪訝な顔をしていたエルザも、話題が元に戻すとそれ以上は何も言わなかった。心配してくれているのだということが分かる手前、申し訳なさはあるものの、本当のことを口にすれば彼女が酷く気にしてしまうことは想像に難くなかった。アイリスに視線が集まる最たる理由は、突然の異動の所為ではなく、シリルの言動の所為なのだから。
 エルザもアイリスが口にした可能性については考えていたらしく、「城から他の場所に移されたのではないかとも思って、この数日の城の出入りについて調べさせたの」と手元から数枚の資料を取り出してそれを差し出す。受け取ったその資料は、門番らによって作成される城の出入りを書き記したものだった。
 日付と時間、人数や名前、用件など、事細かに記載されている。それは外から城に入る者だけでなく、城から外に出る者についてもまとめられていた。アイリスは指で辿りながらその一覧に目を通すも、この数日、城から出た者は国葬の参列者を除けば、殆どいいなかった。


「……記載されていないという可能性はないのでしょうか」
「ないとは言い切れないわ。だけど、ルヴェルチもこの一覧のことは知っているだろうし、黙認させる為に賄賂を渡すとしてもそれが露見した時の方が厄介だもの。今この状況でそんな危ない橋を渡るかしら」
「そうですね、ルヴェルチ卿のすることは今はそのままシリル殿下の評価に繋がりますから迂闊なことはしませんよね、恐らく」


 そうなると、やはり未だ城内の何処かの地下牢に幽閉されていると見るべきである。しかし、その行方は依然として掴めぬままであり、噂にさえ上って来ないのだ。だからといって、城内の地下牢を片っ端から探すという選択を選ぶことも出来ない。そのようなことをすれば、二人を探していることがすぐに勘付かれてしまい、最悪の場合、彼らを見つける前に移動させられてしまうかもしれない。もしくは、自分自身やエルザに対して何らかの圧力を掛けてくる可能性もある。それを思うと、片っ端から地下牢を探すという選択は万策尽きた最終手段にせざるを得ない。
 しかし、手詰まりであるということに変わりはなく、アイリスとエルザは顔を見合わせて困り果てていた。自然と周囲の空気は重くなり、息苦しささえ漂い始めた頃、それを打ち破るように扉がノックされた。エルザは傍に侍女を置かないということもあり、二人でいる時はアイリスが応対するようになり、この時も彼女はすぐに立ち上がると扉へと駆け寄った。そして、誰何の後に聞こえて来たのは届け物だという侍女の声だった。


「有難うございます。受け取ります」
「重たいのでお気を付け下さい」


 扉を開けると、そこには大き過ぎず、かといって小さくはない箱を抱えた侍女が立っていた。どうやら重たい荷物らしく、彼女は眉を寄せていた。一体中に何が入っているのだろうかと思いつつ荷物を受け取ると、アイリスは僅かによろめきながらも何とか踏み止まり、足早にテーブルへと荷物を運んだ。
 エルザも何か届け物があるという話は聞いていなかったらしく、濃紺の瞳を瞬かせて不思議そうな顔をしていた。礼を述べた後に運ばれた荷物の宛名を見た彼女は「あら、ハンナからじゃない」と呟く。しかし、その声音も不思議がったもので、どうやら事前の予告されていた荷物ではないらしい。


「ご友人の方からですか?」
「そうよ。ほら、前に話したじゃない。エルンストに告白しようとしたのに目の前で……ほら、その子よ、彼の従妹の」
「……あ」


 つい先日、エルザから聞いた話を思い出し、アイリスは思わず口元に手をやった。名前までは聞いていなかったものの、彼女の話は強烈にアイリスの記憶に残っていた。彼女の様子にエルザは微苦笑を浮かべながらも、荷物を前に「一体何かしら。それに……」と言葉を濁す。どうしたのだろうかとその理由を尋ねると、エルザはアイリスを手招きした。


「ハンナの字と違うのよ、この宛名書き」
「……この字……」


 向かい側に座るエルザの元に回ったアイリスは指し示される宛名に視線を向ける。そこには確かにエルザと送り主であるハンナの名前が書かれている。だが、エルザはこの字は友人のものではないと言うのだ。ならば、誰が書いたのだろうと思いつつ、その文字をよくよく見てみれば、その筆跡には見覚えがあった。
 目を瞠るアイリスに「どうしたの?」とエルザは首を傾げ、視線を宛名へと戻す。アイリスはその文字に視線を向けたまま、ぽつりと答えた。


「……エルンストさんの字です」
「エルンストの?」
「多分ですが……でも、数日中に必要なものを送るって言ってましたから、きっと……」


 自分の名前で送れば開封されてしまうかもしれない。だからこそ、日頃からエルザと親交のある従妹の名前を使ったのかもしれない――そう言うと、エルザも目を瞠り、すぐに箱を開封してみようと彼女は立ち上がった。先ほどまでは顔色も悪く、覇気もなかったが今や打って変わっていつも通りの様子にエルザは安堵の笑みを浮かべつつ、素早く封を切ると、中は一通の手紙と箱一面に白い花が敷き詰められていた。
 しかし、花と手紙一通で顔を顰めるほどの重さになるはずはない。アイリスはエルザに断ってから慎重に白い花を取り除く。すると、そこには出兵時に配給される携行食糧や水、合鍵を作製する為に必要な型取りを行う粘土、そしてナイフが入っていた。無事に届いたからよかったものの、もしも見つかっていたらと思うと今更ながらに肝が冷える思いだった。
 だが、それと同時にこうしたものが用意出来る程度には身が自由だということでもあり、アイリスはエルンストの無事にほっとした。元々、エルザにもエルンストからこういったものが届くはずだということは話していた為、彼女も安堵している様子だった。アイリスは一先ず箱の中に全てを仕舞うと、一緒に入っていた手紙へと視線を向けた。宛名はエルザに向けたものだが、やはりその字はエルンストのものだった。


「エルザ様、手紙を」
「そうね、ちょっと待ってて。……ああ、うん、そうね、これはやっぱり彼が書いたものだわ」


 そう言ってエルザは微苦笑を浮かべながら開いた手紙をアイリスに差し出す。しかし、受け取ったそれに目を通そうにも、便箋に書き記されている文字はアイリスの知る文字ではなかった。一体何と書いてあるのかが分からない、様々な絵や文字の入り混じった文章だった。恐らくは暗号なのだろうが、それにしては規則性がまるで見受けられないもので困惑しつつ、エルザに便箋を返した。
 だが、どうやら彼女はこの奇妙な文章を解読することが出来るらしい。一体どうしてなのだろうかと思っていると、「この文字はね、子どもの頃にエルンストと彼の兄、ギルベルトと一緒に考えたものなのよ」と懐かしそうにエルザが口にした。三人――そこにシリルも含めて四人は幼馴染だったのだという。その四人で分かる暗号を作ろうと幼い頃に創り出したものによってその手紙は書かれているらしい。


「えっと……騎士団の方は問題ないみたい。少し面倒なことになってるとも書かれてるけれど、心配は要らないみたいよ」
「そうですか……」
「それから、もうすぐ応援を向かわせる、とも書かれてるわ。貴女のことが心配なのね」


 だって殆ど貴女のことを気遣う内容ばかりだもの、とエルザは少しばかり嬉しそうに笑った。どのようなことが書かれているのかは知れないだけに、アイリスは頬を赤くした。心配を掛けているのだと思うと心苦しいものがあるが、正直なところ、嬉しくもあった。久しぶりに心がほっとしたようにさえ思え、アイリスは緩みそうになる表情を唇を噛んで引き締める。そして、応援とは一体何なのだろうかと考える。誰か此方に向かわせてくれるのだろうかと、と考えている間にも、エルザは手紙を読み進めていく。「状況が芳しくなくても焦らずに機を待つように、って。何だか読まれてるみたい」と彼女は微苦笑を浮かべる。こういう時だからこそ落ち着いて行動するようにという言葉にアイリスは小さく頷いた。直接ではないにしろ、こうして改めて指示を受けると落ち着くものがあったのだ。


「司令官とレオを見つけられたら、手筈通りにって。後は、此方の状況も教えて欲しい……返事は後で書いて出しておくわ。何か伝えることはある?」
「あ……それじゃあ、あまり心配しないで欲しいとお伝え頂けますか?あまり心配掛けると申し訳ないので」
「いいじゃない、エルンストに心配掛けるぐらい。気にすることはないわ」


 目を丸くして言うエルザにアイリスは何とも言えず、曖昧に笑った。気にするなと言われて気にしないわけにはいかないのだ。エルザも短い付き合いではあるものの、彼女がそういう性格だということは把握しているらしく、「分かったわ。伝えておくわね」と肩を竦めて笑った。
 そして、残りの文面に目を通して彼女は小さく噴き出した。何か面白いことでも書かれているのだろうかと便箋を覗き込むも、やはりその文字は読めず、何が書いてあるのかとエルザに尋ねた。


「頑固者のハンナにもっと融通が利かないと嫁に行き遅れるぞって伝えておいて、って。貴方がそれを言うのって話よね」
「それは……確かに……」
「多分、ハンナの名前を使う了解を取りに行ったのね。家紋がシュレーガー家とはまた違うから」


 そう言いつつ、エルザは箱に貼り付けられている宛名を記した紙に押されている家紋を指差す。以前、エルンストに見せてもらったシュレーガー家の家紋とはまた違うもので、これを借りる為にハンナの元を訪れたのだということが伺える。しかし、どうやら最初は断られたらしく、だからこその文句の文章が手紙に書き記されたのだろう。
 だが、ハンナも決して頑固だったわけではなく、自分の告白に対してのエルンストの態度を引き摺っているのだろう。彼女にしてみれば、一世一代の告白だったのかもしれない。それをあのような態度を取られた上に、こうして婚期のことまで言われているのだ。そのまま伝えたら、それこそエルンストは殴られても文句が言えないのではないだろうかと考えていると、「まあ、ご希望通り伝えておくわ」とエルザが便箋を封筒に戻した。


「つ、伝えるんですか?」
「大丈夫よ、ついでにきっぱりとエルンストのことは諦めるようにも伝えないと本当に婚期を逃すことになるもの。私が言うことではないけれどね」
「……でも……」
「いいのよ。全部分かってるのに知らないふりをする方が酷だもの。エルンストの心がハンナに向くことはないのは決定的だから」


 そう言ってエルザは意味深な笑みをアイリスに向ける。悪戯っぽい笑みを湛えた濃紺の瞳を受け、その真意に気付いたアイリスは顔を真っ赤に染める。そして、それはない、とばかりに首を横に振るのだが、エルザは笑みを深めるばかりで、自分が頼りないから心配してくれているだけだ、と蚊の鳴くような声で呟くことが精一杯だった。
 


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